薄くれなゐの秋の実に
金曜日の夜だった。
時刻は、十時をまわったところである。
表通りから曲がって一区画、住宅街の中に入った道には行き交う人も車もなく、電柱に取り付けられた街路灯が静かな光を投げかけているだけ。そのさらに上では晩秋の星ぼしが、ひとあし先に季節を進めてしまったかのような、凍てついた、澄んだ夜空にまたたいている。
洋食屋、Kitchen Dagonの入り口には、「準備中」の札がさがっている。
そこに、つ、と影がさした。
戸口に立った者があるのである。その人物は、右手を顔の高さに挙げて、扉に嵌められた厚いガラスを、静かにノックする。
ややあって、ドアが中からゆっくりと開いた。
からん、ころん、と、蝶番の近くに付けられた木の鈴がひかえめに鳴る。
表の人影は、できた隙間に、素早く体をすべりこませた。
その背後ですぐに扉は閉ざされ、かちり、と錠が下ろされた。
*
「寒かったぁ……」
大向手ろびんが店内に迎え入れると、江良間芽春はそう声をあげて、マフラーをくるくる解いた。マフラーの下に巻きとられていた長い髪の毛の先が、ぱらり、と広がって、シャンプーの匂いが、ふわっと香る。
「急に寒くなったね」
「うん、家でお風呂はいってきたんだけど、また冷えちゃった」
「寝るまえに、また入ろうよ」
Kitchen Dagonの二階は居住部分になっていて、ろびんはそこに住んでいる。洋食店の経営者で、実の祖母でもあるグランマとのふたり暮らしだ。芽春はろびんの保育園のころからの親友で、同い年。今年、そろって中学生になったところである。
芽春は、漁港の近くにある民宿・エラ萬の末娘だった。自宅からここまでは、歩いて十分もかからないぐらいの距離だ。けれども、一度入浴してあたたまった体がすっかり冷めてしまうほどには、外は寒くなっているらしい。こっちこっち、と、ろびんが芽春の手を引くと、その指は驚くほどに、ひやり、としていた。
ろびんは芽春を連れて灯の落とされた客席を抜け、店の奥にある厨房に入る。入ってすぐにあるコンロにはまだ火がついていて、その上では大きな寸胴鍋から湯気が立ちのぼっていた。顔を近づけると、蒸気にまじって、甘いような酸っぱいような香りがする。
「あ、これって……」
芽春がつぶやいた。
「ん。アップル・サイダーだよ」
ろびんは答える。鍋の中では、皮を剥かれただけの丸のままの林檎がいくつも、ぐるぐると煮えている。林檎の実に水と砂糖とシナモンなどのスパイスを加えて煮出し、種や芯のような固形物を濾しとった飲みものがアップル・サイダーで、店のメニューに載せるわけではないのだけれど、新しい林檎が手に入る季節になると、毎年作っている。
「へー、こうやって作ってるんだ」
「もうちょっとで煮えると思うけど、冷ましてから濾さないといけないから、これは飲めるのは明日からかな」
ココアかなにか、淹れようか? とろびんが訊くと、芽春は首を横に振った。
「だいじょぶ。ここの中はあったかいから」
「そう?」
言いながらろびんは、柄の長いおたまを手にして、寸胴鍋の中身をぐるり、と、かき混ぜた。
「アップル・サイダーって、カゼひいたときに食べる、すりおろし林檎をちょっと思い出すんだよね」
林檎の匂いをかいでいるのか、鼻をちいさく動かしながら芽春が言った。
「あはは。林檎のセンイが残るから、たしかにちょっと似てるかもね。あったかい、すり林檎みたいなものかな……」
あ、そういえば、と、ろびんは手を止めて、別の壁ぎわにある調理台のところへ行く。
「すり林檎もあるよ。お姉ちゃんが、なんかにしようとしてたみたい」
ハルちゃん、ちょっと食べる? そう芽春に尋ねながら、ろびんは片手に林檎の入った鉢、片手にティースプーンを取って戻る。
「い、いいよ。別に今日はカゼじゃないし……」
「ほら、あーん」
遠慮する芽春を無視して、ろびんは粉砕された林檎の果実をスプーンにすくいとり、芽春の口元に運んだ。
「しょうがないなあ」
