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オーダー・オブ・ダゴン  作者: ギルマン高家あさひ
15/16

さよなら、サマー・コーン・チャウダー

 大向手おおむくてろびんは、厨房でトウモロコシを処理していた。

 半分の長さに折って茹でた穂を縦に置き、軸に刃を沿わせるように包丁を入れる。すると、黄色の実が、つながったままこそげられ、落ちる。

 まな板の上に溜まったその実を集めて、かたわらの片手鍋に入れると、甘い匂いが、ふわり、と漂った。

 鍋の中で煮えているのはコーン・チャウダーだ。

 まず、小さく刻んだベーコンを鍋に入れ、弱火でじっくりと火を通す。

 それからベーコンを取り出して、鍋に残った脂で、みじん切りにしたタマネギをよく炒める。

 小麦粉を振って、さらに炒めたあと、ダマができないように注意しながら水を加え、とろみを出す。とろみが出たら、そこに、牛乳と、同量のクリームも足してしまう。

 スープストックも入れて、よくかき混ぜたら、さいの目に切ったジャガイモを追加。それが柔らかくなるまで中火で煮る。

 その間に、トウモロコシを準備する。

 トウモロコシを投入して、ジャガイモに、すっ、と串が通るぐらいになったら、いったん火を止めて、大きなおたま数杯分を取り分け、ミキサーにかける。

 ミキサーで、ゆるい液状にしたチャウダーと、最初に取り出した炒めベーコンを鍋に戻したら、あとは、焦げつかないように気をつけながら、ひと煮立ちさせて、塩とコショウで味をととのえて完成だ。

 日が沈むのが少しだけ早くなった八月の末。

 厨房の小さな窓の外は、もう、暗くなりはじめている。

 コーン・チャウダーは、キッチン・ダゴンの夏のメニューだ。

 新鮮なトウモロコシが手に入る季節の間の、ランチやディナーコースのセットスープでもある。

 そして、このチャウダーは、ろびんが、キッチン・ダゴンの経営者である祖母と、今は調理を担当している従姉の織亜おりあから学んだ、初めてのレシピのひとつでもあった。

 小学校五年生か六年生のときに教えてもらって、去年まではとろみ(ルー)を作るところだけ織亜お姉ちゃんに手伝ってもらわないとうまくできなかったけれど、今年の夏は、自分一人でも、ほとんど失敗することがなくなった。

 だけど、今、彼女がコーン・チャウダーを作っているのは、店の手伝いや、メニューの練習のためではない。

 実際、刻限はもうディナーの時間で、お客さんに出すぶんの仕込みはすでに終わっている。今日の入りぐあいだと、閉店までに足りなくなることも、たぶんないだろう。

 ろびんが、それでも厨房を使ってチャウダーを準備しているのは、それとは別の、ある理由があるからだった。

「ろびん、ハルちゃん来たよ」

 ちょうどお客さんが途切れたので客席の片づけに回っていた織亜が、厨房の入口から顔を出して、そう告げる。

「続きやっとくから、行ってきな」

「ありがと。ミキサーの前まで終わってる」

「はいはい」

 ろびんは、エプロンを外しながら織亜と場所を入れ替わり、客席に向かった。

 ハルちゃん、こと、江良間芽春えらまめはるは、テーブル席の奥に作られているカウンターの端の椅子に浅く腰かけてろびんを待っていた。

 彼女は、ろびんの保育園時代からの幼なじみで、同学年の親友だ。両親のいないろびんが祖母と二人で暮らしているこの洋食店から坂を下ったところにある漁港のそばで、エラ萬という民宿を経営している夫婦の末っ子である。

 今日の芽春は、白い服地のセーラー服に濃紺のスカート、短いソックスに白の運動靴といういでたちだった。

「あ、ハルちゃん、制服なんだ」

 それを見たろびんが言う。ちょっと待って、ぼくも着替えてくる。

「ろびん」

 踵を返して、二階の住居部分に続く階段を昇ろうとしたろびんを、織亜が呼び止める。「早く行きなさい。霊園、閉まっちゃうよ?」

「制服に着替えてくるだけだよ」

「お墓参りだけなんでしょ。そんなに気にしなくていいから」

 それに、と、織亜は続ける。あんたの制服、クリーニングに出しっぱなしなんじゃないの?

