[30]柊木さん
村の住人である浅葱さんが「お庭」と呼んだ二神邸の敷地に辿り着いた時に感じた静謐さを、上手く言葉にして表現する事が出来ない。夜だから、だけではもちろんこの静けさの説明にはならないし、まとわりつくような重苦しい空気の理由としては何かが不足している。
テンケンさんという呼称で村人たちから親しまれている二神さんのご自宅には、僕は昨日も訪れている。それどころか三神さんを先頭にして、玄関戸をくぐって建物内に入ってすらいる。
それなのに、巨木を中心に周囲をぐるりと囲む家屋、その光景を目の当たりにした瞬間抱いた違和感は、例えようのない恐怖で僕の歩みを止めたほどだった。
天正堂という、その筋では広く名の知られた拝み屋、祈祷師たちの頭領が住まう屋敷である。もちろん家族や、お手伝いさんなんかがいて何ら不自然ではない。ただでさえ他に類を見ない個性的な構えの住居だ。手入れを考えただけでも一人二人では苦労するだろう。
仮に現在、この広い屋敷にそういった人々が住んでいないにしても、最低でも二神さんのご自宅には五人の人間がいるはずなのだ。二神七権さん本人、孫の柊木青葉さん、秋月六花さん、めいちゃん、そして三神幻子である。
それなのに、全く人の気配を感じない。それどころか、風の音、虫の声、夏の風物詩ともいえる大自然の鳴動がすべからく止んでいた。それはまるで、時を止められてしまったかのような、不自然極まりない静謐であると言えた。
僕に続いて車を下りた坂東さんは、おおお、と唸り、「いるなぁ」と言った。
それがドメニコを指すのか、はたまた別の何かなのかは分からない。しかし、天正堂の聖地とも言うべきこの場の空気を一変させる原因が存在することは、もはや明白だった。
不意に遠くの空から救急車のサイレンが漂い、僕たちのいる場所まで流れて来た。この場で唯一の音だった。
「行きましょう」
僕がそう言った瞬間、坂東さんは悪いと言って携帯電話を取り出した。
「…あああ、アユミさん。いいタイミングだね。…そう。…そうだよ、そう」
普段僕は、坂東さんが誰と話をしていようと、あまりその内容を気にしたことはなかった。だがここへ来て彼の口からアユミさんという名前を聞いた時、自然と文乃さんを思い出していた。内藤さんご夫婦の家から東京へ戻る新幹線の車内、今と同じようにかかって来た電話に出た坂東さんは、そのままアユミさんという方と話を始めた。そんな彼の背中を、文乃さんは不思議なものを見るような目で見つめていた…。
「ああ、今からでも全然遅くはないんだよ、アユミさん。今から、来れない?」
いつも坂東さんはそう言って、アユミさんを現場へ誘う。だがお忙しいのか、いつも断られてばかりだった。
「すまん」
やがて電話を終えた坂東さんが謝罪を口にし、僕は彼の横顔を見た。
坂東さんの頬に涙が伝っているのが目に入り、息が止まりそうな程驚いた。およそ涙を流したことなどないような、冷徹さではなく物凄く強靭な精神力を持っている人だと思っていただけに、僕の驚きは強かった。
僕はさっと視線を外して、見なかったことにした。
二神邸の玄関前に立った時、坂東さんに、二神七権さんと会ったことはあるかと尋ねた。坂東さんは頷き、「お前は?」と僕に聞き返した。
「昨日お会いするはずだったんですけどね。お見えにはなられませんでした。三神さんもいたんですけどね」
「会ったことがあるって言っても、俺だって数年前だ。そうそう表に顔は出さないぞ、あの人は」
「そうなんですね。どういう方なのか存じ上げませんけど、でも、三神さんが来ても駄目なんですね」
「誰がいい誰がだめとか、そういう理屈じゃないんだよ。ただ一つの理由を覗いては出てこない。そういう技法で己を縛ってるんだ。霊力を高め続けるためだそうだ」
「引退されたって聞きましたけど、そう言う事だったんですね。…有事の際、というやつですか?」
「ああ。…おい、なんか、臭くないか?」
坂東さんは玄関戸に手をかけた所で、そう言って動きを止めた。
え? 僕は顔をしかめて、鼻先を上に向けた。
一年前の事件以来、僕は匂いに敏感になった。少しでも不快な匂いに出くわすと元を特定せずにはいられなくなり、原因を解消するまでは他の事が手につかなくなってしまった。
「…中、でしょうか、やはり」
だが、この家の玄関前に立つまでは、一切匂いなど感じなかったのだ。
「お前これが何かわかるか」
と坂東さんは聞いた。
いえ、なんです?
