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オーダー・オブ・ダゴン  作者: ギルマン高家あさひ
3/16

なかなおりサンデー

 その日は日曜日だった。

 入矢村織亜いりやむらおりあは、開店まえのKitchen Dagonの店内を見まわした。

 黒光りするハードウッドの床。それにマッチした、渋い焦げ茶色の木のテーブルと椅子。どちらにも塵ひとつ落ちていない。

 席ごとの塩と胡椒とソースとつまようじと紙ナプキンも十分に補充され、下敷きのちいさなトレーの上に、きちんと整列している。

 観葉植物の鉢にも全部、水をやったし、壁の黒板もまっすぐにした。

 正面の窓からは、夏らしくなった陽射しがきらきらとさしこんでくる。

 ようやく先週、梅雨が明けた。今日は爽やかな一日になりそうだ。

「よし」

 織亜はひとりでうなずいて、仕込みの確認をするために厨房に入った。

 料理を出す小窓の隅に置いてあるちいさな時計に目をやると、時刻は十時四十五分だった。

 今日は十一時に店を開ける日なので、あと十五分。

 ……あれ? そういえば。

 そのとき織亜は気がついた。今日はまだ、ろびんが来てないな。

 大向手おおむくてろびんは織亜の従妹だ。この洋食店の二階の居住部分に、店主でもあるグランマといっしょに住んでいる。グランマは織亜とろびんの実の祖母で、ろびんは織亜の父の妹の娘にあたり、だから従姉妹同士でも名字が違う。

 織亜は、高校生のころからアルバイト、調理師学校を卒業したいまは従業員としてここで働いているのだが、ろびんは幼くして母親をなくしたあと、グランマに預けられて、この店舗兼住宅で育った。

 いや、育った、というより、今年で中学一年生なので、まだ、育てられている、というのが正しいか。

 そのろびんは、平日は学校から帰ったら、休みの日には起きてすぐ開店まえに、だいたい店舗部分に顔を見せる。

 実質的な保護者のグランマがお店を切り盛りしている時間が長かったから、それが習慣づいてしまったのかもしれない。

 そうして気がむくとフロアの手伝いをしてくれることもあって、もっと幼いころはごっこ遊びのような感じでグランマも常連客しか相手にさせていなかったようだけど、ここ数年はしっかりしてきて、わりと戦力になる。こともある。

 最近はグランマが表に出てこない日も多いので、あと二、三年して高校生になったら正式にアルバイト店員として働いてくれないだろうか、と織亜は画策していたりする。

 もっとも昨日はハルちゃんと一日出かけていたし、今日も約束がある、と言っていた気がするから、またどこかに行くのだろう。

 それにしたって、起きたら一度はこっちに来るはずだけどな。

 織亜がそんなことを考えながら厨房内の食洗機のフタを開けたとき、居住部につながる裏のドアの音がして、なにを履いているのか、ずる、べた、ずる、べた、と床を鳴らして、ろびんが入ってきた。

 のろのろした動きでカウンターのまえにまわり、スツールのひとつに、どかっと腰を下ろす。

「おはよ」

 キッチンから織亜が声をかけると、いつもなら元気に挨拶が返ってくるのだけれど、今日のろびんは、うん、とひとこと、ちいさな声で返事をするだけだった。そして、はあっ、とひとつ、息を吐いた。

「どうしたの? 夜更かしでもした? まだ眠い?」

「ううん」

「もう夏ばて? さいきん急に暑くなったけど」

「ううん」

 本格的な夏がはじまったとはいえ、海べりのこの町は、風が通るとまだ涼しい。

 それにろびんは昨日だって、出かけるまえの昼食に、織亜が作った「まかない」のパスタをもりもり食べていたから、織亜も、夏ばてってことはないだろう、とわかって聞いているのだが、答えるろびんの声は、なんだか弱々しい。

