[7]怪人
知人の大貫が『悪魔めいた教祖』と称した外国人ドリスの正体は、坂東さんいわく麻薬の密売人であるという。と同時に、正規の手続きを踏まずに人間を一人、日本へ送り込んでくるのだとも…。
混乱して上手く言葉を返せない僕を見据えたまま、坂東さんは言う。
「とは言っても、テレビのニュースやなんかで報道されてるそれとは違う」
一般的な、外国人労働者を不法に密入国させる、いわゆる悪徳ブローカーとは趣が違うそうだ。そもそもドリスが日本に連れてくるのは、麻薬密輸のタイミング一回につき一人、と決まっているという。
「リスクを考えたらボロっちい船にわんさか人を押し込んで連れて来るよりは、たった一人運んで来るほうが容易いだろうとは思うがな」
「人身売買なんですか?」
「…ノーコメントだ」
「でもそれ、メリットありますか? 一人だけしか、連れてこないんですよね。いや、一人だからいいとは思わないですけど、もしも日本側に買い手がいるんだとしたら、もの凄く効率の悪い話ですよね」
「労働者ならな?」
僕は口を蓋されたように押し黙り、坂東さんを見つめ返した。
「あくまでも噂だ」断りを入れて、坂東さんは続ける。「こいつはドリスと各国にいる労働斡旋業との間で契約されてるようなヤマじゃないんだよ」
「…じゃあ、やっぱり日本側の?」
「それも違う。要するにドリスは、自分を運んでくれる相手を探している人間との間で、直接取り決めを交わしてる」
「個人間で? ということは、いわゆる臓器売買なんかとも違いますよね。一体なんのため…あ、犯罪歴があってまともに入国できない人物、ということですか?」
「おそらくな。これまでの実績の中には、そういう奴がいたという話も聞いてる」
「麻薬の密輸だけでも大きな犯罪なのに、そこに加えて犯罪者の密入国ですか。…逃がした魚は、相当大きいですね」
「捕まえるさ」
そう言って笑う坂東さんの顔には余裕が見て取れた。今日のところは逃がしはしたが、既に次の手を打ってある、そういう表情に思えた。
僕が三神幻子から電話を受けた時、彼女の師である三神さんはこう言っていたそうだ。
『もしも、ワシの案ずる男が関係しているならば、その奥を見よ』
その奥…。つまり、問題はドリスではない、そういう事かもしれなかった。
「坂東さん」
「あ?」
「坂東さんは、今回ドリスが連れてきたという人間を、目撃されましたか?」
僕の質問に、坂東さんの表情が一瞬だけ戸惑いを見せた。そして彼の口が答えを発しようと開きかけた刹那、邪魔するように携帯電話の音が鳴り響いた。僕の携帯は電源を落としたままだ。ということは、この着信音は坂東さんのものである。
坂東さんは立ち上がってスーツの懐から携帯電話を取り出すと、そのまま黙って部屋を出た。
一人取り残された僕は改めて部屋を見渡し、自分が廃業した結核病院の一室にいる事を思い出した。
無意識に、深い溜息が出る。
疲れた、と思う。
無駄足だったとは言わないが、深香ちゃんの影も形も見当たらないならまだしも、突然現れた年恰好の近い少女に「死んだ」と言われては、気持ちに収まりがつかない。
悪魔めいた教祖によるいかがわしい儀式とは、密売人によるドラッグパーティーだった。それが事実だとして、そのまま大貫に伝えたところで「そうか、それなら良かった」となるはずもない。高校受験を控えた妹が関わって良い事件ではないのだ。
「はぁ…」
何度目かの深い溜息。
僕の吐いた息が、白い煙のように回転しながら宙を舞った。
ただ、疑問点はある。もしもドリスが、坂東さんの言うとおり主に麻薬の密売を生業とする人間なら、危ない橋を渡って持ち込んだこの日本で、売りさばく筈の商品を用いて若い女とパーティーなんか開くだろうか。そこに僕の知らない事情があるのだとしても、腑に落ちる理由はすぐには思いつかない…。
「はぁ…」
とめどなく溜息が溢れる。そして僕の吐いた息が、白く…。
「…なんだ」
僕は組んでいた両腕を解いて立ち上がった。
「なんでこんなに寒いんだ!?」
午前零時を回った深夜とは言え、今は夏だ。吐息が白くなるほど気温が下がるなんてこと、あるわけがない。
そこへ、電話を終えた坂東さんが戻って来た。ただでさえ真っ白い彼の顔は青ざめ、それは気温の低さによるものだけではなさそうだった。
「良い話と悪い話がある」
