[37]第二の人生
僕は、初めてお会いした時の印象がそれほど良くなかったにも関わらず、なんとなく、坂東さんを嫌いにはなれなかった。フレームの細い眼鏡をかけ、綺麗に七三で分けた髪をワックスでなでつけ、質の良いスーツをスマートに着こなすエリートの割には、すこぶる目付きが悪かった。時には口調だって荒かったし、会話の中でよく人の弱点を突いてきた。だが、まっすぐな人だった。嘘を言わず、時には僕を気遣ってくれもした。辺見先輩に対しても、何かと気に掛けてくれていたそうだ。
人は、自分の都合の良いように断片的な記憶を繋ぎ合わせ、希望的観測をふんだんに織り込ませた夢を見るという。出会ってから一年程しか経たない僕の目から見た彼の印象も、やはり、希望的観測を含んだ幻想だったのだろうか。僕らは最後まで、坂東美千流という人の事をよく知らないまま、ただ、こうであってほしいという理想を押し付けて見ていたにすぎないのだろうか。
坂東さん、教えて欲しい。
あなたは、どうして…。
「新開さん。めいちゃんを頼めますか」
文乃さんにそう呼ばれて振り返った。
文乃さんは涙を拭って立ち上がると、三神さんと幻子のもとへ駆けだした。僕は横たわるめいちゃんを腕に抱き、今にも事切れそうな三神さんたちの側へと馳せ参じる文乃さんの背を見つめた。
だが僕は内心、やはり彼女の能力では望み薄と言わざるを得ないと感じていた。めいちゃんの捩れた体を治そうと試みただけでも鼻から血を吹いたのだ。腹部に風穴の開いた人間を治せる者など、秋月さんの他にいるわけないではないか…。
触るな。
突然だった。
僕はその唐突な声がどこから聞こえたのか分からなかったが、文乃さんは立ち止まってすぐに空を仰いだ。彼女の視線を追って二神邸の屋根を見上げる。だがそこには何もなく、気が付けば文乃さんは更に高い場所を見上げていた。
「…あぁ!」
いた。
それは屋根どころではない。屋敷を貫くように天高くそびえ立つ巨木の中腹辺りに、白色の作務衣を来た男性が座っていた。男は太い枝の幹にカエル座りでとどまり、僕たちを見降ろしているのだ。
いや、正確に言えば、彼がどこを見ているのかは分からない。何故ならその男は、顔の半分を覆う程の太いハチマキで目鼻を隠していたのである。
「あれは?」
そして尚を僕の目を引いたのはそのハチマキだ。白いハチマキには、まるでマジックペンで乱暴に書いたような『人の目玉』が四つ、横に並んでいるのである。奇相、という他なかった。白髪であることを考慮すれば、若くはないかもしれない。だが、三神さんに似た格好であるにも関わらず、男はさらに若く見えた。
んんんん…。
低い唸り声を上げで首を前に突き出し、その男はハチマキを巻いた顔を、ぐーっと僕たちに近づけた。
僕たちの異変に気が付いたのか、放心状態だった坂東さんが同じく夜空を見上げて、樹上の男を見据えた。そして、「はは、ははは」と乾いた笑い声を上げた後、こう言ったのである。
「そうか。今日か」
不意に、樹上から男が宙へと飛び上がった。もちろん落ちれば即死である。しかし、その男はまるで夢の中にでもいるかのように、腕組みをしたままゆっくりと芝原へと降りて来た。
かつて、とお!と叫んでブランコから飛び降りた三神さんを思い出す。彼もまた、重力を無視する速度で、ゆったりと地面に着地して見せた…。
「二神」
自然と声が出た。
彼が、そうなのだ。交通事故を起こしてひっくり返った僕たちの車の上に座し、ドメニコが近づかぬよう牽制してくれていた作務衣の男も、きっと彼であろう。
その男こそ、二神七権、その人に違いなかった。
『その時』はあまりにも、唐突に訪れた。
二神さんが着地したのを確認すると、坂東さんが歩み寄りながら、僕の方へと視線を投げかけたのだ。僕は一瞬、坂東さんが微笑みを浮かべていたことに腹を立て、睨み返してしまったように思う。坂東さんは苦笑しながら左手を上げて返すと、そのまま二神さんの側に立った。
坂東さんは二神さんに会ったことがある、と言った。麓の村で「あの人は出て来ない」と語った時の『あの人』とは、すなわち二神さんの事だったのだ。
再び、天空から落ちて来るような声が聞こえた。
すまんな、坂東。
「うす。ありがとうございました」
坂東さんはそう答え、両手を体に添えて二神さんに深々と頭を下げた。
顔を上げた時、彼は少しだけ紅潮した微笑みを浮かべていた。
二神さんが、坂東さんの額に左手を添える。
その瞬間、坂東さんは直立不動のまま、前のめりにドサリと倒れ込んだ。
…え?
わなわなと、辺見先輩の両手が眼前で揺れているのが目に入った。
彼女は、今、何を見たのだろうか。
僕はたった今、一体、何を見たんだろうか?
坂東さん、教えて欲しい。
あなたは、どうして…。
どうして、大切な命を自ら差し出したのですか?
