探しものは、なんですか
数多の尖塔の街、ディラス=リーンからの船は、十日あまりのおだやかな航海のあと、夕刻まえにバハーナに入港した。
バハーナは、島国オリアブの第一の海港である。赤紫色の表面に細かくきらきらと模様の入った斑岩でできた桟橋のむこうに、水際近くから斜面に沿って石造りの高い家が建ちならび、その間を縫うように、道の代わりの細い階段がいくつも走っている。
遠くには頂に雪をまとったンラネクと、そこに連なる山々がそびえているのだが、今日は低く垂れた雲に隠れて見ることができなかった。
帆船が接岸すると、集まった物売りや出迎えの人たちで船着き場は賑やかになる。船上から見わたせば、乗馬か、あるいは荷役に使うのか、この島では一般的な縞馬を連れたものの姿も、ちらほらとある。
ロビンは、ディラス=リーンよりも遠くの港から船を乗り継いできたのだろう、ターバンを巻いた商人の一団のあとについて下船した。
岸壁との間にかけられた板を渡りながら甲板に目をむけると、航海中に仲良くなった船長の副官が、ちょうど積み荷の運び出しを監督しているところであった。副官は山羊のような角を生やして毛深い体をしたレン人で、彼女に気がつくと、毛むくじゃらの手を振ってくれた。
手を振りかえし、陸に上がって、いつかまた、彼とおなじ船に乗ることはあるだろうか、とロビンは考える。
この世界で、彼女は常に旅人だった。
船を拾って、港を訪れては、去る。そのくりかえし。
理由はわからないのだけれど、それが訪問者として自分がするべきことのような気が、彼女にはするのだ。
だけど、と、彼女は思う。
行旅人としてではなく、この世界に住んでいる人々は、どういう人たちなのだろう。
自分と、なにが違うのだろう。
声をかけてくる幾人かの物売りを尻目に、ロビンは街の中に続く石段を登りはじめた。
家々の壁に両側を挟まれた階段は、曲がりくねり、分岐する。ときおり上を、屋上や上階同士をつないでいるらしい渡り廊下のアーチが通る。少し幅が広くなっているところには、屋根がわりに白い布を張った露店が出ている。
この港には、なじみの船旅宿がある。いつものように、そこへ通じる道のりを進んでいたロビンは、途中の分岐点で考えを変えて、斜面の街が最も高くなっているあたりにつながる太い階段のほうに足をむけた。
その一筋の階段は、幅の広い建物に突きあたって終わる。芝生の前庭に形よく整えられた低木が並び、その奥で、大理石の円柱が半円形にせり出した入口の屋根を支えている。中央にあるのは巨大な翡翠色のドームを冠した白亜の本殿で、左右にほぼ対称的なかたちで、ちいさな円屋根を持つ土壁の建造物が二、三、つらなっている。
柱の間を抜けて中に入ると、そこは真ん中に人工の泉を配した広い空間になっていた。泉には、中心部に立つ、半裸の女性の彫像がかついだ水甕からあふれる水が絶えず注ぎこまれ、まわりをぐるっと囲む整然とした石組みに、三人、四人と組になった人々が思い思いに腰かけて談笑している。上を見ると、ドームの内側にあたる部分は、星座をモチーフにしたらしいモザイクの天井画で覆われている。
ロビンは、泉の広間から右につながる、低いアーチ状の戸口をくぐった。短い廊下の突きあたりに鉄の枠をはめた木の扉があり、そこを開けると、先は板張りの小部屋になっていた。
部屋はほんのりと暖かかった。入ってすぐに座っている少女に小粒の銀をひとつ渡し、壁ぎわの、みじかい棒が並んで突き出しているところに、背負ってきた布包みをかける。旅から旅に彷徨っている彼女の持ちものは、それだけだ。
間もなく、入口の受付の少女とは別の娘が寄ってきて、服を脱ぐのを手伝ってくれる。脱いだ衣服を畳んで棚に置き、代わりに白っぽい、薄手の衣を持ってくる。
着せられるままに素肌の上にそれをまとうと、生地は見た目よりもやや硬く、ざらりとした感触がある。丈は彼女の膝ぐらいまでで、前開きになっていて、腰のあたりの左右に縫いつけられた紐を結んで閉じる、簡単な造りの単衣だった。
ふと思いついて、ロビンは荷物にしまっていた小袋から指先ほどの大きさのルビーを数個つまみ出し、娘の手に握らせた。いくつか指示を与えると、娘は、わかりました、とうなずいた。