芽春は右手を額の横に当てて、流れそうになる髪をおさえながら、目を閉じてちいさく口を開いた。スプーンの銀色の先端が、桜色の唇に、そっと触れ……。
「やれやれ、仲のいいことで」
とそのとき、声とともに厨房の入り口に顔がぬうっと現れたので、ろびんは思わずスプーンを取り落としそうになった。
「あ、お、お姉ちゃん」
入ってきたのは、ろびんの従姉の入矢村織亜である。高校生のころからKitchen Dagonのアルバイトをしていたけれど、調理学校を出て、最近はグランマに代わってキッチンも担当するようになっている。
「……こんばんは」
芽春が、まだ片手で髪をおさえた姿勢のままでふりむいて、恥ずかしそうにあいさつした。
「つまみ食いはしてないよ!」
ろびんは主張する。
「別にいいよ、それぐらいなら……」
それより、早く上がってこないと遅くなるよ。今夜は映画、観るって言ってなかったっけ? そう言ってお姉ちゃんは二階を指さした。
*
入矢村エリザはシングルサイズのベッドに腰を下ろし、デスクとサイドテーブルを兼ねているのだろう狭い机から、白湯を入れた湯飲みを取り上げた。
まだ熱い中身をひと口すすり、ふう、と息を吐く。老眼鏡のレンズが一瞬、白く曇り、またすぐに透きとおる。
エリザは寝台の足もとのほうに目をやった。すぐそこに迫っている壁に、全身鏡というには微妙に丈の足りない鏡がかかっていて、宿の、薄っぺらい浴衣に着替えた自分の姿が映っている。
まだほんの少し灰色が残っているものの、ほとんど白髪になってしまった髪。深くなった目尻や首まわりの皺。気がついたら、あっというまにこんなになっていたな、と彼女は思う。
湯飲みを包んだ両手に視線を落とす。手の甲も指も、皮膚がたるんで皺がよっている。
左手の薬指で、細い金の指輪がにぶく光る。
今日の夕方、この古ぼけたビジネスホテルに投宿する前に会って食事をした短期大学時代の友人は、結局、いちども結婚しなかった。都心のすぐ外にある自宅を両親から相続して、いまはひとりで住んでいる。
老親が亡くなるまで、ずっと「娘」の立場だったからだろうか、彼女は学生時代とあまり変わっていないようにエリザには思えるのだった。喋りかた。肌の張り。さすがに染めているとは言っていたけれど、髪の色。それにもしかしたら、ファッションだって。
「お孫ちゃんと住んでるんでしょ? いいじゃない、若さをもらえて」
彼女は無邪気にそう言っていたけれど、分けてもらわなくても自分の中に若さが残っているにこしたことはない、とエリザは考えるのだった。
「ま、それはそうとして」
エリザは誰に言うともなく口にして、湯飲みを机に戻した。
今日は、朝、孫娘のろびんを学校に送り出してから、もうひとりの孫で、最近は洋食店のあれこれをほとんど任せている織亜が出勤してくるのを待って家を出て、まずはバスに乗って新生辺まで行った。そこには父と母の墓所がある。彼女の両親は、父の定年まぎわから、八十を過ぎてそれぞれが天寿を迎えるまで、印寿真洲に住んでいた。ただ、印寿真洲には無宗派の霊園がない。だからふたりは、少し離れた隣町の、太平洋を望む丘の上の墓地に眠っている。いまの時期は特にどちらかの命日にあたるというわけでもなかったが、店を休んで遠出することもほとんどないので、ついでである。
墓参をすませたエリザは新生辺の駅まで戻って特急に乗り、東京に出てきた。短大時代を過ごしたキャンパスの近くで昔の友人と、一年に一度の待ち合わせをして夕食に行き、別れて宿にチェックインした。
全部、予定していた通り。そして、この十年ほど、毎年そうしている通りだった。
明日も明後日もきっと、去年やその前の年と同じように進むのだろう。
ただ、残りの訪問先ふたつは、今日の用事よりも気が進まないものだ。
何年、繰り返しても、慣れることがない。
頭のどこかで、慣れるまい、としているのかもしれない。
エリザは、ホテルに入る前に道の先に、ちらり、と見えた、白い建物を思い浮かべる。
「明日も長い一日だからね」
ふたたび独り言を言ってエリザは布団に入り、枕もとのスイッチで室内の電燈を消した。
*
