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「かなしみの子」  作者: 新開水留
17/55

[17]夜の庭


「この辺りまでくれば、もうワシらの声も住人たちには届かんだろう」

 無言で歩き続けてきた僕たちは、三神さんのその言葉を合図に背後の集落を振り返った。

 眼下には、家々から漏れ出る控えめな明かりが、真っ暗闇の中でぽつぽつと揺らめいている。

 林を突っ切って作られた細い一本道はなだらかな勾配になっており、気付かぬうちに僕たちは集落を見下ろせる高さまで登ってきていた。こういう作りも、しもつげむらと似ている。違いは、そばに海があるかないか、それだけだ。

 向かう先は、二神七権が住まうという屋敷である。

 進行方向を見上げても、まだ星の散りばめられた夜空しか見えない。

 …と、三神さんが口を開いた。

「壱岐くんもな。あれはあれで、悪い男ではないんだよ」

 僕は驚いて三神さんを見やった。今の今まで壱岐さんの事など忘れていた。だが三神さんは昨晩からずっと、もしやもすると気に病んでくれていたのかもしれない。

「はい」

 僕は短く答え、幻子を見た。彼女には特に思うところはないらしく、立ち止まった僕にあわせて足を休めている、そんな風に見えた。

「壱岐くんの力、その身で体験してみてどう思ったね」

 と三神さんは言った。

 僕は正直な感想として、

「圧倒的でした」

 と答えた。



 壱岐琢朗という人の霊力は、まさに異能だった。

 彼の持つ力は、なんの切っ掛けも必要とせず、生きとし生ける物全ての動きを支配することが出来る、というものだそうだ。説明を受けても、にわかには信じがたい。実際、わが身身をもって経験したにも関わらず、その原理や手段は理解できなかった。ものの本で読む『洗脳』や『憑依』『乗っ取り』などとは質が違うように思う。僕は僕としての思考力や自覚を保持したままで、しかし自らの意志で体を動かす事が出来なくなったのだ。

 これは、なんだ。今、どういう状況だ?

 壱岐さんに制止を強制されて思うのは、まずそれだ。何が起きたか、本人には分からないのである。

 初めてドメニコという名の老人に見つめられた時も、僕の身体は自由を奪われた。しかし壱岐さんの力は、根本的に何かが違う気がした。

「一種の強烈な催眠と、生まれ持っての霊力、西荻のお嬢に似た念動力、それらの組み合わせで可能にしているようだが、もはやあれは、人間業ではないなぁ」

 三神さんほどの人でもそう言うのだ。圧倒的という僕の感想は、間違いではあるまい。

 そして昨晩、加藤塾にて壱岐さんの強制停止を受けながら、僕はひとつの疑問に思いあたっていた。

 とそこへ、坂東さんが止めに入ってくれた。

「課長、マルヒでもなんでもない一般人に力を使うのはナシっすよ。それは、いくら課長でも怒りますよ、俺」

 壱岐さんはしかし力を緩めることなく僕を見て、こう答えた。

「説明してるんだよ、彼に。彼は、私がDを確保したにも関わらず事件が起き続けたことに腹を立てている。それが何故かを、説明しようと思ってね」

「口で言えば良いじゃないですか」

 と言ったのは、秋月さんだ。

 彼女はめいちゃんとともに僕の背後に立ち、そっと肩に手を置いた。

 その瞬間僕の拘束が解けた。

 が。

「おい」

 壱岐さんの一声で、また僕の身体は停止を余儀なくされた。しかも、先程よりも数段強い力でだ。

 背後で秋月さんの舌打ちが聞こえた。

「新開くんだったね」

 壱岐さんが僕を見る。

「私はあの晩、この力でもって、Dを建物の外へと出し、確保した。そして、いまだにとある場所でその身柄を確保し続けている」

 一同にざわつきと動揺が走った。

 確保…し続けている?

