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オーダー・オブ・ダゴン  作者: ギルマン高家あさひ
14/16

ハルの海

 少年がひとり、自転車をこいでいる。

 二十六インチの通学用シティサイクル。いわゆるママチャリと形はさして変わらない。けれども前カゴには寝袋を詰めこんで、荷台には長細い包みをくくりつけ、リュックサックも背負って大荷物である。

 路線バスも通る、左に海を見る街道を走ってきた彼は、行く先が堤防に沿って続く細道と、海岸線を離れて住宅地の中に登ってゆく広めの道に分岐しているところでしばし迷い、バス通りにもなっているらしい、ゆるやかな上り坂の道のほうを選んだ。

 春、四月のはじめのころだ。

 早朝、彼が前夜泊まった公園の東屋を出発したときにはまだ肌寒いぐらいだったけれど、昼下がりのいまは舗装のアスファルトも暖まり、そこに春の光がさんさんと降りそそいでいる。立ちこぎで坂を登っていると、じんわりと汗ばんでくるほどだった。

「やっぱり、こっちじゃなかったかな」

 坂の途中で自転車を止めて、誰に言うともなく少年は口にした。

 この町での目的地のことだ。なにしろ、頼りは八年前の記憶だけなのである。

 ときおり乗用車や軽トラックが彼を追い抜いていくけれど、歩いている人影はない。

「うーん」

 首を伸ばすと、前方の、坂の頂点とおぼしきあたりに信号が見えた。

 その信号機がある交差点から数軒こちら側に、赤っぽい壁から色あせた黄色のビニールの軒を出した建物がある。

「あ、あそこかも」

 彼はふたたび自転車にまたがると、地面を蹴って発進した。

 ところが。

 その店の前に乗りつけてみると、煉瓦調の壁や道路に面した大きな窓はおぼろげに憶えている外観とかわらないのだが、歩道から少し引き込んだところにあるドアには「月曜定休」の札が下がっていた。

「あー」

 少年は肩を落とした。当然、調べてくるべきだったのだ。もっとも、だからといって、この町を通過する日どりは変えられなかったかもしれないのだけど。

 と。

「今日はダゴンは休みしゅ」

 突然、背後からしわがれた声をかけられて、びくっ、と彼の背筋が伸びる。振りかえると、いつのまに近づいてきていたのか、白髪の頭が顔の真下にあった。

「月曜日は定休日しゅ」

 そう言って彼を見上げた顔は、にやりと笑う。二、三本しか残っていない前歯があらわになって、そこはかとなく甘いような、腐ったような臭いが漂ってきたように少年は思った。顔には目もとにも口もとにも首にも深い皺が刻まれていて、歳はよくわからないけれど老婆であるらしい。ただ、ぼさぼさに伸びた白い髪は少女のような二本のお下げに結ってあり、その付け根には鮮やかな赤い紐が結ばれている。

 そうなんですね。力なく答えると少年は、自転車を押してその場を離れようとした。もくろみは外れてしまったけれど、しかたがない。いまからまた走り出せば、今日のうちに次の町まで、距離をかせげるかもしれない。

「どこから来たしゅ?」

 その彼に合わせるように歩き出しながら、老女が訊ねる。

「え」

 少年が答えに詰まっていると、見ない顔しゅ、と彼女は続けた。

「ああ……」

 彼が北のほうにある町の名を告げると、老婆は納得したかのように、大きく何度もうなずいた。

「ダゴンはそんなに有名しゅ」

「ダゴン……っていうのは、このレストランの名前ですか」

「そうしゅ。『キッチン・ダゴン』しゅ」

 ここを目指して来たのではないしゅ? 彼女は少年に、怪訝そうに目を向ける。

「それは……」

 少年は手みじかに、老女に説明することになった。春休みを使って、海岸沿いに南下する自転車旅行をしていること。子どものころ、家族旅行でこの町に立ち寄って、そのとき、このお店で食事をしたことがあること。

「よく憶えてないけど、アイスクリームがおいしかったなって。めずらしい味だったと思うんです」

「そういうことしゅ」

「はい。だけど、定休日は調べてこないといけなかったですね」

 それじゃあ、と走り出そうとする少年に、待つしゅ、と老婆は声をかけた。

「ここの店の人なら、いまいる所を知っているしゅ」


 *


 ついてくるしゅ、と、先に立って歩き出した老婆は、意外と健脚だった。

 荷物を積んで重くなっている自転車を押す少年は、遅れまいと歩調をはやめて、油のしみでまだらになったデニムのオーバーオールの背中を追っていく。

 商店街の道を横断し、向かいの路地に入ってまっすぐ進む。そのまましばらく行ってから、彼女は海を正面に見ながら下る坂に曲がった。だらだらと下りきった先は低い堤防で、その手前に通る二車線の道路につきあたって、坂道は終わっている。

