[10]夢
しもつげむらの玉宮小夜さんと紅おことさんの死を、内藤さんご夫婦なりに重く受け止めているようだった。僕はてっきり、付き合いの長い文乃さんの親族(曾祖母とその姉)を襲った不幸に、文乃さんの傷心を案じているものとばかり思っていた。もちろんそれもあるだろうが、実は内藤さんご夫婦と玉宮さんたち姉妹にも浅からぬ縁がある事が分かった。
ところが、やはりご夫婦、とりわけミーナさんの心配はことさら強く文乃さんに対して向かっており、僕は傍で見ていてどことなく不安になった。ただ単に心に受けた傷や悲しみだけを案じているようには、見えなかったのだ。
…まだ、何かがある。
そんな風に思えた。
「夢を見るのよ。文乃の」
と、ミーナさんは言った。彼女はアメリカ人だが、こちらでの暮らしが長い為に日本語はとても滑らかである。
「どんな?」
と文乃さんが尋ねる。
「思い出せないのよ。だから、これはきっとよくないことなのだと思って。朝昼晩、毎日祈りを捧げているの」
「ありがとう。でも大丈夫よ、毎日元気にしてるもの。ねえ、新開さん。私元気ですよね?」
「ええ、とても」
微笑んでそう答えるも、青い瞳のミーナさんに浮かんだ暗い表情が、僕の顔まで強張らせた。
基さんは言う。
「私は家内ほど夢をみるタイプじゃないんだが、ここへ引っ越しすることを決めた夜に、一度だけ文乃ちゃんの夢を見たんだ。気になって家内に相談すると…」
「私は毎晩見ているのよ」
「こう言うんだよ」
毎晩…。
ご夫婦が引っ越すことを決めたのは、どのくらい前なのだろうか。僕が基さんに尋ねると、三ヶ月ほど前だという答えが返ってきた。三ヶ月もの間、ミーナさんは毎晩文乃さんの夢を見ている、そういう事なのだ。しかも夢の内容を思い出せないとくれば、尚のこと心に引っかかり続ける。確かに、不安にもなるだろう。
「東京にいる間はちょくちょく顔を見ていたから、あえて言わないようにしていたのよ」
とミーナさんは言う。文乃さんは「んー」と考え、
「私が大怪我をした時にも、何度かお見舞いにいらして下さったでしょ。そのことも関係しているんじゃない? なんというか、不吉な写真のように、瞼の裏にこびり付いちゃってるとか」
と聞いた。ミーナさんはうんうんと頷き、
「それもあるかもしれないわね。だけど退院して元気になった文乃を私だって見ているから。悪い印象だけを覚えているわけじゃないわ」
「…確かに」文乃さんは視線を移し、「基さんがご覧になった夢も、内容を覚えてはいらっしゃらないんですか?」と聞いた。
すると基さんは「それが」と口ごもり、僅かに視線を下げた。ミーナさんが真剣な顔でご主人を見つめている。僕は思わず自分の胸を抑えて、固唾を飲んだ。
「深い霧の中にいる」
と、基さんは答えた。
その言葉だけで、僕は心底ぞっとした。
「霧?」
尋ね返す文乃さんの目が、僕を見た。
この家に到着した時も、周辺にはまだ朝靄が出ていたことを思い出す。
どこかでまた、烏が啼いた気がした。
「場所や、時間などは分からない?」
文乃さんの問いに基さんは頷き、汗を拭うように額と短い前髪を撫で上げた。
「全く分からない。夜ではないが、霧が濃すぎて何も見えないんだ。ただ、その中を手探りで歩いている文乃ちゃんの背中を見ている。私は名前を呼んで手を伸ばすんだが、君は全く振り返らずに歩き、そのまま霧に呑まれて見えなり、そして目が覚める。…家内にこの話をした時、彼女はボロボロと泣いてね。自分が見ている夢を思い出すことは出来ないが、きっと同じだと思うって、そう言うんだ」
お二人の話を聞いた時、僕は正直、不吉な事を言うなと憤慨する思いに駆られた。しかし夢の話を告げられた文乃さんよりも、ご夫婦の方がはるかに重い心労を患っているようにも見えた。
僕ははたと気が付き、
「それって…」
と口を開いた。すると文乃さんがさっと右手をかざして僕を遮り、
「大丈夫よ」
と言いながらミーナさんに優しく微笑みかけた。
「私はここにいるもの。霧に呑まれたリなんかしない」
「そ、そうですよ、文乃さんは大丈夫です!ぼ、僕もいますから!」
言った瞬間、文乃さんは目を丸くして僕を見やり、そして朗らかな笑顔で頷いてくれた。
だがしかし、基さんはともかく、ミーナさんの心は初対面の僕が見せた発奮程度では晴れる気配がまるでなかった。
「本当は、引っ越すのをやめようと思ったの」
