[42]同時刻
聞いた話だ。
それは僕と文乃さんが二神さんの屋敷に入ってすぐのことであるという。
つい一昨日までは平和だった我が家の敷地に、今や六人の人間が身を投げ出している…。
二神さんは大きくため息を吐いた。そして玄関前に仁王立ちしたまま動かず、悲壮感漂う現実から目を背けるようにハチマキで両目を覆った。
「青葉と、坂東は手遅れだ。だが、他は救おう」
そう言うと、一拍間を置いて、「…聞いてるか、未熟者」と付け足した。
二神さんの言葉に、ゴボゴボと血交じりの咳を飛ばしながら、
「そこを、なんとか」
と三神さんは声を振り絞った。意識を取り戻していたのである。「私のことは捨て置いてもらって構いません。若い者から順番に、お願いします」
「手遅れだと、ワシは言ったぞ」
「そこを、なんとか」
食い下がる三神さんに、二神さんは溜息を付く。
「貴様はいつもそうだった。口調は柔く慇懃にあれど決して己を曲げようとしない。その態度は決して褒められたものではないと…」
「当代。説教なら息絶えるまでお付き合います。が、それは後回しに…ゴホゴホッ、今は時間が惜しい」
「言うた尻からそれだ。青葉の父親に結婚の意志を伝えに来た時も」
「当代」
「案ずるな。この芝原に横たわっておる限り即死級の毒でも喰らわねばくたばる事はない」
そう言われて三神さんははたと気が付く。
自分と幻子が地面に崩れ落ちた時よりも幾分、体が敷地の芝に沈み込んでいるのだ。当然この短期間で芝が伸びたわけではない。だが芝に意志でもあるかのごとく、優しく包み込まれているように三神さんは錯覚したという。
「長年気を練り続けてきた。身体と心に満ち足りた気をこの大樹に預けているうち勝手にデカくなりおったわ。それでも飽きたらず、今度はこの草原にまで根を張るようにワシの気を張り巡らせるにまで至った。まさに天然の結界よな。アレ(ドメニコ)が何をしようと、それはそれ、これはこれ。どうだ、気持ちよかろう?」
「はあ。今まさに、死にかけておりまする」
冗談とも本気ともつかぬ三神さんの返答に、二神さんは鼻を鳴らして、柏手を打った。合掌したままどっしりと腰を落すも、やはり三神さんや幻子同様、彼も祝詞や経を詠んだりはしない。その代わり、三神さんに向かってこう通告したという。
「ワシが天正堂階位・第二を継いだのは己の編み出したこの『目』があるおかげよ。だがこの目はたった一つ欠けても、本来の効力を発揮できない。坂東がおらぬ状態でいくらお前だけが足を運ぼうとワシが動く気にならなかったのはその為であり、この目を呑み込んだあいつはそれをよく分かっておったのだ。だからこそ潔くワシの前に立った。ようやくここへ来て、長年気を溜め、この日の為に練り上げて来た力が戻ったというのに、そこもとらの体たらくによってすべては水泡に帰すのだ。しかと心得よ」
三神さんにとっては何にもまして重たい言葉だった。
二神さんが口に出して伝えた内容は、時間にして三十秒程だ。しかし『長年』という大雑把な言葉の意味する時間とは実際、途方もない彼の人生そのものであり、当然そこには三神さんと共に過ごした激烈な日々も含まれている。お前らのせいで、水の泡だ。そう言われて三神さんに返せる言葉はなかった。
「希望はあるか?」
と二神さんが聞いた。三神さんは伏臥位のまましばし考え、
「幻子を」
と、自分の下敷きになっている娘の名を答えた。
「ワシ抜きで勝算はあるのか」
と二神さんが聞く。三神さんは先程よりも長く考え、
「信じてみたいと思います」
と答えた。
二神さんは何も言わず、三神さんと折り重なったまま目を閉じている幻子の側にしゃがみ込んだ。そして右手を幻子の額に当てると、左手で自分の額を押さえた。二神さんの額にあるのは、ハチマキに並んだ四つの目玉である。
「…秋月でなくて良いのだな」
と二神さんが言った。元天正堂である秋月さんが『六花』を名乗るきっかけとなった、第六階位を与えたのは二神さんである。当然彼女のヒーラーとしての力量を熟知しているのだ。
「あやつを止めるのであれば、やはりこの娘が最良であるかと」
揺るぎない三神さんの返事を受け、二神さんは一つ頷き、音もなく立ち上がった。
「後悔させるなよ」