 老女はそこを、右に折れていく。あとについて曲がる前に少年が左手に目をやると、やや離れたところに船だまりと、まとまって建った建物があった。

 漁港を南に過ぎたところで海沿いの道路に合流したのか、と、少年は考える。このあたりではまた、この道が幹線になっているようだ。ここをこのまま南下していくと、次の、金樟きんくすという町に着くはずだった。

「あの」

 少年は前を行く老婆に声をかけた。

 んん? と老女は足をゆるめて振りむいた。そして、左手にぶらぶらさせて持っていた、レモンだかグレープフルーツだかが大きく印刷された缶を口に運んだ。

 さきほどから、曲がり角などで立ち止まるたびに彼女がそうしているのに、少年はうしろから見て気づいていた。もう中身は残っていないようで、老婆はそれでも名残惜しそうに缶の口を舐める。

「ついでにひとつ聞きたいことがあるんですけど、このへんで、野宿できるところ、知りませんか」

「野宿しゅ?」

「お金ないんで……。テントと寝袋は持ってきてるので。このあたりじゃなければ、金樟まで行ってもいいんですが」

 んー、と、彼女はもう一度、缶のへりを舐めた。

「金樟までは、まだけっこうあるしゅ。ここで泊まったらいいしゅ。でもな……」

「でも?」

 浜辺は、やめたほうがいいしゅ、老婆は続ける。

「え、なんでですか?」

「浜辺は、やめておくしゅ」

「あ、キャンプは禁止されているとか……」

 老女は首を横に振る。

「じゃあ、なんで……」

 その質問には答えずに、彼女は、ふい、と先へ行ってしまう。よく見ていると、足もとがときおり、左右に揺れる。

「あのう……」

 ほんとうに、キッチン・ダゴンのお店の人のところに連れていってくれるんですよね。

 ふと、心に浮かんだ疑念を少年が口に出そうとしたとき、ここしゅ、と老婆が声を上げた。

 いつのまに道路を渡ったのか、むかいがわの歩道の堤防の際、コンクリートの壁に切れ目が造られているところの前に立って、両手を振っている。

 少年は近づいてきていた軽自動車を一台、やりすごしてから道を横断し、彼女の横に並んだ。

「ちゃりんこは、そこに置いたらいいしゅ」

 と、老女が指さす先には、少年のものよりもひとまわり小さい自転車が二台、堤防に寄せて止めてあった。

 堤防の切れ目を抜けて、短い階段をいちど登って下ると、そこは狭い浜辺だった。

 砂浜ではなく砂利の浜で、カーブしながら南に続いていく堤防の足もとに、握りこぶしの半分くらいの大きさの、海で洗われて角のとれた小石が打ち寄せられて溜まっているふうである。いまの潮位は少年にはわからなかったが、大股で歩けば十歩ほどで波打ちぎわまでたどりついてしまうぐらいに水が迫っていた。

 浜の北と南は岬にぶつかって終わっていて、前の海はそれらの岬の先端に抱かれた、小さな入り江のようになっている。風はほとんどなく、沖とは隔てられた春の海は、のたり、のたりと寄せている。陽光を浴びて、ゆらゆら輝く水辺には、人の影がひとつだけ、あった。

「あれ、ここ……」

 少年は、反射してくる光を手のひらでさえぎりながらそうつぶやいて、一歩、二歩、前に進んだ。

 と。

「こんにちは!」

 不意に横手からあいさつをされた。

 少年がそちらを向くと、通ってきた階段のすぐ近く、無造作に転がされたようにもみえるテトラポッドのひとつに腰かけた誰かが、彼のほうを窺っている。

「こ、こんにちは」

 そう返事をしてから、どうしたものか、と振りかえると、彼をここまで連れてきてくれた老婆は、どこへ行ってしまったのか、影もかたちもない。

 あれ、と見回しているうちに、声をかけてきた人物と目が合った。

 少女だった。

 年のころは、彼よりもいくぶんか幼い。暗い色の、だぶっとした長ズボンの裾を折って履き、桜色の、フードつきのパーカーを羽織っている。キノコのような形のボブカットにした髪に、陽光が赤茶色に透ける。

「どうしたんですか?」

 少女に訊かれて、少年はもう一度、視線を巡らせる。けれどもやはり、老婆の姿はない。

「いや、ええと、さっき、僕と一緒に入ってきた、お婆さんがいたと思うんだけど」

「え? なんて?」

 潮騒しおさいは静かなものだったが、離れたまま、普通の声で会話をするには少し、やかましい。少年はテトラポッドに近づいて、いま、お婆さんがいたと思うんだけど、と繰り返した。