「じゃあ、悩みごと?」

「なんでもないってば」

「そう?」

 なんでもないわけはないよな。織亜はそう思いながら冷蔵庫の中を確認する。

「あのさ、そろそろお店、開けるから、『営業中』にしてきてくれない?」

「うん」

 うん、と言いながらもろびんは腰を上げる様子がない。織亜はわざと長ーくため息をつきながら自分で店の入口に行き、ドアのロックを外して営業中の札を出した。

 スツールに座っているろびんは、素足にゴムサンダルをつっかけて、ハーフパンツにTシャツ。その上にこのごろお気に入りらしい、あざやかな緑のジャージを羽織っているから、外出するつもりではあるようだ。

「そういえば、ハルちゃんと会うんじゃないの。遅刻してない? 大丈夫?」

 織亜が聞く。ろびんは口の中でごにょごにょ言葉を転がすだけで、はっきりと答えない。

「なんて? 何時に待ち合わせなの?」

「…………」

「どこで会うの? 時間、大丈夫?」

「だから、大丈夫だってば!」

 ろびんは急に語気を強め、勢いよく立ち上がった。

 そして厨房に戻ろうとしている織亜の横をすり抜けるように行き違い、織亜がいま解錠したばかりの店入口から出ていこうとする。

 顔は織亜からそむけて、目を合わせようとしない。

「あー、もしかして」

 織亜はドアに手をかけたろびんの背中に声をかける。

「ハルちゃんと、ケンカした?」

「し、してないし」

「サンデー、作ったげようか?」

「う……」

 図星だったのか、ろびんの動きが止まる。ドアの鈴が、ころ、とだけ鳴る。

 ろびんは、しばらく迷っているようだった。

 迷っていたが、すぐに、ううん、と首を横に振った。

「……自分で向き合わないといけないことだから」

 そう言うと、扉を自然に閉じるにまかせて、店を出ていった。

「まったく、大人になったんだか、まだ子どもなんだか」

 織亜は腕を組んで、ろびんの後ろ姿を見送る。

 からからん、と木の鈴がつづきの音を立てて、ドアが閉まる。

 Kitchen Dagonのアイスクリーム・サンデーは、爆発的な人気があるわけではないが、ロングセラーのメニューだ。

 バニラのアイスクリームを三スクープ、小ぶりの深皿にたっぷりめにすくって、キャラメル風のバタースコッチというソースと、温めたチョコレートのファッジをかける。お好みで砕いたナッツと生クリームをトッピング。いちばん上にはシロップ漬けのチェリーを、ちょこん、とのせる。バタースコッチとファッジは、いまでもグランマの手作りである。

 大人でも、食後のデザートに頼むと食べきれない人もいるぐらい。子どもだったら、ふたりで分けてもまだ余る。

 サンデーこさえてあげるから、ハルちゃん呼んできな。

 ろびんが幼なじみとケンカしたときの、これがグランマの定番の台詞だった。

 ハルちゃん、こと江良間芽春えらまめばるは、この町の漁港の近くで民宿・エラ萬を営んでいる一家の末娘だ。エラ萬というのは数代まえの当主の名からとった屋号らしい。

 ろびんがグランマに引きとられてきたのが三歳か四歳のころ。グランマも芽春の両親も家で商売をしているから、おない年のろびんと芽春とは、保育園からの仲だ。

 小学校に上がってからも、中学に入ってからもいっしょに登下校しているし、放課後や週末にもおたがいの家を行き来して遊んでいる。Kitchen Dagonが暇なときは、客席で並んで座って宿題をやっていることもある。

 だから、気は合うのだろう。

 だけど、織亜からみると、ふたりの性格は、けっこう違う。

 ろびんは社交的でもの怖じをしない。ただ、悪くいえば衝動的で強引なところがわりとある。

 芽春は、おっとり、のんびり。そして、自分のペースを乱されるのがあまり好きではないようだ。

 なので、芽春が遊んでいるおもちゃをろびんが取り上げてしまったり、ろびんが急に気分を変えて、彼女を待ちぼうけにしてしまったり……こう思いだしてみると主にろびんが原因なような気はするが、ちょっとした理由で仲たがいすることがときどきあった。

