[6]夜に紛れて
あんたも気を付けなよ…。
憂いを含んだ少女らしからぬ低音が、蠱惑的な響きで僕の耳の中に留まり続けた。
余韻を突き破るように、全身を黒色装備で固めた男たちが雪崩れこんできた時、僕と一緒にその少女も身柄を確保された。背後を取られ、後ろ手に両手首を掴まれた場面をこの目で見た。しかし…。
僕は頭の中が真っ白で、正直、何が起こったのかすぐには理解出来ずにいた。一対一で向い合い、少女の話す言葉に耳を奪われている間に、あまりに多くの事が起こったのだ。
僕が登って来た螺旋階段から非常口を通って、屈強な警察捜査員たちが突入してくる後に続いて、突如辺見先輩が姿を現した。先輩は僕と鉢合わせするなり明後日の方向に視線を泳がせ、「他人の空似です」と言った。こちらが何を言うよりも先に宣言する事の意味は、当然頭の良い彼女になら分かっていたはずだ。僕は怒りを通り越して呆れてしまい、一瞬、対峙していた少女の存在を忘れた。
「またお前らか」
そして同じく非常口から現れ、僕たちに声をかける者があった。見るとそこには、皺ひとつないスーツを見事に着こなした、三十代半ばと思しき細身の男性が立っている。
「ば…?」
通称『バンビ』こと、坂東美千流さんだった。
ここには本物の悪魔がいるから。
フラッシュバックのように少女の悲しい微笑みが浮かび、僕は慌てて視線を走らせた。
しかしどこにも少女の姿は見当たらない。逃げた素振りも見せなかった。そんな騒動は起きていない。しかし、間違いなく僕の目の前で確保されたはずの少女は、忽然とその姿を消してしまった…。
ト、ト、ト、ト…。
坂東さんの指先が、古びた事務机を規則的に叩く。
この部屋だけではなく建物の様々な場所に捜査員が配備され、まるでテレビドラマで見る捜査本部さながらの様相を呈している。先程まで全く人の気配を感じなかった廃墟が噓のように、どこを向いても昼間かと思うほど煌々とたかれた照明に、舞い上がった埃が浮かんでいる。
「で? お前らはまた一体何をしでかそうってわけ」
僕と辺見先輩は、二手に分かれて取り調べを受けた。僕は正直に大学の知人に頼まれて人を探しに来たと答えたが、先輩がどのような言い訳を口にしたのかは気になるところだった。辺見先輩という人は社交性があって、おしゃべりも上手い。きっと僕などには思いつきもしない奇想天外な言い訳で、担当職員を煙に巻こうとするだろう。…そうやって、きつく叱られればいいんだ。
「なんか言ったか?」
坂東さんの問いに、僕は首を横に振る。
「何度も同じ質問ばかりするなーと、思いまして」
「お前と辺見が二人揃って現れたんだ。たぁだぁの人探しねぇ。…なんか他に言うことあんだろーが」
「ありませんよ。本当の話ですから」
「西荻は知ってんのか、この件について」
「…文乃さんが? 何故です」
西荻文乃。僕が大学一年の秋に知り合った、都内でマンションを経営する大家さんである。昨年秋、彼女は知人からの相談を受け、とあるマンションで起こる怪現象の調査に乗り出した。その事件で僕たちは出会い、仲間と呼べる人たちと出会い、ともに戦い、ともに傷つき、そしてなんとか地獄のような惨劇を乗り越えることが出来たのだ。今思えば、そこにどれほどの数の高名な霊能者がいたとしても、たった一人文乃さんがいなければ、僕たちは全員生きてかえることは出来なかっただろうと思う。
彼女は稀有な力を持つ霊能力者だ。だがそれ以前に、文乃さんは僕にとって…。
「いや、お前西荻に心酔してるだろ?」
「はい」
「はいって…。まあいいや、どうなんだよ、関わってんのか」
