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「かなしみの子」  作者: 新開水留
25/55

[25]神と悪魔


 三神さんの機転もあったのだと思う。

 その瞬間、三神さんは左に急ハンドルを切り、対向車線へはみ出すのを避けた。僕らの走っていた左車線の歩道側はコンクリート舗装された山肌であり、車は衝突する代わりに山肌に乗り上げ、そのまま勢いよく横転した。車は天井を下にしてひっくり返り、そのまま200メートル程回転しながら滑走を続けた。

 道路が直線であったことが幸いしたものの、スピードが出ていた。シートベルトをしていなければ、おそらく車外に投げ出されて即死していたと思う。

 だが、決して三神さんの運転ミスや不注意ではなかった。

 僕は確かに見たのだ。あの時、坂東さんとの電話で僕は信じられない事実を聞いた。そして頭が真っ白になった僕の目に、道路の真ん中に突っ立っている、小柄で白髪頭の老人の姿が飛び込んで来たのだ。

「あッ!」

 危ない、そう叫ぶより早く、三神さんはハンドルを切っていた。

 車は老人の傍らを猛スピードで駆け抜け、そのまま山肌で跳ねてひっくり返った。

 老人は、D、ドメニコ・モディアリアーニで間違いないと思われる。

 ボサボサの白髪、漆黒のスーツを身にまとった小柄な体躯。

 腰の曲がった体を支えるように、手には杖を持っていた。

 皺深い面相の真ん中に垂れ下がる鷲鼻の両脇では、細められた両目が半円を描いで禍々しい笑みを浮かべ、そして下弦の月を思わせる真っ赤な唇からは、僕らを憐れむ嘲笑が今にも聞こえてきそうだった。

 いや、実際、笑っていたのかもしれない。

 Dの開いた唇からは、ヌラヌラと光る蛇ような舌が突き出ていた。

『どうしてこんなところにいるんだ』

 そう思う暇もなかった。

 襲い来る衝撃と重力に、僕の体はあらゆる方向へ引っ張られてめちゃくちゃになった。突き上げるような痛みに何度も僕の意識は飛び、耳をつんざくような轟音に全身が硬直する。割れたフロントガラスの破片や侵入してくる道路の砂利が、幾度も顔面を裂いた。

 やがて車が停車した時も、僕は事故からどれ程の時間が経過したのか分からない程だった。

 目の端に、血を滴らせた三神さんの腕が見えた。

「み、みか…」

 声を出そうとして、ひどく喉が痛い事に気づいた。

 

 げん、こ。


 絞り出すような声で三神さんは呻いた。

 意識はあるのだろう。だがその声は、聴く者の意識を掴んで離さない呪い師、三神三歳のものとは思えない程弱々しく震えていた。

 すぐ真横にいる三神さんの方を見ようにも、全身が痺れて身動きひとつ、指一本動かす事が出来なかった。おまけに車がひっくり返っているおかげで天地が逆さまになり、真下へ引っ張られる重力にどんどんと頭に血が上っていくのが分かった。今すぐにでも、意識がなくなりそうだった。

 その時だ。

 僕の頭のすぐ側で、携帯電話の着信音が鳴った。

 僕はない力を振り絞って、シートベルトを解除しようと試みた。このまま吊り下げられていては間違いなく失神する。しかし痺れと震えで指先は重力に逆らえず、解除ボタンの場所を探し当てることすら困難だった。僕は諦めてダラリと腕を降ろし、鳴り続ける携帯電話を掴もうとした。すると運よく指先が通話ボタンに触れ、

『新開くん!』

 僕の名を叫ぶ声が聞こえた。

 僕をくん付けで呼ぶのは今の所たった二人だけ。秋月六花さんと、辺見先輩だけだ。

 しかし僕がこの人の声を聞き間違えるはずはない。

 辺見先輩だ。

『新開くん、聞こえるかい!? たった今、めいちゃんが物凄い音を聞いたそうだよ。自動車事故みたいな激しい音の直後に、同じ場所で君と三神さんの声を聞いたって言ってる。もしかして君、事故の現場にいたりなんかしないよね』