 そして、ろびんは、ふだんはおしゃべりなのに、そういうときになると引っ込み思案になってしまって、自分から謝りに行くことができない。

 そこでアイスクリーム・サンデーなのである。

 サンデーを口実に芽春をKitchen Dagonに連れてきて、ひとつの皿をふたりでシェアしているうちには機嫌もなおる。最後に、ひとつしかのっていないトッピングのチェリーをろびんが譲って、それで仲直り、というわけだ。

 子どもっぽい、と言ってしまえばそういうことなのだけれども、ついこのあいだ、小学校の卒業式の直前にも、そのときは織亜が、ふたりにサンデーを用意した。

 たぶん、まだ、そういうのが必要な年ごろなのだ。

 それが今回は、「自分で向き合う」という。

 どういう風の吹き回しなんだろう、と織亜は考える。


 *

 

 話は前日にさかのぼる。

 土曜日の夕方。

 大向手ろびんは、町を見下す高台にある海神社の境内にいた。

 瓦葺きのちいさな社殿。その横手の、伸び放題に伸びた夏草の中に沈むベンチ。

 そこに両足を引きあげて、体育座りのように座り、膝に額をつけて腿に顔をうずめている。

「ハルちゃんのバカ」

 隠した頬を、涙がひとすじつたう。

 いや、そうじゃない。

 悪いのは余計な口を出した自分のほうだ。

 それは、ろびんにもわかっていた。

 だけど……。

 だけど、そんなに怒ることないじゃんか、とも、ろびんは思う。

 その日、芽春とろびんは絵を描いていた。

 美術の宿題があったのだ。近所の好きな場所の風景を何枚かスケッチしてくるように、という。

 その中からよさそうなものを一枚選んで水彩で色をつけるのが、もうすぐはじまる夏休みの課題になるらしい。

 昼すぎに待ち合わせしていくつかのポイントをまわり、この直前は、漁港の突堤から、岸壁に並んで繋がれた漁船を描こうとしていた。

 梅雨は明けたが、ときどき雲がかかる天気で、陽射しはそれほど強くない。突堤のさらに海側のほうに釣り人がちらほら立っている。

「あのね、いいことがあるんだけど」

 そう言ってろびんが芽春に自分のスケッチブックを見せたとき、芽春はすでに、岸壁になる平行線を横にむけた画帳のページに描き、いちばん右に停泊している小型船の輪郭をとりはじめていた。