 座っている少女の前には一斗缶がんがんが置いてあって、火が燃えていた。それほど寒くはないけれど、暖をとるためだろうか、と少年は考える。

「お婆さんって、ざど婆さん?」

 少女は答えるかわりに、質問を重ねてきた。

「ざど婆さん、っていうの? 案内してくれる、って言ったから、ついてきたんだけど……」

「そういえばちらっと見かけたけど、もう、どっか行っちゃったんじゃないかな」

 いつも、そんななんですよ、と彼女は付け加えた。

「あ、座りますか?」

 少女は一斗缶の正面から少し横にずれて、空いたところのテトラポッドの表面を手で軽く払う。

「じゃあ……」

 少年はリュックサックを置いて、腰を下ろした。

 次に、はい、と、おもむろに棒を手渡され、彼は、反射的に受け取ってしまってから、それをまじまじと見る。

 流木から折りとりでもしたらしい、細くて長い枝で、先端にふたつ、白くてふわふわした、丸いものが刺さっている。

 隣に目を向けると、少女も似たような枝を手にして、先に、かたわらのビニール袋からとり出した同様の丸いものをふたつ、突き刺そうとしているところだった。

 できた串を彼女が一斗缶にかざすと、火に炙られた白い物体はすぐに、まだらの茶色に変わり、砂糖を溶かしたときのような、甘い匂いが漂う

 こうしてくださいね、と、うながされて、少年も真似をする。枝をくるくると器用に回転させて、白いものの表面をまんべんなく焦がしていく少女にしたがってみようとしたのだけれど、なかなかうまくはいかず、彼のぶんは熱されすぎた箇所が、黒く炭のようになってしまった。

「もういいよ」

 そう言って少女は、彼の串を火から下ろさせた。

 あちあち、と、焦げすぎた部分を指の爪で叩いて落として、別の手に持っていた、二枚の手のひら大の板のようなもので白いものふたつを挟み、枝から抜く。

 白いものが、ぐにゃり、と溶けて、こぼれ落ちそうにになるところで止まる。

 はい、どうぞ、と渡されたものを両手で受けとると、外側は、ざらざらとした質感の、縦長のクラッカーのようである。中身から熱がつたわって、ほのかに暖かい。

 少女は膝の間に挟んで保持していた自分の枝からも、同じようにして白い球体を抜きとると、できたものを即座にほおばった。

 少年も、自分の手の中のものの、隅のほうにかじりついてみた。

 外のクラッカーは、ぶ厚くて硬いようにみえたけれども、歯を立てると、ほろり、と崩れて口の中に入ってきた。ザクザクと粉の粒を強く感じて、遠くのほうに、かすかに蜂蜜の甘みと香りがする。

 さらに食べすすめると、急に、がつんとした甘さにぶつかった。一斗缶の火であぶっていたものはマシュマロで、それと、溶けかかったチョコレートが混ざりあってとなって舌の上に流れる。チョコレートは、もともと板チョコかなにかを、クラッカーの上にのせてあったらしかった。

 マシュマロの、溶けてもなお、わずかに残る歯ごたえと、香料。チョコレートの風味と、かすかな苦さ。

「あ、これも……」

 考えていたことが、思わず口をついていたようで、気がつくと、隣の少女が、口をもぐもぐさせながら、彼のほうを見ていた。

「おいしいでしょ?」

「う、うん」

 食べるのを一時停止して彼が答えると、少女は笑顔になった。

「いや、そうじゃなくて」

 不意に、この浜辺まで、老女のあとについてやってきた理由を思い出して、少年は声をあげる。

「おいしくなかったですか?」

「あ、いや、そういうことでもなくて」

 少女は首をかしげる。頬にクラッカーのくずが残っていたけれど、それには気づいていないようだった。

「ざど婆さん、だっけ? その人が僕をここに連れてきてくれた理由なんだけど」

 キッチン・ダゴンのお店の人に会わせてくれる、って言うから、ついてきたんだ。彼がそう言うと、少女は、ほえ、と返事をする。

「それ、うちです」

「えっ」

 今度は、少年のほうが驚く番だった。

「もちろん、ぼく……私がやってるわけじゃなくて、グランマ……お婆ちゃんとお姉ちゃんのお店だけど」

「ああ、なるほど」

「でも、今日は定休日なんです。ごめんなさい」

「うん、それはいいんだけどね」

 少年は、ざど婆さんにした説明を、彼女にむかって繰り返した。自転車旅行のこと、八年前、この町に家族で来たことがあること、それから……。

「キッチン・ダゴンで食べたアイスクリーム?」

「うん」

 そんなに、めずらしいフレーバーがあったかなあ、と、少女は腕を組む。

「アイスクリームは、サンデーしか出してないと思うんですけど」

「サンデー?」

「チョコレートのソースとか、ナッツとかをかけたアイスです。だけど、アイスクリーム部分はバニラだから、めずらしいか、っていうと……」

「それなんだけどね」

 少しまえに気がついた気がしたことを、少年は口にした。

「このお菓子に似てたと思うんだ」 

「スモアに、ですか」

 あ、これ、そういう名前なんだ。彼はつぶやいて、右手に残っていた半分ぐらいを口に入れた。冷めきったスモアは、クラッカーが少ししんなりして、マシュマロの弾力が復活していて、さっきとはまた、ちがった食感でおもしろかった。