背を向けて彼がそう言うと同時に、仰向けに倒れていた幻子が三神さんの身体もろとも起き上がった。それは幻子の肉体的な動作ではなく、目に見えて溢れ出す彼女の霊力による自動起立だった。幻子は一瞬、自分の足の裏が芝を踏みしめていることに驚いた。だが目の前に立つ三神さんの眼差しと、振り返った二神さんの額に目玉が三つしかないことを見て取ると、全てを理解して頷いた。
幻子はまず、三神さんの腹部に開いた風穴を塞ぎ、『癒した』。
癒しの力は秋月六花の専売特許とも言えるが、幻子は自分が目撃した対象の霊能力を一時的に借り受けることが出来るのだ。「借り受ける」と表現する理由は、完全なるコピーではなく能力が永遠に持続するわけではない、という限定条件から来ている。
では何故この時幻子が三神さんを治療出来たのかと言えば、答えは二神七権にある。後から聞いた話ではうまく理解出来ない部分もあったが、二神さんの行った『眼球移し』と呼ばれる己の目を分け与える能力には、死人さえ蘇らせる程強力な治癒力が備わっている、という見方が出来る。この時幻子が一度死んでいたかどうかは分からないが、少なくとも坂東さんの時は完全に息を引き取った状態からの復活だったそうだ。二神さんの持つ人智を越えたその力を、幻子は無断で借り受けたのである。
「なんて奴だ」
二神さんは頭を振り、自分の孫よりも更に若い少女の起こす奇跡に嘆息したという。
「貴様が秋月ではなくこの娘を指定した理由が…」
二神さんが言いかけた、その時だった。
…ォォォォォ。
風に乗って聞こえたその声に、三神さんと幻子の顔色が変わった。
耳にしたその声は明らかに、僕、新開水留の雄叫びであったからだ。
二神さんが顎をしゃくって場所を指し示す。
「中だ。右棟に、若い男と魔性の女が向かって行った。若い男の連れを奪還するためだ」
ま。
魔性の女?
三神さんと幻子が揃って声を上げ、二神邸に向かわんとしていた彼らの足が止まった。
「文乃と呼ばれている女だ」
そう答えた二神さんのハチマキで、三つ並んだ目がぐるぐると回転を始めた。
ブワァン!
突如として現れたその音に、三人は咄嗟に天空を見上げた。そこにはおそらく何千という数の蠅が群れを成して、星空を明滅させながら飛び交っていた。どこからともなく出現したその蠅の群れは、三人の手の届かぬ高さで嘲笑うように8の字に飛んだかと思うと、そのまま二神邸の右棟(正面玄関から相対して左側の建物)へと向かった。
「その手があったか」
と二神さんが口端を捻り、言う。「人でないもの、でれあれば、あるいは…」
「侵入できるのですか!?」
三神さんが驚き尋ねた。
「前例はない。が、意志を持たぬものに対し結界は無意味だろうよ」
二神さんがそう答えるが早いか、三神さんは駆けて右棟の前に立った。
「当代。窓の一枚や二枚、障子の数枚くらいは諦めてください」
「貴様が自分で治すんならな」
三神さんはその場で柏手を打ち、ドッシリと腰を落とした。「…御意」
ほほう、と二神さんが顎を撫でる。「なかなかどうして、様になっておる」
して、と二神さんは傍らに立つ幻子に目をやった。
「お前は行かんのか?」
そう聞く二神さんの視線を受けながら、幻子はやや斜めに首を傾けながら後退し、
「私にはやるべきことがあるんです」
と答えた。
二神さんの三つの目が幻子を射るように見た。幻子は薄く微笑み、こう続けた。
「約束を果たすんです。…ドメニコとの」
妖しく光る少女の双眸に、二神さんの腕組みが解かれた。「何だと?」
ンンンンンンン…。
唸り声を上げる三神さんの頭上に、青白く発光する大振りの数珠が回転しながら浮かんでいる。
三神さんは、師匠である二神さんと弟子である幻子の不穏な会話になど耳も貸さず、ただ一点を睨み付けていた。蠅どもが、僕と文乃さん、そして囚われた辺見先輩のいる一室の前に集結しているのである。しかもその姿は不気味にも、かつて三神さんも目撃している児童公園での人型を形成しつつあったのだ。
「面妖な」
額に冷や汗を浮かべつつ、三神さんは独り言ちた。
と、更に苛烈な羽音を響かせて蠅どもが部屋の中へと侵入を開始した。
三神さんはその場で右腕を高くつき上げると、ぐるんと一回転させて前方に振り下ろした。すると彼の頭上に浮かんだ一粒が赤子の拳程もある数珠の輪が、蠅どもに向かって一直線に飛んで行った。




