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「かなしみの子」  作者: 新開水留
20/55

[20]代償



 二神邸から戻った日の、翌日である。

 僕の携帯電話に幻子から連絡が入った。

「実は…」

 近くまで来ているから、少しお話できませんか、と言われて承諾する。

「例の、屋上にいるよ」

 近くというのは、僕の住んでいるマンションの部屋のそば、という意味だろう。

 昨年の九月に起きた『リベラメンテ事件』以降、何度か怪事件の調査依頼で彼女に助力を仰いでいた僕は、割と早い段階でお互いの住所を伝え合っていた。その際、僕の住むマンションは屋上の使用が住民であれば誰にでも許可されていて、それでいて実際に使用する人間が僕しかいないことを大変気に入っている、という話をした。

 この時も、幻子がこれまで僕の部屋を訪れたことがなかった為に、未成年を部屋に呼ぶよりかは屋上に出た方が良いだろう、と考えたのだ。今にしてみればマンションから外に出て話をすればよかったのだが、その時は全く思い浮かばなかった。

 その日は晴れていて、とても暑い夜だった。

 しかし星を見上げる気力などなく、僕はただ金網にもたれて幻子の到着を待った。

 やがて訪れた幻子は、灯りのない屋上を見渡して少しばかり驚いた表情を浮かべた。

「なんですか、ここ」

「誰もここを使いたがらない理由だよ」

「新開さんて、怖がりでしたよね」

「この屋上に関しては、慣れた」

「祓う気はないんですか、この場にいる霊体たちを」

「僕にそういった真似は出来ないし、もし出来たとしても、そうなれば他の住民が上がって来るだろう。それは、嫌かな」

 幻子は薄く微笑み、

「なかなか酷いですね」

 と言った。

 屋上には、僕の目で数えて十四体の幽霊たちがいる。常に同じ数だけ同じ場所に現れるわけではないが、減ることはあっても増えないことから、地縛霊だと思われる。初めは確かに怖くて近付きたくないと思った。だが『リベラメンテ事件』に関わるうち、段々と彼らに対する考え方も変わってきたように思う。

 怖いものは、いつだって怖い。だけどそこには、命が燃え尽きてしまった、確かな人の営みがあったのだと思えるようになった。そのことは自分なりに、成長だと考えるようにしている。

「何かあったのかい?」

 尋ねた僕の隣まで来ると、幻子は夜の街並みを見下ろしながら、携帯電話を取り出した。

「壊れたのかなーと思って、新開さんに掛けてみたところ、繋がってしまって」

「…駄目かい?」

「繋がらないんです」

「…ん?」

 幻子は手の中で携帯電話を操作し、やがて着信ボタンを押すと僕の耳に近づけた。


 サアアア……

 ザアアア……


 僕は思わず、咄嗟に身をかわして両耳を抑えた。

「これ、は」

 呻くように言う僕に、

「やはり」

 幻子は深い悲しみの刻まれた表情を浮かべた。

 僕の聞いたその音は、内藤さんご夫婦の家で聞いた砂嵐のような音に似ていた。

 だが、白日夢の中で聞いたそれは、砂嵐などでは決してなかったのだ。


「繋がらないんです。…柊木さんに」


 夢を見なくなった、と幻子は語った。

 彼女の言う夢とは『予知夢』である。これから先の未来に起きる出来事を、既に起ってしまった場面として夢に見ることができるのだ。幻子には、その出来事が起こる理由を知ることは出来ない。だが彼女の未来予知の的中率は、今の所100%であるという。

「電話が繋がらないことと、夢を見ないことは、この不吉なノイズと関係があると思ってるんだね?」

「新開さんから内藤さんご夫婦のお話を聞いていたもので、これは、と…」

「これまでにも夢を見なかったことはないの? 昨日の今日だし、一晩くらいは」

「ありません」

「…一度も?」

「ありません」

 潤む幻子の目から逃れるようにして、僕は金網越しに夜の街を睨んだ。高層マンションではないが、近隣のアパートや一軒家よりは高い場所から夜景を眺める事が出来る。しかし僕の目にはロマンチックな輝きなど、一切映りはしなかった。

「幻子。君は、いわゆる千里眼を持っているね。例えば僕や三神さんがどこにいても、場所や、周辺の様子を思い描けるんじゃないのかい? 柊木さんとも、知らない関係じゃないんだろ?」

「あの家にいることはわかります。だけど、それ以上見えないんです」

「本来なら、もう少し詳しく見えるんだね?」

 頷く幻子の表情は、かなり弱々しく思えた。いつだって浮世離れして見えた、彼女の普段の様子からは想像できないほどの憔悴ぶりだった。

「妨害のようなものを受けているんだろうか」

 僕の問いに、幻子は答えない。

「内藤さんご夫婦の新居は東北地方にある海沿いの街だった。分からないけど、電波が届かないほどの田舎じゃないと思う。それでも、何度坂東さんが僕に電話をかけても、同じくノイズが流れて繋がらなかったそうだ。ご夫婦があんなことになったのも、その裏で『D』が動いていたせいだっていうなら、君の電話も同じ事なのかもしれない。ただ」

 幻子の目が、痛い程に僕の横顔を見つめている。

「向こうは、君が予知夢を見るなんてこと、知らないはずなんだ。千里眼を持っているなんて知らないはずなんだ。もっと言えば、こちら側に君という大霊能力者がいることも、奴は知らないはずだろう。あるいはドリスの人脈や何かを持ってしてこちらサイドの情報を得ていたのだとしても、それでも会った事のない君の能力を妨害するなんて…」


 会ったことは、あります。


「…なんだって?」

 今度は僕が、幻子の顔を見つめる番だった。

 無意識に見開いた目が、僕から視線を外した幻子の横顔を睨んだ。

「いつ」

 幻子は右手で金網を握り締め、手の甲に自分の額を押し付けた。

「新開さんたちが、…丁度あの村を訪れていた頃だと思います」

 あの村?