小部屋の奥には、もうひとつ扉があって、厚くて重い一枚板を押して次の部屋に入ると、そこも、大きさはおなじくらい。ただ、こちらは天井がアーチで支えられて高くなっていて、壁にはつるつるした表面の石が貼られ、床には平らに切り出した黒い溶岩が敷きつめられている。
溶岩の床は、下を流れる湯に温められて、室内に熱気を放出していた。
まだ、やや時間が早いからだろうか、他には誰も客のいない部屋の中央に立っていると、海風にさらされつづけてきた体がじわりと汗をかいて、こわばっていた肌が、少しずつ、ゆるんでくるように感じられる。
ほどよく体が熱されたころあいを見はからって、ロビンは、さらにひとつ先の部屋に進んだ。
少しちいさめに感じるその部屋は、木の板を渡しただけの床の隙間から蒸気がもうもうと立ちのぼり、天井がはっきりと見えないほどに、けぶっている。
バハーナは片側で外海、反対側でヤスという名の湖に接した街で、ヤス湖をはさんだ対岸の高峰ンラネクは、今もときおり溶岩を吐き出す火山である。その地下に溜めこまれた熱で、このあたりには高温の湯が湧く。ここは、その源泉を利用した温浴施設なのである。
似たような浴場は他の港町にもあって、ロビンはそれらにも入ったことがあったけれど、そういうところではふつう、火を焚いて水を沸かして湯気を作っている。バハーナの浴場が異なるのは、湧出した熱湯を、そのまま浴室の下に流していることだった。だから、部屋に満ちた蒸気には、温泉に特有の硫黄の臭気も含まれている。ただそれは、慣れてしまえばそれほど不快というわけでもなかった。
壁に沿って造られたベンチに座って、ロビンは熱気に身をまかせる。汗腺という汗腺、毛穴という毛穴が開いて、吹き出した汗と空気中の水分がいっしょになって、肌にまとわりついた塩を押し流してくれるように、彼女は感じた。船上での寝起きで固くなっていた間接も柔らかさをとり戻し、なめらかに動くようになってくる。
じゅうぶんに汗をかいてから、溶岩の敷かれた部屋に帰る。ここは蒸気に満たされた部屋に入るまえに温度に慣れるためと、汗を出してから体を清めるために使われる。だから、下に通っているのは、水を混ぜて温度を下げた源泉の湯なのだという。
黒い、ざらついた床が一段、まわりよりも高くなっているところに腰を下ろすと、すぐに担当の娘が近づいてくる。脱衣所にいた少女たちよりもやや年上のようで、自分と変わらない年ごろかもしれない、とロビンは思う。
娘はロビンをうつぶせに寝かせると、汗と水を吸った単衣をはぎ取った。それから裸の背中に油を塗りつけていく。油は香草を浸したオリーブ油で、寝そべったロビンの鼻先にも、よい香りがふわりと届く。
太ももの裏、ふくらはぎまで油を塗り終えると、固いヘラのようなもので、それをこそげ取っていく。それとともに、皮膚に浮かんだ汚れを落とすというわけだ。背中側が終わると、少女はロビンを起き上がるようにうながして、溶岩でできた台に腰かけたロビンの前側を、伏し目がちに、同じように清める。
この世界で、お金を払って入浴する、というのはこういうことであるらしいのだった。それがふつうであるとわかるまでは恥ずかしかったし、油を塗る指や、かき取るヘラがくすぐったかったりもした。恥ずかしいのは今でも少しそうだけれど、ローマに行ったらローマ人のするようにせよ、っていうのは、こういうときに言うのだろう、と、ロビンは考える。ここは別に、ローマではないんだけど。
脱衣所に戻って乾いた布で髪と、体についた残りの油をぬぐっていると、最初に用事を頼んだ少女が寄ってきた。彼女から渡された布のかたまりを広げると、オリアブ風の、絹でできた、さらりとした裾の長い服である。色は薔薇の花弁のような濃い紅色で、自分では買わない色だなあ、と思ったけれど、このルビーで市場で新しい服を買ってきてもらえないかな、とお願いしたときに色までは指定しなかったし、たまには気分が変わっていいだろう。
「ありがとう」
お礼を言うと少女ははにかんで、これ、とルビーをひとつと小銭をいくつか、差し出してきた。服を贖うのに使わなかったぶん、ということらしい。
「それは、お駄賃に取っておいて」
少女は、ぱ、と笑顔になって、着ている質素な貫頭衣のポケットに、それをしまう。
