[46]本当の悪魔
自分の目に映る光景をどうしても信じる事ができない。
赤、黒、白、ピンク、うねうねと悶えるように動く気色の悪いドメニコの肉片が、自ら意志を持つように芝の間を這い、元居た幻子の前に寄り集まって肉体を復元していく…。
これも幻術だったらいいのにと、敵の作中に嵌る事を望む程、現実はこんなにも理解不能なものだっただろうか。例えばそれを悪魔の所業と呼ぶのならそれでもいい。幻覚ならばなおのこといい。現実はいつだって非情なんである。皆の視線を集めるグロテスクな肉片の蠢きなど、鼻で笑い飛ばせてしまえる程、人の心をこれでもかと踏みにじる陰惨な悪意に満ちているのが、この世の現実なのだから。
肉片が目の前で再生していく事象だけを見れば、正直僕たちがそこまで驚くことではなかった。なんなら秋月六花さんであれば、生きてさえいればどれほど手酷い傷を負おうとも、それこそ瞬く間に肉体を再生していくことが可能なはずである。
それに比べて奴の復元は、おそろしく緩慢だった。ノロマだった。
いや、そもそも、二神さんの放つ熱線を浴びて焼け落ち、ドロドロバラバラになった体が復元する時点で人のなせる業ではない。やはりそれでも、復元速度の緩慢さが恐ろしかったし、そこにこそ奴のドス黒い意志を感じざるをえなかった。
芝の上を這う音など聞こえるはずもない。言うなればワラワラと、千切れた肉片がひとつ処に集まり肉体を再生していく。まずは、足だ。その力が単なる治療や再生能力ではないことは、人工物である靴までもが一緒になって復元されていく所だけ見ても分かる。
最初に異変に気付いたのは、間近でそれを見ていた幻子と三神さんだった。
とてもゆっくりと、見せつけるように再生されたその足と足首は、ドメニコのものではなかったのだ。
「ワシは何を見ておるんだ。幻子よ、ワシは心底恐ろしい」
三神さんは震え、そう言った。
じっと、ドメニコの再生を見据えていた幻子の目がだんだんと大きく見開かれ、やがて引っ張られるように彼女の口まで開いていった。「あ…、あ…ああ」
生身のふくらはぎが再生され、突然膝下あたりでふわりと揺らめく黒い布が目に入った。
僕は一歩前に踏み出して目を凝らす。
消滅の逆再生を見ているような、単なる復元はでありえない出現の仕方で、おそらくその者が身にまとう衣服の端が、忽然と現れたのだ。
「…うそだろ」
僕は自分がそう声を発した事に気づいていなかった。だが、何を見せられているのか皆目見当もつかないその場の面々にとって僕の一言は、まるで答えを知っている人間の言葉に聞こえたという。
…そうだ。僕は、答えを知っている。
知っていたのだ…。
太腿、腰、胸、腕、肩、首。
そして、顔。
この世に悪魔はいると思う。
だけどその悪魔は老人の姿などしていないし、黄色い目と真っ赤に濡れた口を持っているわけでもない。
影に映った尻尾も角もまやかしだった。
杖なんかどこにも見当たらない。
悪魔は白いスニーカーを履いていた。
黒のタンクトップワンピースを着た少女のような悪魔は、黒く長い髪を自慢げに揺らして微笑んだ。
お・ま・え。
僕がたった三文字を言い終わる前に、
「どうしてッ!」
文乃さんが絶叫した。その瞬間、彼女の悲しみと怒りに満ちた声に重なり合うように、遠くの彼方から少女の声が聞こえて来るのだった。
『あたしももうじき死ぬんだ』
『あんたも気を付けなよ…』
『隙を見せるとぱくっと食べられちゃうんだから』
『あ、信じてないって顔してる』
『いいよ、自分の目で見ておいで』
『きっとその頃あたしはもう、死んじゃってるかもしれないけどね』
う・お・お・あ・あ・あ・ッ。
そこから先は喉が詰まり、僕の声は出なくなった。しかし僕は信じがたい光景を前に叫び続けたし、どうしても真実を受け入れられなかった。受け入れたくなかった。
玉宮さんが今にも倒れそうな文乃さんの身体を支え、「おい」と二神さんが僕の頬を張った。
「どういうことだ。説明せんか!」
