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オーダー・オブ・ダゴン  作者: ギルマン高家あさひ
7/16

秋颱風

 印寿真洲いんすますの海神社には言い伝えがある。

 沖で波が荒れ狂い、浜で風が吹きすさぶ日には必ず、神前に蝋燭が灯る、というのである。

 海辺にあった社殿が明治のはじめの地震と津波で倒壊し、神域が町中の高台に移されたあとも、誰が立てるのか、それは変わっていないという。

 その夜も社の森の木立を透いて、ゆらめくちいさな炎が見えた……。

 ……かどうかは実際に誰かが目撃したわけではないからわからないのだが、漁港の町は渦巻く風と、横殴りの雨に一晩中、弄ばれた。


  *


 翌日。

「まさか」

 台風一過の青空の下、Kitchen Dagonの前に立った散里安奈ちるさとあんなは息を呑んだ。

「まさか……」

 傍らの阿弥陀寺先生も、そう呟いて嘆息した。

「まさかのときのセーラム魔女裁判、ですよ」

「なんですか、それは」

「あ、つい。そういうコントがあるんです」

「ふむ。流行にはうといもので、すみませんね」

「いえ、流行っているわけでもないと思いますけど……」

 そんな会話をかわしてから、ふたりはあらためて洋食店に目をむける。

 道路に面した煉瓦調の壁。そこにはいつもと変わらぬ出窓ふうの窓が……ない。かわりに壁面いっぱいに貼りわたされた青いビニールシートの角が、まだときおり強く吹く風にあおられてはためいていた。

 安奈は印寿真洲の北、海岸に沿って走るバスに五十分ぐらい揺られたところにある新生辺にうべりという町で、歴史民俗資料館の学芸員をしている。歴史学の修士課程を出て働きはじめたばかりの、まだ駆け出しだ。

 阿弥陀寺先生は、というと、こちらは内陸がわの隣町、あかねにある海坂徳育みさかとくいく大学を定年で退官して、いまは印寿真洲で余生を楽しんでいる。

 ふたりが知り合ったのは今年の初夏のころ。このKitchen Dagonでのことだ。

 秋の、土日を含めた三連休の最終日。

 もともとの予定では初日の土曜日に、印寿真洲港のすぐ外にある奇岩の集まりのような小島、伊波いはくずれに行く観光渡し船に乗るはずだったのだ。阿弥陀寺先生が自家用車で拾いに来てくれて、海沿いの道をドライブして。

 それが当日、台風の接近のせいで渡し船が欠航になって流れ、日曜日は暴風雨が直撃して路線バスさえも運行を取り止めるほどの荒天になった。

 そんなわけで台風が通過して天候が回復した今日、ようやく約束を果たすことになったのだけれど、沖から打ち寄せる波はまだ高く、ふたりで印寿真洲に着いたあと観光船の乗り場で訊ねると、様子は見るが、午後になっても再開は難しいだろう、と言われてしまった。

「こればかりは、しかたがないですね。せっかく来ていただいたのだし、食事ぐらい、していきませんか」

 阿弥陀寺先生の提案で、安奈と先生は、なじみの洋食店にむかったのだった。

 ふだんKitchen Dagonは月曜日が定休なのだが、祝日にあたるときは営業している。

 ……はずだったのだけれど。

 ブルーシートに覆われた壁からすこし引き込んだところにある入り口のドアの奥には明かりがなく、「営業中」の札もさがっていない。

 安奈が先生と顔を見合わせていると、ころから、と音が鳴り、扉が中から開いた。

「すみません、今日は、こんなだからお休みで……。あ、先生。と、安奈さん」

 出てきたのは二十歳はたちそこそこの女性である。織亜おりあさんという。このお店の初代でいまでも経営者ではあるグランマから仕事を受け継いで、最近はほとんどひとりで厨房も接客もこなしている。今日は髪の毛こそいつもと同じように後ろでまとめてくくっているけれど、調理をするときに着ける白い上衣は着ていなくて、グレーのスウェットにジーンズという格好だった。

