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「かなしみの子」  作者: 新開水留
41/55

[41]黒い嵐


 キャッキ、キキャッキキャッキャ、キャッキ、キャキャ…。


 ネチャネチャと粘着質で、ブツブツと途切れ途切れの不快な笑い声だった。大きな声ではない。しかし楽しすぎてリズムを刻むことすら出来ないような、不規則で、心の底から湧き出たような笑い声だった。

 僕と文乃さんが辿り着いた、灯りの消えた、その部屋。

 二神邸・左側の建物の一室では、天井から逆さに吊り下げられた辺見先輩が目を細くして笑っていた。長い舌を蛇のようにうねらせ、崩れ落ちた文乃さんを見て嗤っている…。

 辺見先輩の身体は見た目の予想に反し、逆十字のように頭を下に向けているにもかかわらず、足首をロープで括り付けられているわけではなかった。だがロープの代わりに、天井裏から垂れているアメーバのような黒い粘液が右足に絡んでいた。

「ドメニコ…」

 たった今僕の見た悪夢がドメニコの仕業であり、そして内藤さんご夫婦の家で繰り広げられたあの惨劇の真相であったなら、この世に存在することが信じられない程の真っ黒な悪意を目撃したことになる。

 宙吊りにされためいちゃんの足にしがみついた時、身体的な強さや腕力といった物理的な作用では抗う事の出来ない力を、僕は身をもって感じた。その瞬間、強い不安を伴った既視感が脳裏をかすめた。

『この力は何度も感じたことがある。文乃さんの持つ、温もりのある霊力に似ている…』

 その時、眼下で泣いていた文乃さんを見た僕は、ある一つの可能性に辿り着いてしまった…。

 あの日、あの家で、僕の身体を押さえ込んでいたのはドメニコではなく、文乃さんだったのではないか。そして今めいちゃんを吊り上げているのもまた、文乃さんなのではないか、と…。

「新開さん」

 文乃さんのその声までもが、涙に濡れているようだった。僕は眼前のドメニコ=辺見先輩を睨み付けているようで、その実、ただ怖くて振り返れない自分が腹立たしくてならなかった。

 あの時僕と文乃さんは、全く同じものを見ていると思っていた。しかし僕だけが現実を見、文乃さんは幻覚を見せられていたのだろう。そして先程の夢で聞いた通り、彼女は過去に因縁を持つ何者かと対峙し、必死に戦っていたのだ。その相手がドメニコだったかどうかは分からない。だが束縛が解け、我に返った文乃さんはその瞬間全てを理解したに違いない。

「私が…」

 内藤さんご夫婦が磔にされた壁には彼らの肉片と血がこびり付き、部屋中に生命が吐き出す熱気が漂っていた。血みどろの壁に体を寄せて泣いた文乃さんは、その時何を考えたのだろう。

 不可抗力とはいえ、全力を込めた自分の霊力が古き友の身体を圧し潰したのだ。

「私が、内藤さんご夫婦を殺し…」


「ドォォメェェニィィコォォォッ!」


 自分の声ではないような、腹の底からの怒号が飛び出した。僕は右拳を振り被り、なりふり構わず殴りかかった。辺見先輩の身体である事が分からないわけではなかったが、怒りが理性を追いやってしまったのだ。しかし、僕の不格好なパンチが辺見先輩に届くことはなかった。

 背後から、文乃さんの操る霊力が僕の腕を止めたのである。

 ぶるぶると震える僕の拳を鼻先に見ながら、辺見先輩が言った。

「ごめんよ新開くん。幻子さんの声が聞こえた気がして、部屋に入って来ること許可しちゃったんだよ、おかげでこの様。私、今回いいとこナシだね。誰も助けられなかった、皆いなくなっちゃった。新開くん。文乃さん。私一人、最後に残るのだけは嫌だから。可能ならば、もうこのままここで殺してくれないか…」

