其の六
雅昭と波瑠の間に沈黙が流れるが、居心地が悪いものではなかった。
「雅昭様」
「ん?」
唐突に波瑠に名を呼ばれて、雅昭はどきっとした。
「以前お約束した囲碁の話ですが。お時間があるのなら、一局いかがですか?」
将棋でも構いませんが、と波瑠。雅昭は「あ、ああ」と応じる。
「ちなみに、波瑠殿はどちらの方が得意なんだ?」
「囲碁です」
うん。何かそんな気がした。では囲碁にしよう、ということで側にいた詩に碁盤と碁石を用意してもらう。とりあえず先攻である黒石をもらった。
「では」
意気込んで始めたものの、囲碁と言うのは結構時間がかかる。始めた時はまだ昼過ぎだったのだが、終わった時には夕刻になっていた。腹が減った。
たぶん、波瑠が手加減してくれたのだと思うが、大差で負けることはなかった。しかし、九目の差って結構な差だぞ。大体、雅昭がもらった先手黒はかなり有利なのだ。それをひっくり返してきた。
「……玉江攻略戦であなたを相手取るのに苦労したのが理解できる」
碁石を片づけながら言うと、波瑠は「そうですか」と首をかしげる。
「あれは、家臣たちに手伝ってもらいましたから。盤上の遊戯と実際の戦は違います」
「……まあ、そうかもしれないが」
だが、囲碁や将棋は戦術的思考を養えるとも言う。だから彼女は、こう言うことももともと得意なのだろう。うらやましい話だ。
「……常々私は思うんだ。私はこういう、城主とか、領主とか、そういうのに向いてないって」
思わず愚痴ってしまう。白石を片づけ蓋をしながら、波瑠は淡々と尋ねた。
「なら、何が向いているのですか?」
「波瑠殿は結構直球で聞いてくるな……」
「言葉が直接的過ぎるとよく言われます」
どうやら自覚もあるらしい。雅昭は苦笑を浮かべた。
「いいんじゃないか。私は遠回しに言われるよりは、その方がいい」
「……奇特な方ですね」
「私もよく言われる」
波瑠と同じように返した雅昭に、彼女は少し微笑んだ……気がした。思わず、雅昭は波瑠の方に手を伸ばす。すべらかな頬に触れる。波瑠が少し目を細めて首をわずかに傾けた。
「……どうかされましたか」
「……いや」
尋ねられ、雅昭は少し戸惑う。波瑠が雅昭の手に自分の手を重ねた。白くて、小さい手だが、かすかに硬い部分がある。そう言えば、武術も会得しているのだったか。
「……その、こんなことを言われても困るかもしれないが、私は波瑠殿のことが好きだな~と……」
波瑠は何度か瞬きして、それから言った。
「私も、雅昭様のことは好きですよ」
「あ、はは。それは、どうも」
波瑠の頬から降ろした手は、彼女に握られたままだ。心臓の音がうるさい。自分はこのまま死んでしまうのではないか、と思うほど心臓が早鐘を打っている。
「……次にやるときは、将棋にいたしましょうか」
波瑠は雅昭の手を放して、そう言った。ほっとしつつ、ちょっと残念だと思う。とりあえず雅昭はうなずいた。
「ああ。また頼む」
「かしこまりました」
詩が碁盤と碁石を片づけに行く。さすがに腹が減ったので、食事にしようと思った。用意もそろそろできているだろう。
「……今夜、波瑠殿のところに行ってもいいか? 琵琶が聞きたい」
唐突にそう思った。このまま、離れがたかったからかもしれない。雅昭のお願いに、波瑠は嫌がることはなく「お待ちしております」と答えた。
とりあえず腹を満たしたあと、雅昭は約束通り波瑠の元へ向かった。今日も詩が取り次いでくれた。
「……そう言えば、波瑠殿の側では詩しか見ない気がするんだが」
「わたくしが基本的に姫様の側にいるからでしょう。他の侍女もいますよ」
「そうなのか」
「そうなのです。今お通ししますね」
たまに訪れるようになったせいか、詩がすぐに波瑠に取り次いでくれるようになった。まあ、今日は事前に波瑠からいわれていただけかもしれないけど。
「邪魔をする」
「どうぞ。こんばんは、雅昭様」