ロビンは旅装を詰めた布包みから新しい下着を出してつけ、その上から、買ってきてもらったばかりの絹の衣をまとった。少女が近くに来て、帯を整えるのを手伝ってくれた。
浴場を出ると、日はすっかり暮れ、港町には霧が出ている。
濡れて色の変わった石の階段をたどって、ロビンは今宵の宿を目指すのだった。
*
「寝ちゃってますね、ふたりとも」
運転席の江良間秋刀が、バックミラーにちらり、と目をやって、そう言った。
「本当ですね。さっきまで、あんなに騒いでたのに」
入矢村織亜は助手席から振りかえり、後部座席を覗き込んで答えた。
後ろのシートでは、彼女の従妹である大向手ろびんと、秋刀の妹の芽春が肩を寄せあって座り、ろびんは芽春の肩に、芽春は窓に、それぞれ頭をもたせかけるようにして寝息を立てている。芽春の膝の上には、開けたばかりのチョコレートの箱が乗ったままだ。
「楽しみで、昨日、あんまり寝られなかったって言ってたから」
苦笑して、織亜は前方にむきなおる。
「ハルも、そうだったみたいで」
年が明けて、数週間が経ったあとの土曜日。
秋刀がハンドルを握る軽自動車は快調に高速道路を飛ばしてきたが、いまはちょうど、ジャンクション手前のみじかい渋滞に追いついて、スピードをゆるめたところだった。
目指す先は、ドリームランド。車内の四人が住んでいる印寿真洲の町からだと、東京との県都境の直前にある、遊園地だ。
「中学生になったのに、まだまだガキみたいですよ」
三人兄妹の二番めと三番めの秋刀と芽春は、五歳、年が離れている。秋刀は高校を出たばかりだったが、家業のエラ萬という屋号の網元旅館を手伝って、漁船に乗っている。妹に対しては、自然と、というのかなんというのか、保護者目線になるようだった。
織亜は、んー、と、人さし指を唇に当てる。
「でも、ふたりとも、もう何年も、行きたい行きたいって言ってたましたから。はしゃぐのも無理はないんじゃないかな」
彼女は、漁港の町の商店街のはずれで祖母が経営している、Kitchen Dagonという洋食店で働いている。高校と、高校を出て専門学校に通っていた間はアルバイトとして。現在は従業員として。
従妹のろびんは、その祖母と同居している。ろびんと芽春は同い年で、どちらも家が商売をやっているから、保育園時代からの学友だった。
そして、隣市の茜から特急電車に乗れば一時間あまりで着くドリームランドにふたりが行く機会がなかったのも、家が商売をやっているから、というのが一番の理由なのだろう。芽春ちゃんはともかく、ろびんはまだ幼いところが多分にあって、子どもたちだけで行かせるには不安が多い。だからといって、自分たちで連れて行くには、なかなか休みが合わない。そういうことだったに違いない、と織亜は推測した。
「私も、小学生のときに両親と行ったきりだな」
「あれ、成人式あそこでやるんじゃないんでしたっけ」
「それは、近くの市だけですよ。私は茜の出身だし」
「あ、そうだったっすね。茜は、どこでやるんすか」
「合併してからは合同でやってるんじゃないですか。ふつうに市民会館だと思うなあ」
自分の成人式は、一年まえだった。お正月が明けてすぐの三連休はダゴンが忙しくなるので、出席しなかった。
今年になって、織亜がいっしょなら、と、グランマから遠出をする許可が出たのは、彼女からみて、織亜がじゅうぶんに大人になったから、というのもあるのかもしれない。そう、織亜は思う。おもてむきの理由は、去年、店を空けて旅に行ったときにずっとあんたたちだけでやってもらったから、一日ぐらいは私が代わるさ、というものだったけれど。
「それにしても、せっかく貴重なお休みなのに、こんな家族サービスみたいなのに巻き込んじゃって、ごめんなさい」
「いやあ。休みっつっても、家の近くでぶらぶらしてたら、網なおしとけ、とか、結局、仕事させられちゃうんで」
わはは、と秋刀は笑う。もともとそんな予定はなかったのだが、アキ兄ちゃんも休みなら、兄ちゃんの車でみんなで行こうよ、という芽春の提案で、急遽、加わることになったのである。
「それに、この車、買ったはいいけど、ふだん乗るのは店の軽トラばっかりで、全然、乗ってなかったですし」
「あー」