 ああっ、そうだった。ろびんは自分の額を、ぺし、っと叩いて、客席に舞い戻る。

「ごめんごめん。行こっか」

 声をかけると、芽春は、ん、と答えて立ち上がった。


 *


 あの日も、と、ろびんは思う。

 あの夕方も、コーン・チャウダーを作っていた。

 営業時間の途中で足りなくなったぶんをお姉ちゃんが作り足していたかなんだかで、火加減見とくだけでいいから、と鍋の前に立たされていただけなのだけど、それでも、その日のことは、甘い湯気の香りとともに思い出す。

 そのときは、からころ、と、お店の出入り口のドアにつけられた鈴が鳴って、新しいお客さんかな、と思っているうちに、遊びにきていた芽春の声が客席から聞こえたのだった。

「あれ、いをくんじゃん。どうしたの?」

 魚くんは、キッチン・ダゴンの前のバス通りを隣町の新生辺にうべりの方向に少しさかのぼったところに住んでいる三つ年下の男の子で、通学路が同じなので、ろびんは時々、顔を合わせることがある。商店街の道と合流するところで毎朝ろびんを待っていてくれる芽春にとっても、知らない相手ではない。

「火、そろそろ止めといて」

 お姉ちゃんにそう言われてコンロの火を落としたろびんが客席に出てみると、キャッシュレジスター台のあちらがわで、魚くんと芽春が顔を突き合わせて話しているところだった。

「どうしたの?」

「んー、それがね……」

 二人が交互に言うところによると、魚くんは、今になって、学校に忘れ物をしていたことに気づいたのだという。

 ただ、これから向かうと、着くころには日も暮れる。帰り道には真っ暗だろう。

 だから、誰かにいっしょに来てほしい。

 そういうことだった。

「お父さんかお母さんは?」

 ろびんが訊くと、魚くんは首を横に振った。在宅ではないらしい。

「じゃあ、ぼくたちがついてってあげるよ。ねえ、ハルちゃん」

「ん」

 グランマとお姉ちゃんに言ってくるから、ちょっと待ってて。

 ろびんは厨房を覗き込み、それからどたばたと足音を立てて二階への階段を昇っていく。そして、しばらくして、懐中電灯を手に二人のところへ戻ってきた。

「気をつけるのよ」

 織亜の声を背に、三人は表に出た。

 はじめは店内の冷房に慣れた体に外気が生暖かく感じられたけれど、しばらく歩いているうちに、昼間の熱風とは違う、心地のよい風が吹いていることにろびんは気づいた。

 そろそろ、真夏は終わりに近づいているのだ。

 商店街の坂を上って、役場の手前で曲がり、小学校の前にさしかかるころには、夕陽はもう山の陰に沈み、あたりに満ちていた蝉の声に代わって、草むらの中で鳴く虫の声が聞こえるようになっていた。

「忘れ物って、なに忘れたの?」

 学校のフェンス沿いに歩を進めながらろびんが訊ねると、魚くんは、しばらくもじもじしてから、芽春の上衣の袖を引いて耳に口を寄せ、何ごとかをささやいた。

「あー」

 そううなずいた芽春は、水泳パンツだって、と、あっけらかんと言う。

 魚くんは、顔を赤くしてうつむいた。

「それはたしかに、今日中に取りに行っておきたいかもね」

 ろびんが答える。

「ねえ。ろびんも、一年生か二年生のとき、水着持って帰るの忘れて大変なことになったもんね」

 芽春が、あとを受けて続ける。

「キノコが生えてて、しばらくキノコぱんつって呼ばれてたよね」

「それ、今、言わなくてもいいことじゃない?」

 しかも、ちょっとカビっぽくなってただけで、キノコなんかじゃないってば。ろびんが反論する。

「そうだっけ? ろびん、うわっ、キノコ生えてる、って自分で大騒ぎしてなかった?」

「そんなことないって!」

 そう、ろびんが抗議しているうちに、一行は校門の前に到着した。

 昼間はプールに来る生徒のために開放されていたのかもしれない門も、日没後の今は閉ざされている。

 ろびんは、魚くんに、登ろっか、と声をかけ、返事も待たずに門扉のかたわらの柱に片足の先を引っかけた。

 火成岩を積み重ねて造られたその門柱には、手がかり、足がかりになる凹凸が無数にあり、しかも途中までよじ登れば門扉の鉄枠を支えにすることができるので、それは、放課後や週末に校庭に入り込もうとする悪ガキたちの常套手段になっている方法だった。ただ……。

