6話 後悔
バイト場から家の間には傾斜のきつい長い坂がある。通称『地獄坂』行きは下りで楽なのだが帰りは……。
ショウトは、今まさにその長く急な坂を必死に登っている最中である。
毎回、いかにこの坂で足を着かずに登れるかとチャレンジしているだが、バリバリの野球少年時代は何度も成功しているチャレンジも現在の怠けきった彼の体では中腹の公園までが関の山だった。
「はぁ……はぁ……はぁ、あと……少し……」
振り子のように左右に揺れる自転車に合わせてカゴの中では例の本も弾むように踊っている。
そんな調子で必死に足を動かしていると、
(…………メだ)
「はぁ……はぁ……」
(……てちゃダメだ)
「……なん……だ?」
ショウトの耳に微かに声が届いた気がした。彼はその声につられてるように、必死に動かしていた足を止めた。
自転車を降りて、呼吸を整えるため大きく深呼吸。そして辺りを見回す。しかし、人らしき姿は何処にもなかった。
――気のせいか? 確かに何か聞こえた気がしたんだけどな……
この坂で一度でも自転車から降りてしまうと、その場から乗ることは不可能に近い。前に一度試みたこともあるのが、その時は本末転倒、逆行するという悲惨な結果になった。
そんな経験もあり、ショウトは無謀な賭けをせず、仕方なく公園まで押して登ることにした。
公園に着くなり、近くの自販機でお茶を買って、ベンチに座って一気に飲み干す。
空になったお茶の缶を目の前に停めてある自転車のカゴに手を伸ばし入れると、入れ替えるように、恐る恐るも例の本を手に取った。しかし、先程のような不思議な反応はなかった。
「さっきは開いたら光ってたよな……」
店での出来事が脳裏に浮かぶ。店では急な事で恐怖はなかったのだが今は状況が違う。
さっきの声といい、光る本といい通常では考えられない事が連続して起きている。
それにより、多少なりとも恐怖心が芽生えているのは確かだ。
普段は周りにあまり見せないが、気になったらとことん追求するのがショウトの性分。
目をそっと閉じ、
――大丈夫、何も起きやしない。さっきも大丈夫だったんだから。
自分にそう言い聞かせ慎重に本を開いた。
――何も起きない?
しかし、本は発光するどころか先程のような奇妙な声さえしなかった。
「なんだよ。びびって損した」
そう言いながら、ショウトは開かれたページに視線を移す。するとそこには、ただの白紙のページではなく、表紙同様読めない文字が三行ほど書かれ、隣のページには鎖に囚われた少女の絵が描かれていた。
「は? さっきは何も書かれてなかったよな? てかこれは……絵本?」
開いたページをまじまじと見つめる。しかしいくら見たって読めない物は読めなかった。だが、ふとあることに気付く。
「あれ? この女の子……」
その少女はウェーブがかった肩より少し長い黒髪で前髪を留めるための髪留めをしている、どれをとっても店長の葵そのものだった。だが、顔は簡易的に描かれているため、確信は持てない。
「いや、流石にそれはないよな?」
葵さんがこんな奇妙な本に描かれているはずがないよな。と彼は思った。
現に葵はこの本を見たとき、知らないと言っていた。結果的に彼女は本を手にしたあと意識を失った。だから、繋がりがないとは言いがたいのも事実だ。
ショウトは胸がざわついて仕方がなかった。
それでも、悩んでも仕方ないと思い彼は、次のページをめくろうと手をかけた。
その時だった――。
「――開いちゃダメだ! 早く捨てて!」
さっきの奇妙な声が、次は鮮明なってショウトの鼓膜を叩いた。しかし、彼の手はもう止まらない。本は開かれ、白紙のページがあらわになる。
すると、その本はバイト場の時のようにままばゆい光を放ち、ショウトの視界を一瞬にして白に染めた。
――おいおい! まじかよ!
声を発したつもりが、その声は喉から先へは出ていかない。それどころか、ショウトは体の自由を奪われていた。
声が出せない、誰が首を絞めらているか。
何も見えない、太陽の光が直接目に向けられているか。
手足の自由が効かない、金縛りにでもなっているか。
――くそ! どうなってんだよ! 動けよ! オレの体!
力を入れてみても体は硬直するばかり。むしろ動かそうとしても、動かし方を忘れてしまったか、いくら脳が信号を送ってもそれは体に届く気配すらない。
そうこうしているうちに本から放たれる光が段々と弱まっていく。それと並行するようにショウトの視界も甦る。
――おいおい! 嘘だろ!?
次にショウトが目にした光景は、自分の周辺だけが泥沼のように波打ち、下半身は既に沼に呑まれているそんな状態だった。
共に走ってきた自転車も半分以上が沼に飲まれ、今すぐにでも視界から消えようとしていた。
――くそっ! 誰か助けてくれよ! 誰か!
下から引っ張られるように、ずるずると沈む体。必死に足掻き、叫ぼうとしても声すら出ない。
「あーあ、だから言ったのに……」
またあの声が聞こえた。気のせいだったと思っていた声だった。ショウトはその声に必死に問いかける。
――おい! これは何なんだよ! お前知ってんだろ! 答えろよ! お前は誰なんだよ! 早く助けてくれ!
その叫びもむなしく、ショウトの視界から完全に色が消えた――。
呼吸も出来ず、ただただ漆黒の世界に漂う動かない体――。
しかし、不思議な事にショウトに恐怖心はなかった。
感情を置き去りにして無意識に体が生きるの事を諦めたのだろうか。
こうなると滑稽な自分に笑えさえしてくる。
だか、それも長くは続かないようだ。意識が遠ざかっていくのがわかる。
薄れ行く意識の中で後悔だけがショウトの微かしかない意識を埋め尽くす。
続きを見れなかったDVD、突如倒れた葵、そして、朝八つ当たりしてしまった母……。
ショウトの意識がなくなる直前、最後に聞こえた声がこう言った。
「――大丈夫。すぐに会えるよ」と。