と坂東さんは言った。
「なんですか」
「お前が聞いた、ドリスの連れて来たっていう人間の事だがな。たった今、この建物に隠れてたところをうちの壱岐課長が確保した」
壱岐さんとは、坂東さんが所属する広域超事象諜報課の上司であり、坂東さん同様不可思議な力を有するという霊能力者である。
「それが、良い話ですね?」
「悪い話でもある」
坂東さんの口から発せられた言葉とともに、真っ白い息が渦を巻く。
やはり、寒い。どんどん気温が下がっていくようだ。
新開くん。
名前を呼ばれた気がして、周囲の壁に視線を走らせる。隣の部屋で、辺見先輩が取り調べを受けているはずだ。彼女の思念が僕を呼んでいるのだろうか。
「おいでなすったぁ…」
坂東さんが言った。
足音が、近付いて来る。
いや、それは足音というよりも、コツ、コツ、コツ、という間隔の開いた単音のようだった。
扉が開け放たれたままの入り口を見やり、その向こうに伸びている廊下を凝視する。
音は、今まさにその廊下を通って、僕たちのいる部屋を横切ろうとしているのだ。
「新開、俺を見ろ」
「坂東さん、これは一体」
この恐るべき気温の低さも、気持ちの悪い音も、全身が総毛立つ程不気味な気配も、理由はたった一つだ。いまだかつて経験したことがない、心の底から震えの這い上がるなにかが、…近づいて来る。
「新開。お前必ず西荻に今日の事を伝えろよ」
「…え?何ですか、いきなり」
「何ですかじゃない。何のために俺がベラベラと情報をくれてやったと思ってるんだ。いいか、今日の事、必ず全部あの女に伝えろ。とんでもないものが海を越えてやって来た、ってなぁ」
「何の話をしてるんですか!あれは、…あいつは一体何者なんですか!」
廊下の白い壁に、影が膨らんだ。
細く伸びた黒い影だ。
人の形をしているように見えて、もっと歪な別の物にも思える。
照明の、角度の加減だろうか。
異常に長く伸びた影の腰あたり、チロチロと蠢いている尻尾のようなものは、なんだろう。
あの小さな頭部から突きででいる、尖った針のような影は…まさか…。
「ドメニコ・モディリアーニ」
人の名前らしきものを、坂東さんが口にした。僕の意識がそちらに向かい、そこで恐怖に歪んだ坂東さんの顔を見た。ここまで彼が恐れをなすのは、あの『しもつげむら』での一件以来だった。
「今世紀に入ってイタリア正教が唯一、『悪魔憑き』と認めた男だ」
「悪魔、憑き…?」
ここには本物の悪魔がいるから。
そう言った少女の微笑みが脳裏をかすめる。
「直接見ない方がいいぞ。壱岐課長がなんとかこの建物の外に追い出そうと踏ん張ってはいるがな。無駄なんだよ。確保しても追い払っても全然意味がない」
「…」
「いいか新開。西荻を呼べ。もう体は回復してるんだろ? それから、本当はいけすかねえが三神さんのオッサンとあいつの娘も呼べ。秋月先輩も動いてくれるといいが…。こっちも総動員で当たる。いいか新開、おい、新開、…おい聞いてんのかッ!」
廊下に背を向けて立つ坂東さんの左肩越しに、黒く細長い棒状のものが突き出た。
コツ。
…杖だ。
それは間延びした足音ではなく、杖をつく音だったのだ。
と、次の瞬間、そいつは姿を現した。
意外なことに、廊下に現れたそれは白髪頭の小柄な老人だった。
黒一色のタイトなスーツに身を包み、一見お洒落な老紳士のようだ。
腰の曲がったその小さな老人は、僕たちのいる部屋の前に差し掛かった途端、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
「…ここが地獄の一丁目、…ってか」
坂東さんの上擦った声が聞こえた。
皺だらけの顔に、細長い三日月が三つある。二つ並んだ黄色い両目の間から、大きな鷲鼻が垂れ下がっている。その真下には、両目とは逆向きに歪曲した真っ赤な口がニンマリと笑みを浮かべていた。
老人の目に、僕の全身が鷲掴みにされる。
…見ちゃいけない。
…見られちゃいけない目だ。
だが、捉えられた僕の身体は指一本動かす事が出来ない。
バタンッ!
壊れる程の勢いで扉がひとりでに閉じた。
よくやく僕は老人の視線から解放され、両膝から崩れ落ちた。
僕は一体、何を見た…?
僕は一体、なにをされたというんだ?
…文乃さん。
僕はあなたに、あの恐ろしい老人を会わせたくなどありません。