まあ、軽なんでショボいっすけどね。秋刀が謙遜する。
「んーん。快適だよ」
ジャンクションを過ぎて、車はまた、エンジンをいっぱいに回して走り出す。
*
「いらっしゃーい」
行きつけの船旅宿に入ると、元気な声に迎えられた。
「あ、じゃなくて、おかえり!」
地元の人みたいなかっこうしてるから、気がつかなかったよ。
そう声をかけてきたのは、宿の看板娘である。長い黒髪を二本のお下げに結って、他の島の住民たちのように、丈の長い絹の服を着ている。色は薄い水色と南国の海のようなエメラルドグリーンが、腰のところで切りかわりになっていた。
「今回は、どれくらい?」
「二、三日かなあ。部屋、空いてる?」
「うん。いつものとこにどうぞ」
この海域にある船旅宿は、どこも似たような構造になっていて、一階が酒場兼食堂。宿をもとめる旅行者や船員は上階にある客室に泊まることができる。ロビンはバハーナに寄港するたびに、表の扉の上に半人半魚の男の生首を描いた奇妙な紋章を掲げた、この『鰓男亭』に投宿することにしていた。港や市場の中心から少し離れて騒がしくなりすぎないのと、看板娘が自分と同じくらいの年のようで、気がおけないのがよかった。
「あ、そうだ」
ロビンは背負ってきた布包みから、口をしばったちいさな袋を出した。
「これ」
「なに?」
小袋を渡された宿の娘は、紐をほどいて中を見る。黒っぽい、乾いた小片がいくつも入っている。
「スカイ川の上流の魔法の森で採れるキノコ。ディラス=リーンで売ってるのを見かけたから」
「へえ。いつも珍しいの、ありがとう」
ふつうの乾燥キノコみたいに、もどして使えばいいのかな。
袋の口に鼻を近づけて、中身の匂いをかいでいる娘をあとに、ロビンは三階にあるあてがわれた部屋につづく階段を登った。
客室に荷物を置いて、くっついて入ってきた宿の猫とひとしきり、たわむれてから一階に戻ると、食事の準備ができている。
「さっそく使ってみたんだけど、どうかな」
作ってあったものに足しただけなんだけどね。看板娘が差し出してきた深めの皿には、麺麭の器に、なみなみとスープが注がれたものが載っていた。
外側をかりっと、中をもちもちに焼き上げた、小玉のメロンほどもあるパンの中身をくりぬいた中を満たしているのは、とろみのあるミルク味のスープだ。
オリアブではミルクも家禽化している縞馬のものを使う。だからなのか、口にすると牛の乳で作ったクリームスープよりもさっぱりとしていて、枯れた草を感じさせる後味が、かすかに残る。ときどきスプーンにかかってくる黒く細長いものが、湯にもどして刻んださきほどのキノコのようで、味はほとんどなく、柔らかくなっているけれど、コリコリという、気持ちのよい歯ごたえがある。
「不思議な食感だね」
接客の合間に宿の娘が近くを通ったときにロビンが感想を述べると、娘は、はじめてだから、もどしかたが合ってるかどうか、わかんないんだけどね、と答えた。
スープを底まで食べて、汁気を吸った器がわりのパンもちぎってたべると、お腹がはちきれそうにいっぱいになった。
浴場で船旅の疲れをほぐしてきたこともあって、そうなると急に、まぶたが重くなってくる。
部屋に帰ると、新調した絹の服の帯をほどく間もなく、ロビンは眠りに落ちた。
翌朝は霧も消えて、バハーナの上空には晴れ間が広がった。雪をかぶって、薄く煙をたなびかせるンラネクの頂も、今日ははっきりと見える。
外洋からの船が到着しはじめる午後の時間をみはからって、ロビンは宿を出て港に下りていった。次は久しぶりに、セレファイスに行こうかな、と彼女は考えていた。ここから直行する船があったら乗せてもらえるか交渉してみてもいいし、いい便がなければディラス=リーンに帰る船をつかまえて、そこからセレファイスにむかう方法を探してもいい。
けれども港で聞いてみると、すぐ近くの島々や、逆に、もっと遠く、果ては月からも入った船はあるものの、セレファイスと行き来することの多い船は、つい二日まえに出港したばかりで、次に来るのは数十日先のことになるという。ディラス=リーンに戻る船も、いまのところは、昨日、ロビンが乗ってきた帆船だけで、荷物の積み込みが終わったら、数日中に帰途につくということだった。