「ねえお姉ちゃん、三浦半島ってどのへんー?」
ろびんが訊いた。
Kitchen Dagonの二階の、台所とひとつづきになった居間。暗くした部屋の中で、三人の目の前に、ざらざらしたスタッフ・ロールが流れている。
「三浦半島は、あっちのほうだよ。東京湾をはさんで、すぐむこうがわ」
「ふぅん」
テレビから、ジャンジャン、ジャン、ででーん、と、勇壮なテーマ曲の終節が鳴って映画は終わり、黒い背景に白く抜かれた「終」の字がしばらく大きく映ってから、ディスクのメニュー画面に切り変わった。再生、チャプターを選んで再生、予告編……と並んだメニューの上に、太い角張った書体で『クヅリュー』とタイトルが書かれ、その背後に、ビル街を踏み散らかす、ヘビのような頭をいくつも持った巨大怪獣の絵が、白黒で表示されている。
「これが第一作めなんだっけ」
「はい、そうです」
織亜の問いに、答えたのは芽春のほうだった。
「私もはじめて観た」
「『新・クヅリュー』を観てから、こっちも観てみたいね、って、ろびんと話してたんです」
「図書館で借りたの?」
「検索したら茜の本館にあったんで、公民館の分室で取り寄せてもらいました」
「おー」
織亜は立ち上がって電燈をつけ、プレーヤーからDVDを取り出した。
プレーヤーは、織亜が、ひとり暮らしをしているアパートの自室から持ってきたものだ。
毎年、この季節になると、グランマはお店を空けて、三日間ほど旅をする。これまでは、そのあいだ、ろびんは芽春の家に預けられるのが常だったのだけれど、今年は家に置いていくことにしたらしかった。
ただ、店舗も兼ねているこの建物を、夜だけとはいえ、ろびんひとりに任せるのはまだ不安ということなのか、織亜が泊まりにくること、という条件だったから、子守りと家守りを頼む相手を代えただけ、といえばそうかもしれない。
その計画を告げられたときのろびんの最初の質問は、じゃあ、ハルちゃんもお泊まりに呼んでいい? というものだった。
「まあ、いいよ」
「やった」
「あんまり夜更かししないんだよ」
「はぁい」
そんなわけで、今晩のDVD観賞会になったのだ。
「このシリーズってさ、だいたい怪獣は海から来るんだよね」
ディスクをケースに戻しながら、織亜は、ふと気になったことを芽春に尋ねる。
「そう、ですね」
「第一作は三浦半島だったわけだけど、ここらへんから上陸していく話はないのかな」
「ありますよ」
芽春が言う。
「あるんだ」
「『クヅリュー対クイーン・ヒュドラ』っていう作品なんですけど」
「へぇ」
って、敵味方合わせて、頭いくつあるんだ、それ。織亜はつぶやく。
「クイーン・ヒュドラは、首が三本だったと思います」
「芽春ちゃん、詳しいね」
「いえ、私なんか、そんなにたいしたことなくて……」
「いやいや、十分よく知ってるよ」
さて、もう一本あるんだよね? 織亜が、ちゃぶ台の上に置かれていたもうひとつのケースに手を伸ばそうとすると、芽春が自分の膝の上を黙って指さした。
ちゃぶ台越しに覗きこむと、ろびんが、厚手のチェック柄のスカートを履いて、脚をくずして座った芽春の太ももに頭を預けて横になり、すっかり安らかな寝息をたてている。
「ああ、静かになったと思ったら」
織亜は納得した。映画の終わりごろに質問してきたときに、声がふにゃふにゃしていたのも、このせいだろう。
「いつもグランマに合わせて寝起きしてるから、けっこう早寝なんだよね」
今日は、もう寝ちゃおうか。織亜が訊くと、芽春は、まだろびんの頭を膝に乗せたまま、はい、明日の夜もあるし、と答える。
「その前にちょっと、アップル・サイダーが冷めたかどうかだけ見てくるけど。芽春ちゃん、お風呂に入るなら沸かすよ?」
「あっ、大丈夫です。もう寒くはないんで」
「そう?」
まあ、ろびんもこんなんじゃ、明日の朝だね。織亜はそう言って、ろびん、寝る支度しなさい、と肩をゆすった。
ろびんは、んー、と怠惰そうな声を上げて、芽春の膝を枕にしたまま、器用に寝返りを打った。
*