「しもつげむらか? もう半年以上前じゃないか。そん…あ」

 思い出した。

 僕たちがあの村で、紅おことさんの家で、天正堂開祖・大神鹿目の霊体と対峙した時だ。

 あの場に居合わせた秋月さんが、三神さんにこう尋ねている。


『先生、一応聞いておきたいんだけど。先生の娘が絶妙なタイミングで駆け付ける、なんていう奇跡は起きない?』

 その質問に、思わず僕も期待に目を輝かせて三神さんを見やった。

 しかし三神さんは強張った顔で鹿目を睨み付けたまま、こう答えた。

『今、日本におらん』


 確かに、三神さんは幻子が現在日本にはいないと答えている。僕は当時からすでに幻子が単独で拝み屋の仕事を請け負っていることを知っていたし、彼女の力をもってすれば、活躍の場を海外にまで広げたとしてもなんら不自然ではなかった。だが、そういう話ではなかったのだ。

「あの時、じゃあ君は、イタリアにでも行ってたってのか?」

 僕の問いかけに、幻子はゆっくりと頷いた。

「どうして。このことは、三神さんは知ってるのかい?」

「伝えてはいません。海外に赴く事自体はよくあることなので、特に聞かれはしませんでした。それに、私がイタリアへ渡ったのはそれこそ、夢を見たおかげです」

 夢。また、夢だ。

 幻子の言葉に、全身の毛穴が詰まったような、強烈な息苦しさに襲われた。

「何を…見た?」

 僕の問いに、しかし幻子は頭を振り、

「ともかく、私は一度あの男に会っています。そして」

 そこで言葉を止めた。

「…そして?」

「どうか、日本には来ないで欲しいと、お願いしました」

「…なんだって?」

「結果的にあの男は我々の前に姿を現しています。ですが、おそらく私のもう一つの願いは聞き入れられるはずです」

 猛烈に汗が噴き出したのは、夏だからではない。

 そして夜だからではない。なのに、噴き出た汗が瞬時に、凍てつくほどの冷たさに変わった。

「何を願ったんだ。…幻子、君は、あの悪魔のような男に、一体何を願ったんだ!」


 新開水留。辺見希璃。

 この二人にだけは、絶対に手を出さないこと。

 その代償として、あなたの願いをひとつだけ手助けします。


「なんて事をッ!」

 思わず掴んだ金網が激しく音を立てた。

 その日、偶然このマンションの下を通りがかった通行人たちは、見上げた夜空に凄まじい数の人魂を目撃したという。激昂する僕の周囲に霊道は開き、かつてこの土地で亡くなった霊体たちを呼び寄せてしまったのだ。数えきれないほどの、この世ならざる者たち。その中にはおそらく僕の母よりこもいて、この場で生きているのは僕と幻子だけだった。しかしこの異常な事態において尚、僕の意識は別の所にあった。

「どうして、そんな馬鹿げた願いを…」

 僕が掴み掛かったせいで金網は激しく振動し、弾かれたようになって、幻子は手を離した。

 そして真っすぐに僕を見上げると、

「あなた方お二人だけが、この一連の事件とは全く無関係な人間だからです」

 彼女はそう答えた。

「無関係って…」

「巻き込まれてほしくなかった」

「今更何を言うんだッ。君は自分が何をしたか分かってるのか!あの男が!君に死ねと命じたらどうするつもりなんだ!三神さんを殺せと言って来たらどうするつもりなんだ!」

「そんな事にはなりません」

「なに…ッ」

 

 …夢を…見たのか?


「新開さん、よく聞いてください。あの男にはどう足掻いても勝つことはできません。被害を最小限に留めるしか方法はないんです」

「な」

 幻子の両手が僕の胸倉を掴んだ。

「聞いて!聞いてよ!あの男には本物の悪魔が憑いてる。あの男には狙いがある。無差別に人が殺されているように見えてちゃんと目的があるの!私は、あの男の気まぐれで無関係な人間が死ぬことだけは避けたい。だからお願い!…新開さんは」

「…なんだよ」

「新開さん」

「なんだよ!」

 幻子は掴んだ僕の胸倉から手を離し、乱れた衣服をそっと撫でて、そのまま後ろへ下がった。

「おい」

 前へ出る僕に微笑みかけると、幻子は「今から柊木さんの様子を見に行ってみます」と言って踵を返した。

「おい!」

 僕は怒ってなどいない。しかし、今ここで彼女を止めなければとんでもないことになる。そんな意識が僕の声を荒げさせたのだ。

 幻子は僕の方へ振り返り、右手の人さし指を立てて笑った。

「新開さん。やっぱり、あんまりいい趣味とは言えませんよ?」

 彼女はそう言うと、とーんと真上に跳ねて、そして軽やかに着地した。

 その瞬間、屋上を埋め尽くさんばかりに発現していた夥しい数の幽体たちが、一瞬にして消えた。

「まッ…!」

 驚き、目が眩んだ。

 そして再びその姿を探した時には、幻子は僕の前からいなくなっていた。




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