「どうしたの、これ? 大丈夫?」

「これは、どうしたんですか。大丈夫ですか」

 訊こうとした安奈の声が、先生の声と重なった。

「あー、はい」

 織亜さんは、ちょっと苦笑いの顔になる。

「見ためほど大変なことになってるわけじゃないんですけど……」

 Kitchen Dagonは商店街から少し住宅街に入ったところにある。前の道路は路線バスも通る道だが、片側一車線でそれほど広くない。道を挟んだ向かいには、事務所兼住居のような、三、四階建ての低いビルが数軒つらなっている。そのうちのひとつの屋上から柵の一部が風に押されて落下してきて、運悪く出窓に直撃したのだという。

 そのときは、この世の終わりみたいな音がしました。

 と、織亜さんは言った。この店舗の二階には、ふだんグランマと織亜さんの従妹のろびんが寝起きしていて、彼女は近所のアパートに住んでいるのだが、かたや高齢者と中学一年生のふたりきり、かたや若い女のひとり暮らし、こんなときは心細いから、と、昨晩は三人で上階で寝ていたのだそうだ。

 落下物の回収は朝のうちに終わり、出窓の応急処置も近所の人が手伝ってくれた。窓の修理は保険で補償されるから、財務的なダメージはあまりない。

「だけど、ガラスが特注みたいで。明日にならないと、納期にどれくらいかかるかわからないって言われちゃいました」

 なので、窓がなおるまで、しばらくお休みですね。織亜さんは申しわけなさそうにする。

「そういえば、安奈さんは何しに来てるんですか?」

「あ、それはね」

 安奈は先生との、流れて、流れて、今日も流れそうな計画について説明した。

「それは……渡し船もウチも無駄足になっちゃって、なんか悪いです」

「でも、織亜さんのせい、というわけじゃ……。台風が来たからだし、私たちが間が悪かった、というか」

「そうですけど……」

 新装開店したら、すぐに来ますから。教えてください。阿弥陀寺先生がそう言ってなぐさめているあいだも、織亜さんは何か思案しているふうだった。

「そうだ。おふたりは、これからお昼なんですよね?」

「ええ、そうです」

 先生が答える。

「お時間はありますか?」

「はは、時間だけはありそうです。今日は何事も、ゆっくりしたほうがよさそうですしね」

「だったら……」

 織亜さんはお店のほうをふりかえって二階を見上げ、口の横に片手をあてた。

「ろびんー、ちょっと来てー」

 すぐに上の階で、こちらに面したちいさな窓のひとつが開いて、マッシュルームのようなボブカットの頭がのぞく。

「なーに?」

「ちょっと降りてきて」

「んー」

「あっ、まだガラス落ちてるかもしれないから、サンダルで来ないんだよ」

「わかってるって」

 答えるか答えないかのうちに頭は引っ込んで、すぐに建物の中から、どたばた足音が響く。

 まもなく、店のドアが、ころから、と開いて、ろびんが織亜さんの隣に並んだ。ろびんも長袖のTシャツにスウェットパンツという、部屋着か作業用の服装、といったところである。

「先生、いらっしゃい! 安奈さんも」

 そう挨拶してから、あ、今日はお店やってないから、いらっしゃい、じゃないか、とひとりでつぶやく。彼女も営業しているときは、接客の手伝いをしていることがあるのだ。

 んで、どうしたの? 

 訊ねるろびんをちょっと横にひっぱっていって、織亜さんは何か耳打ちをした。

「……できる?」

「いい、けど、ぼくが作っていいの?」

「お姉ちゃんも他に用意するものがあるし。それに、朝ご飯に出してくれたの、おいしかったよ」

「ん、わかった」

 じゃあ決まり。そう言って、織亜さんは安奈たちのほうに向きなおる。

「あまりたいしたものじゃないけど、テイクアウトのピクニックランチならできると思うんですが、どうですか?」


  *


 少し時間かかるかもなので、中で待っていてください。

 織亜さんにうながされて、安奈はKitchen Dagonに入った。

 いつもはやわらかい黄白色の照明に満たされている店内は、今日はビニールシートを透かした外光と、キッチンから漏れてくるわずかな光だけで薄暗く、明るいところも影になっているところも青っぽく染まって奇妙な色あいだった。

 掃除の途中なので、ちらかってますけど、と織亜さんは言っていたが、客席はどちらかというと、片付きすぎてがらん、としている。椅子やテーブルは一方の壁に寄せて積み上げてあって、こうしてみると意外と広いんだな、と安奈は思う。

 阿弥陀寺先生は、それなら家に車を置いて、ワインでも取ってきますよ、と、ひと足先に店先から離れていった。昼食を受け取ったら、岬の展望台への入り口で会うことになっている。

