[43]降臨
青白く発光しながら高速回転する数珠が、やがて全ての蠅どもを一匹残らず吸い込んだ。それはひとつひとつの珠がというよりも、輪の中に発生した異次元空間へ飛ばされたような、そんな印象を受けた。
回転する数珠はやがてその速度を緩め、最終的には発光も止んだ。おそらく元は白かったと思われるその数珠は、黒と灰色が入り混じったようなマーブル模様となって重力とともに畳の上にドサリと落下した。
「三神さん!」
落ちて動かない数珠の側を忍び足で通りすぎ、窓の外に向かって叫ぶ僕の隣に辺見先輩が立った。僕の呼声を受けて、三神さんが片手を上げて応じた。その数珠はそのままにしておいてくれ。
「文乃さん、三神さんです!彼は無事です!」
振返ると、文乃さんは笑顔で頷いた。だが彼女の笑顔には、喜び以上の苦しみが刻み込まれているように見え、僕はぐっと奥歯を噛みんで頷き返した。
平屋建ての腰高窓とは言え、そこを乗り越えて外に出るのは憚られた。
僕は無邪気に窓の向こうへ手を振る辺見先輩に声をかけ、文乃さんと共に屋敷を出た。
体の前に杖を付き、じっと動かず、奴はそこに立っていた。
夥しい数の蠅に変化し、屋敷への侵入を成功させた途端、三神さんの霊力にそれ以上の侵攻を阻まれたのだ。ドメニコの横顔には、渦巻く怒りを内包させた笑みが浮かんでいた。だがしかし、屋敷を出た僕と文乃さんの視線をくぎ付けにしたのは、ドメニコだけではない。
奴と対峙しているのは三神さんではなく、幻子だったのだ。腹部を貫かれ、重なり合って倒れた父娘が今はしっかりと立っていた。
「まぼ…」
無意識の内に口を突いて出ようとした彼女の名前よりも先に、僕の目から涙が零れた。
辺見先輩と文乃さんが口々に驚きの声を上げる。しかし原っぱに立っているのは彼女と三神さん、そして二神さんだけである。秋月さんをはじめ、坂東さん、めいちゃん、柊木さんはやはり体を横たえたままだった。正直僕たち三人には、何が起こったのかさっぱりと理解出来なかった。
なにゆえお前がワタシの前に立つ。
ドメニコの放ったその言葉はもちろん、日本語ではない。だがボソボソと発せられる老いた声よりも大きく、奴の声は直接脳内に入り込んで来た。それがテレパシーといった品の良い超能力でないことは、ガンガンと頭に響く暴力的な頭痛が証明している。
僕の隣に立っていた辺見先輩がじりじりと後退し始めた。尋ねる僕に、彼女は「見られてる」と答えた。ドメニコは正面に立つ幻子の方を向いており、僕たちからは奴の横顔しか見えない。しかし辺見先輩には、奴がこちらを向いてるように見えるそうなのだ。その身に一度は入り込まれた後遺症だろうか。いつぞやのように、霊障の残滓ようのなものが辺見先輩を蝕んでいると思われた。
僕は彼女を屋敷の玄関に座らせると、
「奴を直接見てはいけません。僕は坂東さんからそう教わりました」
と小声で語り掛けた。強烈な頭痛は尚も続いており、僕自身も平気とは言い難かった。しかしそんなことを言っている場合ではない。辺見先輩は素直に頷き、「ここにいるよ」と力なく答えた。
「約束を果たす時が来ました」
と、幻子が声に出して答えた。
彼女の声が空気中を泳いで僕たちのもとへ届くと、ただそれだけで頭痛が少し和らいだ。
「そして、約束を果たしてもらいに来ました」
ぐるるる、とドメニコの喉が鳴った。
奴特有の、彫刻刀で木を削って出来たような、細く湾曲した目が嗤っているのを見ているだけで心底恐怖が湧き上がって来る。しかし今ドメニコの顔に浮かんでいるのは、眉間に刻まれた縦皺を中心に広がる怒りだった。見開かれた目には黒目がなく、濁った灰色の目が幻子を見ている。
ドメニコは、「約束の意味」を問いただす事をしなかった。
理解しているのだ。あるいは、覚えているのだ。
僕は直接幻子から、彼女がイタリアの地でドメニコと相まみえ、約束を取り交わしたことを聞いている。その約束とは、ドメニコの願いを一つ叶えることと引き換えに、新開水留と辺見希璃に手を出さない、という内容であったそうだ。だが実際僕はドメニコから内臓を引き抜かれそうになったし、先程もまた辺見先輩は身体に憑依された。
そもそもイタリア正教会から悪魔憑きと認定され、自ら悪魔と共にあると断言するようや怪人が、日本の十八歳の少女とまともな契約など結ぶだろうか。そしてそれを律儀に守ったりなどするだろうか…。