何日かするうちには別の船も入港するかもしれないので、ロビンはとりあえず待つことに決めた。そうすると、今日の残りは特にやることもない。港の近くの人通りの多い階段沿いに開かれている市場をひやかしながら、宿に帰ることにした。
市場に入ってすぐの右側に、やや横長の布屋根の下、薄く細長く切り出したンラネクの溶岩を置いた露店があった。溶岩と地面の間で火が焚かれていて、熱された岩の板の上には殻に入ったままの二枚貝や大きなエビ、巨大烏賊のゲソの輪切り、串刺しにした山羊肉などが無造作に焼かれている。
この島の、ンラネクにつながる山あいには溶岩採りという仕事がある。その職業についてはロビンも聞いたことがあったし、採集された溶岩が船に積まれて出荷されているのも実際、目にしたことがあった。ただ、どういう使い途があるものなのか、いまいちわからないままでいた。浴場の温熱室の床に敷く、という他は。
なるほど、こんな使いかたもあるのか、と眺めているうちに、ただよってきた煙の香りで、思わずお腹が、ぐうっ、と鳴った。
それが聞こえたのかどうか、溶岩板のむこう側で肉の串をひっくり返していた青年に、買っていきなよ、と声をかけられる。ロビンは赤面しながら懐に入れていた小袋から銅貨を何枚か出して、こんがりと焼かれたエビを買い、木を薄く削った板のような皿に載せてもらった。エビには、大陸でよく作られている小魚を発酵させた魚醤が塗られていて、しょっぱくて香ばしく、口に入れると、海の匂いが強く立ちのぼった。
次に彼女が気を魅かれたのは、両腕でかかえられるくらいの、ちいさな円筒形の素焼きの炉に炭をくべて、なにかを炙っている屋台だった。店主らしい老婆の脇に積まれているのは羊皮紙ぐらいの厚さの札のようなものなのだが、彼女がそれを火にかざすと、端がちりちりと焦げて、うまみがたくさん詰まっていそうな芳香が周囲を満たす。これも食べものであるらしい。
「珍しいかい」
足を止めたロビンに、屋台の主が声をかける。それから前髪の下の、ロビンの群青色の眼をじっと見て、このへんじゃ、よく食べるけどね、と付け加える。オリアブの民には、薄い灰色の瞳で、男女を問わず黒髪を長くのばした者が多い。島の住人のような服装をしているのに碧眼で、赤毛の混じった髪を少年のように短く切ったロビンの出自を、はかりかねたのかもしれなかった。
「あんたは、どこの生まれだい?」
銅貨一枚とひきかえに、炙られた食べられる札を受け取るロビンに、老婆が聞いてきた。
「あっち」
ロビンは、あいまいに海の見える方向を指で示す。
「ああ、そうかね」
納得したのかどうなのか、彼女はそれ以上は詮索してこずに、うなずいた。
大海蛇の幼生を網にならべ、重石をして干したもの、と説明されたその食べものは、よく見るとたしかに、無数の目玉が紙のような表面からこちらを窺っている。孵ったばかりの大海蛇は、魚のシラスとおなじような大きさであるらしかった。たたみ海蛇、というのだと、屋台の主は言っていた。角をちょこっと噛みちぎってみると、甘しょっぱい調味液の味のむこう、遠いところに魚のような、鶏肉のような風味を感じた。
たたみ海蛇を、ちびちびと齧りながら歩く。ちょうど食べ終わるころ、市場の通りの終端にさしかかった。
そろそろ宿に戻ろうか。踵を返したロビンの目に、ひとりの商人の姿が入った。頭にゆるくターバンを巻きつけ、だぼだぼの、薄汚れた服を着た背の低い男で、市場の最後の屋台の隣に間借りでもするように、ひとつだけ、品物を置いている。
ロビンと視線が合うと、男は吊りあがった目を細くした。笑ったようだった。その顔に見おぼえがあるように思えて、どこかで会ったことがあったっけ、とロビンは考えたけれど、気のせいかもしれない。
「そこの夢みるお嬢さん!」
「ぼく?」
商人に呼びかけられて、ロビンは自分を指さす。
「そうそう、貴女です。これに目をつけられるとは、さすがにお目が高い」
売っているものに気をとられたわけではないんだけどな、と、ロビンは苦笑いで立ち止まる。男は、自分の脇に置いた商品に、まるで隣に立った人にそうするかのように、ぐるりと片腕をまわし、手のひらでその表面を撫でた。
