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「かなしみの子」  作者: 新開水留
44/55

[44]光明の向こう


 雷鳴とともに空間の裂け目が消え去り、静寂とともに視界が開けた。

 紅おことさんは、大きな半纏にその身の半分以上が埋もれてしまう程、小柄で細身の老女だ。片や玉宮小夜さんは、背筋がしゃんと伸びた、ふくよかで大柄な女性である。お二人が並んで立った時、まさか彼女らが双子であるとは誰も思うまい。

 だが彼女たちこそ、関東近郊に古くから存在する村で『魔物』と恐れられて来た、大霊能力一族の末裔なのである。結婚してそれぞれ姓が変わってしまったものの、旧姓は、黒井。

 しもつげむらの、黒井一族である。


 ドメニコが口惜し気に、杖をドンと地面に突き立てた。

 幻子は言う。

「会いたかったんですよね? さあ、あなたの願いをひとつだけ叶えましたよ」

 もはやドメニコの顔に笑みはない。

 白濁した白目だけの眼を見開き、歯を剥き出して幻子を威嚇している。

 その姿はどこか滑稽ですらあり、僕はここへ来てようやく大逆転の一手に胸のすく思いを味わう事が出来た。

「なぜだ」

 脳内にがなり声を叩き込んで来るドメニコの力も、今は幾分弱く感じる。それでも僕は顔をしかめて頭痛に耐えながら、ドメニコと同じく『なぜ』を内心呟いていた。

 あの事件に関わった誰もが、警察関係者ですら、紅さんと玉宮さんの死を疑わなかった。遺体が出なかった以上、事件として捜査を推し進めることは難しい。だが、齢八十を超えたお二人が枯井戸の中に吸い込まれるようにして消えたのだ。あの状況下で複数人が目撃する中、『死』以外の何かが彼女たちに待っていたなど、誰に予想出来ただろうか。

「夢に、見ていたか」

 とドメニコが聞いた。

 幻子は頷いて答える。

「彼の地イタリアであなたと対峙した時、私の問い掛けに対しあなたは黒井に会いに行くと答えましたね。私はやめて欲しいと願い出ましたが、あなたがそれに応じないであろうことは、夢に見るまでもなく察しがついていました…」

 話を続ける幻子とドメニコの向こう側に降り立った姉妹が、各々別の方角に向かって歩き始めた。紅さんは秋月さんの元へ、そして玉宮さんはなんと、辺見先輩に向かって歩き出した。

 お二人の挙動に気づいたドメニコは唸り声を上げて身構えたものの、姉妹がてんでバラバラの方向へ別れた為に対応が遅れた。

「そしてあなたが日本へ渡る夢を見た時、私はあなたに呪いをかける事を決心したのです」

 幻子の言葉に、ドメニコは急に我に返ったような顔で少女を睨んだ。

「悪魔に向かって、呪いだと?」

「新開水留、辺見希璃。私たちにとって『最後の希望』であるお二人にだけは手を出させまい。それが私の要求する願いでした。その代償として私はあなたの願いをひとつに限り、必ず叶えてさしあげる。そういうお話でしたね? あなたは言った。黒井に、会いたいのだと」

 ドメニコの目が、歩き去る紅、玉宮姉妹を追った。

 何故ここに彼女らが現れたのか、悪魔の化身にすら理解出来ないのだ。

「しもつげむらでの惨劇を、私はイタリアにいながらにして『視て』いました。このままでは紅さん、玉宮さんお二人ともが壮絶な最期を迎えてしまう。そうなればあなたが出した黒井一族に会うという願いもまた、叶える事が出来なくなる。確かに、彼女達の血を受け継いだ人間ならば今こうして、あちらに、そしてあちらにも、絶世の美女が生きておられる。しかし悪魔のごとき者が何らかの先手を打ち、秋月さんと文乃さんを亡き者にしてしまった場合、私があなたに呪いをかける方法は永遠に潰えてしまう。…実際、あなたは残虐非道な手口で彼女らの心を、折った」

 キキキ、と悪魔は啼き、

「オレはお前の心も折った気でいたがな!」

 突然声色を変え、掠れた声で強く囁いた。

 幻子は頭を振って答える。 

「私の信仰は折れない」

 悪魔は嘲笑う。

「洗礼を受けてもいない下賤な無神論者が信仰を語るか。ッハハ、貴様こそ地を這う我らの同志ではないのか?あ?」

「私の信仰対象は神ではない」

 強く言い切る幻子の言葉に、悪魔は一瞬怯んだ。

「私が信じているのは父だけだ。父であり、教師であり、偉大なる道しるべである。信仰そのものに下賤などあろうはずがない。父がそうであり、私がそうである」

 三神さんは泣いた。

 ドメニコの術中だったとはいえ、まだ幼かった幻子の夢を見たばかりだ。どこにも行き場所のなかったあの小さな背中が、自転車を漕ぎ、己の足で歩き、こうして真っ直ぐに立っている。人は死んだら終わり、あの世など存在しないと豪語して憚らない現実主義の娘が、信仰を口にしているのだ。