 ろびんのスケッチブックには、まっさらなページの上にタテヨコに数本ずつ直線が引かれている。

「こうやって紙を区切ってね、ひとつひとつのマスを埋めていくようにするときれいに描けるんだって」

 こないだダゴンに来てた絵描きのお客さんがそうやって描いてたんだ。ろびんはそうつづける。

「へぇ」

 と芽春は鉛筆を止めずに応じる。

「ハルちゃんも、やってみなよ」

「んー」

「ほら、定規かしてあげるから。ねっ」

 そう言ってろびんは、芽春の描いているページの上にプラスチックの定規をのせる。

 芽春は、それにちらりと目をやって、それから漁船を描くのを止めて、紙に線を引きはじめた。

 そこまでは異変はなかったのだ。

 すくなくとも、ろびんの気がつく範囲では。

 しかし、マス目を描き終えた芽春は、それをじっと見つめるだけで、なかなか鉛筆を動かすのを再開しない。

「こうすればいいんじゃないかな。簡単だよ」

 ろびんは自分の埋めた、左端のマスを芽春に見せる。

 それがうまくできているのか、自分でもわかっていないのだけれど。

 芽春は、難しい顔をしたまま答えない。

 スケッチにかぎらず、集中しているときの芽春はときどきそうなるので、ろびんは特に気に留めない様子で自分の絵に戻る。

 けれどもそのあと十分しても二十分しても、芽春は紙と、そしてときどき岸に泊まっている漁船の並びを見くらべて眉根を寄せているだけで、まったく手を動かさないのだった。

「描かないの?」

「んー」

「ぼく、半分ぐらい終わったよ」

「そう」

「場所がよくない? 別のところ行こっか?」

「んーん」

 そんなやりとりのあとで、芽春は突然、自分の鉛筆をペンケースにしまい、スケッチブックを閉じて立ち上がった。

「今日は帰るね」

「えっ、まだ終わってないじゃん」

「うん」

「明日も描く? ここに来る?」

「たぶん」

「何時に来る? ぼく、明日は……」

 芽春はろびんの質問を最後まで聞かずに、じゃあね、とつぶやいて、画帳を小脇に突堤を陸にむかって歩いていってしまう。

 ろびんは呆然と、遠ざかっていく彼女の麦わら帽子と、その下で揺れる太い三つ編みを見送った。

 自分のスケッチもまだ完成していなかったので、そのあともろびんは突堤に残ってつづきを描くつもりだった。

 だが、芽春の唐突な行動が気になって、まったく手につかない。

「なんで、急に帰るなんて……」

 考えていてようやく、芽春は怒ったのかもしれない、と思いいたった。

 そう気がつくと、またハルちゃんの邪魔をしてしまった、という後悔と、でもイヤならイヤって言ってくれれば、ぼくにも分かるのに、という憤りで、完全に写生どころではなくなった。

 道具を片づけ、スケッチブックをかかえると、ろびんは必ずひとりになれる、いつもの場所にむかった。

 それが海神社の脇のベンチだった。

 長い石段の上にある、ちいさな境内と社殿の神社。

 町の鎮守ではあるのだけれど、ふだんの日に参拝に訪れる人は少ない。

 いたとしても、神社自体も無人であるので、正面でお参りをしてすぐに帰っていく。

 横手にまわろうとする参拝客はほとんどいないのである。

「泣いておるのしゅ」

 声をかけられて、ろびんはおどろいた。

 おどろいたが、顔は上げなかった。

 口癖なのか、歯の抜けたところから息が抜けるのか、独特の語尾。それに、どのくらい近くに立っているのかはわからないが、ただよってくる甘いような鼻の奥を刺激するような匂い。

 まちがいなく、ザド婆さんだ。

 その呼び名の由来も、どこから来たのかもよくわからないけれど、もう何十年も漁港に住みついている老女で、いつだって酒に酔っている。

 船乗りの男を追ってきたけれど捨てて行かれた、とか、自らも昔は船に乗っていたのだ、とか、いろいろ言われているものの、まともな会話になることがあまりないから正しいところは誰も知らない。

 漁港のバラック小屋に寝起きして、手先は非常に器用なようで、漁の忙しい時期などになると、網の繕いを請け負って謝礼をもらう。けれどもそうやって稼いだ小銭も、すぐに飲んでしまい、ちいさな体をゆらゆら揺らして町中を歩いている。

「生きていると、泣きたくなることもあるしゅ」

「…………」

 ろびんは答えない。だが、それを気にするザド婆さんでもない。

「酒、飲むか」

 と、訊ねてから、しばらく間を置いて、ひとりで、ぶはは、と笑い、冗談しゅ、ダゴンの孫娘じゃろ、飲酒はハタチになってからしゅ、と勝手にしゃべる。

「それになあ」

 言いかけて、言葉を切る。容器の中で液体が揺れる、たぷんたぷんという音がして、ザド婆さんの喉が鳴る。

「酒は楽しいときに飲むのしゅ。泣きたいときに、酒に逃げたらダメなのしゅ。泣きたいときに飲んだら、泣きたいことはその日は忘れられるしゅ。でも、酔いが醒めても、泣きたいことは消えてはいないしゅ。自分で向き合わないと、泣きたいことは消えないのしゅ」

 でも、それができないから、また酒に逃げようとする。その繰り返しなのしゅ。そのうち、抜けられなくなるのしゅ。

 そう言ってザド婆さんは、ふうっ、とおおきな息をつく。あたりにただよう匂いが、またいちだんと濃くなる。

 婆さんはしばらくそこに立っていたようだったが、やがて草を踏み分けていく足音がろびんの耳に届いた。

 ろびんがそろそろと頭を動かして、前髪の陰から目だけのぞかせて見ると、ザド婆さんのトレードマークの、機械油で黒く汚れたデニムのオーバーオールの背中と、赤い紐でふたつのお下げに結った真っ白な髪が、拝殿の角を曲がってふらり、ふらり、遠ざかっていくところだった。