そうすることができるぐらい、大きな品物だったのである。高さはロビンの背とほとんど変わらないぐらい。ゆるやかに尖った先端から中ほどにかけて太くなり、底にむかってまた細くなる横幅は、いちばん広いところでは小太りの商人の腹まわりほどもある。
卵なのだ。巨大な。
殻の表には、青黒い色の斑紋が無数に浮いている。
「夢の世界を旅するもの、シャンタクの名を聞いたことがないとは言いますまい」
男は空いたほうの片腕を広げ、ロビンに問いかける。
「え、じゃあ、これって……?」
ロビンが質問を返すと、男は、そう、その通り、と、いよいよ声を張りあげた。
「しかも、ただのシャンタク鳥の卵じゃございません。こちらは、黄昏の国インガノックを隊商門から北に出て、セラーン、アーグ、ヴォーナイの町を抜けてさらに北、そこに口を開けたる、太古の縞瑪瑙鉱山、見るもの皆を恐れさせる神々の石切り場、そこへ我が身の危険も顧みず踏み込んで、過ごしましたる幾星霜。馬頭竜身のシャンタクの、羽ばたき、蹴爪をかいくぐり、持ち帰りたる、正真正銘、天然の、卵なのでございます」
商人の男は興が乗ってきたとみえ、今度は両手で、ぶ厚い殻を、ぴしゃぴしゃ叩く。
「インガノックの名産などと謳って、そこらで売ってるシャンタクの卵は、シャンタクの卵に違いはないが、神殿に捕らわれた鳥に産ませたもの。すべてのシャンタクの祖と聞けば響きはいいが、殻の丈夫さ、味の濃さ、なにをとっても天然ものには遠く及びません」
ロビンは懐の小袋をちいさく開けて、中身を数えてみた。手持ちに困っている、ということはないが、このあと、宿代や船賃も払わなくてはならない。
と、その音を耳ざとく聞きつけたのか、男は顔をロビンのほうにむけ、
「お嬢さん、月のルビーだったら、十二粒……いや、十粒ちょうどにしておきますよ」
じゃらり、と手の上に出すと、深紅の輝きをたたえた宝石片は、ぴったり十個あるのだった。
――よいしょ、っと。
数十分の後、雇った縞馬の背中から、ロビンが自分の体ほどの大きさもあるシャンタクの卵を抱えて下ろすと、『鰓男亭』のまえの階段を通りすがった通行人から、ちいさなざわめきが湧いた。
黄昏の国インガノックは、オリアブからは遠く離れた北方の海にある。その地に産する巨鳥の卵は、この島の住民にとっても珍しい到来物であるらしかった。
「なになに、どうしたの?」
騒ぎを聞きつけて外に出てきた宿の看板娘も、うわぁ、と驚嘆とも非難ともとれる声をあげて絶句する。
「市場にあったから、買っちゃった」
ロビンは後頭部を掻きながら弁明する。
「食べたい、って言うんじゃないよね?」
「食べたい!」
「困ったなあ……」
*
「ついたの?」
後部座席からの声に織亜が振りむくと、芽春が、あくびをしながら窓の外を見ている。
「あと少し、かな。ここでちょっとトイレ休憩していこうか、って」
四人が乗る軽乗用車は、東京湾岸を走る高速道路の、ちいさなパーキングエリアに入ったところだった。芽春の隣に座るろびんは、よほど深く眠っているのか、車が減速したことにも気づかないようで、シートベルトを締めたまま船をこいでいる。キノコのような形のボブにした、やや茶色がかった髪が、体の動きにつれて揺れる。
「芽春ちゃんも行く? お手洗い」
「私は大丈夫です」
ろびんは起こす? 芽春が訊く。
「んー、どっちでもいいよ」
起きたら起きたで、またうるさそうだしね。織亜は答える。
「ろびーん」
芽春がほっぺたを指でつつく。ろびんは、ううん、と、小声を漏らして顔をそむけたが、目覚めたわけではないようだった。
「……もう、お腹いっぱいだよぅ」
「いまの、ろびんの寝言?」
「そう、みたいですね」
どんな夢を見ているのだろう、と、織亜は思う。
*
陸風の吹く夜を待って、帆船はバハーナを出港した。
行く先では双子の灯台のゾンとザルが港の出口を示し、振りさけ見れば、石造りの街の家々の窓から漏れる光が、天の星に負けじとまたたいている。
ロビンは角の生えたレン人の副官と甲板に並んで立ち、たくさんの燈を見送った。
「またこの船で、ディラス=リーンに帰ることになるとは思わなかったなあ」
海の旅は、一期一会だもんね。海の男である副官にはわかりきっているであろうことを、ロビンは誰にともなく口にした。