 安奈は店の奥、厨房のすぐ手前にあるカウンターの椅子に腰かけた。

 二階からろびんが降りてきて、お姉ちゃん、これでいいんだよね? と、まだ入り口のあたりにいた織亜さんに、何かを見せてから調理場に入っていく。彼女が手にしていたのは黒いまっすぐの棒の先に、黒い四角がとりつけられたような道具だった。

 織亜さんはドアを閉めて安奈のほうにやってくると、カウンターのむこうがわにまわって、しゃがんで何かを探しているようだった。それが済むと裏に行き、二階とキッチンを何度か往復していたが、用はそれで終わったのか、安奈の横に来て椅子を引いた。

「あれ? それ、かわいいですね」

 隣に座った織亜さんが、そう言って指さしたのは、安奈が右手首にはめている腕輪だ。安奈はカウンターに肘をついてスマートフォンを使っていたので、長袖シャツの袖を、一段、折り返したところから、光沢のある黄色い表面がのぞいていたようだ。五センチほどある太めの腕輪で、手首側にスリットが入っているので完全な輪っかではない。前端と後端はそれぞれ、連続した円の模様の浮き彫りで縁取られていて、それらに挟まれた部分にも、ところどころに装飾が浮いている。

「そ、そうかな」

 安奈は無意識に左手で腕輪を撫でた。表はでこぼこしているけれど、つるりとした手触りなのは材質のせいなのだろうな、と思う。

 キッチンからは熱された油の香りが、ほんのりと漂いはじめている。

「どうしたんですか? それ」

「うん、えっとね……いや……」

 そこで安奈は言葉を切った。そして、あ、いま私、視線が泳いでいるな、と思う。別に、なんということはない話な気もするのだけれど。

「なんですか? 気になるじゃないですか」

「えー、別に、聞いても面白くないと思うけど……」

 織亜さんに興味津々の目を向けられて、安奈は仕方なく、話しはじめる。


  * 


 ……今週末に限らず、今年は台風が多かった。夏の間にふたつ、九月に入ってからもひとつ、印寿真洲の近くを通過した。

 それと腕輪がどう関係するかというと、印寿真洲の隣市、いまは合併して新しくできたあかね市の中心になっている茜では、台風の後になると、あるものがよく採れる。

 増水した、市内を流れる海坂川に、山のほうからたくさん流れつくのだという。

 九月のはじめごろ、安奈は阿弥陀寺先生に誘われて、それを試食しに行った。

 ちょうど夏休み中に家族むけイベントで休日出勤したぶんの代休がある週だったので、水曜日に約束をして、新生辺から茜は電車の便があるので、茜の駅で先生と待ち合わせた。まだ暑さがきつく残る日で、安奈はノースリーブのワンピースに少しだけヒールのあるサンダル、という格好で行ったけれど、先生はネクタイこそしていなかったものの、薄手のジャケットをきっちり着てあらわれた。

 時間は昼どきのちょっと前ぐらいだった。だけど、めあての店に行ってみると、どうやらもう列ができているらしい。店主は先生と顔なじみのようで、並んでいる人の頭ごしに先生が手を振ると、あ、どうも、と気がついてはくれたのだが、今日はなんでだか忙しくて。後で来てもらえたら、ゆっくりしてもらえると思うのですが、と言われ、しばらく町をぶらぶらすることになった。

 思えば、間が悪いのはこのときからだったかもしれない。

 父娘以上に歳が離れているし、阿弥陀寺先生にはそもそも子どもがいない。どういうところに行ったらいいのか、お互いに探りあうような感じになってしまって、最初の十分ほどはただ歩きまわるだけで時間が過ぎた。

「そうだ」

 ある道まで来たとき、先生が不意に言った。

「ここからでしたら、ちょっと海大みだいに寄って行きませんか」

「あ、はい」

「今日だったら博物館も開いているはずです。前に話した、腕輪をお見せできると思いますよ」

 安奈が働いている新生辺の資料館には、印寿真洲で出土したといわれる頭飾りの欠片が収蔵されている。ただし、その出自についてはいくつかの推測があるだけで、詳しいことはわかっていない。はじめて安奈が阿弥陀寺先生に会ったのは、安奈がそれについて調査をしようと思い立ち、印寿真洲におもむいた、雨のそぼ降る日だった。そのときに、海坂徳育大学の博物館で、似たような意匠のほどこされた腕輪が展示されている、ということも知った。