うつらうつらして、はっと目を覚ます。電車は海を遠く右に見て走っていた。
客車の中は半分ほど埋まっていて、クロスシートの向かいの席にも、老女がひとり座っている。
いや、老女といっても、歳は自分とさほど変わらないだろう、とエリザは思いなおす。自分もおばあさんなのだ。
走行音に混じって他の乗客が交わしているらしい会話の端々が耳に入ってくるけれど、それのほとんどが、エリザの耳には意味をなさないものだった。
同じことは、この路線に乗るたびに経験する。話されているのはもちろん日本語なのだが、イントネーションや語彙の違いがあるだけで、文章としてではなく、ただの音の連続として頭の別のところを通り抜けていく。かといって、それが不快であるかといえば、そんなことはない。まわりが賑やかに喋っている中で、ひとり水に潜っていくようで、むしろ心地よい。
それにこれだって、誰かにとっては懐かしい故郷の響きだろう。エリザが育った場所にはそれほど強い方言が残っているわけではなかったが、それでも東京から下り電車に乗って、窓外に太平洋が見えてくるころになると、声のうねりやちょっとした語尾に、家が近づいたことを感じたものだった。
わやわやした音の海に身を任せていると、突然、耳のそばで理解することができる文字列が発せられて、エリザは我に返った。
「お林檎、持っていきなよ」
前の席に向き合って座っていた老女が、脇に置いていたずだ袋から紅色の実を三個ほど取り出して、通路を越えた隣席の客に話しかけているのだった。
知り合い同士なのかとも思ったのだが、話の流れを聞くともなしに聞いていると、どうもそうではないらしい。これぐらいの距離であれば、ときどき知らない表現が混じるものの、だいたいの意味を追うことができるのも不思議だった。
通路をへだてた会話を終えた彼女は、エリザが起きているのを見てとると、彼女にも林檎を差し出してきた。
「私は旅の途中なので」
そう断ったのだが、老女は、それならひとつだけ、ね、と、エリザの膝に果実を置いてしまう。
仕方なく持ち上げると、実は、エリザの、それほど大きくない手のひらにおさまるほどだったけれど、ずしりと重い。表面は色づいたところと緑のところがまだらになっていて、甘さよりも酸味の強そうな、透明な匂いがした。
エリザは林檎を窓枠に置いた。
ガラスの外には、暮れかかる海が、ときどき現れる線路沿いの薮や建物に遮られながらもまだ見える。
東京での用事を終わらせて、北へむかう新幹線に乗ったのは午後になってからのことだった。もし時間があれば、行くところは今日のうちに行ってしまって、明日の日曜日は帰るだけにしよう、と考えていたが、どうやらそれは無理そうだ。在来線に乗り換えたときには、もう、日が少しずつ、弱くなりつつあった。
それでも便利にはなった、とエリザは思う。はじめて来たときには、もっと手前までしか新幹線が開業していなかったはずだ。そのときは行程を憶えていられるほどの余裕がなかったので、どこまでだったか、というのは定かではないのだけれど。
今日の車窓からは、北関東のあたりまでは紅葉を見ることができた。そこから先は、ところどころに常緑樹の緑が散っているほかは、冬枯れの景色だった。今年は、雪がまだでよかった、とエリザは安心した。もっとも、初雪が降るのもそう遠い先のことではなさそうだ。
電車がカーブする。
離れていく海を林檎越しに眺めていると、エリザはふと、自分の正面、向かいの老女が荷物だけ置いて、あとは空けている窓際の座席に、幼い少女がいるのを見た気がした。
まだ小学生にならないぐらい。片手に林檎を持って、椅子の上に膝立ちになって、ガラス窓にぴったりと額をつけて、海の景色にはしゃいでいる。
ろびん……。エリザは家に残してきた孫娘の名を思い浮かべ、だが、すぐにその考えを打ち消した。
あの日のろびんであるはずがない。洋食屋の二階にある自宅に連れ帰ったときの彼女は、まだよちよち歩きの幼児だった。
それに、あのとき、東京からろびんを連れてきたのは自分ではない。茜まで迎えにいっただけだし、その日以来、電車に乗って旅行に連れて行ってやれたこともない。だから、そんな光景を記憶しているわけもないのだ。