 額に向かって流れ落ちた先輩の涙に、僕はようやく冷静さを取り戻す事ができた。

 だがその時にはもう既に、天井の至る所から、辺見先輩の足に絡みつくアメーバと同様のものが何本も垂れ下って来ていた。しかもその黒い粘液はそれぞれが右手、左手、右足、左足、そして顔などの人体パーツを形どり、バラバラの状態でこの部屋への侵入を果たしている。黒い粘液に浮かんだ顔とはもちろん、ドメニコ・モディリアーニである。

「新開さん!」

 文乃さんが叫び、液状化して垂れ下がるドメニコの身体を押し返そうと、霊力を発動させた。僕はその段になってようかく差し迫った事態に気が付き、驚いて身をかがめた。

 その時、

「新開くん」

 辺見先輩が小声で僕を呼んだ。

「はい」

「だけどさぁ、悔しいじゃんか」

「はい」

「一矢報いてやろうよ」

「はい。そうですね」

「私の首のうしろ、触ってみて」

「首?」

「おねがい」

 僕はこの時初めて、辺見先輩の身体に触れたように思う。何かの拍子に抱き止めたり、ぶつかりあったり、そういう事は何度もあった。しかし自らの意志で、彼女の生身の肌に触れたのはこの時が初めてだった。

「分かる?」

「なに、が」

「チェーン」

「チェーン? ネックレスですか?」

 その場を離れてください、と文乃さんが振り絞るような声を出した。

 僕は慌てて辺見先輩のチェーンを握り、彼女の胸元から引き抜いた。

 それは、銀色に輝くロザリオだった。

 逆さに吊るされたまま、辺見先輩はこう呟く。「塵に帰れケダモノ」

 

 ギヤアアアアアアアアアアアアッ!


 耳をつんざくような絶叫が響き、粘液状のドメニコの体が吸い込まれるようして天井裏へ消えた。和室に充満していた死臭と凍えるような冷気が遠のき、静寂が戻って来た。

「先輩…」

 僕は辺見先輩がクリスチャンだったことをこの時初めて知った。キリスト教における信仰の強さは何にもまして重要である、とかつて三神さんは仰っていた。ドメニコを一旦は引き下がらせる程の強い信仰を彼女が持っていたならば、すなわちそういう事なのだ。辺見先輩が自ら信仰する宗教を明かさなかったことに、おそらく大した意味はないと思う。僕はこれまでに幾度となく、危険を顧みない彼女の優しさに救われて来た。例えその源にある信仰の対象がなんであれ、辺見先輩は、辺見先輩なのだ。

「うわっ!」

 ドメニコの撤退に伴い、逆さに吊り下げていた力も消えて先輩の身体が落ちてきた。僕は慌てて彼女の首筋にしがみつき、なんとか頭から畳に落下する事だけは免れた。しかし勢いよく両足を打つ付けて、「いったー」と先輩は呻いた。

 しかし無情にも、時間は立ち止まってはくれないのだ。

 痛みに顔を歪めつつ僕を見上げる辺見先輩の吐く息が白く変わり、どこからともなく悪臭が漂い、ノイズのような耳鳴りが僕たちの現実を侵し始めた。

「来ます」

 と文乃さんが言った。

 僕は辺見先輩を立ち上がらせ、背中を合わせて部屋全体に視線を走らせる。

「ドメニコは僕たちに幻覚や白昼夢を見せます。推測ですが、このノイズや気温の低下が、術に陥る入口だと思われます」

 僕の言葉を受け、辺見先輩が言う。

「ドメニコは私の許可を得たせいで、この家の結界を掻い潜って入ってきます。私の足に絡みついた何かを見る限り、そもそもあいつは人の形をしていないかもしれない。どこからでも現れる可能性があります」