 あ、…ああ。

 答えようにも、唇が震えるばかりで声が出なかった。

 しかし返事をしない僕に向かって、辺見先輩は声を掛け続けた。

『私達は今、文乃さんの車で二神さんという人の家に向かう途中なんだ。国道○○号線を東に向かって走ってる。めいちゃんが聞いた事故現場にもしも君たちがいるんなら、心配ない、もうすぐそこへ行くからね!』

 今にも途切れそうな意識の中で僕が考えていたのは、「めいちゃんは、凄いなぁ」だった。

 その時僕は、彼女たちがどこにいたのかを知らない。対向車どころか他に走っている車のない夜の国道で起きた事故を、その耳で聞いたというのだから流石としか言いようがない。

 助かるのか、僕たちは…。

 だが、僕が呑気にもそんなことを考えていたすぐ隣で、三神さんがまたもや声を振り絞った。


 げんこ…。にげ…ろ…。


「…ッ!」

 その瞬間、僕の意識が覚醒した。

「…違う」

 僕の口を突いて出たのは、安堵とは真逆の意志だった。

『新開くんやっぱり君なの!?』

 そう叫ぶ辺見先輩の後ろで、さらに僕の名を叫ぶ秋月さんの声も聞こえた。

 今すぐ行くからな、絶対治してやるから死ぬんじゃないぞ。

 そう聞こえる。

 だが僕は、三神さんの容体はおろか自分の命のことさえも、考えてはいなかった。

「違うんだ…」

『新開くん!』

 この事故は、事故じゃないんだ。

 仕組まれた罠だ。

 奴の狙いは僕たちじゃない。

 僕と三神さんを足止めする為の、罠だ。

 

 ドメニコの狙いは、三神幻子だ。


「行ってくれ…」

『新開くん!見えたよ!もうすぐだ!』

「辺見先輩行ってくれ!僕らを置いて行ってくれ!これは罠だ!二神さんの所で幻子が待ってる!」

『しんかッ…!』

 聞き間違いかもしれない。

 文乃さんの声が、聞こえた気がした。

「僕らの事は置いていけッ!早く行けッ!全速力で走れッ!」

 それはかつて、僕が幻子に言われた言葉だった。

 その直後、横転した僕たちのすぐそばを、一台の車が猛烈な速度で走り抜けた。


 後日、信じられないような話を聞いた。


 ひっくり返って天井が潰れた車の脇を、彼女らはアクセルを緩めず通り過ぎた。

 生死はおろか状況の全く掴めない車内には、僕と三神さんが取り残されている。

 辺見先輩は疾走する車の後部席で、窓ガラスに張り付いて僕の名を呼んだ。

 だがその時、恐るべき光景を目の当たりにしたそうだ。

 僕たちの車のすぐ側に、小柄な老人が立っていた。

 白髪で、杖をついた老人を見た時、話に聞いていたDだと直感した。

 しかし自分が目撃したのがD一人であったなら、あるいは僕の意志に背いてでも、車を停止するように懇願していたかもしれないと先輩は打ち明けた。

 問題は、他にあったのだ。

 それは、吊り下げられて身動きの取れない僕たちのすぐ上。

 天地が逆さまになった車の上に、人が座っていたというのである。

 その人物は白い作務衣を着た男性で、車の上でカエル座りをして白髪の老人を睨み下ろしていたそうだ。

 いや、実際睨んでいたかは分からない。まるでDから守るように僕たちの上に座っていたその男性は、大きな手拭いのような白い布で目鼻を覆っていた、というのだ。

 しもつげむらにて対峙した経験のある辺見先輩は、カエル座りの男性が作務衣を着ていたことから、天正堂開祖・大神鹿目(おおがみかなめ)を連想した、と語った。




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