 ……ただ、高学年の女子ともなると、あまり使わないやり方ではあるのだったけれど。

「私、スカートなんだけど」

 今度は、芽春が抗議する番だったが、そう言う間にも、ろびんと魚くんの二人は校門を越え、校庭がわに飛び降りてしまっている。

「裏門はいつも開いてるから、ハルちゃんは、あっち回ってきたらいいよ」

 ろびんが道の先を指さすと、芽春は、それなら最初からそっちから入ろうよ、とぼやきながらも、ちゃんと待っててよ? と駆けだしていく。

 再び合流を果たした三人は、校舎の一階にある職員室の前を目指した。

 最初、ろびんはプールの更衣室に足を向けたのだが、すぐに魚くんが、そっちじゃなくて、教室、と言ったのだ。

 さすがに、この時間ともなると先生は誰も残っていないようで、職員室の中は暗い。

 けれども、その隣にある校務員室からは光が漏れていて、校庭に面した扉も開け放たれているようだった。

 この校務員さんは、ろびんと芽春が卒業した次の年に高齢を理由に退職し、そのあと、新しい校務員さんが来ることはなかった。ただ、このころはまだ、職員室に先生が残っていなくても、学校に泊まり込んでいるこの老人に声をかければ、忘れ物を取りに校舎に入ることができたのである。