頭痛がやんだ、と独り言ちて辺見先輩が立ちあがり、僕の背中に手を当てて顔を覗き込んでくれた。だがこの時、襲い来る冷酷な悪意に押しつぶされた僕にはまだ、現実を受け止め切れてはいなかった。
目を合わさずとも、突然取り乱した僕を見つめる三神さんや幻子の動揺は伝わってくる。僕にだって、抑えきれない感情を言葉に置き換えたい思いはあるのだ。だが、文乃さんが気になって出来なかった。シナプスが次々と、散乱していた情報を繋ぎ合わせて僕の脳内に克明な『絵』を描いていく。だがその絵を、僕は口に出して説明することがどうしても出来ないのである。
事の発端とも言える旧結核病院だった建物で、僕はその少女と出会っている。
初めは、単なる大学の知人である大貫の妹、深香ちゃんが嵌っているという怪しげな集会についての調査だった。だがそこで僕は出会ったのだ。大貫深香ちゃん本人か、もしくは彼女を知る年の近い友人・知人と思しき髪の長い少女。名前は聞いていない。駆け付けた辺見先輩と坂東さんの出現と共に、その少女は忽然と姿を消したからだ。決して忘れていたわけではなかった。しかし次から次へと身の回りに凶事が押し寄せ、いつしか少女の正体について考えることをやめてしまった。
だが、最初から答えはそこにあったのだ。
二神さんが、少女を見やりながら僕に問うた。
「貴様、あいつを知ってるのか?」
めいちゃんが秋月さんの胸に顔を埋め、あいつだ、と囁いた。
秋月さんにだけ聞こえる程度の小声だったそうだ。
秋月さんは抱きすくめるようにしてめいちゃんに顔を近づけ、先を促す意味で耳を傾けた。
めいちゃんは言う。
「ドメニコの中から違う人間の声が聞こえてた」
ハッとなり、秋月さんは頭を上げて少女の顔を見ようとした。しかし彼女の腕を掴んだめいちゃんの力に引き戻され、秋月さんは再びめいちゃんに耳を近づけた。
「違う人間って…」
「東京に来てからずっと聞こえてたのは男の声だった。なのに、実際にドメニコから聞こえて来るのは若い女の声だった。出て来い、出て来い、出て来い。今でもずっとそう囁いてる。お姉ちゃん、私思い出したよ。私たちのお店に来たやつだ。お姉ちゃん、私、ものすごく怖い」
「店に来たって。…それはつまり」
めいちゃんは泣きながらこう答えたそうだ。
「よくない人だよ」
少女の顔を見た瞬間、どうして、と文乃さんは叫んだ。
おそらくその意味は、『どうして、あなたがこんなことを』。
これで、辻褄が合う。
『あたしももうじき死ぬんだ』
あの廃病院で発見された女の遺体。当初行方不明だった大貫深香ちゃんと思われた遺体から採取したDNA検査の結果、該当した人物の名は、黒井…。
どういう理屈か、そこにどんな意味があるのかなど想像もつかない。だが『彼女』は分かっていたのだ。例え死んでも、たった今僕たちが目撃したように、再生、または復活が可能であることを。
あの死体は、本物だったのだ。
文乃さんの妹であること、そしてしもつげむらで垣間見たシルエットとは違っていたこと。意図的かそうでないかもかも分からないミスリードに狂わされたまま、僕の目にはずっと、真実が見えていなかった。
何故、超絶的な霊能力を持つ壱岐課長さんや坂東さんを有するチョウジが陣頭指揮に立ち、それでも麻薬の売人ごときを逮捕することが出来なかったのか。見る者によっては老婆であり、若い女であると言われた国際的な指名手配犯ドリスは、一体どこへ消え去ったというのか。イタリアから戻ったというチョウジの海外特派員は、若い女の写真を見て、なんと言ったんだっけ…?
そもそもドリスなんて名前の人間は、初めから存在そのものが噓だったんじゃないだろうか。
すべてがドメニコであり、すべてがその少女だったのだ。
『ここには本物の悪魔がいるから』
今、僕たちの目の前に立っている少女こそが、黒井七永なのである。
少女の操る幻覚がもたらした、全てはまやかしだったのだ。
「どうしてぇッ!」
文乃さんは叫ぶ。
知りたくなどなかった真実が、目の前にある。
だがそれは、血も凍るような点と線を意味している。
僕はそれを、どうしても言葉にすることが出来ないでいた…。




