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「かなしみの子」  作者: 新開水留
45/55

[45]万華鏡



 音もなく風が吹き、柔らかな芝原を撫でながら通りすぎていく。何事もない顔で立ち去っていく風が羨ましく思えた。

「悪魔」

 と幻子が言う。

「私はあいにく、悪魔を打ち倒す術を持ち合わせていませんでした。人ではないもの。世界の諸悪の根源たるもの。命なきもの。そんなものを相手に、私にできることなどありませんでした。ですが、たった一つだけ、あなたを縛る事が出来るものを見つけました」

 悪魔が癇癪を起したように、泡を飛ばしながら理解出来ない言語を巻き散らす。ザアザアと波打つような激痛が全員の脳を揺さぶる。頭蓋骨を何度も叩かれるようなその痛みに、僕は歯を喰いしばって耐えながらも、やがて膝を付いた。

 僕だけではない。辺見先輩はもとより、秋月さんも、めいちゃんも、三神さんでさえ苦痛に顔を歪めている。影響を感じさせない顔で平然としているのは二神さんと文乃さん、そして紅さんと玉宮さんだけだ。

「それは、契約です」

 と幻子は言った。

「仮にあなたが悪魔を騙る人であるならば、私との契約は機能しない。しかしあなたがその身に本当の悪魔を宿しているならば、交わされた契約は絶対です。あなた方悪魔は常に神が放つ光とは反対側にいる。神が放つ光なくして影の存在がありないように、あなた方もまた神と神の造った人間の存在なくして発現することなどできないのです。そして悪魔は常に神の影に隠れる存在であるがゆえに、決して神に打ち勝つことが出来ない。これまもた己の存在をかけた絶対の法則であり、神との契約であると私は考えます」

「無神論者が悪魔を語るなッ!」

 吠えたてる悪魔の瘴気に当てられ、僕は一瞬気を失った。次にドメニコと幻子の対峙する光景を見た時には、直前の記憶が飛んでいたほどだった。

 幻子が続ける。

「存在を形どる契約という名の秩序、法則、前提条件などを廃してただそこに悪として存在する。あなた方悪魔にはそれが出来ない。ある意味人間には許されているのに、あなた方は家人の許可なしに家の中に侵入する事も出来ない」

 ドメニコは答える。

「ワタシをオレを吸血鬼と一緒にするな。入れないのは結界の中だけだ。国も街も村も家も本来ワタシのオレの前に境界線はない。人の心にだって簡単にワタシはオレは入れるさ。忌々しい結界が張られた向こう側に入る事が出来ないだけでな。この世の理の範囲内で生きる者はすべからく呪いの効果を受ける。確かに、その効力は絶対だ。ワタシがオレが家主の許可なしに家の中へ入れないのと同様に、無視の出来ない一定の法則は存在する。だがそれはワタシがオレが神に負けることと同義ではない。掻い潜る方法などいくらでもあるのだよ。許可を得る方法などいくらでもあるのだよ、たとえ、この場から一歩も動かずとも」

 悪魔の顔が僕たちの方を向いた。

「そうだろ?」

 その瞬間、辺見先輩が悲鳴を上げ、「やめて!入ってこないで!」と頭を抱えた。先輩が手に持っていた紙袋が芝に落ち、金平糖がバラバラと散乱する。

「辺見!」

 玉宮さんが声を上げると、二神さんが舌打ちをして辺見先輩の前に立った。ボオッ、音を上げて二神さんのハチマキが燃え、「ええい、くそ」煩わし気に二神さんはおでこを叩いて火を消した。

 それらを眺め、ドメニコは腹を抱えて高らかに笑っている。

「ワシの後ろにおれ」と二神さんは言った。「あやつの力を弾き返すくらいはしてやろう」

 辺見先輩はフウフウと震えながら体全体で息をし、言われたとおりに二神さんの背後で蹲った。

「幻子」

 三神さんが低く娘に問うた。「辺見嬢らに手を出せぬはずでは?」

 聞こえているのだろう。頭を振りながら、悪魔は嗤っている。

 幻子はじっとドメニコを見据えたまま反応を示さない。おそらくだが、彼女の胸中も三神さん同様穏やかではいられないはずである。だが、悪魔はとかく狡猾な存在だと書物には記されている。思いも因らぬ方法で、幻子の放った呪い(まじない)を掻い潜っているのかもしれない。