 僕が壱岐さんの力を味わいながら頭の片隅に思い浮かべた疑問というのも、実はそれだった。

 『D』ドメニコ・モディリアーニという怪人がどれほどの人物なのか知らないが、ここまで強制的に人の肉体を支配できる力を持つ壱岐課長から、逃げおおせる事などできるだろうか、そう思ったのだ。

 確保したというからには、手錠をはめてしかるべき場所へと連行したのだろう。その上で、彼のこの支配力だ。ましてや相手は老人である。

 何故その後も事件は起き続けているのか、そう思うのも無理はないだろう。

「だがね」

 と壱岐さんは告白する。

「この能力は、私がずっと側にいて力を行使し続けなければすぐに解けてしまうんだよ。私が所用で側を離れなければいけない時は、まあ、今日みたいな日のことだが、強力な麻酔薬であの老人を眠らせ続けている。そして用事が片付くとすぐにまた戻って、彼を押さえ込むというわけだ。永遠に薬で眠らせておくことはできないからね」

 ということは、つまり…。

「要するに奴はずっと我々の監視下にある。私が側にいるかいないかの違いはあっても、Dが野放しになって犠牲者を出し続けているわけではないんだ。だがもし、もし此度の一連の事件が全てDの仕業であるならば、彼は例えどこにいようと人を殺せるという事になる。…新開くん。私は一体、どうすれば良かったんだと思う? 私は、24時間目の前にいるあの老人を、やはり君の言う通りに殺してしまうべきだったのだろうか」




「この上の屋敷には、ワシが随分と世話になったご老体が住んでいる」

 と、三神さんは言った。

「昨晩帰りがけにお誘いを受けた時は、なぜまた僕なんだろうと思いましたが、もしかして、僕と壱岐さんがこれ以上ぶつからないようにと、そういったお心遣いでしたか?」

 僕の問いに、三神さんはまだ姿の見えて来ない坂の上の屋敷に、視線を向けた。

「悪い男じゃないんだがねえ、融通が利かんのだ。どうにも厳しすぎる、他人にも、自分にも。少し考えれば、あの男が命を賭して魔人のような男と昼夜を問わず戦っている事は、分かるんだがね」

 僕は深く頷いた。

「嫌わんでやってくれ。あの男はあの男で、色々と背負ってるんだ」

「嫌いませんよ。昨晩はすみませんでした。子供じみた、未熟者のバカ騒ぎでした」

「いやいや。そうは言うてくれるな。ワシも六花嬢も、強く感じ入る部分があったよ。あの日、西荻のお嬢の側におってくれたのが、お前さんで本当に良かったと思うよ」

「とんでもありません。僕は何も」

「ワシは…」

 長い沈黙があった。

 全身を戦慄かせて泣き崩れた、文乃さんの姿が思い出された。

「…三神さ」

「ワシは…」

 三神さんは視線を夜空に向けたまま、声を震わせた。「悔しくてたまらんよ…」


 新開さんは、二神七権(ふたがみしちけん)という男について、何かご存知ですか?


 言葉を詰まらせた僕と三神さんを励ますように、普段通りの幻子の声が、優しく降り注いだ。

 僕は涙を拭うと、「いや」と答えて幻子を見やった。

 幻子は真っ赤な目で僕を見つめ返し、

「意地悪なおじいちゃんですよ」

 と言って、微笑んだ。

「ねえ?」

 そう言って同意を求める彼女に、三神さんはどこかほっとしたような苦笑を浮かべて、首を傾げた。

 昨晩、加藤塾での合同会議を終えた僕と辺見先輩を、三神さんが呼び止めた。聞けば明日、人を訪ねる予定があるのだという。今回の事件で力になってくれるかもしれない人物だと言い、またもや同行のお誘いを受けた。しかし辺見先輩は即座に、「今回私は、ちょっとなー」と言って右手を押し出した。残念がる三神さんの表情があながち冗談にも思えず、代わりに「僕でよければ」と首を縦に振った。辺見先輩は僅かに不安げな表情で見せたが、じゃあ、任せた、と言って僕の二の腕を叩いた。

 おそらくだが、先輩は文乃さんの側についていてくれるはずだ。僕が側にいると、文乃さんは辛い記憶に苛まれ続けるかもしれない。秋月さんも文乃さんの様子を心配していたし、そちらは任せて大丈夫だろうという気持ちが、僕を三神さんに同行させる後押しにもなった。

 

 




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