と、いうことは。
エリザは眼を閉じた。
これは、あの子だ。半島を南下する路線とは海の方向が異なっているものの、三十年と少し前、東京から印寿真洲に、私がふたりを連れて帰った日の、あの子なのだろう。
それならば、すぐ近くに、少女の兄の十歳ぐらいの少年もいるはずなのだが、不思議とその記憶は甦らなかった。おそらく、おとなしく座って、本でも読んでいたに違いない。拓康は、いつも手のかからない、いい子だったし、いまでもそうだ。だから思い出さない、というのは不公平だけれど。
拓康はエリザの長男だ。結婚して、印寿真洲の内陸方面の隣町、茜に住んでいる。彼のひとり娘はエリザの洋食屋に働きに来てくれていて、今日も、彼女に代わってKitchen Dagonを開けているはずだった。
そして、エリザの幻視の中で海を眺めている少女は、娘のマリだ。
「うちで引き受けることも考えてみようか。ふたりめの予定はないし、織亜にも、なついてるみたいだし」
息子夫婦の提案を断って、ろびんを自分で預かることにしたのは、後悔があったからなのかもしれない、とエリザは思う。
言ってやることが、できなかったことへの。
マリに。
もっと早く。
帰ってきたら、と。
もう、そんなに深く潜らなくてもいいんじゃない、と……。
「尋さん。あなたが生きてたら、どうしてた?」
その言葉は、無意識のうちに口に出していたのかもしれない。
「そんなこと、オレにもわからないよ」
耳もとで返事が聞こえて、エリザは驚いて眼を開き、あたりを見まわした。だが、座席と背もたれに貼られた濃い青色の布が客車内の天井灯の白い光に照らされているだけで、隣には当然、誰もいない。
前の席の老婆の姿も消えていた。
返事の言葉づかいや口調は、数十年前に亡くした夫のそれに、そっくりだった。けれども声そのものは、林檎をくれた彼女のものに似てはいなかっただろうか。
このあたりには、巫女が死者の口寄せをする伝統が続いているという。あるいはあの老女が……。
「まさか、ね」
と、エリザはため息をついた。車内のさざめきから、たまたま、それらしい音を耳が拾っただけなのだろう。
それに口寄せだったら、もっとためになることを言ってくれそうなものでもある。
電車が速度を落としはじめる。
窓辺の少女のまぼろしは、もう見えない。
*
「林檎、買いませんか」
「まにあってます」
ろびんがエプロンの下から赤い果実を取り出すと、それにちらり、とだけ目をくれて、芽春はすげなく答えた。
「ひとつだけでいいですから」
「勝手にものを買ってはいけない、と言われているんです」
「でも、これが売れないと……。家には年老いた子どもと、お腹をすかせた七人の母親が待ってるんです」
「……え?」
「まちがえました。家にはお腹をすかせた狼と、七匹の子山羊が」
「それは、林檎売ってる場合じゃないよね? 早く帰れ」
「うぅ。買ってくれないと、お腹をすかせた七人の侍が砦を襲うぞ」
「こっちは七人の小人が迎え撃つよ。いけ、腹ぺこ」
「そっちもお腹すかせててどうすんの」
あんたたち、なにやってんの。厨房から出てカウンターのところまで来たお姉ちゃんが、あきれたように訊いてきた。
「林檎売りに化けて白雪姫に毒林檎を売ろうとする悪い王妃」
ろびんは答える。
「と、絶対に林檎を買わない白雪姫です」
と、芽春。
「ショートコントやってるんじゃないよ、もう」
土曜日の、夕方少し前。
ディナーの客がやってくるにはまだ早く、店内にいるのは公民館の図書室のボランティア帰りの阿弥陀寺先生と、今日はそれについてきたらしい、安奈さんのふたりだけだった。出窓のそばのふたりがけのテーブルに座って、入ってきた直後は低い声でしばらく話していたけれど、いまはそれぞれコーヒーを前に、思い思いの方向をむいて、思い思いのものを読んでいる。先生は新聞。安奈さんは、黒いちいさなタブレットのようなもの。たぶん電子書籍リーダーだろう、とろびんは推測した。
