[18]二神邸
二神さんの家をはじめて見た時、僕は家屋とは全くの別物を見ている気になった。
大樹。
僕の頭に浮かんだ言葉は、それだ。
一本の大木が、広大な敷地のど真ん中に立っている。
麓の集落を抜けて長く緩やかな勾配を登りきると、そこに広がるのは平坦な高原のような場所だった。木立や遠くにそびえている山々以外、人工的な建物はなにもなく、寂しさすら漂う程の芝原である。
その原っぱの中心地では、ひょっとしたら100メートルはあるかもしれない大樹が、夜闇の中その存在感を誇示している。そしてその木の根元周りを支えるように、恐らくは家であろう建物が取り囲んでいるのだ。
不思議な光景だった。以前、同じく日本家屋に住んでいる長谷部さんという男性の邸宅を訪れたことがある。個人のお宅とは思えない程の御屋敷だったが、こちらの二神邸も別の意味で家には見えない。
「木…。大きな…木ですね」
開いた口が塞がらない僕の横に立って、
「クスノキだ」
と三神さんが教えてくれた。
「変わった家だと思わんかね。これだけの敷地を抱える中で、何もあんな風に家を建てる必要はない。いくら木の側がいいといったって、あれではまるで家の中心を巨木が貫いているように見える」
「確かにそうですね。何故なんでしょう?」
「家主が変わり者なんですよ」
そう返事をしたのは三神さんではなく、幻子だった。
「いや。そうかもしれないけど、それ以前に僕は歴史を感じてしまうよ。とても凄いと思う」
僕たちは並んで歩き、変わり者が住むという、変わったお宅へとたどり着いた。実際に建物の側に立ってみると、巨木の異常な圧迫感と、この家を建てた者の強烈な意思表示を感じ、心臓がどくどくと音を立てた。
巨木を取り囲む住居部分もひと棟ひと棟がとても大きく、視界に入りきらない木の裏側がどうなっているのか、想像も出来なかった。しかし三神さんは迷うことなく母屋と思しき建物の玄関に立ち、ためらいもせず引き違い戸をすべらせた。
「おられますか」
呼び鈴代わりと言わんばかりの、よく通る大きな声だった。
すぐさま奥から、はーい、と応える女性の声が聞こえて来た。
どこかでスイッチが押されたのか、広い玄関に設けられた大きな靴箱の上で、間接照明に明かりが灯った。
パタパタと、軽やかにスリッパの音をさせてやがて一人の女性が現れた。
三十代に手が届くかどうか、二十歳である僕と同じとは言えないまでも、それでも若々しく溌溂とした笑顔の女性である。ストライプ柄のノースリーブから伸びる白い腕と、動くたびにさらさらと揺れる黄色のロングスカートのひらめきに、僕は何故か顔が赤くなるほど照れてしまった。そしてその理由は、すぐに分かった。
「こんばんわ」
上がり框で膝を折って正座する彼女に、
「紹介しよう」
と三神さんが僕に向き直った。
「柊木青葉さんだ。天正堂階位・第二、二神七権が孫であり、そして、元ワシの女房だ」
「…は」
もちろん驚いた。だがなんとなく、そんな風なことを想像してもいた。三神さんの呼び声に反応して現れた彼女の笑顔と躍動、それらには確かな喜びが感じられたのだ。思わず関係のない僕が照れてしまうほどの、愛情を感じたのである。しかし年齢的なことを考えて、まさかな、とすぐさま打ち消した矢先、妄想が現実に変わった。
「ご結婚されていたんですか」
「うむ」
照れたようにこめかみを指でかく三神さんを、ニコニコと目を細めて見つめる柊木さんの姿が、とても印象的だった。
「…あ、申し遅れました。新開水留と申します」
「ご丁寧に、ありがとうございます。柊木青葉です」
柊木さんは僕と三神さんを交互に見、「若い」と言って笑った。
そして僕と三神さんの背後に隠れていた幻子を見つけると、少しだけ複雑そうな微笑みを浮かべて、
「こんばんわ、まぼちゃん」
と言った。
こんばんわ、と答えた幻子の声は低く、それは嫌悪や不機嫌とは別の所からくる距離感のある声だった。おろらく一番近い表現は、遠慮、だろう。
「事情は連絡した通りです。今すぐに、お会いしたい」
三神さんが靴を脱ぎながらそう言った時、柊木さんの口元から微笑みが消えた。
僕は一瞬ドキリとして、反射的に動きを止めた。
「なんです?」
三神さんも異変を感じたらしく、正座したままの柊木さんを見下ろして尋ねた。
柊木さんは、こう答えた。
「当代はやはり、お会いにならないそうです」
一同に緊張が走る。
「…実際にそう口にしたわけでは、ありますまい?」
怒りにも似た三神さんの不満げな声に、柊木さんは困ったように眉を下げ、
「…まあ」
と答えた。
「当代の腰が重いのは今に始まった事じゃない。それは良い。そういうものだとワシらは分かってる。ただね、柊木さん。何のために当代がこんなお屋敷を建てて奥の座敷に引き篭もっとるのか、お前さんだって知らぬわけではあるまい」
「有事に際し万全を期して迎え打つ、そのためであると伺っております」
彼女の返答に、三神さんが一段と声を低くして呻いた。
「それが今だと言うておる」
しかし柊木さんは、見た目通りの、柳に風だった。
「…当代はやはり、お会いにはならないそうです」
「何故だ!」
三神さんの上げた声に、僕ではなく幻子が肩を震わせた。