いつの間にか僕の側に二神さんが立っていて、「見ものだな」と僕に語り掛けた。
僕は驚きと軽蔑が入り混じった目で彼を見返し、「そんな悠長な話ですか」と苦言を呈した。「僕はてっきり、二神さんが相手をしてくださるものだと…」
嫌味で返す僕に、二神さんがニヤリと笑みを浮かべた。
「そのつもりでおったさ。しかし貴様らがあまりも不甲斐ないばっかりに、坂東の死も無駄になったわ」
「どういう意味ですか」
二神さんが、尋ねる僕の方を向いた。ハチマキに並んだ三つの目が、僕を見つめている。
「…二神さん、目が」
「一つ減っておるだろう。今その一つはあの娘が持っとる。七つ揃わんと完全なる効力を発揮せんワシの力を、くたばり損ないだった貴様の仲間を助ける為にくれてやったのだ。そこまでしてあの娘に何が出来るか知らんが、少なくとも三神には勝算があるようだ。…どうだ、これが見物と言わずして、なんだ」
そこまで言われると、確かにそんな気もしてくる。
しかし「そうだ」などとは口が裂けても言えない。
「契約は必ず成立します」
と幻子は言った。「そうなれば効果は必ず発揮されます。それが、呪い(まじない)というものですから」
「ワタシの願いを聞き届けるというんだな?」
ドメニコの声が脳髄にこだまし、割れるような痛みが頭の中で暴れ狂う。僕は思わず耳を塞ぐも、まったくもって無意味だった。見れば、幻子から三メートル程離れた後方に立つ三神さんも、僕と同じく両耳を塞いでいた。幻子の他に平気な顔をしているのは僕の隣に立つ二神さんと、僕の右前方に立ってドメニコを見据えている文乃さん、この二人だけだった。
「『ネロ・ファミーリアに会いに行く』。例えその言葉の意味がなんであれ、私があなたの願いを成就させたあとになって、やっぱりあれは無しにする、などどは言わせませんよ?」
薄く微笑んですらいる幻子に、ドメニコの眉間がグググと怒りを漲らせた。
その秘術は、これまでたった一度しか人前で使ったことがない、と幻子は教えてくれた。だがそのたった一度の機会というものに、奇しくも僕と文乃さんは立ち会っていた。
音を立てずに合掌し、幻子は片目を閉じた。
「はー。長かった」
彼女はそう言い、もう片方の目も閉じた。
ガアアアアアア、その途端ドメニコが獣のような吠え声を上げ、無防備な幻子に襲い掛かろうとした。
ゴゴゴゴゴ…。
ロロロロロ…。
星々が瞬いていた夜空に突如暗雲が立ち込め、雷鳴が稲光を走らせながら轟いた。紙芝居の絵を入れ替えたように、一瞬にして空模様が激変したのだ。ドメニコを含め、驚いた僕たちが空を見上げたその時だった。雷神と風神がもたらす大自然のいななきとはまた一味違った、深くて重たい音がどこからともなく鳴り響いたのである。それはまるで、地響きのようだった。
「ようやくかい。さあさ、出番のようだよ、…姉さん」
その声がどこから聞こえてくるのか、当初誰にも分らなかった。
だが確かに声は聞こえたし、僕にも、三神さんにも、その声には聞き覚えがあった。
「ジュミオーチーキメニー、モーヒトーンバーリガノー。オーッテェ、ソーゴニョーンバァガイー。カーミー。(寿命が尽きる前にもうひと踏ん張りするかのー。おー、そこにおるのはお前さんかい。カーミー)」
けたたましい稲妻が僕たちの頭上すれすれを真横に走り抜け、天空に亀裂を走らせた。
それはまるで次元の裂け目のように、何もない空間に突如として楕円形の口が開いたのである!
「あれは…ッ」
僕はあの空間の裂け目を、確かに見た事があるぞ!
幻子が目を見開き、ゆっくりと噛み締めるようにこう言った。
「おいでませ。黒井一族であり紅家、玉宮家両当主、紅おこと様。玉宮小夜様」
辺見先輩が玄関から飛び出して来た。
そして見上げた夜空から、懐かしいシルエットのお二人が舞い降りて来るのが目に入った。
うそだ、うそだ、うそだ!そんなこと!
先輩は何度もそう言い、大粒の涙を流した。
あの日、しもつげむらにある古い枯井戸に落ちた紅おことさん、玉宮小夜さん姉妹のご遺体は、その後現段階に至るまで発見されていない。消息不明として事件は処理され、あれから半年以上が過ぎ去った。視線をやると、同じく天空を見上げる文乃さんの両目からも涙が溢れていた。彼女も肉眼で彼女らの姿を捉えているのだ。
そうなればもう、間違いない。
紅おこと、玉宮小夜姉妹は、生きていたのである。