先生は茜にある海坂徳育大学を退官したあと、この港町に住みついている。散里安奈さんは新生辺の歴史資料館で学芸員をしているらしい。安奈さんの歳は、先生よりも、お姉ちゃんのほうにだいぶ近い。最近は、そろって週末の常連のようになってきている。
「読書の邪魔になってるんじゃないの?」
お姉ちゃんが言うと、いえ、大丈夫です。いえいえ、お構いなく。と、ふたつの返事が客席から返ってきた。
「そうですか? ごめんなさい」
あんまりうるさくするんじゃないよ、とお姉ちゃんはキッチンに戻る。すぐにタイマーのアラーム音がした。
「そういえば、保育園のおゆうぎ会でやったね、白雪姫」
ろびんが林檎をカウンターに転がして隣に座ると、芽春がそう言った。
「あ、やったね。年長さんのときだっけ」
「そう。私たちは小人さんだったけど」
「十人以上いたよね、小人」
「……あの年も、ママ来てくれなかったな」
「あー、グランマも来なかった」
芽春の家は家族経営の旅館をやっていて、お姉ちゃんがアルバイトに来るようになる前のグランマは、ひとりでKitchen Dagonの料理も接客もしていた。役場や工場に勤めたり、漁港のお店でパートをしたりしている保護者とは休める日が違う。
というのは、いまでこそ理解できるのだけれど、そのころはやっぱり、お母さんお父さんが見に来てくれる、他の子たちのことがうらやましかった。
「あ、でもね」
ろびんはもう一度立ってカウンターの中に入り、グランマとお姉ちゃんが発注伝票やなにかを貼っているコルクボードの隅に押しピンで留められていた写真を外して手に取った。
「ほら」
座席の側にまわって、芽春にそれを見せる。
「ずっとそこに貼ってあるんだよ」
舞台に上がる前にでも、保母さんが撮ってくれたものだっただろうか。退色しつつあるカラー写真には、布の三角帽子をかぶった六歳の、芽春と自分が笑っている。芽春が黄色、ろびんが緑。前髪をぱつんと落として、「姫カット」のようになっているのがろびんで、お兄さんたちの真似をした、スポーツ刈りみたいな短髪が芽春だ。
「いまとは逆だねー」
ろびんは、短いボブになっている自分の髪の毛先を触った。芽春は、長い黒髪をふたつに振りわけてお下げにしている。小学校の三年か四年のころから髪の長さが逆転しはじめて、そのうちにおたがい、現在の髪型に落ち着いた。特にこれといった理由はないのだけれど、なんか、そうなったのだ。
「逆だったね」
芽春は、ろびんが手渡した写真に、まじまじと見入った。それから、でも、変わってないよね、とつぶやいた。
「ハルちゃんだって、変わってないよ」
「そう?」
ふわっ、とあたりにキツネ色の香りが広がって芽春が顔を上げ、つられてろびんも顔を上げると、角皿を手にキッチンから出てきたお姉ちゃんが、ちょうどふたりの脇を通ったところだった。通り抜けたあとに、甘酸っぱい匂いと、シナモンの芳香が残る。
「何それ?」
ろびんが訊く間に、お姉ちゃんは出窓のテーブルの阿弥陀寺先生と安奈さんのところへ、皿を差し出していた。
「新しいデザートを試しているんですけど、味見していただけませんか?」
いいんですか? と安奈さんが、ちいさく切られた一片をつまむ。
「まだ熱いと思うんで、気をつけてください」
先生もどうですか? と皿をむけられた阿弥陀寺先生は、ふむ、と品定めしながら、これは毒林檎ではないでしょうな、と深刻そうな顔で言った。
「えっ、ど、毒?」
自分が取ったひと切れをすでに口に入れていた安奈さんが、わたわたっ、と手を振る。
「こら! あんたたちがヘンな前フリするから!」
お姉ちゃんは空いた片手を腰に当てて振りむくと、ろびんと芽春をにらんだ。
「いえいえ、冗談ですよ」
と、先生は今度は柔らかく微笑んで、フリッターの衣に歯をあてた。
「毒かもしれないよ」
「毒かもしれない」
芽春とろびんは、カウンターで顔を見合わせる。
「だってお姉ちゃん、さっき裏で言ってたもん。『鏡よ鏡、この世で一番、美しいのは……』」
