[49]真実の行方
命を千切って投げている。
かつて、三神幻子が僕にそう教えてくれたことがある。
文乃さんは超自然的な力を操る、しかし、決して超能力者ではないのだと。
命を千切って投げている…。
それは自分の生命力を相手に投げつけているのと同じであり、大きな力を遣えば使うほど、自身の身体が傷ついて行くのだそうだ。そしてその反動が強すぎるあまり、文乃さんは生死の境を彷徨う程の重症を負ったこともある。その時は、秋月さんの治癒能力を借り受けた幻子による霊的治療でなんとか一命を取り留めたものの、自分の足で立って歩けるようになるまで、回復にかなりの時間を費やした。
僕も幻子も、そして事情を知る誰もが、文乃さんに大きな力を使わせまいと密かに誓いを立てて来た。だがそれはそもそも、初めの前提から間違っていたのだ。
文乃さんの力は、そういうものではなかったのである。
「お前も、お前も、お前もお前も、一回全員死んでるんだからね?」
黒井は僕を指さし、三神さん、幻子、そして辺見先輩を同じく順番に指さしてそう言った。
「危ない場面は他にも何度かあったよ。いやはや、全く気が付かないなんてことがあるんだね。お気楽なもんだわ、自分の命にも、他人の命にもまるで無頓着なんだから」
僕と辺見先輩だけでなく、全員が困惑に打ちのめされたようになった。というより、思考が停止してしまっていると言った方が正しい。戸惑いが強すぎてまともに何も考えられない。
「あのマンション、名前は確かそう、…リベラメンテ。あの大災害をまともに食らった時、本当に何も思わなかった? 文乃一人が傷ついて、お前ら全員無傷なんてこと、そんな奇跡がまかり通ると本気で信じたんだ?」
あの時僕たちは、自然災害によって命を落とした犠牲者たちの無念が霊障化した、言わば『この世ならざる天災』との対峙を余儀なくされていた。戦後最大級の台風がもたらした山の崩落と土石流に呑まれたのである。くり返し再現される終わりのない災害の第一波を受けた僕たちの中で、唯一その場に立っていられたのが、文乃さんだった。だが、
「ふみのさ…」
名を呼びながら振り返る僕の目に映ったのは、筆舌に尽くしがたいほど凄惨な、変わり果てた彼女の姿だった。抉り出されたように右目が飛び出し、そこから滴る鮮血が右耳から溢れ出す血と交じり合い、顎の下で太い線を描いていた。前方に突き出した彼女の震える右手は、五本の指全てが砕けたようにひしゃげ、変色している。この時既に折れてしまっていた右足は膝から下が皮一枚でぶら下がっているにすぎず、とてもよく似合っていたショートヘアの髪の毛は、ほとんどが引き抜かれたように血が滲んでいた
黒井七永の言葉通りであったなら、あの時僕たちは、…全員死んだのだ。
なんという…。
三神さんだけがそう呟いた。何も答えられない僕たちの顔を一通り眺めて、黒井は心から嬉しそうに微笑みを浮かべている。
「でも聞いたことあるよ。人間ってさ、自分が死んだ事にすぐには気付かないみたいだね。ましてやその後、すぐに生き返ったりなんかしちゃった日にはね。やっぱり命の有難みなんて感じてないんだろうね。だけどもう分かっただろ。見なよ、ちゃんと」
黒井は僕の背後で今も微かに震えている小さな肉塊を指さし、言った。
「文乃が自分の命をお前らに分け与えた結果が、それだよ」
僕の視線の先で、地面に座ったままの姿勢で秋月さんが両手を持ち上げていた。振り返った僕の前に回り込み、秋月さんに背を向ける格好となった黒井はそのことに気付いていない。僕は無言で秋月さんを見つめ、秋月さんは顔を伏せてまま両手で地面を叩いた。
しかしそれより一瞬早く、秋月さんの腕を黒井の手が掴み上げていた。
「どうしてだと思う?」
黒井はそのまま秋月さんの顔を覗き込んで、聞いた。無理やり腕を引っ張られている秋月さんは、突如自分の脇に立った黒井から本能的に目を逸らした。だがそこで秋月さんは見てしまったのだ。決して見たくはなかったもの。
「あ、あ」
秋月さんの視線に気が付き、黒井がほくそ笑む。