「アメリカでは、キャンプファイヤーで作って食べるらしいです。グラハムクラッカーと、板チョコと、マシュマロだけど……」

 そんな味のアイスクリーム、あったっけ。少女は、さらに首をひねる。うちのサンデーは、マシュマロはトッピングしないし。

「八年前のことなんですよね」

「うん」

 もしかすると、今は出していないのかもしれないな、と、少年は考えた。それに、そのアイスクリームを食べたとき、自分は小学校の三年生になるところだった。隣に座っている少女は、小学校の高学年か、年長に見積もっても中学生だろう。当時はまだ、幼稚園児ぐらいだったかもしれない。そうなのであれば、記憶していなくても無理はない、とも彼は思った。

「さっきまで、お姉ちゃんもいたから、訊けばわかったかもしれないけど……。あ、でも、そんなに前だと、お姉ちゃんもいなかったころだ」

「そうかあ」

 ごめんなさい、お役に立てなくて。少女はがっくりと肩を落とす。

「いやいや、いいんだよ。僕も、ちゃんと憶えてるわけじゃなくて、メニューを見たら思い出すかな、ぐらいにしか考えてなかったから」

「明日、グランマがいる時間に来てもらえれば、わかるかもしれないけど」

「うーん、今日、この近くで泊まるとしても、明日は朝早くに出ちゃうかなあ」

「そうですよねえ」

 そうだ、泊まるといえば、と、少年は腕時計を見る。針は午後四時ちかくを指している。暗くなる前にはテントを張る場所を決めておいたほうがいい、というのは、ここ数日で学んだ。春分の日は過ぎたけれど、午後の日照はまだ、それほど長くない。次の町まで行く時間はなさそうだった。

「泊まるといえば、さっきのお婆さんに、海の近くで野営はするな、と言われたんだ」

 なんでかな。まだアイスクリームの謎に頭を悩ましているらしい少女に、少年は訊く。

「ああ、ざど婆さんに聞いたんですね」

「理由は教えてくれなかったけどね」

 たぶんそれは……。言いかけて少女は、ちらり、と海のほうに目をやった。つられて少年も、同じ方向を見る。

 さきほど彼が浜に足を踏み入れたときには、そういえば、そちらにもひとつ、人影が動いていた。

 けれどもいまは、やさしい波が砂利に打ち寄せているだけで、人の姿は、ない。

「あれっ」

 隣の少女があわてたように腰を浮かせる。と、次の瞬間、波間から黒い頭がのぞき、すぐに立ち上がった。ちょうど、潜っていただけなのかもしれなかった。

 波打ち際の影は、岸のふたりのほうに向かって手を振る。少女もそれに、手を振って答える。

「友だち?」

 ふう、と、もう一度、腰を落ち着けた少女に彼が訊くと、彼女は、うん、とうなずいた。

「君は、泳がないの?」

「うーん。ぼくはちょっと、苦手です」

「そういうことも、あるんだね」

「それに、泳ぐっていうより、貝とか、海藻とったりとか、かな。まだ冷たいですし、水」

「ああ、潮干狩りみたいなものだね」

「ここは、ギョギョーケンがホーキされてるから」

「ギョギョーケン?」

 あまり予想していなかった単語が少女の口から出て、少年は聞き返す。

「漁師さんが魚を獲る……」

「あ、その漁業権」

 彼自身も海の近くの育ちではあったから、言葉自体にはなじみがあった。あまり、日常会話では使わないだけだ。

「入り江になってるでしょ。あそこの、岬と岬の間を埋めれば、せき止められる。だから、入り江の水ぜんぶ抜いて、別のことに使おう、っていう計画が何度かあったみたいなんです」

「なるほど」

 でも、いまこうして残っている、ということは、計画は頓挫した、ということなのだろう。少年は考える。

「ダンノーラの戦い、って知ってますよね」

「ダンノーラ?」

 また、思いもつかないことを言われ、少年は、いっとき困惑する。外国人?

「源氏と平家が戦った……」

「ああ、壇ノ浦」

 一の谷、屋島と続けて戦に敗れた平家の軍勢は、壇ノ浦の海戦で遂に滅びた。こういう話は、ハルちゃんのほうが上手いんですけどね、と言いつつ、少女は語りだす。

「ハルちゃんって、あの子?」

 少年は波打ち際を指さす。

「あ、はい。そうです」

 幼い安徳天皇をはじめとして、おもだった武将や一族の者がその場で入水して果てたのは有名な話だが、脱出し、近くの浜や遠くの島に落ちのびた者も多かった。

 その中に、沖へ、沖へと漕ぎ、いつしか海流に乗って北に流された一艘があった。陸の見えない絶海をさまよい、そうするうちに嵐にも遭って、岬に挟まれた、小さな入り江に漂着した。

