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「かなしみの子」  作者: 新開水留
5/55

[5]少女


 二階へと続く階段に足をかけたところで、今だかつて嗅いだ事のない変った匂いに息を呑んだ。例えるならば、香りの強い草花を燃やした時に出る煙に顔を突っ込んだような、まとわついてくる匂いだった。

 一瞬は火事を疑った。しかし煙の種類が違うように思う。そもそも、目に見えて煙が漂っているわけではなく、漂っているのは、胸がムカつく程の強い臭気だけである。

『このまま馬鹿正直に昇って行かない方がいいな』

 息苦しさもあり、一旦建物の外に出て非常階段を探すことにした。そして裏手に回ってすぐ、螺旋階段が目に飛び込んできた所で咄嗟に足を止め、建物の陰に身を隠した。

 螺旋階段の丁度真ん中にあたる、二階部分の折り返しに人が立っているのが見えた。

 暗くて確実ではないものの、おそらくは人間だろう。

 僕は早鐘を打つ心臓の上に手を当てながらゆっくりと顔を出し、建物の陰から螺旋階段を見上げる。

 するとその者はやおら両手を上げると、万歳のようなポーズを取った。だがよく見れば違う。片方の手には風にはためく布のようなものが握られていることから、その者がたった今衣服を脱いだのだと分かった。僕はあまり目が良い方ではないが、体の線を見る限り、女性であると思われた。


 …っ。…ん、ん、んなはあッ!


 聞き取れない言葉を発し、その女性が握っていた衣服を夜空に投げ捨てた。

 そこへ建物の二階部分からもう一人現れ、螺旋階段に立っていた女性の身体を掴んだ。

「何やってるのよ、行くよ、ほら」

 そしてそのまま二人はもつれ合うようにして建物内部へと姿を消した。

 僕の目の前に、今しがた放り捨てられた衣服が落ちている。僕はそのボーダー柄のポロシャツを横目に見やりながら側を通り過ぎ、螺旋階段に足を駆けた。そろそろと足音を忍ばせて階段を上ると、二階ではなく三階まで登って建物の中へと入った。



 建物の内部にはやはり強い臭気が充満していた。

 僕はなんとなく、この場で起きている事の真相が掴めたような気がした。

 強い香りを放つ、何かが燃ているような匂い。奇声を発して衣服を脱ぎ捨てた女性。悪魔めいた教主。そしていかがわしい儀式とくれば、十中八九この廃病院で行われているのはおよそ心霊的な要素とは無縁の、ドラッグパーティーだろう。

 大貫の妹である深香ちゃんは、「自分は参加していない」と答えたそうだが、もはやそういう問題ではない。例えドラッグを摂取していなかったとしても、れっきとした集団犯罪に違いはない。僕一人が出ていってどうにかなる範疇を越えている。建物内に何人の人間がいるか分からないが、この目で何かしらの証拠が確認出来次第、さっさと退散する腹積もりが決まった。

『やっぱり、先輩を連れてこなくて良かったな』

 ある意味、今この建物は心霊スポットよりも危険である。もしも僕の見立てが間違いないのなら、襲って来る可能性があるのは幽霊ではなく頭のネジが飛んだ人間だ。僕は喧嘩が弱い。ゆえに、辺見先輩を守らなくて良い分、一人でいる方が気が楽だった。


「あなた誰ですか?」


 油断した…。

 気配を感じさせずに突然現れ出でる。そんな幽霊のような存在が、この建物内にいるわけじゃない。

 そういう安堵感が僕の意識を散漫にさせた。背後から声をかけられるまで、そこに人がいる事など全く気が付かなかった。ここが危険な場所だと認識していたはずなのに!

 僕は両手をゆっくりと肩の高さに上げ、

「人を探しているんだ」

 と、刺激を与えないよう努めて静かに語りかけた。その声は明らかに、震えていたことだろう。

 人を?

 尋ね返すその声の柔らかさに一縷の望みを託しながら、

「振り返ってもいいだろうか」

 と僕は問うた。

 声の主は、女性である。しかも、ほとんど子供のような声だ。僕は答えを返さない少女に背を向けたまま五秒待ち、そしてゆっくりと振り返った。

 場所は、建物三階の長い廊下である。この階はそのほとんどを病室に当てている為、廊下を挟んで閉ざされた扉がずらりと並んでいる以外、ほかには何もない。螺旋階段を昇って廊下の端から内部に侵入した僕の背後を取ったということは、通過した病室のいずれかから出て来たということだ。

 目の前に、色の白い一人の少女が立っている。長い髪、黒いタンクトップのワンピース。右手で左腕の肘を掴み、白いスニーカーを履いた左足の踵が浮いている。僕が一歩でも踏み出せば、脱兎のごとく逃げ出してしまうに違いない。

「人を探してるんだ」

「聞いたよ」

 少女は苛立ちを滲ませた声でそう言うも、僕の目を見ようとしなかった。「…警察の人?」

「いや、違うよ」

「家出した子を探しに来たとかじゃなくて?」

「…そういう子もいるのかい?」

 少女は俯いて舌打ちする。

「僕には関係ないよ。僕が探しているのは、一人だけだから。聞いた事ないかな、きっと、君と同じくらいの年齢だと思うんだ。大貫っていう苗字なんだけど」

 少女が顔を上げて僕を見た。

 …ついてる。

 この子が大貫深香ちゃん本人か、あるいは友人に違いない。

「知ってる?」

 少女は唇を噛み、否定も肯定もしなかった。

「詮索はしないよ。君が教えてくれるなら、僕はこのまま下へ降りずに帰ってもいい。君の事も内緒にしよう。どうだい、今日は、大貫さんはここに来てる?」

「死にました」

「…っ」


 …なんだって?


「死んだんだよ。大貫深香は死んだ。ついさっき、苦しみ抜いて死んでいったよ」

「…な」

「残念だったね。ずっと、お兄ちゃん、お兄ちゃんって、泣いてたよ」

 少女の目から涙が流れた。その涙は、彼女の言葉に真実が含まれている非情な現実を僕に突き付けてきた。

「あたしももうじき死ぬんだ」

 僕は何をどう返して良いか分からず、馬鹿みたいに口をパクパクさせるしかなかった。

 少女はすべてを諦めきったような悲しい微笑みを唇に浮かべて、続ける。


「あんたも気を付けなよ…」


 隙を見せるとぱくっと食べられちゃうんだから。

 あ、信じてないって顔してる。

 いいよ、自分の目で見ておいで。

 きっとその頃あたしはもう、死んじゃってるかもしれないけどね。

 

「ここには、本物の悪魔がいるから」






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