 そのあと、安奈は漁港の町に何度か足をはこんで先生から話を聞いたり本や論文を紹介してもらったりしたけれど、博物館の開館日と安奈の休日が合わなかったりして、実物を見る機会がこれまでなかったのだ。

 阿弥陀寺先生の現役時代の研究は、図書館や博物館とも関係が深く、退官する直前は両方を合わせた組織の「館長」をしていたのだという。

「名前だけの館長ですよ。でも、もし当時の知り合いがまだいたら、ちょっと無理を聞いてもらうぐらいのことはできるかもしれないですね」

 海坂徳育大学に入るのは、安奈ははじめてだった。それほど広くはない敷地に、煉瓦を積んだアーチを備えたいかにも古そうな建物から、ガラス張りの現代的な高層棟までがぎゅっと詰まっている。まだ後期の授業ははじまっていなかったけれども人通りはそこそこあって、学期中には学生であふれかえるのだろう、と安奈は思った。

 図書館と、それに隣接する博物館は、いちばん古くもいちばん新しくもない、建築された当時にはそれが流行りだったのかもしれないコンクリートの、のっぺりした建物だった。

「そろそろスペースが足りなくなってきているのですが、建て増しする敷地もあまり残っていないのですよ」

 建物に入りながら、先生はそう言って眉毛をハの字にした。

 ふたりは博物館の入り口にまわり、真っ先に腕輪のあるはずの陳列室にむかった。

 ところが着いてみるとケースは空で、ぽつん、と説明板があるのみだった。やっぱり間が悪い。

「ちょっと訊いてきます」

 と受付の方向へ戻っていった先生は、それほどしないうちに帰ってきた。若い……といっても安奈よりは十歳ほどは年上の男の人を、すぐ後ろに引き連れていた。阿弥陀寺先生よりも背が低く、小太りで、よく日に焼けている。

「いいタイミングで会いました。ちょうどいま、彼がプロジェクトで腕輪を使っているのだそうです」

 阿弥陀寺先生はその男性を、頼栖らいす君です、と紹介した。先生が退官する少し前に赴任してきた、考古学の教員であるらしかった。

 頼栖君は、安奈と先生を地下の一室に招き入れてくれた。そこには安奈にはただの大きな箱にしか見えない機械がいくつか、モニターに囲まれて並んでいた。

 腕輪は、グレーがかった半透明のプラスティック板らしきもので覆われた、そんな箱のひとつの中にあった。

「これを見てください」

 頼栖君が画面を示す。縦、横、斜めに引かれたワイヤーフレームのグリッドの中に、腕輪のアウトラインが細かい三次元の線で描かれている。

「3Dスキャンが終わったところです。このデータを使って、たとえば文様の一致をより高い精度で検出することができるようになるかもしれないですし、3Dプリンタで出力して、複製を作成することもできます。保存と研究利用、両方の役に立つ、というところですね」

「すごい……」

 安奈はモニターに映し出された三次元モデルに見入った。

「これ、復元にも使えたりするんでしょうか」

 質問を投げかけてから安奈は、背景を完全に飛ばしてしまったことに気がついて、あ、あ、あの、私、新生辺の歴史民俗資料館で学芸員をしておりまして、で、あの、その、似たような宝冠が収蔵されていて、と説明して、それから、ああ、うまくしゃべれてない、と頭の中で勝手に落ち込む。

 けれども頼栖君はおだやかに笑って説明をしてくれた。

「これはあくまでも実物をスキャンしたものなので、良好な状態で残っている遺物か、物理的な復元が完了したものに使うことがいまのところは前提です。もちろんデータ化されたモデルは受け渡しが可能になりますから、モデリング用のソフトウェアでつなぎあわせたり足りないところを付け足したりはできるようになります。そこから3Dプリンタにパスしたりすれば、非破壊的な復元作業に活用したりできそうですよね」

「たしかに。装身具だったら、実際に身に着けて復元の妥当性を検討したりもできそうですね」

「あはは、それは面白そうですね。将来的な話にはなりますが、このデータと手法の活用も考えなければならないので、おたくの収蔵品もプロジェクトに加えることができるかもしれないですよ」

