[31]喪失と消失
ヴェエエエエエエエエエエッ…ッ!!
大気を震わせる程の絶叫を続ける柊木さんを止めたのは、遠くの空に漂っていた救急車のサイレンだった。どこか遠くを走っていると思われたその救急車は、過ぎ去ることなくふもとの村を突っ切って、二神邸のある敷地まで駆け上がって来た。乗っていたのは、病院へ搬送された筈の三神さんだった。
彼は疾走する救急車の中で目を覚まし、「娘の一大事にのうのうと眠っていられるほど呑気な生き方しとらんわ」と、救急隊員に無理を言って舞い戻って来たのである。
だが、勇んで駆け付けた二神邸で待っていたのは、変わり果てた、彼の元奥さんだった…。
柊木さんの絶叫が止んだ瞬間、坂東さんが飛びついて彼女の口を塞いだ。
二人は勢いよく廊下に倒れ込んだが、坂東さんに組み敷かれた形の柊木さんは、両手両足をバタバタと動かして抵抗した。
「新開手伝え!喋らせるな!こいつらは当たり前のように呪いを打ってくるぞ!」
「は、はい!」
混乱しながら柊木さんの足を押さえつけるも、運動音痴の僕では人が本気で抵抗する足蹴に対抗することは不可能だった。僕は激しく靴箱に背中を打ち付け、あまりの痛さに息が止まった。
「何やってんだ新開!死ぬ気でやれ!」
「…はい!」
這いつくばって柊木さんの足元に辿り着いた時、僕たちの背後で玄関戸が勢いよく開いた。その途端、柊木さんの四肢が脱力し、まるで僕たちが意識のない女性に乱暴を働いているかのような現場へと様変わりした。
振り返れば三神さんが立っており、開かれた眼にはこの世の全てに失望したかのような悲しみが浮かんでいた。
「三神さん、違うんです、これは、僕たちはッ」
取り繕う僕のそばで、坂東さんが溜息を吐き出しながら土間に尻もちをついた。
「めいちゃんッ、僕の声が聞こえるかッ。秋月さんはどこにいるんだ、柊木さんがッ、柊木さ…ッ」
良い、と三神さんは言った。
「この状況を見てお前さんらを疑うほど朦朧しとらん。めいと、六花嬢も来とるのか」
「はい」と僕は返す。
…柊木さんは、死んだのか。
その問いに僕は答えることが出来ず、代わりに三角座りをして両膝の間に頭を垂れたまま、坂東さんが深い溜息を付いた。彼の頭が、何度も縦に揺れる。
三神さんは涙を吸い込むようにして上を向き、「出よ」と僕たちに言った。
やがて、柊木さんの身体を両腕に抱えた三神さんが屋敷の外へ出てきた。
風の凪いだ芝原に柊木さんを横たえ、三神さんは傍らに両膝をついた。
僕と坂東さんは彼の背後に立つも、何ひとつ掛けられる言葉が思い浮かばなかい。
柊木さんの身体は、やはり綺麗だった。つい先程までは、まるで悪魔に憑りつかれたかのような見目と言動であったものの、解放された今は昨晩お会いした時と変わらない、温和な微笑みを口もとに浮かべていた。
決して死んでいるようには、見えなかった。
「昨日、電話で話をしたんだ」
と、三神さんは言った。
「彼女の方から掛けてくれてね。久しぶりに幻子と出会えてうれしかったと、そう言ってくれた。…色々、思うことはある」
そう言ったきり坂東さんは話すのを止めた。
その色々というのが、彼らの人生に起った思い出と呼ぶべき事柄なのか、現状に対する葛藤なのか、それは分からない。想像しようとしても、三神さんと柊木さん、そして幻子との間に流れた時間や記憶をたどる事は僕には出来ないし、理解しようと努めることがそもそも失礼だと思った。
両膝に手を置いて、三神さんのピンと伸びた背中が前後に揺れていた。
僕はたまらない気持ちになって、背を向けて巨木を見上げようとした。だがそこにあるのは視界を覆う漆黒の影であり、それは夜空であり、木々の枝葉であり、三神さんの心のようだった。
坂東さんが、先に行く、と声を掛けると、三神さんは片膝を立てて「ワシも行こう」と答えた。
「無理しなくていい。あんたは後から来てしんがりを務めてくれりゃあいいさ。時間差攻撃ってやり方もあるだろ」
「バンビ、それならお前さんが後ろにつけ。まずはワシが行く」
立ち上がって身をひるがえした三神さんの胸を、坂東さんが押し返した。
「こういう時、壱岐課長ならこう言うね。感情任せに動く奴ほど信用のおけない人間はいないってな」