 もっとも、このときは、三人が開けっぱなしになっている引き戸から中を覗き込むと、畳張りの六畳間の中は蚊取り線香の煙が漂っているだけで、もぬけの殻であった。

「どうする?」

 ろびんと芽春は顔を見合わせた。

 こんばんはー、と、芽春が二度ほど声をかけても、返事は返ってこない。

「いいや、上がっちゃおう」

「え、大丈夫かな」

 芽春の返事を聞く前に、ろびんは履いてきた運動靴を脱ぎ捨てて部屋に上がり込む。

「見回りに行ってるんだと思うし、中で会ったら、忘れ物を取りに来ました、って言えばいいよ」

 ろびんが校務員室を横切ってずんずんと先に行ってしまうので、芽春と魚くんも、あわただしくそのあとを追うことになった。

 校舎内の廊下は、消火栓の場所を知らせる非常灯が、ぽつり、ぽつりと赤く光っているだけで、真っ暗だった。

 風の流れがないからか、空気もどことなく淀んでいるように感じられる。

 懐中電灯を灯したろびんは、最初、右に向かおうとしたが、すぐに足を止め、しばらく躊躇したあとで、左の廊下に進路を変えた。

「三年生の教室でしょ? こっちの階段のほうが近くない?」

 芽春が訊ねる。

「そうだけど……」

「そうだけど?」

「そっち行くと、保健室の前、通るでしょ」

「保健室? あ、ろびん、もしかして、あの話、信じてる? 怖い?」

「べ、別に、怖くはないけどさ……」

「あの話?」

 二人の会話に魚くんが口をはさむ。

「『印小の七不思議』聞いたことない? 保健室の人体図と夜、目を合わせると……」

「ハルちゃん、今は、その話やめようよ」

「ろびん、怖いんじゃん」

「怖くないもん……!」

「しょうがないなあ。魚くん、あとで教えてあげるね」

「う、うん……」

 それからは誰からともなく無言になり、三人は、ろびんを先頭に、そろそろと二階への階段を上がっていった。

 そして、魚くんが、ここ、と言った三年一組の教室に入り、後ろの壁沿いの棚の中を覗くと、そこにはたしかに円筒形のプール用のバッグが、ぽつん、と置かれている。

 ろびんは、それを取り出しながら、振り返って訊ねた。

「魚くんさ、これ、今日のプール開放で忘れたんだよね? なんで教室にあるの?」

 だが、その問いへの答えはなかった。

「魚くん?」

 再度のろびんの問いかけにも返事がなかったことを不審に思ったのか、芽春も、自分の右隣を見た。

 魚くんがいたはずの場所を。

 そこには、誰もいなかった。

「魚……くん?」

 ろびんは、懐中電灯の光を教室の隅々にまで向けた。

 けれども、浮かび上がるのは、誰も座っていない椅子と机と、無人の教壇と、何も書かれていない黒板だけだ。

「さっきまで、そこにいたよね?」

「うん、いた、と思うけど……」

 先、戻っちゃったのかな。芽春が答える。

「えー、真っ暗なのに?」

 廊下に出たろびんは左右を先のほうまで照らしたが、どちらにも人影は見当たらなかった。

「それか、あれだ。ろびんをおどかそうとして、どっかに隠れてるとか」

 追いついてきた芽春が言う。

「悪趣味だなあ……。でも、そうかも」

 芽春が、魚くん、帰るよー、と、声をかけ、二人はしばらくその場で待った。

 だが、それにも返事はなく、周囲は物音ひとつなく静まりかえったままだったので、ろびんと芽春は、元来た道のりをたどって、校務員室まで戻ることにした。

「魚くんはさ、ハルちゃんのことは『お姉ちゃん』って呼ぶよね。ぼくのことは、ろびん、って呼び捨てなのに」

 左右に現れる教室への出入り口や曲がり角に目を配って歩きながら、思い出したようにろびんがこぼす。

「それは、親しみやすいってことじゃない? ろびんのほうが」

「あんまりうれしくはないかなあ」

 一階に下りると、廊下の先に、校務員室の扉の隙間から漏れる黄色っぽい光が見えた。 さきほどから変わった様子はあまりなさそうだったけれど、芽春は、念のため、と、数回ノックして、失礼します、と声をかけてからドアを開けた。