柊木さんが僅かに体を左に倒し、「大丈夫よ」と幻子に語り掛けた。三神さんははたと気が付き振り返ると、「大きな声を出してすまない」と謝罪を口にした。
「しかしな」
向き直ってなおも言う三神さんに、
「あのー」
と、僕が声を掛けた。
「念のためにお伺いしますが。…僕が来たせいですか?」
「は、あ、…なに?」
三神さんは理解出来ない様子で僕を振り返り、そしてすぐさま柊木さんに視線を戻した。
「いや、だって」と僕は続ける。「なんというか、正直に言って部外者丸出しと言うか。僕、ただの大学生ですし、いわゆるここは、天正堂の聖地のような場所なんじゃないかと、上の大木を見てそう思ったんです。もし僕がいることで二神さんが姿をお見せになられないようなのであれば、僕は村の外まで出てもいいです。別に今からだって、全然かまいません」
本心だった。とそこへ、僕の背後に立っていた幻子の指先が、僕の腰骨辺りに触れた。
『ね、意地悪でしょう』
頭の中に、直接幻子の声が入って来た。
『へそ曲がりなんですよ。まあ、それだけでは、ないのでしょうが』
柊木さんが視線を上げて、僕たちを見た。
「なにか仰いまして?」
僕は無言で首を横に振る。
「なら、新開さんには私がご一緒しますね」
と幻子が口に出して言った。
「勝手の分からない村の一番奥まで来て一人で戻るのは、何かと不都合もおありでしょうし。当代には、先生お一人で会われるのがよろしいかと」
すると三神さんが慌てた様子で「早合点はようない」と諫めた。
「で、実際どうなんです? そんな理由で、まさか?」
信じられないといった様子で三神さんが尋ねると、柊木さんは僅かに怒った顔で溜息を逃がし、
「そういうわけでは」
と低い声で答えた。
「ではなんなのだ」
いや、ほんとに。
僕は両手を上げて、一歩、二歩と後退する。
「あのー、僕こういうのよく分からないですけど、積るお話も…」
おありだろうし。
柊木さんが怒った顔を見せたのは、腹を立てたのではなく拗ねたのかもしれない。僕が訪れた事で二神さんが姿を見せないどうこうという話ではなく、単純に邪魔者なのだ。僕と、ひょっとすると幻子も。
しかし、そんな僕の様子に、柊木さんが大きな目をさらに見開いて喜びを表現した瞬間、
「事態は一刻を争うと言うのに、そんな訳の分からぬ理由で当代は一体なにを考えておられるのだッ」
と、三神さんが本気で怒りをあらわにした。
柊木さんは目を見開いたまま凍り付いたように一時停止し、僕は一気に青ざめた。
だがその次の瞬間、ドオフ、と重たい空気が吹き付けるような音がしたかと思えば、三神さんの身体が玄関から外へと弾き飛ばされた。
「三神さんッ!」
今のは、一体なんだ?
彼の真後ろに立っていれば、僕と幻子も同様に吹っ飛ばされていただろう。それは見えない何かに真正面から衝突されたようでもあり、見えない大きな手によって摘まみ出されたようにも感じられた。
正面から受けて体が飛ばされたということは、家の中、廊下の奥から『それ』は吹き付けて来たということである。
胸を抑えて立ち上がる三神さんの顔には、怒りに隆起した青筋が浮かんでいた。
「この人ではない」と三神さんは言う。「これが、当代の意志。そう解釈するがよろしいか?」
という事は柊木さんではなく、この場にいない二神さんが何かをした、三神さんを外へ放り出した、そういう事なのか。
「お帰りください」
と、柊木さんは言った。その顔には、先程までの女性らしい柔和な笑みはなかった。「…今日のところは」
じっと見つめられた僕にはもはや返す言葉などなく、幻子を一瞥して頷くと、一礼して外に出た。
「どういうつもりだ」
敵意の乗った眼で、三神さんが柊木さんを睨み付けた。
柊木さんは悲しみの浮かんだ目で頭を振り、
「また、近いうちに必ずご説明します」
そっと、とてもゆっくりと、玄関の扉を閉めた。
二神邸の敷地から去る間際、幻子が何かを感じた様子で振り返った。釣られて僕も振り返り、彼女の視線を辿って大樹を見上げた。…天辺に、人影を見た気がした。
しかし目測で100メートルはあろうかと思われる巨木である。そんな高さの天辺に人が立てる筈もない。実際目を凝らすとそこには何もなく、風に揺れる葉がまばらに散っていくのみだ。
「どうした?」
尋ねる僕に、幻子は少しだけ不安そうな顔をした。
「この村を訪れる意向は、先生から聞いていました」
「うん」
「だけど、ここへ来る夢を、私は見なかったな、と。ふとそう思って」
「夢を…」
予知夢を見なかったのだろうか。あるいは別の夢をを見たせいで、二神さんに会えない事を予見できたなかった、そういうことだろうか。だが僕はそのことよりも、三神さんが気になった。
恩師、元女房、そのどちらにも裏切られたような気持ちの三神さんは、立ち止まった僕たちのことなど気にも留めずに、どんどんと麓へ向かって坂道を下って行く。
玄関に現れた時、柊木さんは三神さんの来訪をとても喜んでいる様子だった。それを見ているだけに、このような結果になってしまったこと、そして振り返りもせず先を行く三神さんの背中が、とても切なく僕の目には映った。