 その時だ。

「四の五の言ってんじゃないよッ。姉さん!」

 玉宮さんが大声で言い、二神さんの前に躍り出た。

「そらあ!」

 掛け声とともにもろ手を頭上高く振り上げると、「ヨイヨーーーイ!」しゃがみ込むと同時に芝原を両手でぶっ叩いた。

「カアアアアッ!」

 八十歳を超えた老人とは思えぬ裂帛の気合とともに、紅さんが玉宮さんにタイミングを合わせた。

 それは、しもつげむらにて五十年以上もの間、天正堂開祖・大神鹿目(おおがみかなめ)の呪力を封印し続けたという、荷重式多段階圧迫法なる霊力の重ね掛けである。二人の力が、一瞬にして目には見えない空気の質量を変貌させた。

 ドオオンと音が響き、小柄な老人の見目であるドメニコの身体が、真上からぺしゃんこに潰れた。

「っはは」

 二神さんが笑い、秋月さんは思わず目を逸らした。彼女は玉宮さんたち姉妹の力の強さをよく知っている。例え屋外で放たれた力であっても、巻き込まれた周囲の土地が沈下し、やがて一軒家が傾くほど恐るべき重量を姉妹は『重ね掛け』するのだ。生身の人間など一瞬たりとも耐えられるはずがなかった。

 が、

「逃がしおって」

 と二神さんが言った。

 その言葉に驚き、僕や文乃さん、秋月さんたちがこぞって二神さんを見た。

「ちぃー…」

「下、か」

 悔し気に地面を睨む玉宮さんに続き、紅さんが呟いた。「もぐりおった」

 そうだ。ドメニコはこれまで様々な形に己の姿を変えて来た。真っ黒い血溜まりのような液体にもなれば、アメーバ状になって体を分断することもできる。地面に潜り込む事も出来れば、人を引き摺り込むこともやってのけた。更には蠅の軍団となって…


 …いや、違うぞ。


 その瞬間、僕の脊髄が震えた。

 何かを閃いたように、それは戦慄となって体中を駆け巡った。

 

 …まさか…。

 眩暈がする。

 …もしかして…。


「寒い」

 と、めいちゃんが言った。

 突如僕たちの周囲を濃霧が立ち込めた。急激に気温が下がり、吐き出す息が白く変わる。

 まずい、幻覚に入られる。


「幻子ッ!奴はもしかして!」


 僕は叫び、幻子に駆け寄ろうとした。僕の思いついたとんでもない仮説を、直接彼女の耳に入れたかったのだ。だが僕は一歩も動けなかった。見ると、僕の両足首を地面から突き出した手ががっしりと掴んでいた。

 

「新開さん!」


 文乃さんが叫んだ。

 だが彼女を見ようとした僕の視界を覆う何かが、一瞬で体を這い上がって来た。

 息が詰まり、時が止まった。

 鼻の頭同士がくっつく程の至近距離にそいつは立っていた。

 髪の長い女である。

 女は無表情な顔で僕をじっと見ている。

 その女の顔を、僕は一度だけ見たことがあった。

 昔、僕が子供だった頃。

 父の寝室にあるベッドサイドテーブルの中に仕舞われていた、一枚の写真で見たのだ。

「か・あ・さ・ん…」

 あえぐように、僕の唇がそう動いた。

 彼女の顔は、文乃さんによく似ていた。

 

 新開さんの前にいます!