 助かった。そう思ったにちがいない。けれども。

「けれども、上陸してすぐに、このあたりが源氏勢の領地のど真ん中だと気がついたんです」

 隠れることもできず、一行は上陸した浜に、そして舟の上にまで追い返されてしまった。

 望みを断たれた一党は舟を焼き、入り江の沖の海に、身を沈めた。

「その中には、女の人も、子どももいた、って言います」

 まだ日は暮れない時間だけれど、急にあたりの空気が冷たくなったような気がして、少年は身震いをした。一斗缶で燃える炎に、無意識に膝を近づける。

「それでね、干拓しようとすると、そのたびに悪いことが起こるんだそうです。測量船がなにもないところで沈没したり、現場に泊まりこんでた作業員が、武将の幽霊に海に引っぱりこまれた、という話があったり」

 近くの町や東京からやってきたお金持ちの人が工事を再開させようとしたこともあったけれど、それらもいつしか立ち消えになってしまい、漁業権の設定されていない渚が漁港のかたわらに、ぽつん、と残ることになった。そういうことらしかった。

「……海辺ではキャンプするな、というのも、だからかな」

「そう、かもしれないですね。夜中にのぞくと、白い人が歩いている、っていう話もあります」

 あそこの松の下らへんとか、と、少女は南の岬の、つけ根あたりに生えている針葉樹を指で示す。

 そうすると、あの記憶も、この町でのことだったのにちがいない、と、少年は考えた。

「実はね」

「なんですか?」

「この浜にも、昔、来たことがあると思うんだ」

「ふうん?」

「君のうちのレストランに行ったのは、家族旅行でこの町に寄ったときだった、って言ったよね」

「はい」

 そのときは海沿いの町ばかりをずっと訪れたので、前後の記憶が混ざりあってしまって確信が持てなかった。少年は言う。

「アイスクリームをどこで食べたかは、ちゃんと憶えてるのにね」

「花より団子、ですね」

 ぼくも、いつもそうだって笑われます。少女は微笑む。

 彼は話を続ける。ざど婆さんに案内されてきて、浜をひと目、見たときに、既視感のようなものをおぼえた。そして、いまの少女の話で、まちがいない、と思った、と。

 八年前の春のその旅行は母方の祖父母の退職記念で、祖父母、両親、叔母、それに彼という大所帯の旅だったのだが、子どもは彼ひとりだけだった。大人たちにとっては、大浴場や海の幸、南のほうでは早咲きの花畑などを見てゆっくりしよう、という目的の旅だったのだろう。ただ、まだ小学生の彼には退屈なものだった。

 その日も、まだ外がじゅうぶんに明るいうちに投宿し、祖父母たちはくつろぎだしてしまったけれど、暇をもてあました彼は、旅館の前でひとりで遊んでいた。すると宿の子どもたちだという男の子と女の子が出てきた。しばらくいっしょに道路にチョークで絵を描いたりしているうちに仲よくなって、海に行こう、と、誘われたのである。

 あらためて思い出してみると、それが、砂利だらけの浜の、この入り江だったようなのだ。

 それで……。

「……それでね、海辺で遊んでいるうちに、夕方になってきた。僕はふたりから離れて、あの松の木の影に行ったんだ」

「なんで?」

 と、少女が訊ねる。

「あー、それはさ」

 彼は口ごもる。

「……トイレしたくなったから」

「ああ」

 少女は変な質問をしてしまったことを謝るように、あはは、と、軽く笑った。

 用を足し終えた彼が、ふと海を見ると、岬の先に近いところ、岸が砂利の浜ではなくて切り立った岩礁になっているところに、背の低い人影がある。

 危険だから、絶対にそこへは行かないように、と、宿の兄妹の兄のほうに念を押された場所だった。それでも来てしまったのか、と、彼らがいたはずの方向に目を向けると、ふたりはまだテトラポッドが並んだあたりにいて、石を拾ったり投げたりしている。