 三神さんは泣いた。『天正、ここに極まれり』、そう呟いて泣いた。

「例えお前はそうでも、あやつらの心を壊すのは容易かったぞ?」

 毒づく悪魔の挑発に耐え、幻子は強い眼差しで迎え撃つ。

「こうなることは避けたかった。その為に私は、一計を案じたのだから」

「ほお、何をしたッ?」

 好奇心を隠さぬ声で、悪魔は首を前に突き出した。

 幻子は負けじと目を細め、唇に微笑みを浮かべる。


「彼女らが紅家の古井戸に落下した瞬間、私がいる場所までお二人を飛ばし、お連れしました。…ええ、イタリアへ」


 瞬間移動…。

 馬鹿な。

 たった一人の少女に、そんな大それた力が備わっている筈などない。

 そんなもの、人間の持つ潜在的な霊能力の枠を軽々と飛び越えている。

 SFだ。

 インチキだ。

 あり得るわけがない。

 …誰もがきっとそう思うだろうし、部外者であったなら僕もそう声に出すだろう。

 だが僕は、そして文乃さんは、実際にこの目で見ているのだ。

 あれは一年以上も前、『リベラメンテ事件』において未曽有の大災害に巻き込まれた時だった。

 僕と文乃さんが立っていた場所から数メートルと離れていない前方に、その場にいる筈のない人間が突如として送られて来たのだ。幻子はその時、遠く離れた場所から人ひとりを転送して来たのである。

 しかも今回は二人同時に、それも国外へ…。

 壱岐課長さんをはじめとしたチョウジの職員たちが、いくら探したって見つかるわけがない。関東近郊の古びた村、その一軒家の裏庭から、イタリアへ飛んで行ったというのだから。



 玉宮さんは『ひ孫』である文乃さんの横を通り過ぎる時、何事かを呟いて微笑んだ。文乃さんは頷き返しただけで言葉を発した様子には見えなかったが、彼女の喜びは伝わって来た。

 目の前に立たれるまで気が付かなかったが、玉宮さんはその手に何かを持っていた。

 小さな、紙袋のようだった。

「顔色が悪いな、辺見。これでも食べな」

 そう言って玉宮さんが辺見先輩へと差し出したのは、紙袋にぎっしりと入った金平糖だった。

「こんなには食べきれないよ」

 泣きながら笑う辺見先輩の手に、玉宮さんは紙袋を握らせた。

「半年分の、利子付きさ」



 仰向けに横たわる秋月さんの傍らで、紅さんが両膝をついて正座した。

 何も言わず、紅さんは自分の『娘』を見降ろした。苗字が違い、そして大分と年が離れてはいるが、紛れもなく二人は実の母娘である。紅さんは秋月さんの胸の上に手を置くと、体をゆっくりと倒して娘の耳元に唇を寄せた。

 ふと見れば、倒れ込むように体を丸めた紅さんの背中の上を、どこから現れたのか、子供の頭程の大きさもある白い蜘蛛がトコトコ歩いている。オオツチグモの形をしているが、あれは紅さんの操る『式神』である。やがて蜘蛛は芝の上を悠々と歩き、少し離れた場所で倒れているめいちゃんの側まで行くと、突然勢いよく糸を吐き出した。糸は瞬く間にめいちゃんの身体全体を白く覆いつくし、そして…。

「起きろ」

 紅さんが言った瞬間、

「うわあああッ!」

 叫び声を上げながら秋月さんが飛び起きた。

 状況を理解出来ず茫然自失する秋月さんの目の前に、まるでミイラの如く白い糸でぐるぐる巻きにされた少女の身体が、宙吊りにされて浮かんでいた。秋月さんがゆっくりと見上げると、ミイラをたった一本の糸で吊り下げている、大きな黒い蜘蛛が何もない空間に浮かんでいた。

 まず最初に秋月さんが思ったのは、「あの蜘蛛は、何にぶら下がってるんだ?」だった。

 だが、やがて気付く。自分の傍らに座しているのが、死に別れたと思っていた母であることに。

「お」

 お母さん、そう叫ぼうとした瞬間、紅さんが言葉を先んじた。

「下の娘を返してもらおう」

 途端、秋月さんの目の前で蜘蛛の糸が弾け、中からめいちゃんが姿を現した。

「めい!」

 めいちゃんはスラリと伸びた両足で芝の上に着地すると、両腕を伸ばして秋月さんと紅さんに抱き着いた。

 


「神の子に不可能はありません」

 と、幻子は言った。三神さんは泣き顔を伏せたまま微笑んだ。

「契約は成立しました。これであなたはもう、新開さんと辺見さんには指一本触れられませんね」

 僕は一歩前に出て、強く断言する幻子と、彼女に相対するドメニコを睨んだ。

 幻子の放った奇跡の一手による、まさにこれこそが一発逆転である。状況は、絶対的にこちらが有利なはずだった。坂東さんと柊木さんを除いた仲間全員が霊障から解放され、息を吹き返し、かつては恐ろしいとまで感じた紅、玉宮姉妹までもが戻って来た。二神さんの顔に笑みがないのは気になったが、そもそも彼は黒井家に良い印象を持っていない。ともあれ、これだけ手練れの霊能力者たちが集結し、その上相手はたった一人である。

『これが優勢と言わずして、何を…』

 僕は自分を鼓舞するようにそう思い込もうとした。

 だが、どうしても駄目だった。その先の言葉を想像できなかった。

「坊主。油断するなよ」

 まるで僕の心を読んだように、二神さんがそう言った。




 無言で頷く僕の胸にはただ、渦巻くような不安しかなかったのだ。

 

 


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