「本当ですか?」

「そうですね。あと、地域との連携とか、地域コミュニティにおけるビジビリティも予算の獲得には重要なファクターになりますし……」

「あ、じゃあ、連絡先……」

 バッグに手を伸ばそうとして、ふと安奈が気づいて見まわすと、阿弥陀寺先生は部屋の隅で壁に寄りかかり、目を細めて彼女たちのほうを見ているようだった。

「……すみません。先生を差し置いて、私ばかりお話ししてしまって」

 部屋を出て、ふたりで地上階に戻るとき、安奈は先生に謝った。

「いえいえ、ここから何か発展するといいですね」

 ああいうのは私にとっては魔法のようなものですが、これからの世代の研究者には、当たり前の技能になるのでしょうね。そう静かに言って先生は階段を昇った。

 それから先生は、階段の一番上に着くか着かないかのところで、ふと、足を止めた。そして、そういえば、頼栖君に頼みごとがあったのを忘れていました。少し待っていてください、と踵を返すと、ふたたび地下に潜っていった。

 私がたくさんしゃべって邪魔をしてしまったし、会うのも久しぶりなのかもしれないし、もしかすると長くなるのかな、とも安奈は思ったが、それほど複雑な用事があったわけでもなかったのか、そのあたりの展示を眺めてうろうろしていると、先生はすぐにまた、階段から姿をあらわした。

「お待たせしました。そろそろいい時間ではないですか」

 言われて安奈が時計を見ると、午後一時を過ぎてだいぶ経っている。どんなお店でも、ランチ客はそろそろ終わるころだろう。ふたりがさきほどの店にもう一度行くと、到着するころにはもう二時近くになっていて、列はすでになく、店内にいた客も、最後のひと組が入れ違いに出ていくところであった。

 その店は谷津地たにつちという名前で、Kitchen Dagonよりもさらに狭い、カウンターだけの小料理屋だった。

 ただ、長細い店内のいたるところに、渋い色のちいさな花瓶に生けられた一輪挿しが置かれていたり、達筆な毛筆の掛け軸が提げられたりしていて、そういった調度から、アットホームなKitchen Dagonとはちがう高級感が醸し出されているように安奈には感じられた。

「先生、いつぞやはお世話になりました」

 カウンターの中に立つ板前さんらしき男性が言った。作務衣のような服を着ていて、ひょろりと背が高い。それほど歳をとっているようには見えなかったが、話しかたはおだやかだ。

「もう四、五年前になりますか。私が大学にいた最後の年になりますから」

 阿弥陀寺先生が応じる。

「そういえば、他の先生がたから奥様のことを聞きました。なんというか、その……」

「それももう、だいぶ前のことになりますね」

 答えて先生は笑った。どこかさびしそうな笑顔、と安奈は思った。

「お連れのかたはお嬢さまですか」

「いえいえ。研究者仲間ですよ」

「あ、これは、失礼しました」

 研究者仲間。

 先生はさらりとそう言ったけれど、安奈はどこか、そわそわした気分になった。

「さて、何をお出ししましょう」

「今日は、みごを試しに来たんです」

「ああ、そうでした。先生には結局、完成してから召し上がっていただいたことがなかったですね」

「いろいろ、ありましたから。でも、今年は豊漁だと聞きました。いい機会だと思いまして」

「ええ、今年は量も、質も最高です。台風が多い年が、やはりいいようですね」

「……それから、食事は松花堂弁当にしましょうか。いいですか?」

 急に先生から質問されたので、安奈はあわてて、あ、はい、と答えた。それから席の前に立っている品書きに目を走らせてみると、松花堂弁当は安いほうからふたつめのメニューだった。それでも三千円だ。

 さんぜんえん……と一瞬、固まりそうになったけれど、ここで騒いでも先生が恥をかくだけだろう。出費としては痛いけれど、先生に連れてきてもらうようなことがなければ、たぶんこんなお店に入ることもない。今日ぐらいはいいか、と安奈は自分を納得させた。

 みご、というのは食材の名前であるらしかった。

 海坂川の流域、特に茜の周辺で、昔はよく食べられていたようなのだが、明治に入ったころからその習慣が廃れ、第二次世界大戦の後ぐらいには調理のしかたを知っている者がもう残っていなかった、という。

