其の八
遠乗りに出かけることにした。まあ、遠乗りと言っても、湖の近くまで遊びに行くだけだ。波瑠と文姫も連れて行くと言うことで、輿を用意したのだが。
「輿は苦手ですので、できれば馬を貸していただきたいのですが」
と、波瑠に振られてしまった。断る理由もないので、馬を貸すことにした。女性にしては背が高めである波瑠だが、少し小さめの馬を選んだ。力の関係もあり、やはり小さめの方が御しやすいのだろう。
馬を与えては、波瑠が逃げ出すのでは、という家臣もいないわけではなかった。だが、その可能性は低いだろう。というか、ない。ここで逃げ出すような女性なら、そもそも降伏していないだろう。
ちなみに、藤と詩にも輿を勧めたのだが、「歩きます」と即答された。この二人はまだいがみ合っているらしい……。
一行が出発した今になっても、なんかにらみ合っている気がする……。
「……申し訳ありません、雅昭様」
「何が……ああ、詩のことか?」
雅昭の隣でゆっくり馬を歩かせている波瑠が苦笑気味に言った。雅昭も再び苦笑を漏らす。
「詩は、あなたをとても慕っているのだな」
「……姉妹のように育ちました。いつでも、わたくしのことを考えてくれているのがわかります」
本当は、彼女もいい人を見つけてほしいのですが、と波瑠は目を細める。まあ、波瑠が落ち着かない限りはそれはないだろう。って、波瑠が落ち着かないのは、雅昭のせいでもあるのだが。
何事もなく湖のそばまで来た。対岸には、湖に張り出すように作られた玉江城が見えていた。馬を降りた波瑠は、まっすぐに湖のほとりまで行き、かつて自分が城主を務めた城を眺めた。かつて、と言っても、あれからまだ三か月ほどだ。
「姉上~」
何となく雅昭が声をかけられずにいると、彼女に駆け寄る人物が現れた。波瑠の弟の孝景だ。彼は藤二郎預かりになっていたはず、と彼の方を見ると藤二郎は「何か?」と言わんばかりの表情で雅昭を見つめ返してきた。いや、別にいいんだけど。
「孝景。元気そうね」
「うん。姉上も。ちょっとほっとした」
楽しげに会話する姉弟にちょっと嫉妬した、と言ったら怒られるだろうか。仲良く話をしている姉弟の間に入ることもためらわれ、雅昭は息を吐いてその二人から視線を逸らした。文姫を見ると、初めて見る大量の水に目を白黒させていた。
「あっ、はるさま!」
「文姫様、いけません!」
藤が止めに入るが、文姫は波瑠に嬉しそうに駆け寄った。波瑠が文姫を害するわけがないのだから、放っておけばいいのに、とも思う。文姫だって純粋に慕っているだけだから、詩も微笑ましく文姫を見ているし。
「はるさま。こちらのとのがたは?」
「わたくしの弟で、孝景です。今は藤二郎殿の元で働いています」
「たかかげ、ね。わたくしはふみです。どうぞおみしりおきを」
「ご尊顔を拝謁賜り、恐悦至極でございます。志摩孝景と申します。姉ともども、よろしくお願いいたします」
膝を付き、孝景が深く頭を垂れる。藤二郎も言っていたが、ややのんきでお調子者であるが、礼儀はしっかりしている。姉である波瑠と、波瑠の前の玉江の城主であった雪路がよく教育したのだろう。波瑠の上の弟で孝景の兄である弘孝もややおっとりしているが、しっかりしているし。
「よろしくおねがいいたします、たかかげさま」
「はい。こちらこそ」
ニコリと孝景が文姫を見て微笑む。文姫は波瑠によく似た孝景をひと目で気に入ったようだ。
「みずうみのむこうにおしろがみえます」
「玉江城です。わたくしがかつて暮らしていた城です」
「はるさまが?」
文姫が波瑠を見上げる。波瑠が懐かしげに眼を細めてうなずいた。
「ええ。わたくしも、孝景もあの城で育ったのです」
「まだそんなに経ってないのに懐かしいね。兄上元気かなぁ」
孝景がのんきな口調でそう言っているのか聞こえた。今なら入り込める気がして雅昭は様子を見ながら近づいていった。
「そんなことしてないで、がっと行きましょうよ」
そう言って藤二郎がすたすたと雅昭を通り越していった。本当に彼は思い切りがいい。
「あ、まさあきさま!」
文姫が嬉しそうな声をあげたが、彼女は何故か波瑠の方にくっついた。何故だ。少し悲しい気持ちになった雅昭であった。雅昭の方が付き合いが長いのに、波瑠の方が懐かれている。あれか。過ごした時間の長さの問題なのか。
雅昭を見て、波瑠は一礼しただけだったが、孝景はさっと膝をついた。本当に、お気楽に見えて礼儀作法はしっかりしているから不思議だ。
「孝景、立ってくれ。お前たちと玉江で戦ったのが、もうずいぶん昔のことのようだな」