 じゃあ、誰だろう、と思いつつも、危ないよ、と声をかけようとすると、もう、その子どもはどこにもいなかった。

「見間違いかもしれないし、そのときも、いままでも誰にも言わなかったんだけど、そういう伝説があるんなら、やっぱり、この場所でのことだったのかな」

「そう、ですね」

 それから、少女はしばらく沈黙した。少年も、話すことは終わってしまったので黙っていた。

「ところで……」

 そのとき泊まった旅館、エラ萬、っていう名前じゃなかったですか? しばらくして口を開くと、少女は彼に、そう訊いた。

「どうだったかな。それこそ八年前のことだから、憶えてないなあ」

「だったと思いますよ。その年ごろの兄妹がいる旅館って、この町には他にはないもん」

 もしそうだったら、あそこにいるのが、そのときの女の子。

「えっ」

 少女が向けた指の先にいるのは、さきほどから水辺で、立ったりしゃがんだり潜ったりしている影である。

「ハルちゃんは、エラ萬の娘なんです。もうひとりの男の子は、お兄さんより二、三歳、年上じゃなかった?」

「言われてみれば、そうかも」

「たぶんそれが、アキ兄ちゃんだな」

 ああ、と、少年は思う。

 ここの海には、八年前とつながったままの、毎日がある。

 ただ、どのように口にしたら、そのことを感慨としてこの少女に伝えることができるのか。彼にはそれが、わからなかった。

 さらには、伝える必要があるのかどうなのかも。

「……でもさ」

 少年は、別のことを言った。

「こんな、お化けが出る海で、よく泳いだりするね」

「大丈夫ですよ。ハルちゃんたちには、庭みたいなものです。あと……」

 あと。もう一度、繰り返して、少女は口を閉じた。

 大丈夫、と言ったわりには心配そうに、膝をそわそわさせる。

 それから彼女は立ち上がり、砂利の浜の半ばほどまで駆けていって声をあげた。

「ハルちゃん、今日は、そろそろ帰ろ!」

 水の中の影は片手を上げて、おー、と、それに応じた。


 *


「あれ、なんだ、これ」

 自転車のところに戻ってきた少年がつぶやいた。

 駐輪したときに、誰も盗んでいかないしゅ、と老女に言われたので、寝袋やテントなどはそのままにして置いていった。その、荷台にぐるぐるとしばりつけた包みの上に、一枚の布が乗っている。

 細長く、手ぬぐいのような薄い生地。そこに黒い糸で、縫い取りがされている。頂点が五つある一筆書きの星と、それに並べて、格子の模様。縫いつけられた糸は、縦に四本、横に五本。

「あ、ざど婆さんにもらったんですか?」

 彼が、その布をまじまじと見ていると、ずっと海に入っていたほうの少女がのぞきこんできた。

 彼女は長い濡れ髪を頭の後ろでしばり、薄手のパーカーを肩からかけていたが、その下は全身を覆う、潜水漁をする海人が身に着けるようなウェットスーツから、水を滴らせたままだ。

 堤防の階段を登ってくる途中、それだとこの季節の海でも寒くなさそうだね、と彼がコメントすると、彼女は恥ずかしそうに笑って、うちは、親が漁師もしてるから、と答えた。

 少年はあらためて布を広げて、ふたりの少女に見せる。

「ここに、ぺらっとあっただけなんだけど」

 なに、これ、と。

「じゃあ、ざど婆さんが置いていってくれたのかもしれないですね」

 ウェットスーツの少女が答える。そして、これといっしょ、と、自分の腰につけていた手ぬぐいを外して、そこに描かれた模様を示した。彼が手にしている布にほどこされているのと同じ、星形と格子だった。

「カイマ除け、なんですよ」

「カイマ?」

「カイはうみの字で、マは魔物の魔、かな」

「ああ、海魔」

「このあたりの伝統じゃないはずですけど、ざど婆さんが作ってくれます。機嫌がいいときに」

「へえ」

 これは、ろびんがざど婆さんからもらってくれたんだっけ? 彼女は、もうひとりの、キノコ頭の少女に言う。そうだっけ? と、そちらの少女は、しゃがんで自分の自転車を解錠しながら返事をした。

「それをつけたら、浜辺でテントを張っても大丈夫、っていうことかもしれないですね」

 それから三人は、自転車をこいで漁港のほうへ戻った。

 野営をするなら、北の岬の展望台の下の空き地がいいのではないか、ということになったからだ。少女たちによると、もっと暖かくなると、バイクのツーリングのお姉さんやお兄さんも泊まってることがありますよ、ということだった。

「そういえば、夜ご飯はどうするんですか?」

 走りながら、ろびん、と呼ばれているほうの少女が少年に訊いた。

「ああ、インスタントラーメンとか持ってるし、荷物を減らしていかないといけないから」

 テントを設営したら作って食べるよ、と、彼は返事する。

「お湯はどうするの?」

「キャンピング・ストーブっていうのがあるんだよ」

「ふうん」

「ガスの缶を下にくっつけて火をつけるんだ。そんなに大きくはないけどね」

 話しているうちに右手に駐車場が見えて、その奥が展望台前の草地だった。トイレや、簡単な屋根のかかったベンチもあって、いざとなったら軽い風雨ならしのげそうでもある。

「うん。今夜はここにするよ」

 少年は自転車を降りる。

「あのね、アイスクリームのことなんですけど」

 ろびんが少年に話しかける。

「明日、もし朝早くに出ないといけないんでも、時間があったら寄ってってください。帰ってグランマに訊いたら、たぶんわかるから」

 開店は十時なんですけど、ぼくたちはお店の二階に住んでるし、八時……八時半ぐらいなら起きてるので、と彼女が言ったところで、ハルちゃん、というほうの少女が、でも、と口をはさんだ。