とまで彼女は言うのだ。これにはさすがの文乃さんも焦り、
「大丈夫だったら」
と、何度もミーナさんの手の甲をさすった。どちらかと言えば文乃さんの言葉は基さんに向けられたもので、ご夫婦の今後よりも自分の身を案じる方を優先しかねないミーナさんの言動に、申し訳ない気持ちが強く滲んでいた。僕は僕で苦笑しながら基さんを見やるのだが、意外にも基さんは奥様の言葉に対して頷き、同調しかねないほど沈鬱な表情を浮かべていた。
文乃さんに遮られはしたものの、僕は一瞬、ご夫婦が見ている夢に対してこう思ったのだ。
それはつまり、文乃さんの身に何かが起こるという予見ではなく、あなた方自身が深層心理で文乃さんに助けて求めている、そういう話ではないのかと。
だがしかし、それは言葉にするにはあまりにも不躾で、彼らのことをどれ程も知らない僕が口にして良い憶測ではなかったのだ。文乃さんが止めてくれて良かった。確かにそう思いはするものの、基さんの表情を見つめるうち、やはり同じ疑問が僕の中で渦を巻いて行くのだった。
内藤基さん、ミーナさんの新居に到着する前、僕と文乃さんは車の中で話をした。
僕がその話を始めた切っ掛けは、坂東美千流という男性が発した二つの言葉に端を発している。
坂東さんはかつて、僕にこう言ったことがある。
「お前がどう思ってるかなんか知らないけどな。あの西荻文乃って女は、うちがマークしてる奴らで構成されるヒエラルキーじゃあ、いっちばん上に立ってる人間なんだよ」
広域超事象諜報課がマークしているというのはもちろん、日本各地に存在する霊能力者たちである。もちろん彼らはその全てを犯罪者、および予備軍とみなしているわけではない。だが、全国の霊能力者が構成するヒエラルキーの頂上にいるのが、西荻文乃だと言ったのだ。さすがにそれは、穏やかな表現とは言い難い。
そして坂東さんは先日、僕にこう告げた。
「お前必ず西荻に今日の事を伝えろよ」
「…え?何ですか、いきなり」
「何ですかじゃない。何のために俺がベラベラと情報をくれてやったと思ってるんだ。いいか、今日の事、必ず全部あの女に伝えろ。とんでもないものが海を越えてやって来た、ってなぁ」
知人の大貫に相談を受けて訪れた、とある山中に現存する元結核病院での会話である。おかしな宗教に嵌っているかもしれないと泣きつかれ、大貫の妹を探しに向かった先で僕が出会ったのは、『あの』坂東さんが顔を引きつらせて恐れおののく、ドメニコ・モディリアーニなる謎の老人だった。運よく現場には坂東さんの上司である壱岐課長さんがいらした為、その老人から直接何かをされるといった危険な目には会わずに済んだ。しかし正直に言って、その老人の存在を間近で感じた瞬間僕は生きた心地がしなかった。そん中発せられた坂東さんの言葉は、彼が文乃さんに対してどれほど信頼を置いているか、如実に物語っていると言える。
文乃さんの走らせるレンタカーの車内で、僕は彼女にこう尋ねた。
「チョウジの坂東さんと、どのようなご関係ですか?」
しかし文乃さんは質問の意味すら分からないといった表情で、前を向いたまま首を傾げた。
「関係、と言われても困りますね。あの方達のことは三神さんを通じて知りましたし、それにどちらかと言えば坂東さんよりも、上役の壱岐さんの方が、まだ話をした回数で言えば多い方かと」
僕は意外に思い、
「これまで、怪現象の調査依頼などでお仕事をご一緒された経験があるとか?」
と聞いた。文乃さんは間を置いて真剣に思い返した様子ながら、やはり首を横に振った。
「ないと思います。私がこれまで、同じ依頼現場でお会いした事があるのは壱岐さんと、ナカノシマさんと仰る女性の方だけです」
「ナカノシマさん…女性…」
「ん。…お亡くなりになられたので、あまり多くはお話できませんが。チョウジの方々が、何か?」
「いえ」
僕はこの時まで、まだ文乃さんにドメニコの存在を打ち明けていなかった。なぜ坂東さん程の人が、あそこまで強く文乃さんの助力を得ようとしたのか、その答えを先に知っておきたかったのだ。
文乃さんの持つ霊力は、強い。
だが強いからこそ、諸刃の剣である彼女の力は、自分自身をも傷つけてしまうのだ。
「新開さん?」
「いや、…ハンサムな人だなーと、思って」
「…うん?」
ごまかせたとは思わない。だがそれ以上、文乃さんは聞いてこなかった。