ガラガラガラガラガ…。
坂東さんは玄関戸とスライドさせ、視線を家の中へと走らせる僕の隣で、
「死臭だ」
そう言った。
ムワ、と熱気が押し寄せて来た。
夜とは言え八月だ。冷房を切っているのか、初めから無いのか分からない。
悪臭とともに、湿度の高い空気が逃げ惑うように僕たちの間を通り抜けて行った。
目の前には、廊下が縦に伸びている。
巨木を取り囲むように建てられた家屋である事を思えば、決して長い廊下であずはずはない。
が、廊下の奥が闇に消えていた。
靴箱の上に備え付けられた間接照明は灯っているのに、玄関からでは廊下の奥が何も見えない。
坂東さんは右耳を廊下の奥へ向け、音と気配を確かめた。
少なくとも僕には何も聞こえないし、この世ならざる者たちの姿も見えない。
端的に幽霊がいるかいないかと問われれば、いないと答えただろう。
しかし、坂東さんはこう言った。
「誰か、いるな」
その言葉に僕は目を見開いて廊下の奥を凝視した。が、やはり見えない。
「何者ですか」
自然と小声になる僕の質問に、
「分からん。廊下の突き当り…右角あたりだな」
「見えるんですか?」
「ああ。この廊下の両脇に部屋があって、突き当りはさらに左右に伸びる廊下になってる。丁字路のような間取りだ」
「す、すごいですね。僕には何も」
「あ」
坂東さんは言い、右足を一歩後ろへ下げた。
チチチチチ…チチチ。
小さく連続する音が聞こえた。
虫の鳴き声に似ている気がした。
チチチ…チチチ…。
…ココココ。
「あ」
と僕も声をもらし、後退った。
何とも知れぬその音が、こちらへ近づいて来るのが分かったのだ。
「何の音ですか?」
「分からん。なんだ…人だとは思うが…」
「どこにいるんです」
「五メートル程向こう…いや、こっちに来るぞ」
そう言って坂東さんは、右手で自分の額を押さえた。
幽眼を開こうとした彼に気が付き、
「え、ちょっ、家の中でその目はまずいですって」
思わず止めに入った、その時だった。
コココココココッ!
予想に反したとても近い場所で、その音は鳴った。
音の正体はすぐに分かった。
僕の目にも見えていたからだ。
玄関の上り框に立つ柊木青葉さんが、恐るべき速さで歯を打ち鳴らしているのである。
坂東さんは思わず幽眼を手で押さえ、
「ひ…」
柊木さん、と彼女を名を呼ぼうとした。
だが、彼は名を呼ばなかった。
僕にもそれが、本当に柊木さんなのか分からなかった。
玄関戸を開ける前から漂っていた匂い、坂東さんが死臭だと言ったその匂いはまさに柊木さんから放たれているのだ。
ノースリーブから突き出た真っ白い腕はいまや見る影もなく、青黒く浮き出た血管は死者のそれを思わせた。垂れ目がちで柔和な笑みが魅力的だった彼女の顔は、憤怒に支配されたように僕たちを睨み付けている。コココと鳴る歯の間からは涎に混じった血が糸となって何本も垂れ、その恐ろしくも動きのある様は、彼女が生きているのか死んでいるのかすら判別させてはくれなかった。
「お前は誰だ」
と、坂東さんは言った。彼の目にはかつてない程の怒りが滲んでいる。
「名前を言えッ」
「…は」
その瞬間、柊木さんは手を叩いて笑い始めた。
本当に楽しそうに、嬉しそうに、べちゃべちゃと唇に纏わりついた血を手の甲で拭いながら、顔をのけぞらせ、すくめた両肩を揺らしながら、
「あははははっ」
高らかにそう、笑ったのだ。
ああ…。
なんだ、噓だったんじゃないか。
僕たちを驚かそうとして、こんな手の込んだ真似を?
柊木さんが死んだ。
そう直感したのは、彼女が突然口を縦に裂きながら大声で叫び始めた時だった。
ヴェ、だか、メ、だかの音を発音しながら、地震が起きたのかと錯覚する程の音量で彼女は絶叫した。口角が見る間に裂けて血を流し、そのまま上顎が捲れ上がって彼女の喉が露出した。それでもまだ、柊木さんは叫び続けていた。