長く伸びた芝にうつ伏せで埋もれる、それは坂東美千流さんの亡骸であった。
「バ、バンビ!坂東!坂東ォッ!」
秋月さんは空いた方の手を懸命に伸ばし、おそらく何度も治癒を試みた。しかし坂東さんの身体はピクリとも動かず、悲鳴に近い秋月さんの声だけが響いた。
「無視するなよー」
黒井は秋月さんの手首を捻りあげ、「ぐううッ」苦痛の声をあげる彼女の視線を無理やり坂東さんから引き剥がした。
「ねえ、どうして文乃にこんなことが出来るんだと思う? …そこの若いの、お前は知ってるよな。この駄目女に教えてやってくれない?」
あくまでも少女の声だ。黒井は軽口を叩くような調子で秋月さんを見下ろしたまま言い、一拍の後、二神さんを見やった。『若いの』。確かに二神さんの見た目は三神さんより若い。そうは言っても決して若者に見えるわけではないのだ。黒井の口調もあいまって、謎めいた恐怖がその場に漂い始めた。
黒井の呪力返しによって一度は全ての『目』を潰された二神さんだったが、紅さんや玉宮さん同様得体の知れない復活を遂げて当惑を隠しきれない様子だった。だが、黒井の言葉を受けて彼は背筋を伸ばすと、鼻から大きく息を吸い込み、
「すべてを伝え聞いたわけではない」
そう答えた。
「はあん」
黒井が奇妙な相槌を打った途端、奴の握っていた秋月さんの手首が破裂した。
「ッが!」
秋月さんは涙を浮かべた苦悶の表情で治癒を試みるも、千切れた手首から先を黒井が握っている為再生のしようがなかった。握りつぶされたような秋月さんの手首の断面が、もう片方の傷口を求めて勢いよくうねる。
「弟子にも言ってなかったんだね」
黒井は言い、三神さんを見やる。
二神さんはすがるような目で自分を見る愛弟子には一瞥もくれず、
「逃げた男に伝えることなどなにもない」
と突き放した。
三神さんは幻子を引き取った後しばらく、彼女の強大な霊力を邪な目的に利用しようと考えた団体の一部に嫌気がさし、天正堂から出奔した身である。当時既に彼が現場の最高責任者である『天正堂階位・第三』を継いでいたことが関係してか、『天正堂』という看板自体を捨て去ることはしなかった。だが本部団体とは疎遠が続き、当代である二神七権とも距離を置いてきた。
逃げた男、と二神さんは言う。しかし僕にはその言葉の裏に、彼の親心に似た真意があったのではないかと思えるのだ。そんな二神さんは、こう続ける。
「唯一、ワシのこの目を譲った若いのが一人、口伝ではない方法で伝承を引き継いでいた。だが奴は奴で、そのほとんどを誰にも話して聞かせることなく旅立った」
坂東さんである。彼は生前僕に対し、「大体のことは知っている」と打ち明けてくれていた。その時は彼の知る秘密が、まさかこれ程のものとは思いもよらなかったのだ。
その時だ。
「痛っ」
どこに隠し持っていたものか、めいちゃんが黒井の脇腹を刃物で刺した。黒井は蜂に刺された程度の声しか上げなかったが、体にはナイフと思しき刃物の柄の部分までがぐっさりと刺さっていた。
めいちゃん!
誰もが恐ろしい結末を予感して震えた。だが黒井は手に持っていた秋月さんの手首から先をポイと投げ返すと、めいちゃんに向かって上機嫌な笑みを浮かべただけでやり返そうとはしなかった。めいちゃんは目に涙を一杯に浮かべ、震えながら秋月さんの手首を拾い上げて姉の胸に飛び込む…。
「お前の耳には本当に驚かされたよー」
黒井はそう言うと、自身の脇腹の傷は手の平でさっと撫でただけで治して見せた。口には出さなかったが、平然と立っている黒井を見つめて、皆一様にこう思ったはずである。
『まるで秋月六花の持つ治癒能力そのものじゃないか』
いや、バラバラになって死んだと思われた状態からでも復活するのだ。秋月六花以上と言わざるを得なかった。
「ちゃんと教えてやりなよ」
二神さんを見据えて、黒井は言う。「お前らがどういう団体で、私らとどういうつながりがあるのか…。何故、命を分け与えるなんて馬鹿げた芸当が文乃に可能なのか。何故、私は死なないのか」
言いながら、またしても黒井は嗤った。
黒井七永は全てを理解し、全てを楽しんでいるのだ。