ろびんに合わせて、芽春が声色を使って返事する。
「『それは安奈さんです』」
「へ? 私ですか?」
「ちょっと」
お姉ちゃんの抗議を聞き流して、芽春が、あ、もっかいやって、もっかい、とろびんに頼んだ。
「『鏡よ鏡、この世で一番、美しいのは……』」
「『それは花散里の姫君です』」
「源氏物語になっちゃったよ」
「コントはもういいから!」
あはは、と笑い声が、店内の黄色い光とともに、夕闇の落ちはじめた前の道に漏れる。
*
慰霊碑の建つ場所から見た当時の事故現場は、針葉樹のほの暗い緑色に縁取られて、そこだけ燃えるように赤と橙色にゆらめいていた。
遅い紅葉なのか、狂い咲きの花が咲くのか、季節からすると前者なのだろうと思うけれど、近くまで寄ってみたことがないのでわからない。
近づくための道は狭く、険しい山道だけで、それももう、残っているのかどうか定かではなかった。
犠牲者を悼む石塔は、山腹を遠く望む、果樹園の隅に立っている。三十余年が経ってもなお、彼女のようにこの時季にあわせて訪れる者があるとみえ、花が数束、枯れかけたものから新鮮なものまで、ざらざらした石の肌に立てかけてあった。
連絡を受けて東京からかけつけたあの夜、この一帯は、緊急車両の赤色灯と前照灯で昼間のようだった。取るものもとりあえず電車に飛び乗って、薄い上着だけで震えていたことをエリザは思い出す。
短大を出て就職した職場で知り合った夫の尋は、その日たまたま、現場の事務所に入っていた。貯水池を作る工事をしているのだと、エリザは聞いていた。
そのあとのことは、飛び飛びにしか憶えていない。残念ですが、と伝えにきた背広と作業服の人たち。葬儀の日。引っ越し荷物をまとめて送り出し、小学生だった息子と、幼稚園児の娘を連れて、東京駅から下りの列車に乗ったとき。まだ元気だった両親のところに身を寄せて、港町の商店街のはずれでKitchen Dagonをはじめたのは、生活のためだった。
ただ、その記憶は、いまになって辿ってみようとすると、途中から、もっと後の、もうひとつの記憶に切れめなく繋がってしまう。
あれは、もう少し、冬が進んでからのことだったはずだけれど。
エリザは出発前のバスの車内で座席に腰をおろすと、ハンドバッグの手帳をさぐった。中にはさまれている、黄色に変色した新聞記事の切り抜きを眺める。ぱっと目に入るのは、白黒の、画素の粗い人物写真。ウェットスーツを着て、首からゴーグルを下げた娘のマリがはにかんでいる。新進気鋭の女性海洋学者として取材を受けたときのもので、入矢村マリさん、となっているので、まだ二十代のころだ。
東京で訪れた、白い建物の白い部屋をエリザは思い浮かべる。
バスが身震いして、エンジンが始動する。茜発、印寿真洲出張所行き、日曜日の夜の、最終から一本前。乗っているのは彼女だけだ。
特に新しく伝えることはないけれど、一年に一度の報告を、と、旅の最後に立ち寄った息子の家で、考えていたよりも長居をしてしまったことになる。
日帰りの予定で調査に出たマリの乗った船が、消息を絶った。
十年前、その連絡を受けたとき、会社を早退して東京に行って捜索の状況を聞き、延長保育に預けられていたろびんを引き取ってきてくれたのは拓康だった。
エリザは洋食店をランチタイムの終わりまで営業したあとで、扉に「臨時休業」の紙を貼り、茜の息子宅で彼からの報告を待った。
「グランマ! クッキー、私が焼いたんだよ。食べて!」
事情は知らされていないのだろう、孫の織亜が勧めてくれた焼き菓子は、プレーンの生地とココアを入れた生地をねじって混ぜ、冷蔵庫で冷やし固めて切って焼いたマーブルのアイスボックス・クッキーで、ほぼ粉と砂糖の、素朴な味がした。
「もう、ひとりで作れるのか。すごいねえ」
「えへへ」
「大きくなったら、グランマのお店に働きに来るかい?」
「うん!」
眠ってしまったろびんを肩に抱えるようにして、疲れた顔の拓康が帰宅したのは夜になってからのことだった。
「とりあえず今日は、私が連れて帰るよ。おまえも玲歌さんも、明日も仕事だろう」