 地域興しのために、それを復活させよう。

 茜の飲食業の組合でそういう動きがあったのが、五年ほど前のことでした、と、調理場の男性は語ってくれた。彼は、植井鳥うえいとりさんという名前だった

 はじめのうちは、いわゆるB級グルメとして売り出そうと創作料理を皆で試していたのだが、どうもうまくいかない。

 海坂徳育大学の貴重書コレクションに、江戸時代にみごの料理法を記した稀覯本がある、と植井鳥さんが知ったのは、ちょうどそんなときだった。

 谷津地の経営が苦しかった植井鳥さんは、そのレシピの可能性に賭けた。

「双子のきょうだいがいるんですが、からだが弱くて働けなくて。僕が支えないといけないんです」

 と、彼は言った。

「最近はどうですか」

「おかげさまで、なんとかなっています。店も、家族も」

 学外の、それも研究者でもない人間からの閲覧依頼、ということで、図書館は最初、難色をしめした。結局、まわりにまわって、館長だった阿弥陀寺先生に引き合わされた。はじめは事情がよくわからずに会った先生だったが、何度か話をしているうちに植井鳥さんの熱心さに負けた。最終的に、先生が話をつけて、江戸が専門の国文学や歴史学の教員も巻き込んで、再現がはじまったという。

「でも、何がどう転ぶかわからないもので、それがコレクションにある料理書をデジタル化して、翻刻とともに公開する、というプロジェクトに発展したんですよ」

「そこから植井鳥さんが再構築したレシピ、というのも、そろそろ公開されると聞きましたが」

 阿弥陀寺先生が訊ねる。

「ええ、そうなんですよ。いくつか担当させていただきました。『キッチンガジェット』にのりますよ」

「え、あのレシピ検索サイトのですか」

 ここの部分にだけ反応の薄かった先生に代わって、安奈が答えた。

「すごい」

「ほう、有名なんですね」

 僕が有名になるわけではないですから、そう謙遜しながら、植井鳥さんがひと皿めの料理を出してきた。話しながら手を動かしていたのはこれだったらしい。

「まずは焼きもので、どうぞ」

 長方形の備前の小皿の上に、ぽち、ぽち、と置かれたそれは、親指の先ぐらいの大きさで、色も焼き色のついていないところはややピンクがかった薄いベージュで、なんとなく親指っぽい。

 というとあまりおいしくなさそうに聞こえるかもしれないけれど、これが絶品だった。

 見ためは柔らかそうなのだが、口に入れると意外と歯ごたえがある。キノコに似ているかも、と安奈は思った。繊維の入りかたが近いのだろうか。焼いてあるためか汁気はあまり感じなかったものの、パサパサしているわけではない。それそのものに味はあまりなさそうだったけれど、鼻腔の奥に抜ける香りがあって、そんなところもキノコっぽい。上に薄く塗ってある柚子風味の味噌がアクセントになっていて、添えてある山椒の葉が目にさわやかだった。

 安奈と先生がそのひと皿を味わっている間に植井鳥さんは奥の調理場に入っていった。すぐに油の爆ぜる音がした。

 ふた皿めは揚げ出しだった。真っ白な磁器の小鉢に、うす茶色の出汁が張られ、その中央に、薄く衣をつけて揚げたみごが重なっている。上には大根おろしが添えてあり、柚子の皮の小片がそのてっぺんを飾っていた。

 箸でつまんで口にいれると、今度は食感がまったくちがい、とろり、ととろけるように柔らかい。味や香りはあまり変わらず、独特の芳香が、きちんととられた出汁の芳香とともに口の中に広がる。

