田沢湖線にて
私は6月初旬の金曜日に、秋田駅から奥羽本線、田沢湖線と乗り継いで地元へと帰った。毎年6月の第二土曜日に行われるチャグチャグ馬コという祭りを見に行くためだった。高専に入学し、寮生活を送っていたためここ数年は見ておらず、暇になったのだから久しぶりに見に行こうという魂胆である。
夕方の秋田駅は社会人、学生で混み合っていてその雑踏の中、自分だけが時が止まっているように錯覚した。事実として、何も進歩していない私は精神的に時が止まっていると言ってもいいのだろう。大曲方面の列車は混んでおり、着席することができなかった。秋田駅を出発すると列車は南東へと疾走していく。秋田県は深い山々に包まれており、都市間を移動するとすぐに山へと分け入り、数々のトンネルとカーブを超えていく。一駅一駅と停車するたびに車内の人数は減っていき、列車が山から平地へと出たころ座ることができたが、大曲駅は目前であった。
大曲駅へと到着すると、すでにホームの対面に乗り換える田沢湖線の列車が待ち構えていた。大曲駅で下車する人の殆どはそのまま改札を出ていくか、秋田新幹線に乗り換えるため田沢湖線の列車に乗り込んだ人はごく僅かだった。更に向こう側のホームでは秋田新幹線が忙しなく出たり入ったりしていて、とても同じ路線を走る列車とは思い難い光景だった。私が乗った二両編成の列車は、出発してもわずかながらの高校生と定年して旅行をしていると思われる老人のみがいるだけで、すべての座席が埋まることはなかった。田植えも終わり青々しい車窓の中、私はスマートフォンで會津八一の書いたエッセイを読んでいた。
「働くことが樂しく、日を送ることが樂しく、生きて居ることが樂しく、そして其より外に何らの樂みも無く、また何等の樂みを求めない。これがほんたうの生活の趣味であり、又趣味の生活である。」
「吾々――ことに青年たる吾々が、志を勵まし、勇を鼓して、望多き門出を試みるときには、老人たちのするやうに、片下りの樂な路ばかりを擇ぶやうではいけない。かならず一歩一歩に高きに登り行くだけの意氣があらねばならぬ。」
大学院での研究生活に耐えきれず逃げ出した私の心の奥を鋭利な刃で貫かれた。自分には化学工学の頂を見ることはもはやできないのでは無いか、このまま何事にも中途半端に生き、何者にもならずに、何も成し遂げられず、ただただ消えていくのみではないか、そのような虚無感が私を襲った。
ふと、車窓に目を向けると秋田駒ケ岳が猛々しくそびえ立ち、間もなく奥羽山脈を越えることが明らかだった。列車は田沢湖駅へと滑り込んだ。ここで高校生達は列車から降りて、私が乗っている車両には誰ひとりとも乗っていない状態になった。もう一両にも二人ほど乗車しているのみだ。ここから先は、県境を超えた岩手県の赤渕駅まで駅は存在しない。もっぱら県境を越える人たちは秋田新幹線に乗るため、殆ど鈍行で越える人はいないのだ。田沢湖~赤渕駅間を通る鈍行は一日約二往復しか無い。
私はスマートフォンをバッグに入れ、奥羽山脈越えの車窓を愉しむことにした。田沢湖駅を出発した列車は、渓谷の底を縫うように走った。下に目を向けると生保内川は大小の岩が散在しており、自然のダイナミズムを感じさせる荒涼とした光景が広がっていた。対して上に目を向けると、新緑を過ぎ去った木々がこんもりと緑を形成していて、活力あふれる光景が広がっていた。以前に大学院の入学手続きをした帰りにも同じ列車に乗ったが、そのときは三月も終わろうとしている中一メートル以上の深い雪に包まれていて、季節が進んでいることを実感した。もっと上を見ると、国道四十六号線が通っている。鉄道とは違い数々の深い渓谷などをまるで無視するかのように、近代日本の土木技術を結集させた長大な橋とトンネルによって作られたその道は、もはや芸術めいていた。渓谷の底を蛇のようにぬって走る田沢湖線も、最終的には長大なトンネルで奥羽山脈を越えて岩手県へ抜け出ていく。
赤渕駅を過ぎると、盆地が広がり岩手山が堂々とそびえ立つ。この岩手山を見るたびに郷里へ帰ってきたのだと実感できる。ある種の懐かしさを覚えながら、私は大釜駅に降り立った。