「ろびん、休みの日に九時前に起きてることなんて、ないじゃん」

「ハルちゃん! それは、いま言わなくてもいいことじゃない?」

 ほんとのことでしょー、と食い下がるハルちゃんの頬を、うるさいなー、と、ろびんが引っぱって伸ばす。

「じゃ、じゃあ、そういうことだから」

 そう言い残して自転車にまたがり、駐車場の正面の坂を立ちこぎで登っていく赤毛の少女の後ろ姿を、もうひとりの少女は、しばらく見送っていた。

「君たちは、仲がいいんだね」

 私は、こっちなんで、と走り出そうとしたハルちゃんという少女に、少年は言った。

「えー、なんですか、突然」

 ハルちゃんは止まって、彼のほうを少し、振りかえる。

「海にいたときにさ。あの子は僕と話してても、ずっと陸から、君のことを気にしてた。見えなくなってしまわないように」

「ろびんが、そんなこと考えてるかなあ」

 彼女は苦笑のような、悲しんでいるような、よくわからない顔をした。

「私にしてみたら、あの子のほうが、あやういです」

 目を離したら、海に消えてしまいそう。そのあとの言葉は、少年には聞き取ることができなかった。……さんを、おいかけて。そう、口が動いたような気がしたけれど、もちろんそれは、彼の想像にすぎない。

 でも、彼女がそう言ったのだとしたら、どういう意味だろう。彼は考える。

「お兄さんも、ろびんと似たような目をすることがありますね」

 ハルちゃんはつぶやく。それから彼女は少年の視線に気がついて、はっとしたように口を閉じた。

「ごめんなさい。気にしないでください」

 あの、気をつけて。今晩だけじゃなくって、この先も。海魔除け、使ってくださいね。

「あ、うん」

 最後のほうは早口になって、少年の返事は聞いたか聞かずか、彼女は地面を蹴って自転車に勢いをつけ、漁港の方向へ走り去っていった。


 *


 翌朝。

 展望台のむこうからさしてくる朝日で、少年は目を覚ました。

 テントの入口を開けると、草の上を、白い朝靄が薄く漂っている。空気はまだひんやりとしていて、しめった土のにおいがする。

 立ち上がって、一歩、外に踏み出す。

 そこで彼の右足が、なにかを蹴った。

 見下ろしてみると、バケツがある。

 腰をかがめて持ち上げようとしたところ、考えていたよりも重い。

 中には高さの半分ぐらいまで水がはられていて、その底に、小さな黒い粒々が沈んでいる。重さの原因は、それだった。

 彼は手を入れていくつか、粒をすくいあげる。それらはタニシのような形をした、小型の巻き貝であった。

 バケツは誰かが磯にでも置きわすれていったかのような代物で、把手はかろうじて残っているものの、表面にはボコボコに凹凸ができていて、錆なのか付着物なのか、ところどころ白く盛り上がってもいる。

「こんなもの……」

 いったい誰が、とひとりごとを言ったところで、夜中に一度、目が覚めたことを彼は思い出した。

 足音を聞いた気がしたのだ。若草を踏んで、テントのまわりをぐるぐると廻っているような。

 なんだろう、と、しばらく寝袋の中で緊張していたのだが、やがてかき消すように聞こえなくなってしまったので、すぐに忘れて、また眠りについた。

 そのとき実際に何者かがここまで来て、このバケツを置いていったのだろうか。考えながら少年は、はね上げていたテントの入口を下げた。そのはずみで、入口の脇に引っかけておいた手ぬぐいのような布が、はらり、と落ちた。

 もしかしてその何者かは、これがあったからテントに入ってこなかったのか。

 少年は、布の表面の星と格子の模様を見る。

 そう思うと、彼は安堵したような、申し訳ないような気持ちになった。

「ところで」

 これって食べられるのかな。バケツを前にしゃがみこんで彼は考える。

 もし食用になるのだとしても、こんな量をキャンピング・ストーブで調理することはできなさそうだ。それに、この先の旅に持っていけるものでもないだろう。

 どうするか、と、彼は首をひねり、とりあえず立ってトイレの脇の水場で顔を洗い、歯をみがいた。

 それから、リュックサックの中で若干つぶれかけていた小倉マーガリンのコッペパンを朝食として食べた。

 テントと寝袋を日に少しだけさらしてからたたみ、自転車に乗せる。シャツの着がえなど、出していた荷物を詰めなおして、背中に背負う。

 そうして腕の時計を見ると、七時半よりも少し前ぐらいだった。

 まだちょっと早すぎるか。そう思ったけれど、ゆっくりむかうことにして、彼は自転車を押して、昨日の夕方、少女のひとりが登って帰っていった坂道に歩みを進めた。片方のハンドルに、バケツの把手を引っかけて。

 キッチン・ダゴンの前に到着すると、十時から、と少女が言っていたように、まだ開店前で、ドアには「月曜定休」の札が昨日と変わらず下がっていた。時刻は、八時近くになっている。歩道に面した窓から覗きこむと、奥の厨房には明かりがあるようで、もう誰かが出勤しているのかもしれない、と、少年は希望を持った。