 *


 ろびんは重い足どりで堤防をまたぎ、漁港を北側から守るように築かれている突堤の根もとに立った。

 目を細めて、沖のほうを見る。

 今日もまた、先端のあたりに釣り人が出ている。立ったり座ったり、天気がいいからか、昨日よりも人数が多い。

 だがその中に混じって、スケッチブックを広げている影はないようだった。

 ろびんはうつむいて、ビーチサンダルの爪先で地面をこする。

 コンクリートを打った地面と吹き寄せられてきた砂とサンダルのゴムの底が擦れて、ざりざりと音をたてる。

 どうしよう。ろびんは考える。

 ハルちゃんが、今日ここにあらわれるとは限らない。

 昨日の別れぎわには、結局、どちらとも言ってなかった。

 それに、絵を描きたくもなかったから、自分の写生道具は家に置いてきてしまった。

 ハルちゃんが来なかったら、やることがない。

 いや、来たとしても、いっしょに座ってくれなかったら、やっぱりやることはない。

 なにしに来たんだろ。

 ろびんはジャージのポケットに両手を突っ込んで、背中を丸めたまま突堤に歩を進める。

 釣り人たちが思い思いに竿を出している手前まで行って、まわりに知った顔がないことを確かめてから、岸壁まぎわのコンクリートにじかに座った。

 波はおだやかで、昼まえの陽光を受けて、ちらちら光っている。

 今日は魚群が岸よりに回遊しているのか、ときどきあたりがあるようで、周囲からはちいさな歓声や、笑いさざめく声がする。

 エンジンを響かせて船が通る。

 蹴立てられた水が、ろびんが座っている真下の突堤の壁に寄せて、ちゃぷちゃぷ音をたてる。

 ハーフパンツから出た膝から下の脚が、じりじり焼けてくる。

 どこから上がってきたのか、投げ出したビーチサンダルの足の先を、ちいさな蟹が這っていく。

 帰ろうかなあ。

 ろびんは思う。でも、お姉ちゃんともグランマとも話したくない。

 あ。そういえば、お昼ご飯。お金も持たないで出てきたし、このままでは食べそこねてしまいそうだ。

 でも、お腹が空いた、と、帰るのはカッコ悪い。

 とても、カッコ悪い。

「ろびん」

 声をかけられて、ろびんは振りむいた。

 すぐ背後に、芽春が立っていた。 

 白のワンピースに、七分丈の黒のレギンス。それに淡い水色の、薄手のパーカーを羽織っている。

 麦わら帽子と手提げかばん、脇にかかえたスケッチブックは昨日とおなじだ。

「お店に行ったら、もう出かけたって言われたから」

 そう言いながら、芽春はろびんの隣に、すこし間をあけて腰を下ろし、立てた膝の上にスケッチブックを開く。

 ろびんがちらりと横目で見ると、昨日とは違うまっさらのページに、マス目の線が新しく引きなおしてあるようだった。

 芽春はペンケースから鉛筆を出し、右手に握って顔のまえにかざす。

 それから、おもむろに鉛筆を紙に下ろし、マス目は無視するようにスケッチをはじめた。

 岸壁の線。係留された船。そのむこうの建物。粗い線で輪郭をとっていく。

「ハルちゃん」

 ろびんは、しばらく芽春が画帳のページに手を走らせるのを眺めていたが、それがつかの間、止まったのを見はからって、意を決して声をかけた。

 言ってくれなければわからないんだから、聞かなきゃわからない。

「あのさ。怒ってる?」

 芽春は、いちど顔を上げて景色を見て、それから鉛筆を、手の中でくるりと一回まわした。

「怒ってる」

 その返事に、ろびんの心臓は、どきん、と跳ねる。

「だって、この描きかた、難しいんだよ。ひとマスずつ埋めていったら全体がヘンになりそうだし、だけど全体から描いていったら、マスに区切ってる意味がないし。だから昨日は、なにしたらいいかわからなくなっちゃって、それなら家で考えてから、また描いたほうがいいかと思って……ろびん、どうしたの?」

