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「かなしみの子」  作者: 新開水留
12/55

[12]テルエちゃん


 数日前、五歳の女の子を連れたご両親が、秋月六花(あきづきろっか)さんのもとを訪れたそうだ。

 秋月さんは、とある関東近郊の海辺の町で、名前のない喫茶店を妹のめいちゃんと二人で切り盛りする、見目麗しい三十代の女性である。昨年末、『しもつげむら』にまつわる事件を切っ掛けにして知遇を得て以来、僕と辺見先輩はとても良くしてもらっている。

 彼女は奇跡と呼んで余りある、強力な治癒能力を持っている。もちろんその事を他人に吹聴したりすような人ではないが、その日幼い娘を伴い彼女のもとを訪れたご両親は、秋月さんの噂を聞きつけてやってきた、と言った。もちろん、治癒能力に関する噂である。

「この子の目を、治していただきたいんです。もちろん、謝礼は用意させていただきます」

 聞けばその五歳の女の子、テルエちゃんは、三ヶ月ほど前に突然両目の視力を失ったそうだ。事故かと聞けば、そうではないと言う。では、病気だろうか?

「突然でした。娘が、いきなり『夜が来た』と言って叫び始めて」

 そう語るのは、テルエちゃんの母親である岩下和希(いわしたかずき)さんだ。

「その日は朝から熱を出して保育園を休ませました。昼寝の直後だったんで寝ぼけて起きたと思って、抱きしめてあやそうとしたんですが、何度も同じ言葉を繰り返してばかりでした」

 夜が、来た。

「もちろん、まだお昼です。私はテルエの背中を抱きながら、夢だよ、夢だよと言い聞かたんですが、叫ぶのをやめようとはしませんでした」

 秋月さんは頷きつつ話を聞いていたが、途中、今年高校一年生になった妹のめいちゃんに目配せし、父親と共にテルエちゃんを外で遊ばせるよう促した。本人を同席させたままするような話ではない、という秋月さんの判断だった。

 秋月さんは店内窓際にあるボックス席で和希さんと向かいあって座り、質問を投げかけた。

「これまでも、発作がおきるようなことはあったんですか?」

「ありませんでした。大病もせずここまで育ってくれたんですけど、だけどその日、夜が来たと叫び出してからは、もう、全く」

「全く? というと、その時から突然見えなくなったんですか?段階を経てではなく、お昼寝から起きて、突然?」

「お昼寝から起きる前か、後かと言われると、わかりません。眠ってる間になにかがあったのかもしれません。だけど、少なくともお昼寝をする前はちゃんと私の目を見て話をしてました。熱があったから普段通りではなかったけど、見えにくいとかそういった兆候は教えてくれなかったんです。もう五歳ですから、ある程度自分の状況を言葉で説明してくれるんですが、その時はなにも」

「そうですか」

 秋月さんは、考えた。

 テルエちゃんの目がもともと見えていたのであれば、おそらく治せる。しかし自分は医者でも、霊媒師でも、魔女でもない。海辺で喫茶店を営むただの女主人だ。世間体だってある。街外れでそんなブラックジャックのような真似をして、もし奇跡の超能力者だなんて尾ひれのついた噂で騒がれでもしたら、たまったものではない。

 …噂。

「あのー、ひとつ聞いてもいいですか。岩下和希さん、でしたね。なぜ和希さんとご主人は、私を知っているんですか?」

 すると和希さんは頭を振って、

「知りません」

 と答えた。

「娘の目の治療のために色々な病院を巡る中で、どこだかはっきりと思いだせないんですが、とある病院の廊下で声をかけていただいたんです。娘さんはとても元気そうだけど、どこが悪いの、と」

「はあ」

「気落ちしてたこともあって、初対面にも関わらず私、ばーっと泣きながら娘の話をしてしまって。そしたらその方が、この街にとても腕の良いお医者さんがいるんだよって、教えて下さったんです」

 そこまで聞いた時、秋月さんはある人物の顔と名前を思い出したそうだ。

「それって、女性ですか?」

 秋月さんがそう尋ねた所、しかし和希さんはきょとんとした顔で、「いえ?」と言った。


「白髪頭の、ご老人です」


 秋月さんは急な胸騒ぎを感じ、思わず店の外に視線を走らせた。

 めいちゃんと、父親である岩下俊司(いわしたとしじ)さんがテルエちゃんと一緒に外で遊んでいるはずだ。だが、どうもそちらが気になった。

「お知り合いの方では、ないんですか?」

「え? 何がですか。誰と?」

「その、お爺さんです。秋月さんのお名前や、このお店のことも、その方に教わったんですけど」

「いや、知りませんね。ちょっと失礼」

 秋月さんは立ち上がって、そのまま店の外へ出た。店のすぐ外は桟橋になっていて、小さな子どもが遊ぶにはいささか危険である。しかし浜辺から店へと渡る桟橋にテルエちゃんたちの姿はなく、見ると街道から砂浜へと降りるコンクリートの階段付近に、テルエちゃんを肩車して遊ぶ俊司さんたちがいた。側にはきちんとめいちゃんが付いていて、一見危険な雰囲気は見られなかった。