「いえ、今回の件については何も相談はしていません。というか、本当に大学の知人から聞いた頼りない情報をもとに様子を見に来ただけですから。それより、僕の知人である大貫という男の妹が、この建物でドラッグパーティーに興じていたおそれがあります」
「ああ、何人かいたな。全員がドロドロで話の出来る奴なんか一人もいなかったそうだ。本当にハーブか?コカインの間違いじゃないのかって、驚いたよ」
「全員身元の確認は取れましたか?その中に、大貫深香ちゃんという中学生がいませんでしたか」
「いや?」
「確かなんですか?」
「中学生だろ?ざっと見た限りだが、そんなガキはいなかったよ。捜査員からも、大学生とかどこぞのOLだって聞いてる。十人もいなかったな」
ということはやはり、僕と言葉を交わしたあの少女も逃げおおせたということだ。
「こんなトコまで探しに来たのにな。お疲れさん」
あの少女は、大貫深香が苦しみ抜いて死んだと言った。
それが嘘であれ、最悪の場合本当だったとしても、この建物に深香ちゃんがいたことは間違いないように思えた。しかし多くの捜査員が投入されたにもかからわず、死体はおろか目撃情報すらない。やはり、少女が僕に聞かせた話はただの作り話にすぎないのだろうか…。もしそうなら、奇妙な疑問点は残るものの、大貫に対する返答は「やばい現場で君の妹と遭遇しなくて良かったよ」、そんな笑い話で済むのだけれど。
「ドリスって人、見つかったんですか?」
「…いや、逃げられた」
坂東さんは悔し気にそう答え、フレームの細い眼鏡を外した。普段綺麗に撫でつけられている七三分けにも疲労の色が浮かび、わずかに乱れている。
「お疲れ様でした」
そう言った僕に、坂東さんは鼻で笑う。
「これだけの人数で押しかけといて逃げられましたじゃあ、笑い話にもなんねえな」
「…」
確かに、と思う。きっと、幻子の見た多くの人影とは警官たちの事を意味しており、危険はないと遠回しに教えてくれていたのかもしれない。ただ、僕が絵にかいたような茫然自失ぶりで、前後不覚に陥ったのもまた確かな事実だ。
「なんの捜査だったんですか?」
「言うなよお前」
「はい」
「密輸」
「…ドラッグですね」
「ああ、なんとかっていうハーブらしい。今もちょっと匂いが残ってるな」
「臭いですよね。これが何かに効くんでしょうか」
「ハイになるとか酩酊状態になるかそんなもんだろう。俺はそっちの専門じゃないから分からんが、まあ、これだけ証拠を残してってくれれば、手ぶらで帰らずには済みそうだけどな」
「だけど坂東さん。…坂東さんがここにいるからには、やっぱり」
彼は一般の警察職員ではない。国家公安委員会に所属する超のつくエリートだ。そして彼の配置された職場の肩書にも、超がつく。『広域超事象諜報課』、通称チョウジ。つまりは広義の意味での心霊現象を国家権力の立場で調査している、そういう人間の一人なのだ。中でも坂東さんは人並外れた霊能力を持ち、彼がこの場所にいるということはそれだけで、ここで何かしらの超事象が起きていることを意味する。
「なあ…お前に相談を持ち掛けたっていうその友人は、シロか?」
搦め手から攻めるような坂東さんの声色に、思わず僕は身構えた。
「どういう意味ですか」
「お前を疑ってなんかねえよ。ただな、ドリスって名前は、もちろん本名じゃないが、そもそも名前を知ってるってだけで結構なことなんだよ」
「そうなんですか?」
「ドリスはただの薬の売人じゃない。あいつは必ず、ドラッグと平行してあるものを日本に持ち込んで来る」
その言葉とともに坂東さんの眉間が蠢いたように見えて、僕は驚き体を遠ざけた。
「怖い言い方しないでくださいよ。なんですか、あるものって」
坂東さんは眼鏡を掛けなおし、鋭い目で僕を睨んだ。
人だよ、と坂東さんはそう言った。