雅昭も感慨深いものを感じて言った。雅昭はまだあまり戦の経験はないのだが、彼の中では結構大変だった方である。玉江攻略戦は。
このへらっとしている孝景も、波瑠の配下で萩野氏と戦った。総大将波瑠は言わずもがな、一方面を任されていた孝景の指図ぶりもなかなかのものであったと言う。というか、総大将同士の頭脳戦なら、萩野氏は絶対に負けていた。萩野氏側の玉江攻略戦の総大将は雅昭だったし。すでに結婚生活で何度か敗北を経験している。
「……本当に、萩野の方々にはよくしていただいて、感謝しております」
波瑠が玉江城を眺めながら言った。雅昭は思わず尋ねた。
「……玉江に帰りたいと思うか?」
波瑠の視線がゆっくりと雅昭に向いた。その顔には笑みが浮かんでいた。
「懐かしい気持ちはあります。ですが、わたくしは今の生活を気に入っておりますから」
断言されたわけではないが、玉江に帰りたい、と言っているわけではないようだ。難しい話で退屈になってきたのか、文姫が波瑠の手を引く。
「はるさま。もうすこしみずうみをちかくで見てみたいです」
「……と言うことらしいのですが」
「落ちないようにな」
一応波瑠が雅昭に同意を求めたのは、文姫の処遇に関しては、雅昭が権限を持っているからだろう。波瑠に関しても同じだが。さすがの藤も雅昭が許可を出したので口をはさめなかったようで、じっと文姫と波瑠の様子を見つめていた。
少し二人が離れたところで、口を開いたのは孝景だった。
「あの~。すみません。ちょっといいですか」
「なんだ?」
雅昭が聞き返すと、孝景はがばりと深く頭を下げた。
「遅くなりましたが、お礼を言わせてください! ありがとうございます!」
「な、何のことだ!?」
全く心当たりのない雅昭は大仰に驚いた。顔に出過ぎだ、とよく言われる。
「俺達の処遇のことです。特に、姉上のこと……」
「あ~……」
雅昭は思わず藤二郎と目を見合わせた。が、藤二郎は何も言う気がないようなので、雅昭が口を開く。もしかしたら、藤二郎は既に何か言われたあとなのかもしれない。
「姉上は、俺たちより頭がよかったから志摩の当主になりました。姉上は優しいから何も言いませんでしたけど、本当は俺か、兄かがやるべきでした。……姉上は、もっと幸せになるべきだって思っていたんです」
「志摩の当主であったことは、波瑠殿にとって幸せではなかったと言うことか?」
「いや~。そう言うことじゃなくってですね」
孝景が説明しづらそうに手をわきわき動かしながら言った。とりあえず、彼が当主にならなかった理由はわかった気がした。
「俺たちは、姉上に本当なら負わなくていいはずの責任を負わせていたって話です。まあ、単に俺達の自己満足でもあるんですけど……」
何となく話が分かってきた気がした。とりあえずうなずいておく。
「俺たち、前の前の前の当主の長女の子供ですけど、一番下の雪路叔母上に全員引き取られてて」
雪路の前の志摩当主には三人の娘がいた。その末の娘が雪路であり、一番上の娘が孝景や波瑠の母親だ。志摩の分家の男と結婚し、三人の子をもうけたが、両親ともに流感で亡くなっている。ちなみに、次女は別の家に嫁いだらしい。
親を早くに亡くしたから、波瑠が姉としてしっかりしなければ、と思ったのもあるだろう。叔母に引き取られたとはいえ、頼りきりになるのはどうかと、波瑠の性格なら思うだろうし。弟二人と年が離れているのもある。……それはつまり、雅昭とも年が離れていると言うことでもあるけど。
「叔母上に引き取られた時から、もう姉上が当主になることは半分決まっていたみたいなものですけど。でも、姉上を普通の女の人として扱ってくれて、ほっとしてるんです。だから、ありがとうございます」
「あー、まあ……どういたしまして?」
わかるような、わからないような話だった。普通、女性は政略結婚を嫌がるものだと思っていたのだが、そうでもないのだろうか。波瑠の玉江の領主から雅昭の側室への流れは、彼女の物分かりの良さによるものだと思われる。
ある意味、波瑠は当主である間自由だったはずだ。確かに、普通の女性としての幸せはつかめなかったかもしれないが、どちらが幸せかなど、波瑠自身にしかわからない。だから、この感謝は、本人も言っていた通り、孝景の自己満足なのだろう。でも。
波瑠は、それだけ弟たちに思われていると言うことだ。これは大切にしないと、弟たちから手痛いしっぺ返しを食らう可能性があるな、と雅昭は真顔で考えていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
輿って絶対酔うと思うんですよねー。