 表の扉を叩いてもわかってもらえなさそうだったので、彼はバケツだけを手に、キッチン・ダゴンと隣の建物との間がせまい路地のようになっているところに入っていった。

 その路地が店の裏手にまわる少し前に、勝手口らしい引き戸があった。そこをノックすると、ややあって、中から女性が顔を出した。コックさんがよく着ているような白い上っ張り姿で、すらりと背が高い。

「あ、えっと」

 どう用件を伝えればいいか、なにも考えていなかったことに気づいて、少年はしばし、とまどう。けれども、昨日、浜辺で話したときに、少女がここのことを、グランマとお姉ちゃんのお店、と言っていた、と、ふと思い出す。

 よく見ると勝手口の女の人には、彼女の面影がかすかにあるようだった。それに、母親や祖母というほどには年も離れていなさそうだ。

「昨日、入り江のところで、妹さんと会ったんですけれど」

 そう、少年は切り出した。

「ああ、自転車のお兄さん?」

 女性は、ぽん、と手を打って、ゆうべ、ろびんから聞いたわ、と言った。

「妹じゃなくて、イトコなんですけどね」

 ちょっと待っててくださいね。彼女は頭を引っこめた。すぐ内側に二階への階段があるものか、中で、ろびんー、あなたにお客さん! と呼んでいる声が少年のところにまで聞こえた。

「今日は、めずらしく早起きみたい」

 まもなく、どたばたと音がして、昨日見たキノコのような形のボブカットが、女性の肩のすぐ横に現れた。早起き、といっても起きたのはついさっきのようで、ところどころの髪が、おかしな方向にはねている。

「寄ってくれたんですねー」

 そう言ったろびんという名の少女は、少年が口を開く前に、アイスクリームのこと、わかりましたよ、と、畳みかけるように続けた。

「グランマは、やっぱり憶えてました。ロッキー・ロードっていうのだって」

「ロッキー……?」

「石だらけの道、とか、困難な道、とかみたいな意味かな」

 ろびんの従姉だという女の人が説明をはさんでくれる。

「チョコレートアイスクリームに、マシュマロとアーモンドを刻んだのが入ってる、ってグランマは言ってました。スモアに味が似てる、っていうのは、だいたい正解でしたね」

 ああ、そうだったんだ、と彼は思う。そう聞くと、味が甦ってくるような、こないような、不思議な感覚だった。

「食べていきますか、って、言いたいところなんだけど……」 

 少女はそこで、しょんぼりとした顔になる。

「チョコレートのアイスは仕入れをやめちゃったから、もう、お店では出してないんです」

「そっか」

「ごめんなさい」

 ううん、と、少年は首を振る。なんか、そんな気がしてたんだ。

「ああ、ところでね」

 今朝は、これを持ってきたんだ。彼はバケツを少女たちに示す。

「あ、ダメ貝」 

 お兄さんが獲ってきてくれたんですか? と、ろびんが訊く。昨日の入り江で?

「いや、そういうわけじゃなくて」

 朝起きたら、テントの前に置いてあった、と、彼は正直に言った。誰かが僕にくれたのかもしれないけど、僕はどうしたらいいかわからないし、持ってくこともできないから。

「もらってもらえます?」

「うん、ありがとう!」

 少女はすぐに両手を伸ばして、バケツの把手を受けとった。ほら、こんなにたくさん、と、かたわらの従姉の顔を見上げる。お味噌汁にすると美味しいんだよね。

「そうだ」

 彼女はバケツを床に置き、だだだっ、と階段を駆けあがり、どどどどっ、と下りてきた。

「お礼、っていうかわからないけど、これ、持ってってください」

 目の前に差し出されたビニールの大袋には、白くて丸くて、ふわふわしたものが、まだ半分ぐらい残っている。

「クラッカーとチョコは、ゆうべ食べちゃって残ってないんだけど……」

「えっ、ろびん、あれひとりで全部、食べたの」

「……グランマも食べたもん。二枚ぐらい」

「また、ニキビが出るよ」

「わかってるよう」

 んべっ、と、お姉ちゃんに舌を出してみせてから、ろびんは少年のほうに向きなおる。

「マシュマロだけでも、焼くとおいしいんですよ。キャンプ用のストーブでも、焼けると思います」

「ありがとう」

 少年が表に止めた自転車のところまで、少女はサンダルをつっかけて、見送りに出てくれた。

「よかったら、また来てください。今度は、電話かなにかしてもらえたら、ロッキー・ロードも準備しておけるかも」

 そうだね、次は、そうするよ。少年は自転車にまたがる。

 走り出して、信号のある交差点で、漁港に向かって下る坂道に曲がりしな、彼が振りかえると、黄色いビニールの軒の下、キッチン・ダゴンのドアが、ぱたん、と閉まったところだった。

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