うつ伏せに倒れた坂東さんの側に、彼の携帯電話が落ちていた。
僕は何故だが、とても激しく、「アユミさん」に電話をかけなくてはいけないと思った。
坂東さんがきっと、それを望んでいると思ったのだ。
実際の所、目の前で繰り広げられる超常現象の連続に、僕の理解はまったく追い付いていない。だがそれでも、この身体を走る名もなきシグナルが、アユミさんに電話をかけるべきだと全力で訴えていた。
めいちゃんを芝に寝かせ、坂東さんのもとへとよろよろと近づき、携帯電話を拾い上げた僕が見たものはしかし、秋月さんをはじめ倒れ伏した多くの友人たちの姿だった。秋月さん、めいちゃん、三神さん、幻子、柊木さん、そして、坂東さん…。今や残されたのは、僕と、辺見先輩と、文乃さんだけである。
僕はアユミさんに何を伝えるべきなのだ? 事件はまだ、何一つ終わってなんかいないのに。
「やめておけ」
しわがれた声がすぐ側から聞こえた。
見るとそこには二神七権が立っており、目玉の描かれた気持ちの悪いハチマキを通して、僕を見つめているらしかった。
これが、齢八十を超えた老人の姿か…?
肌艶といい、しゃんと伸びた背中といい、いくら柊木の家系が皆若く見えると聞いていたとはいえ、その若さは異常である。風貌は五十代の三神さんより明らかに若く、しかし発せられる声は老人のそれであった。
「やめておけ」
と、彼は同じことを言った。
何をですか、という僕の問いに、二神さんは答えた。
「もう、この世にはおらん」
「え?…いや」
いきなり何を言い出すんだ?
「ナカノシマアユミは、もうこの世にはおらん。坂東もまた、とうの昔に壊れてしまった悲しいまよい子なのだ」
以下は、直接坂東さんから聞いた話ではない。
当時を知る何人かから聞き及んだ話でしかなく、真実を問えるようなしろものではないかもしれない。
だがそこには僕の知らなかった坂東さんがいて、それを知れたからこそ、この夜、彼の運転する車の中で掛けてもらった言葉の全てに、愛情や、誠実さを改めて感じ取ることが出来たのだ。
坂東さんは数年前、『広域超事象諜報課』における職務のさなかに重傷を負った。その時には既に秋月さんは辞職しており、傷ついた彼を即座に治療できる人間が側にいなかった。
超常現象が発現する現場に赴く事が許されたチョウジの職員というのは、常識を遥かに越えた霊能力保有者ばかりだという。その他の職員は情報収集と現場の補佐が業務であり、事態の鎮静化や浄化を行う実働部隊のリーダーはほんの数人、少数精鋭といえば聞こえは良いが、万年人手不足でもあったそうだ。
特に秋月さんが退いてからの数年はその傾向が強く、酷い時には現場の指揮に立てる人間は壱岐課長さんも含めて三人しかいない、という時代もあったそうだ。
当時から、坂東さんは極めて優秀な霊能力職員だった。彼は日本で数人いるかいないかと言われた希少な霊能力、『完全透視術』の持ち主だったという。いわゆる物が透けて見える一般的な透視術に加え、己が目で見ずとも建物内や周辺のロケーションを立体構造で知覚出来たという。彼がしもつげむらや二神邸で度々耳を前方に突き出していたのは、聞いていたのではなく、感知していたのである。
加えて彼は、『投波』『遠当て』と呼ばれる術、すなわち体内で練り上げた霊力を体外へ飛ばす力にも長けていた。そしてこの世ならざる者を見ることも出来たし、知識量も豊富だった。一人何役もこなせる若きエリートであり、坂東さんはチョウジのこれからを担う人材として期待されていたのだ。
だがそんな彼の前に、『九坊』(くぼう)と呼ばれる霊魂の集合体が現れた。
詳細はここでは省くが、九坊は「決して一人で相手にしてはいけない」という不文律が半ば常識化していたほど、強力な呪いであったという。
その九坊に、坂東さんの同僚であったチョウジの女性職員、ナカノシマアユミさんが殺された。そして、坂東さん自身も捕まってしまったのだ。
坂東さんは、一度死んでいる、という。
その時彼の命をこの世に連れ戻してくれたのが、何を隠そう天正堂階位・第二、二神七権だった。
二神さんが何をしたのか、どのようにして一度は死んだ坂東さんの魂を繋ぎとめたのかという詳細については、二神さん本人が誰にも真相を明かさなかった。だが当時、二神さんはチョウジの関係者、および坂東さん本人に対してこう宣言したそうだ。
「お前の命は七権がうちのひとつである。いずれ、戻してもらわねばならぬ時がくる」
既に一度死んだ身である。二神さんによって生かされた坂東さんは、言葉の意味をどこまで理解していたか定かではないにしろ、その時は黙って頷くしかなかった、というのが周囲の総意としてあるそうだ。そこで抗い機嫌をそこね、「やはり今、返せ」と言われても困るからだ。
そして、丁度その頃である。
真っ暗で何もない死の向こう側から舞い戻った坂東さんの額に、第三の目『幽眼』が開いたのだ。
だが今思えば最初から、期限付きの第二の人生だった。そしてその事を坂東さんは知りながら、いつ訪れるか分からない人生の終着駅に向かって、ひたすら走り続けて来たのである。