 そう叫んだめいちゃんの声を、僕は聞いていない。

 しかし次に意識が戻った時、僕の目の前にドメニコの姿があった。

 そして悪魔の額には、辺見先輩が押し当てたロザリオが月光に煌めいている。

 地を裂くような雄叫びを上げるドメニコの顔面から、悪臭とともに白煙が立ち昇った。

『効いている…のか?』

 僕は混乱し、恐怖と驚愕にバランスを保てなくなった。たたらを踏んで後退するも、僕の眼前ではやはりドメニコが絶叫しながら悶え苦しんでいる。

『なんで効くんだよ。そんなわけないじゃないか。だってこいつは…。一体どうなってるんだ。どういうわけなんだ。なんだよ、このでたらめな現実はッ?』

 戸惑い、声も出せない僕の側には二神さんや玉宮さんがいる。易々と幻術に陥り、またしても僕と辺見先輩に攻撃をしかけられた事が彼らのプライドを傷つけた。無我夢中で突き出したと思われる腕を辺見先輩が引っこめる同時に、二神さんがドメニコの衣服の後ろ襟をむんずと掴んだのだ。

「いい加減にしやがれ」

 言うや否や、二神さんが「女ッ」と文乃さんに声を掛け、ドメニコの身体を空中に放り投げた。痩せて小柄な老人とはいえ、投げたのは同じく高齢の二神さんである。普通に考えれば人体が宙に浮くことがおかしい。しかしすかさず文乃さんが霊力を操り、ぶん投げられたドメニコの身体はぐんぐんと夜空へ上昇して行った。

 二神さんはハチマキを額に持ち上げると、

「身の程を知れ!」

 カッと目を見開いて絶叫し、右手の指で自身の舌をぐいと引き延ばした。

 おかしいなとは思っていた。二神さんは名を七権と言い、僕にも自分の持つ霊力を『七つ揃わんと完全なる効力を発揮せんワシの力…』、そう説明していた。その力が彼の目を意味するならば、今は三つしかないハチマキの目が四つ並んでいた時でさえ、生まれ持っての両目と合わせても六つしかなかったのだ。

 突如、視界が利かなくなるほど眩い閃光が二神さんの口からほとばしり、夜空に投げ出されたドメニコの身体を焼いた。

 二神さんの舌には、ギョロリと睨む七つ目の眼球が埋め込まれていたのである。


 僅かに残ったドメニコだった物の肉片が、焼き切れた衣服の切れ端ともに芝原に落下する。

 三神さんは素早くMA-1を脱ぐと、降り注ぐ血の雨が幻子にかからぬよう、彼女の頭上でジャケットを振り回した。秋月さんはめいちゃんの目を覆い、文乃さんはまさかここまでの事態になるとは予測出来なかった表情で、二神さんを振り返った。玉宮さんは神妙な顔ながら二神さんを心なしか睨み、紅さんは固まったように動かず空を見上げたままだった。

 辺見先輩は、青ざめた顔でロザリオを握り締めたままガタガタと震えている。彼女の側に膝をついて僕が背中を撫でた時、先輩はとても小さな声で呟いた。

 …まだだ、新開くん。


「お姉ちゃん」

 両目を覆われたまま、めいちゃんが小声で秋月さんの腕を取った。先程からずっとドメニコを直視しないよう顔を伏せてはいたものの、直接頭の中に入り込んでくる悪魔の声を受け、めいちゃんの額には大量の脂汗が浮かんでいる。『超聴力』と称される人間の枠を超えた耳を持つめいちゃんには、目まぐるしく激変するこの状況は耐え難かったはずだ。

「お姉ちゃん」

「どうした、めい」

 だが秋月さんとて、ここへ来てからずっと心神喪失状態にあったのだ。豊かに伸びた芝が上手く現実をぼやかしているおかげで、幸か不幸か、まだ彼女は坂東さんが死んでいる事に気付いていなかった。正直、どういう状況であるのかすら正確に把握できていなかったかもしれない。ただ、周りを見れば心強い仲間が大勢いる。

『何がどうなろうと、即死しない限りは自分が絶対に治療してやる。相手はドメニコと呼ばれる老人一人だ。絶対になんとかなる』

 そう思っていた。

 不意に、空を見上げたまま、「どうなっておる…」紅さんがそう呟いた。

 そして、次の瞬間めいちゃんの放った一言が、秋月さんを混乱の極致に陥れた。



「ドメニコは、…二人いるの?」





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