「母さんだって、ダゴンがあるだろ?」
「あんたたちを育てながら、毎日、開けていたんだよ。大丈夫だって」
「だけど、あのときの母さんは、いまの俺よりも若かったんじゃ……」
「まだ年寄りにはなってないつもりだよ」
茜の駅前を発車したバスは、市街地を抜け、峠を越えると港にむかって下ってゆく。
あの夜と同じ道のり。
印寿真洲出張所前で下車すると、北風が身にしみた。
*
「グランマ、遅いねえ」
日曜日の、ディナー営業を早く終了したあとのKitchen Dagon。ろびんは薄暗くした客席を背に座り、カウンターに両肘をついて、組み合わせた手に顎をのせて言った。接客の手伝いをしていた、エプロン姿のままである。
「ん。ああ、もうそろそろ終バスの時間だね」
織亜はカウンターの横、キャッシュレジスター裏のテーブルで、売り上げの計算をまとめながら返事をした。
「……帰って、くるよね」
「父さんと会ってる、って連絡はきたからね。茜からだったら、いざとなったらタクシーあるでしょ。高いけど」
答えて織亜は、ろびんの横顔を見る。ろびんは一瞬、織亜のほうに目をむけてきたけれど、視線が合うと、すぐにそらして天井を見上げた。
「ねえ、ろびん。アップルパイ焼いてみない? 教えてあげる」
織亜は帳簿を閉じて立ち上がる。
「これから?」
「冷凍のパイシートがあるから、もしかしたらグランマが帰ってくるまでに焼き上がるかもしれないよ」
「林檎、足りる?」
「足りる、足りる。まだ売るぐらいある」
「なんで今年、そんなに林檎ばっかりあるの」
「グランマがいつも買ってる農園から、新しい品種のお試し、っていうのが届いたんだよねー」
*
商店街のある表通りから曲がって一区画。住宅街に入った道には、行き交う人も車もない。
エリザは、灯の落とされた洋食店の前に立つ。
「臨時休業」の紙を貼ったドアを開けて、帰ってきたあの晩。
昼間から閉めていた店内は、外と変わらないぐらい寒かった。少なくとも、エリザにはそう感じられた。
カウンターの中の電燈をつけて、暖房のスイッチを入れても、なかなか暖まらない。
バスに揺られて目が覚めたのか、もうすぐ三歳になる孫娘は、ちいさい足で一生懸命、夜道を、彼女のあとについて歩いてきた。
「寒かったねえ」
抱き上げて、カウンターの椅子に座らせる。ろびんは無言で、されるがままに従った。
「あったかくなるもの、飲もうかね」
キッチンに入って、冷蔵庫のガラス瓶から作り置きのアップル・サイダーを小鍋に移し、火にかけた。
沸騰する直前まで温めると、甘酸っぱい匂いと、加えてあるシナモンの香りが、ふわり、と立った。少し冷ましてから、自分のぶんはミルクグラスのマグカップに、ろびんのぶんは、店でも使っている子ども用のコップに、分けて注いだ。
「はい、ふーふーして飲むんだよ」
ろびんは渡されたコップに口をすぼめて何度か息を吹きかけてから、中の液体を、おそるおそる、といったふうにすすった。
そして、ひと口、飲んだところで、顔を上げて言った。
「すっぱい!」
それが、茜の家で対面してから、はじめて聴いた、孫娘の声だった。
……ドアに嵌められたガラスを透かして見ると、奥の厨房にまだ光がついているようだ。
織亜が、気をきかせて閉店後も残っていてくれるのかもしれない。
それなら、勝手口が開けてあるだろうから、そっちから入ろうか。エリザが店の脇の路地にまわろうとしたとき、中で影が動いて、今夜は「月曜定休」の札が下げられた扉が内側から、からころ、と開く。
「おかえりなさい」
「中から見えたかい」
「うん」
エリザは、ドアを押さえてくれている、年少のほうの孫娘の前を通って店内に入る。
「まだエプロンつけてるの。八時に閉めたんだろう?」
「あっ、これはね」
そのときキッチンでタイマーが甲高い音をあげて、ろびんは、扉を、ころからんっ、と閉じて駆けていく。
彼女の向かった先から、ふんわりと匂いが流れてくる。焼けたパイの皮。シナモンとナツメグ。
そして、中身の、熱された林檎。
甘くて、すっぱくて、暖かい。