波瑠は琵琶の準備をしていた。本当に演奏を聞かせてくれるらしい。自分のちょっとしたわがままを聞いてくれたのがうれしくて、雅昭は顔をほころばせた。
「やっと笑いましたね」
「へ?」
間抜けな声を上げると、向かい合うように坐した波瑠が柔らかく目を細めて微笑んでいた。思わずその笑みに見惚れる。
「ずっと、難しい顔をされていましたから。同じくらいの年ですが、わたくしの弟などはもっとほけほけとしていますよ」
「弘孝殿か? 私なんかよりしっかりしていると思ったんだが……」
「わたくしがいたからかもしれませんが、かなり抜けているのですよ、あの子も」
そう言う波瑠は、姉の顔をしていて、優しい姉がいる弘孝や孝景がうらやましく思えた。でも、きょうだいだと夫婦になれないのか。
「雅昭様も、少し、肩の力を抜いてみてはいかがでしょう」
ぽろん、と琵琶がかき鳴らされた。その優しい音に目を細める。
「何がいいですか?」
曲の話だろう。逆に聞き返す。
「何が弾けるんだ?」
「大概のものなら」
逆に困る返答だ。まあ、文姫に稽古をつけられるくらいだから、本当に何でもつま弾けるのだろう。
「なら、よく眠れそうな曲がいい」
「……それは子守唄ですか?」
真剣に問われて、さしもの雅昭もちょっと困った。
「子守唄が弾けるならそれでもいいが」
「さすがに無理なので、『山桜』にしましょうか」
苦笑を浮かべた波瑠がそう言った。雅昭も何度か聞いたことがある曲だ。彼はうなずいた。
「それで頼む」
「かしこまりました」
優しい表情で『山桜』をつむぐ波瑠。その音色は、以前よりも心なしか柔らかな音色に聞こえた。
そんな雅昭は、途中で寝てしまったのだが。起きたら隣で波瑠が寝ていてどきっとした。いや、ここは波瑠の部屋だから波瑠がいるのは当然なのだが。それに、一緒に寝ているのも初めてではない。
雅昭がびくっとしたことで波瑠も目を覚ましたらしく、少し会話をしたのだが、どうやら波瑠の中では弟と添い寝をした感覚であるらしい。まあ、何度も言っているが、雅昭は波瑠と比べたらだいぶ年下だ。こういう婚姻がないわけではないが、弟扱いされるのは仕方がない。正室ならともかく、波瑠は側室だし。
だが。
「お疲れ様です。雅昭様」
そう言って、微笑みを浮かべて迎えてくれる波瑠に雅昭はほっとする。受け入れられている気がする。たまに一緒に文姫が波瑠の真似をするように「おつかれさまです」と言うのがかわいらしくて癒される。もう妻というより娘みたいな感じだ。
藤はいい顔をしないが、やはり文姫は波瑠になついているようだ。波瑠もまんざらではない様子で、雅昭を蚊帳の外に二人で遊んでいることもある。やっぱり、姉妹とか正室と側室とか言う関係というより、親子みたい。
まあそんな感じでそこそこ楽しく暮らしていたのだが、雅昭には野心家の父から再び出陣要請がかかった。いや、息子だから仕方ないのだが。
「ついていきましょうか」
だいぶ打ち解けてくれたと思う波瑠がそんなことを言いだして、雅昭は苦笑いで「勘弁してください」と言った。きっと、波瑠の方がうまくやるだろうけど、さすがにそれはちょっと。
わかっているから、波瑠も笑みを浮かべて言った。
「冗談ですよ。お気をつけて。無事に帰ってきてくださいね」
「うん」
しばらく会えない、と思うとさみしい。せめて、と思って雅昭は波瑠をぎゅっと抱きしめた。
自分より六歳も年上だが、その体は自分より小さい。この体で玉江を背負っていたのかと思うと、彼女を尊敬する。
波瑠の腕が上がって、雅昭の背中をぽんぽんとあやすようにたたいた。
「……行ってくる」
「ええ。行ってらっしゃい」
優しく微笑む波瑠だが、その笑みはやっぱり、雅昭の妻というよりは姉か母のようだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。