その言い草に僕は坂東さんを止めたが、三神さんは一向に怯みも狼狽えもしなかった。
「だからこそ、冷静なお前さんが大将という事でいいじゃないか。そもそもワシは新開のすら置いていくつもりだったのだ。一緒に来てもらおうなどとは思っとらん」
その言葉を聞いて、確かに三神さんは冷静でないと僕にも分かった。
こういう時、冷静でいられる人間の方こそ却って僕は信用できないとも思う。が、怒りに我を忘れているのかもしれないが、三神さんは交通事故を起こした直後である。本来なら今頃は病院のベッドの上だったはずなのだ。
「それが向こうの思うツボだってことがわかんないのかよ!」
坂東さんが声を荒げる。
「百戦錬磨のあんたなら本当はちゃんと分かってるだろッ! 天正堂階位・第三ってなぁその程度かよッ! この屋敷ん中には第二位だっている!秋月先輩もあんたの娘だっているんだろ!…冷静に行こうや」
それはあまりにも唐突で、そしてそうなるまでは、誰の視界にも入らなかった。
突然ドサリという音とともに、僕たちの足もとに何かが転がったのだ。
驚いてその場から飛び退った僕の見たものは、ぐったりとして動かない少女の身体であった。
両瞼を黒い糸、おそらくは髪の毛で縫い付けられ、両耳からは大量の血を垂れ流していた。
両腕を背中側でクロスし、指先から肘、二の腕にかけてが複雑に捻じれ絡み合っていた。両足も同様、紐で縛られているわけでもないのに、絡み合わせた足も腕も自らの意志では解きほぐせない状態であるらしかった。
ココ、コココ、と歯の根の合わない唇を見れば、意識があるのかもしれない。しかし、あまりにも無惨な仕打ちを受けたその姿を見た瞬間、僕にはそれがめいちゃんだと分からなかった。
三神さんが、激しく息を吸い込む音が聞こえた。
聞いた話だ。
麓の村で、文乃さん、辺見先輩と別れた秋月さんとめいちゃんは、先に到着しているはずの三神幻子を追って二神邸に入った。玄関には間接照明が灯っていたが、人を呼んでも誰も姿を見せなかった。住込みで働くお手伝いさんも、柊木さんも出ては来なかったそうだ。
めいちゃんであれば、玄関にいながらにして建物全体のどの辺りに人が何人いるかを把握できる。聞けば、表玄関のあるこの建物には人の気配がなく、突き当りの廊下を右に折れた先にある、渡り廊下を経由して右側の建物に入った所で一人、さらに回り込んで巨木の向こう側にある奥の建物に二人いることが分かった。
左側の建物にはいないのかと聞くと、音は何も聞こえないが、
「気持ちが悪い」
とめいちゃんは答えたそうだ。
巨木を挟んだ向こう側にある建物というのが、二神七権の住まう奥座敷である。出入口はなく、建物の外からでは入れないと秋月さんは聞いて知っていた。正面玄関から入って右か左の建物を経由せねば、たどり着けない造りになっているのだ。
奥座敷にいる二人というのが二神七権と幻子であると仮定した場合、気持ちが悪いという左側を経由するのはよろしくないだろう。消去法で、右側の建物を通って奥へと向かうことを決めたそうだ。
ただ問題なのは、右側の建物にいる一人というのが、柊木さんであれば良い。しかしあるいはこちらの方こそドメニコであるという可能性もなくはない。
秋月さんは慎重に歩を進めつつ、めいちゃんを背後に回らせた状態で先を急いだ。
建物自体は典型的な日本家屋なのだが、なんとなく息苦しさを感じたそうだ。後になって気付くのだが、いわゆる外に面した壁側以外、一切の窓がなかったそうである。つまり、巨木を囲むようにして立つ建物の内側には窓がなく、廊下にも、覗き見えた部屋にも明り取り用の窓すらない。人工的な照明で明かりの光量は足りているものの、どことなく暗い閉塞感に満ちた居心地の悪さを感じたという。
「お姉ちゃん、怖いよ」
と、めいちゃんが訴えた。
「ああ、怖いな」冷や汗を拭いながら秋月さんは答え、「けど心配ないよ。古臭いけど、悪い人間の家じゃないんだ。三神さんの師匠の家だし、私もついてる」と勇気づけた。
そして、
「この次の建物にいる奴ってのは、どのあたりにいるのかわかる? 入ってすぐ?」
そう言って振り返った時にはもう、秋月さんの背後にめいちゃんの姿はなかったという。