 校務員の老爺は、まだ不在だった。

 室内に立ちこめる蚊取り線香の煙だけが、少し濃さを増していた。

 校庭がわの引き戸が開けっぱなしなのも、そのままだ。

 その手前まで行ったろびんは、段差を埋めるために地面に置かれたブロックの上に、自分の運動靴と芽春が履いてきたサンダルがあるのを見た。

 魚くんの履き物は、ない。

「なんだ、やっぱり、先に帰っちゃったんだよ」

 ろびんは、それを芽春に示す。

「あ、ほんとだ」


 外に出ると、さきほどより風が強くなっているようで、校舎の前の舗装路と校庭との境目に植えられている背の低いソテツの木が、闇の中で、ざわざわと葉を揺らしていた。

「これ、どうすればいいんだろ」

 ろびんは手にした水泳バッグに目を落とす。

「途中で追いつかなかったら、家に届けておけばいいんじゃない? もしかしたらダゴンで待ってるのかもしれないし」

「あー、そっか」

 じゃあ、いったんお店まで帰ろうか。

 そう、うなずき合って歩き出した、そのとき。

 視界の隅を黒い影が駆け抜けていったような気がして、ろびんは、そのあとを追うように振り返った。

「どうしたの?」

 芽春が訊ねる。彼女には、それは見えなかったようだった。

「いま、あっちに何かが走ってったかも……」

 ろびんは答えて、体育館の手前でソテツ並木が途切れるあたりを指さした。

「魚くん?」

「ううん、わかんないけど」

「魚くーん、帰るよ!」

 芽春は片手を口の横に当てて呼びかけたが、それに対する返事はなかった。

 ただ葉ずれの音が聞こえるだけだ。

「ここからじゃ、聞こえないんじゃないかな」

 ちょっと見てくる。そう言って、ろびんが駆け出したので、芽春も、慌ててそのあとを追いかけた。

 ろびんは、体育館脇の水場の裏や、校舎と体育館の横手をつなぐ、通路に屋根をかけただけの渡り廊下の柱の陰を覗いていった。

「いた?」

 軽く息を切らしてやってきた芽春に訊かれ、ろびんは首を横に振る。

「魚くーん、隠れてるなら出てきなさい!」

 芽春は、呼吸を整えてから、もう一度、呼びかけた。

「そうだよ、ぼくたち、帰っちゃうよ!」

 今度は、ろびんもそれに続けて声を張り上げる。

 けれども、今度も答えはなかった。

「ろびんの見間違いじゃない? 猫とかだったのかもしれないし、風が強くなったから、ゴミが飛んでっただけだとかかも」

「うーん、そうかもしれないけどさ……」

 言いながら周囲を見回したろびんは、懐中電灯の光の輪の中にあるものが浮かび上がると、あ、と、動きを止めた。

 渡り廊下のさらに奥の校舎と体育館の間のスペースは、特に整備がされているわけではなく、むき出しの黒土の上に、トタン張りの倉庫や飼育小屋が数軒、建っているのみだ。

 ただ、その片隅に、ろびんたちの腰ぐらいの高さの、ほぼ正方形の石積みがある。

 ふだんであれば、そこには、大人の力でも動かせなさそうな重い鉄の蓋が、上部をぴったりと覆うようにかぶせられている。

 それは、古い井戸なのだと言われていた。

 遠い昔に防火用に作られ、小学校の敷地内にあるものなので安全を考えれば埋め戻されるべきなのだろうけれど、そのままになっている。

 一説によれば、その理由は、井戸の底が抜けて地下の洞窟に達してしまい、土を入れても入れても埋まらなかったからであるという。

 だが、また別の一説によると、かつて、そこに落ちた生徒がおり、その遺体が、まだ引き上げられていないから埋めることができないのだ、ともいわれていた。

 その井戸を封じた鉄板の一枚が、わずかにずれていた。

 ろびんは、そのことに気づいたのだった。

 体育館の扉が開くかを確認しに行った芽春と離れて、井戸に一人で近づいていくと、たしかに、二枚渡されている蓋のうちの一枚が横に押され、隙間ができている。

 懐中電灯で中を照らしてみても、光が闇に吸われてしまうようで、何も見ることはできない。

 片膝をついて顔を寄せてみると、湿ったような、生臭いような臭いがかすかに感じられた。

 そして、それとともに、小さな音が聞こえたように、ろびんは思った。

 地の底から湧き上がってくる、呟き声のような音が。

 魚くんの水泳バッグを地面に置くと、ろびんは、そろそろと隙間に耳を当てた。

 その瞬間。

 頭の中に、何かが響いた。

 何度も何度も岩盤に反響して、そのせいで実体を失った、虚ろな、こだまのような、声。

 何を言っているのかはまったく分からなかったけれど、ろびんは目まいを感じて、その場に尻もちをついた。

 それからしばらくの間のことを、彼女はよく覚えていない。

 手で肩に触れられて、びくっ、として振り返ると、そこには、芽春の心配そうな顔があった。

「大丈夫?」

 ろびんは、ただ、震える指で井戸の蓋の隙間を指し示すことしかできなかった。

「あ、蓋、いつもは開いてないよね」

「ん……」

「中に何かいた?」

 芽春の問いに、ろびんは首を左右に振る。

 そういうことじゃない。そうではないのだけれど……。

「まさか、魚くん、そこに落ちたとか……」

 ろびんは、再び首を振った。

「……そういうことじゃなさそうか。人が通り抜ける大きさの隙間じゃないもんね」

 芽春は、ろびんの手から落ちた懐中電灯を拾い上げ、井戸の上に光を向けて、ほっとしたような声になる。

「音……。さっき、変な音がしなかった?」

 それだけの言葉を、ろびんはどうにか絞り出した。

 今度は、芽春が首を横に振る番だった。

「ろびんが懐中電灯を落とした音は聞こえたけど」

「そっか……」

「立てる?」

「ありがと」

 ろびんは芽春に背中を支えられて立ち上がり、水泳バッグを拾った。

 蓋のこと、校務員さんに言っておいたほうがいいよねえ。芽春のその言葉に、ろびんは、ふるふる、と頭を振り、先にダゴンに帰ろ、と答える。魚くんが戻ってるか、確かめよう、と。

「そう? でもまあ、そのほうがいいか。あんまり遅くなると、魚くんも、グランマもお姉ちゃんも心配するだろうし」

「うん。そうしよ」

「そうしよう」

 二人は、裏門から学校を出て、キッチン・ダゴンに向かった。

 その道すがら、ろびんは、ずっと考えていた。

 さきほど聞いた、不気味な声のことを。

 その声が、魚くんにまつわる不吉な運命をささやいていたように、彼女には思えてならないのだった。


 *


 霊園から出てくるころには日もすっかり暮れて、道路沿いには街灯が灯りはじめていた。

 観音寺という寺院の裏山に設けられた墓地は、キッチン・ダゴンからはほど近い。

 寺の壁沿いの道からバス通りに出ると、もう、その店頭の黄色っぽい光が見えるほどだった。

 お盆は過ぎているので、他の墓所に飾られた花束にはしおれかけたものも多かったけれど、魚くんのお墓の前には、まだ新しい花と、それに、駄菓子屋で売っている瓶ジュースとスナック菓子の袋がいくつか置かれていた。