「これは不思議ですね」

 安奈と似たように感じたらしく、阿弥陀寺先生がそう言った。

「高温で調理すると変わるようなんです。江戸時代の料理書には正確な調理時間まで書かれていなかったので、ちょうどいい時間を決めるのが難しかったですね」

 そのあとに出てきた松花堂弁当も、当然ながら美味だった。

 酒粕に漬けて焼いた白身魚は香ばしかったし、里芋やオクラの入った炊きあわせはやさしい味だった。ウニを入れて練ったという蒸しものはコクがすごかった。

 だけど、みごの風味は忘れがたいですね、という点で、安奈と阿弥陀寺先生の感想は一致した。

 谷津地を出ると、もう五時近くだった。

「あの、払っていただいてしまって、すみません」

「いいえ。私が誘ったのですから」

 印寿真洲に帰る阿弥陀寺先生はバスなのだが、先生は新生辺まで電車の安奈を、駅の改札口まで送ってくれた。

「時間は大丈夫ですか」

「二十分後に普通が一本あります」

 改札機の奥の天井から下がった電光掲示板を見て安奈は答えた。

「今日は、ありがとうございました」

 一礼して、安奈が改札にむかおうとすると、先生は、そうでした、と、おもむろに彼女の右手を取った。

 そのまま、騎士が淑女に接吻をするときのように、手を片手でささげ持つ。

「え」

 安奈がどぎまぎしていると、先生は空いているほうの手でジャケットのポケットから何かを出し、それを安奈の手首にすべりこませた。

 肌に触れる側は少しざらざらしているそれは、腕輪だった。黄色い樹脂でできていて、形も模様も、頼栖君の研究室で見た、印寿真洲の黄金の腕輪にそっくりだった。

「試しに出力したものがある、というので、頼み込んでもらってきてしまいました」

 そう言って先生は、いたずらっぽい笑いを浮かべた。

「ぴったりのサイズですね」

 先生と別れて、電車にひと駅、乗る間、安奈は右手首にはまった腕輪を、ずっと眺めていた。


  *


「……ということがあって」

「へえ、みご、というんでしたっけ? はじめて聞きました」

 あ、そっちに食いついてきたか、と、織亜さんの反応に、安奈は少し安心する。彼女も料理人だし、やはり興味があるのだろう。

「うん。私もはじめて知ったんだけど、美味しかったよ」

「キノコみたいな歯ざわりで、でも野菜ではないんですよね。貝かなあ。淡水の」

「あ、そういえば、どうやって捕るのか聞かなかった……。海坂川にもいつもいるわけじゃなくて、山のほうが増水すると流されてきて捕れるようになるって言ってたかな」

「それって、ロッキーマウンテン・オイスターみたいなものだったりはしないですよね」

「ロッキー……?」

「あ、いいです。聞かなかったことにしてください」

 織亜さんは顔の前で両手を振った。彼女が頬を赤くしている理由は、安奈にはよくわからなかった。ロッキー、何?

「それはそうとして、その腕輪、先生からのプレゼントだったんですね」

 話題を変えて、織亜さんは、にやにや安奈を見てくる。

「プレゼント、というか……」

「で、どうなんですか」

 今度は安奈が顔の前で両手をばたばた振る番だった。

「なんにも! なんにもないから!」

「お姉ちゃん、できたよー」

 ちょうどそのとき、キッチンからろびんの声がした。

「お、はいはい」

 織亜さんは席から立って、奥に入っていく。

 ろびんを連れて戻ってきた彼女の手には、バスケットが提げられていた。

 粗い編み目の、ニスを塗った濃い茶色のとうのカゴで、赤い大きめのチェック模様の中敷が入っている。まさに「ピクニック」という雰囲気、と安奈は思った。

 中には紙袋がふたつ。大きめのと、ちいさいのと。それから魔法瓶が二本。

 受け取って安奈が、ちいさく袋の口を開けて中をのぞこうとすると、焼けたパンと焦げたチーズの、香ばしいにおいが立ち昇った。

「グリルド・チーズ・サンドイッチ、ってグランマはいいますけど、要はチーズのホットサンドですね」

「ろびんちゃんが作れるんだ。すごい」

 安奈が褒めると、ろびんは照れたのか、ちょっとそっぽをむいて、簡単なんだよ? と小声で答える。

「ちいさい袋には、自家用なんですけど、グランマのピクルスが入ってます。あと、水筒は、こっちがコーヒー、こっちがトマトスープです。スープも、うちで食べる用に作ってたんですけど」

 説明は織亜さんがしてくれた。

「美味しそう。ありがとう!」

 礼を言いながら支払いをしようとハンドバッグに手を伸ばしかけた安奈を、織亜さんが制止する。いいですいいです。メニューに載せてないものばっかりだし。

「バスケットと水筒も、今度、来るときで大丈夫です。先生に預けておいてもらってもいいですし」

 からころ、とろびんが開けてくれた扉を抜けて外に出ると、外の光がまぶしかった。

 まだ少し風があるようで、安奈の足下を落ち葉が数枚、転がっていった。

 台風が吹き飛ばしていって、今日は雲が少ない。岬の展望台からは、地平線がきれいに見えるだろう。

 安奈はバスケットの把手を握りなおし、海にむかって、歩き出す。

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