「……ごめん」

 謝ろう。謝って、そのつぎには……。そんなことを考えていたら鼻の奥が、つん、となって、ろびんの目には大粒の涙がたまっていた。

「ごめんね。ハルちゃんの描く絵、好きだよ。だから、もっときれいになったらいいな、と思って言ったんだけど……。でも、ぼくはハルちゃんが、ハルちゃんの描きかたで描く絵が好きだから。ハルちゃんの邪魔をしようと思ったわけじゃなかったから」

 そういうことを言うつもりはなかった気もろびんはしたのだけれど、涙が出たついでに、言葉もどんどん、口をついてしまったようなのだった。

「ろびんに怒ってるんじゃ、ないよ。ううん、怒ってはいるんだけど……」

 今度は芽春が動揺する。

 芽春相手に、ろびんが涙を見せるなんて、いつ以来のことだろう。

「うまく描けないからイライラしたの。ろびんが教えてくれたやりかたで、うまく描く方法がわからなかったから、いろいろ考えてみて、それでも思いつかないから……。でも、それだとやっぱり、ろびんに怒っていることにもなるのかな」

 うーん、と、芽春は鉛筆の尻で鼻の頭を引っかいて、そうかもね、半分ぐらいは、と言った。

「でも、ちゃんとなんでか言わないで帰っちゃって、私もごめんね」

「……うん」

 ろびんは鼻をすすりあげた。そのはずみで睫毛にのって止まっていた涙が決壊して頬に流れる。

「ぼくのこと、嫌いになったんじゃ、ない?」

「なってないよ」

 芽春は首を横に振る。それから、ろびんの顔を見て、もういちど言った。

 嫌いになんか、なってない。

 手渡したポケットティッシュでろびんが鼻をかみ、涙を拭くのを待ってから、芽春は、いま描いた画帳のページを見せた。

「それで、ひと晩、考えてみたんだけどね、こうやって、全部の下絵を一回、ざっと描いてみて、それからマスごとに細かく描きこんでいったら、どうかなって」

 ろびんは芽春の座っているほうに、おしりひとつぶん近寄って、スケッチブックをのぞきこむ。

 すると、返事をするために口を開くよりも先に、お腹が、ぐうーっ、と鳴った。

「お昼、まだ食べてなかったの?」

「……う、うん」

「もうそろそろ一時だよ。このしたがき、あとちょっとで終わるから、そしたら一回、帰ろ」

「うん」


 *


 行楽シーズンにはまだ間があるから、日曜日の客足は多くない。

 それでも数組あったランチ客がはけてひと息ついたので、織亜は表のドアから外に出て伸びをした。

 隣家との狭い隙間に立てかけてあるホウキとチリトリを取って、入口への短いアプローチと、店のまえの歩道を掃き掃除する。

 ふと顔を上げると、斜めむこうの交差点、二車線道路にかかる横断歩道のあちらがわで、麦わら帽子とキノコのような髪形のふたり組が信号待ちをしていた。

 手をつないで。

「あ、お姉ちゃーん」

 むこうも気がついたのか、キノコ頭のほうが声を上げ、手を振ってくる。

 織亜は腰を伸ばし、ホウキを持った手をかかげる。

「おかえりー。昼ご飯、いるの?」

「うん!」

 掃除道具を片づけて、『Kitchen Dagon 営業中』の札がさがったドアを開いて支え、織亜はろびんと芽春が道を渡ってくるのを待つ。

 今日の「まかない」は、なにを作ろうかな。織亜は考える。

 昨日はパスタだったから、焼き飯とか? 揚げものが出てなくて卵が余りそうだから、オムライスにしてあげてもいいか。

 それからデザートに、アイスクリーム・サンデーを作ろう。チョコレートファッジとバタースコッチのソース、ナッツと生クリームはいつものとおり。そしてチェリーのトッピングをもうひとつ、おまけにつけて。

 仲直りの口実に出してあげるのではない。

 仲のいいふたりへの、サービスだから。

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