 今日が祥月命日で、三回忌だったから、昼間には家族が墓参したのだろう。

 小学校五年生になった彼の同級生たちも、何人かは来たのかもしれない。

 ろびんと芽春は、去年も今年も、霊園が日没で閉門する寸前の、この時間に彼を訪ねている。

 それは、あの夕刻のことがあるからだった。

 あの日。

 キッチン・ダゴンにろびんと芽春が戻っても、魚くんの姿はなかった。

 コーン・チャウダーを出してもらって一息ついてから、お店にあった町内会名簿で魚くんの家の電話を調べてかけてみても、誰も出ない。

 それもそのはずで、彼の両親は、そのころ、新生辺の病院に呼び出されていたのだ。

 一学期の終わりごろに教室で倒れた魚くんが搬送され、その後、ずっと入院していた総合病院に。

 翌日、回ってきた通夜と告別式の日どりを告げる回覧板で、ろびんはそのことを知った。

 「魚くん」といっしょに取りに行った忘れ物の水泳バッグは、芽春と二人で相談した上で、お葬式が終わり、二学期が始まったあとで、先生に頼まれた、ということにして家まで届けに行った。

 魚くんの両親は、持ってきたのが同級生でないことを不思議がりながらも、ありがたがってくれた。

 本当のなりゆきを知っているのは、芽春とろびん、二人だけだ。

 そして、井戸の中から聞こえた虚ろな声のことは、ろびんしか知らない。


 ろびんは、先に立って、キッチン・ダゴンのドアを開けた。

 扉につけられた木の鈴が、からころ、と、陽気な音をたてる。

「いらっしゃー、って、なんだ、お前たちか。おかえり」

 奥から飛んできたのは、織亜の声だ。

 客席のテーブルは、家族連れらしい客で、ひとつだけ埋まっていた。

「ハルちゃん、ちょっと待ってね。コーン・チャウダーあるから、食べてって」

「ん」

 芽春をカウンター席に座らせると、ろびんは、カウンターの中の流しで手を洗い、エプロンをつけて厨房に入った。

 とろ火にかけられていた小鍋から、ふたつのカップにチャウダーを注ぐ。

 柔らかく煮えたトウモロコシの、甘い香りが立ちのぼる。

「もうそろそろ、それのシーズンも終わりだねえ」

 カップを席まで運ぶろびんに、織亜が声をかける。

「そうなの?」

「トウモロコシ、最近は、一個の農園のやつしか買ってないからさ。入荷があるのが来週ぐらいまでじゃないかな」

 じゃあ、味わって食べないとね。

 ろびんはカウンターにカップを置き、芽春の隣に腰かけた。


「そういえば、さ」

 コーン・チャウダーをスプーンでかき混ぜ、深呼吸するように湯気を一度、吸い込んでから、ろびんが芽春に言う。

「ん?」

「あのとき、魚くんは、なんでウチに来たんだろうね。家には誰もいなかったとして……」

 もっと、よく遊んでた友だちとか、いたはずだけど。

 芽春は、チャウダーを口に運ぶ手を止めて、ろびんの横顔を見た。

「うーん、それはさ……」

 夕方に新生辺から来て、魚くんの家を通って、小学校まで行こうとしたら、最初に明かりが漏れてるのが、ここだから、じゃないかな。

「ああ、そっか」

 ろびんは、再びカップの中身をかき混ぜて、目を伏せる。

「そしたらさ」

 このお店の明かりをずっとつけてたら、みんな、帰ってこられるかもしれないね。

「そう、だね」

 芽春は、コーン・チャウダーをすする。

 優しい口当たりのトウモロコシとジャガイモの粒に、ベーコンの脂と凝縮された塩味がからむ。

 いつもと変わらないレシピのはずだったけれど、その一口は、夏の終わりの味がした

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