「レンではこう言う。あなたがいつ、どこに行けるのかは神々の思し召し次第。あなたがどこに、どれだけ留まれるのかも、神々の考えひとつ」
人と人との出会いは、その途中で起きること。だから、私たちはいつも、すれ違うだけ。過ぎ去っていく目のまえの水面に視線を落として、副官は言った。
「ふうん」
ロビンは手すりに寄りかかって身を乗り出した。
「じゃあ、家族とか、親子とかでも、すれ違うだけなの?」
「神々が過ごす時間に比べたら、十年や二十年や三十年、ひとつの屋根の下で暮らしていても、すれ違っているだけなのと変わらない、かもしれない」
「そっか……」
船は帆に風をいっぱいにはらんで走ってゆく。ゾンとザルの光も、あっという間に遠ざかり、後景の港の明かりと見わけがつかなくなってしまった。
やがて副官は他の船員に呼ばれて去っていき、ひとり取り残されたロビンは、近くに巻いて積んであるロープの上に、ごろりと横になった。
まもなく新月という夜で、月は昇っていない。代わりに星ぼしが漆黒の空を隅々まで満たし、目の奥にまで迫ってくるかのようだった。
昨晩のできごとと献立を、ロビンは反芻する。
明日、港を出る船に乗ることになった、と告げた彼女に、宿の看板娘は、シャンタク鳥の卵を使った料理をふるまってくれた。買ってきたからには、責任とって食べていってよね、と文句を言いながらだったけれど。
巨大な卵は鶏のもののように片手で割ることができないので、酒樽で周囲をかこんで縦むきに固定して、上部を切って開けた。ざらざらの殻は固く、石をぶつけてもヒビひとつ入らないほどだったので、結局、丸太を切るような、ふたりで引くノコギリを借りてくる必要があった。
そのあとは上から直接、大鍋をかきまわすときに使う長い杓子を突き入れて黄身と白身を混ぜ、できた卵液をすくいとって、いろいろなものに調理した。
トマトとじゃがいもと薄くスライスした塩漬け肉を入れた、厚焼きのオムレツ。
卵液に、干した魚でとったスープを足してカップに小分けにし、エビやキノコなどを加えてから、浴場の近くの源泉の湯気が吹き出している公共調理場に持っていって、石窯の中で蒸し上げたもの。
魚のすり身と混ぜ合わせてから木の枠に流し込み、同じように温泉の熱で蒸した、甘くてふんわりした卵焼き。
縞馬乳のクリームといっしょに弱火でとろとろと煮て、粉チーズと黒コショウをたっぷりかけたソースをからめた、平たい小麦麺。
どれも濃厚な卵の味が感じられておいしかった。
けれどもロビンがいちばん気に入ったのは、娘が食後に出してくれた飲みものだった。
厚手の鍋に入れた縞馬のミルクとクリームに、溶いたシャンタクの卵を加えて弱火で温めるのはソースの作りかたといっしょだが、そこに砂糖と少量のスパイスを入れて、卵が固まってしまうまえに火から下ろす。さらに、宿の娘は、隠し味、と言って、カップに、くるん、と丸まった肉桂の樹皮をあしらい、ラム酒を数滴、垂らしてくれた。
「あったまるね。寒いときに、船の上で飲みたいな」
「船の食糧に生卵は積まないからね。船員さんは水割り(グロッグ)を飲むんじゃない?」
「あれはちょっとキツいかな……」
――今回の航海では、それほど厳しい天候には見舞われず、港を離れて五日めの昼に、船はバハーナとディラス=リーンの中間点に達した。
このあたりには古代の巨石都市が沈んでいる。波の静かな日には、澄んだ水の底に打ち捨てられた神殿や広場が見える。
忘れられた古い神々や、それらの眷族の幻影が現れる、とも言われていて、船員の中には決して海面を覗かない者もある。
だがロビンは、これまで、そのような怪異に遭遇したことはなかった。帆船の艫近くに立って、べったりと凪いだ水の中を見下ろしたのは、それゆえの警戒心のなさが半分、怖いもの見たさが半分、といったところであった。
そこに、人がいた。
女の人だ、と、ロビンが思ったのは、長い髪が水に浮いて、ふわりと広がっていたからである。
彼女は右手をロビンのほう、水面の方向に伸ばして、仰むけに沈んでゆく。
指先が、助けを求めるように水を掻く。
「ボート! ボートを下ろして!」
思わずロビンは叫んでいた。
「人が溺れてる」
甲板を蹄で踏みならして駆け寄ってきたレン人の副官に、そう告げる。しかし彼は、ロビンの肩を抱いて、黙って首を振るだけだった。