 ブーーー…ンン。ブブ、ブブブ、…ンンー。


 僕と辺見先輩の頭上で、二匹の蠅が旋回していた。

 ちょ、何。先輩が右手を振って追い払おうとするものの、蠅はしつこく飛んで僕たちの周囲から離れようとしない。

「蠅…」

 一人ごちる僕の全身を鳥肌が駆けた。ゾッとする悪寒と、胸騒ぎを伴う嫌な予感が同時にやって来た。

「蠅? 蠅が見えるのですか?」

 そう尋ねる文乃さんの声をも、その衝撃は上回っていた。

「まさか…この蠅って…まさか…、あの時から、そうなのか?」

「あの時って?」

 僕を振り返る辺見先輩の目が、次の瞬間何かを思い出したように見開かれた。

「まさか」

 そう。一年前の九月に僕たちが巻き込まれたリベラメンテ事件(新開水留著、『文乃』参照)にて、現場近くの児童公園でこれと似通った現象に襲われた。あの時は確か、三神さんが開いた折りたたみ式の携帯から、二匹の蠅が飛んだのだ。

「すぐそこにいます!」

 文乃さんが声を上げ、彼女の視線が障子で閉ざされた腰高窓の方を向いた。窓の向こうは、二神さんたちのいる芝の原っぱだ。外はまだ夜闇に包まれており、僕たちのいる和室に電気が灯っていないせいもあって、月の出ている外の方が明るいくらいだった。

 すぐ、窓の向こうにそれは立っていた。

 二体のシルエットが、障子に影を落としている。

「これって、あの時のあれなの?」

 辺見先輩の声が上擦る。

 あの時、僕たちが訪れた児童公園にて、入り口を塞ぐように全身を蠅で覆われた二つの霊体が立ちはだかったのだ。何故今ここに、あの時の霊体が現れるんだ。移動する地縛霊なんて聞いたことがないぞ。


 ブブ、ブブブブブブン、ブブブ、ブブブブ。


 蠅たちが、閉じた障子の隙間をこじ開けて室内に侵入しようと暴れている。

 もしもこの蠅たちが化身したドメニコであるというなら、僕たちはすでに一年前から巻き込まれていたということなのか? そんなことが、現実にありえるのか?

「何かが入って来ようとしています。辺見さん!押し返しましょう!」

「は、はい!」

 文乃さんと辺見先輩が声を掛け合い、大挙して押し寄せようともがく蠅たちに霊力を飛ばした。その瞬間、ひとりでに障子が開いて人型の霊体が弾け飛び、尋常でない数の蠅の大群がわっと室内に広がった。 辺見先輩が悲鳴を上げて窓側に背を向け、僕は彼女に覆い被さるように抱きすくめた。


「文乃さん!」


 黒い嵐の隙間から、全身を蠅に覆われた文乃さんの姿が見えた。彼女は手で追い払うこともせず、その場で立ち尽くしままである。一瞬、文乃さんの口元が垣間見えた。しかしその唇は助けを求めるどころか、ゆっくりと、僕たちに向かってこう告げていた。


 ニ・ゲ・テ。

 

 僕の視線は文乃さんの唇に吸い寄せられ、そして己の無力さに打ちひしがれるあまり、その時何が起こったのかをしっかりと把握できなかった。

 蠅の大群が突如として文乃さんの身体から飛び立ったかと思うと、部屋の中央に向かって高速旋回し始めたのだ。それはまるで鳴門海峡の渦潮さながら、蠅たちがある一点に向かってぐるぐると回り始めたのである。

 文乃さんは自分の手足をためつすがめつ見ている。全身に纏わりついた霊障を感じ取りながらも、霊体を肉眼で見る事が出来ない彼女は何が起こったのか理解出来ない様子であった。

「なにあれ…」

 と辺見先輩は言った。


 蠅たちが吸い込まれるようにして向かう部屋の中央には、フリスビー大の回転する輪が浮かんでいた。よく見るとそれは、丸い球が幾つも連なりあって一つの輪を描いている…。


「…数珠だ」

 と僕は答えた。

「じゅず?」

「三神さんの数珠だよ!」

 僕は窓際から外を見た。


 そこに、彼はしっかりと立っていた。




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