 なんだ、あんなに離れたところにいたのか。

 秋月さんはほっと胸を撫で下ろし、和希さんと二人して彼らのもとへ歩いた。

「和希さん、多分、私でもお力になれるとは思います。ですが」

「…ですが?」

「簡単ではありません。時間をかけて、ゆっくり、気長にやりましょう」

 あえて、秋月さんはそういう言葉を返した。テルエちゃんの目に手を当てて、瞬く間に完治させることもおそらく可能だろう。だがそんな奇跡を見知らぬ人間の前で披露したくはなかったし、医者が匙を投げるほどの難病だと言うなら、例え時間がかかったとしても、治りさえするのであれば許してもらえるだろう、そう思ってのことだった。法外な値段の報酬を要求する気も、さらさらないわけだし…。

 案の定、和希さんは鼻の頭を真っ赤にして泣いて喜び、何度も秋月さんに頭を下げたそうだ。


 怖いー。怖いー。


 声が聞こえた。

 見ると、テルエちゃんが俊司さんの肩の上で顔を覆っていた。俊司さんはそこまで身長が高いわけではなかったが、今現在テルエちゃんには視力がない。両足が地面から離れただけでも、相当怖いはずである。

「あなたー、テルエー、気を付けてー」

 和希さんが、桟橋を歩きながら声をかけた。

 俊司さんが振り向き、テルエちゃんがぱっと明るい笑顔でこちらに手を振った。

 ママー!肩車ー!

「危険ではないですか?」

 秋月さんが問うと、

「目が見えなくなるまでは、あれが大好きだったんです」

 と和希さんが言う。

 そうなのか。じゃあ、何が怖いんだ?

 心配そうな目で、めいちゃんが秋月さんを出迎えた。秋月さんはそんなめいちゃんの頭に手を置いて、心配ないよと頷いて見せた。

 俊司さんがテルエちゃんを砂浜に降ろし、秋月さんに頭を下げた。

 ちょっと、煙草を。

 俊司さんはバツが悪そうにそう言うと、そのまま階段を駆け上がって街道に出た。


「綺麗な色ー」


 と、テルエちゃんが言った。灰色をした少女の目が、秋月さんを見上げていた。

「こっちもー」

 と言って、今度はめいちゃんの方を向く。

 見えていないわりには、テルエちゃんの顔は的確に秋月さんやめいちゃんのいる場所を向いた。

「この子、目が見えなくなってから、人を色で見分けられるんです」

「へー、そりゃ凄い」

「子ども特有の不思議な力なのかなーって、主人とも喜んでます。まあ、もちろん普通に見えた方が良いには決まってますけどね。テルエが言うには、何もない空間に人の形をした光がぼーっと輝いてるんですって」

 和希さんの説明に秋月さんは感心し、

「ものは見えないけど、人が認識出来るんだ。テルエちゃん、凄いね」

 とテルエちゃんを褒めた。

 気とかオーラとか、そういった類だろうか。

「色でねえ。でも良かった、綺麗な色だなんて言ってもらえて。なんか、茶色とかあんまり嬉しくないよね」

 秋月さんが笑って言うと和希さんはプっと吹き出し、明るい笑顔で手を叩いた。

「お母さんのことは、何色に見えるの?」

 めいちゃんが尋ねると、テルエちゃんは笑顔で、

「赤!」

 と叫んだ。

「あああー、母親っぽくて良いじゃないですかー」

 秋月さんは言い、

「じゃあ、お父さんは?」

 と、階段上の道路で煙草を吸っている俊司さんを指さした。

「んー、見ないと分かんない」

 テルエちゃんはそう言う。

「ん? ほら、お父さんは、あそこ」

 秋月さんはテルエちゃんの肩に手を置いて、俊司さんが見えるように方向転換させてあげた。

「どこ?」

「上。階段上ったところ」

「上?」

 テルエちゃんは頑張って目を見開き、空を見上げるように俊司さんを見つめた。

 気がついた俊司さんが、煙草をもった手で娘に手を振った。

 するとテルエちゃんは、こう言ったという。


「そこにはなにもないよ」


 ドン、と音がして、カーブを曲がり損ねた車に跳ねられ、俊司さんの体が浜辺に落ちて来た。

 砂浜に叩きつけられると同時に首の骨が折れ、即死だった。

 テルエちゃんは今日、ずっとお父さんの姿だけ見えていなかったそうだ。俊司さんはもともと無口な人で、喫茶店を訪れるまでの間もほとんど娘と話をしなかった。めいちゃんが側に立っているにも関わらず、見えない誰かに肩車をされたと思い込み、「怖い」とテルエちゃんは怯えていたのだ。

 秋月さんは、命あるものが相手なら相当手酷く傷ついた状態からでも治療を施せる。しかし俊司さんは即死であり、秋月さんにも手の施しようはなかったそうだ。

 やがて事故現場に現れた警察官たちの中に、坂東さんの姿を見つけた。

 秋月さんは若い頃、坂東さんに先んじて広域超事象諜報課に籍を置いていた経歴の持ち主で、僅かな期間ながら、いわゆる先輩と後輩の間柄だったそうだ。秋月さんは青ざめた顔で坂東さんに歩み寄り、彼の胸を拳で叩いた。坂東さんはこう言ったそうだ。


「こいつぁ、まだ、終わってなんかいませんよ」




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