「だって、ほら……」
「ここがどういう海域か、知っているだろ。人ではない」
人の、はずがない。彼はそう言って、目をそらす。
ロビンはもう一度、手すりから乗り出して覗きこむ。水中の女性は、さきほどとほぼ変わらない場所に留まっていた。いまは手足を必死に動かし、浮き上がろうとしているようだ。頭のまわりに黒い薄絹がまとわりついていたが、それを透かして、苦悶の表情がはっきりと見えた。
「待ちなさい!」
引きとめようとする副官の手をかいくぐって、ロビンは飛び込んだ。
オリアブ風の衣は長い裾がひっかかって泳ぎにくかったが、抜き手をきって、なんとか女性のところへたどりつくことができた。
両腕をさしのべる。
左手を握られる感触があった。
顔が、お互いに触れそうなぐらいに近づく。
薄絹が流れ、あきらかになった素顔。女性は、ロビンを認めると、あっ、と目を見開いたようだった。口が動いたけれど、なにを言いたかったのかは、ロビンにはわからなかった。
次の瞬間。
つないだ左手ごと、ふたりは水の底にむけて引っぱられた。
抗おうとしてもがいても、重い鉄塊に引きずられているかのようで、どうにもならない。
溺れる……。
そう思ったとき、ロビンの両足が、力強い手に掴まれた。
ロビンの降下が止まり、弾みで、握っていた左手が外れる。
「あ」
女性はさらなる深みへと、呑み込まれていく。
その脚や腰に、どんよりと黒い触手のようなものがからみついているのを、ロビンは見た。
そして、寂しそうに、あるいはあきらめたかのように、目をつぶった女の顔も。
気がついたときにはロビンは甲板の上に寝かされていて、心配そうな船員たちに囲まれていた。その中にはレン人の副官の姿もある。毛むくじゃらの全身から水を滴らせ、腰にいまだに太いロープが巻かれているところからすると、助けてくれたのは彼に違いなかった。
起き上がろうとして、ロビンは、何かが左手から転がり落ちたことに気づく。
拾ってみると、それは鍵だった。黒ずんだ銀でできた棒の一端は丸くつぶして刻印をほどこした持ち手になっていて、もう一端には、長方形の板に複雑なパターンを刻んだ歯がついている。
「あの女の怪、ロビンに似た顔をしていた」
見覚えのない鍵を手の中でくるくる回して眺めるロビンに、副官が話しかけてくる。
「似てた? ぼくに?」
ロビンは反問する。広がった長い髪や苦しそうな表情に気をとられていたからか、そのようなことは少しも思わなかった。
そうだったんだ。
不意に視界がぼんやりと霞むのを、彼女は感じた。
熱い涙が両の目からこぼれ、頬をつたって流れていった。
*
「ろびん、もう駐車場だよ。起きて、起きて」
興奮した声に目を開けると、すぐまえで、二本の長いお下げが揺れている。
隣に座っている芽春が、ろびんを覗き込んでいるのだ。
「ぼく、寝てた?」
まだぼんやりとした頭で、ろびんは答える。
「ずっと寝てたじゃん。途中で休憩したのも覚えてないでしょ」
「芽春ちゃんも、ぐっすりだったじゃない」
「ハルだって、その休憩のとき起きただけだろ?」
助手席の織亜と運転席の秋刀に、ほぼ同時に指摘されて、芽春は、そうだっけ、と舌を出す。
なんだっけ。
ろびんは左手を持ち上げて、顔のまえで、そっと開いてみた。
何か大事なものを、そこに握っていたような気がする。
だけど、開けた手のひらは、からっぽだった。
「どうしたの? なんか落とした?」
芽春が訊いてくる。
「ううん、なんでもない」
「じゃあ、はい、これ、ろびんの分。これは、なくさないでね」
差し出したままの手の上に、一片の細長い紙が乗せられる。
「これ……」
「前売りの一日券だよ。うちで買っておくって言ったじゃん」
あ、そうじゃなくて。ほら。ろびんは手にした一日券を、芽春の目のまえで動かしてみせる。
光の当たり具合が変わると、印字された日付や値段のうしろに、模様が虹色に浮かびあがる。
よく見るとそれは、鍵の形をしている。一端は丸くつぶした持ち手になっていて、もう一端に、歯を刻んだ長方形の板がついた鍵の。
「へえ、きれいだね」
芽春が声を上げる。
車から降りると正面に、遊園地のメインアトラクションの火山が、真冬の張りつめた空気の中、そびえている。