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オーダー・オブ・ダゴン  作者: ギルマン高家あさひ
10/16

魔女の部屋の夢(後編)

「先生。相談があるの。吸血鬼を退治するには、どうしたらいい」 

 夕方のKitchen Dagon。ろびんが問いかけると、阿弥陀寺先生は読んでいた雑誌から顔を上げ、老眼鏡を外して、テーブルの上、飲みかけのコーヒーカップの脇に置いた。

「吸血鬼……ですか」

 そう言うと先生は、ろびんの目を、じっと見据える。いつもの柔和な表情とは打って変わって、その眼光は鋭くて……。

「ろーびーんー」

 キャッシュレジスターのところにいたお姉ちゃんが、あきれたような声を出した。店内にはちょうど、先生の他に客はいない。

「先生のお邪魔しないの」

「だって……」

「ごめんなさい、先生。なんか最近、そういうのにハマってるみたいで」

 かわりに謝ってから、そっち系が好きなのは、どっちかっていうと芽春ちゃんのほうだと思ってたんだけど、と、お姉ちゃんはぼやく。

「どうして知りたいんですか」

 先生が尋ねる。

「あ、それは、この本を……」

 ろびんは手にしていた本を胸の前に掲げて、表紙を先生に見せた。

「……この本を読んだんです。学校の図書室の司書さんに訊いたら、これから読んだら、ってすすめてくれたんだけど、この話だと、詳しいのは最後にお墓から掘り出してやっつけるところだけで、ふだんどうしたらいいのかわからなくて」

「私はヴォルデンブルグ男爵ではないですよ」

 先生の視線が柔らかくなる。

「でも、先生だったら吸血鬼と対決したことぐらいありそう」

「はは、さすがにそれは、ないですね」

 ああ、でも、対決はしませんでしたが……先生は言葉を継ぐ。

「会ったことならあるんですか? 吸血鬼」

 口をはさんだのはお姉ちゃんだ。

「ほら、お姉ちゃんも聞きたいんじゃん」

「ま、まあ、先生の武勇伝は」

 武勇伝、ではないですね。先生はおだやかに言って、両手を組み、テーブルに置いた。

 そもそも、吸血鬼のしわざだったのかどうかもわからない話ですが……。


 私が大学に通っていた時分には、まだ下宿屋というものがありました。

 いまどきの学生向けのアパートとは違い、家の寝室を貸してくれる方式のところです。私は、二階にある四畳ほどの和室を借りて住んでいました。私の部屋とは襖一枚で仕切られただけの隣室がもうふたつあり、おなじ大学に通う学生が、それぞれ使っていました。

 ああ、そうですね。漱石の『こころ』の舞台に似ているかもしれません。私が学生をしていたのは戦後のことですけれども。

 下宿人のひとりに、Wという下級生がいました。頭のいい男でした。ほっそりとしていて睫毛が長く、顔もよかったですね。

 当然ながら成績も優秀で、希望通りに数学科に進みましたが、おかしなことが起こりはじめたのは、そのころからです。

 まず私が気づいたのは、深夜に歩きまわる音でした。

 ある晩、午前三時ごろに、ふと目が覚めました。すぐに眠りに戻ることができず部屋の中の暗闇を見つめているうちに、気がついたのです。目が覚めてしまった原因が、襖のむこうから聞こえる物音だったことに。

 Wは、室内をぐるぐる、ぐるぐる巡っているようでした。彼の一歩ごとに、畳がこすれ、畳の下の床板がきしむ。それが私の安眠を妨げていたのです。

 もちろんそれまでもWが夜更かしをすることはありました。私も、試験前や新しい本を手に入れたときなど、夜を徹して座卓にむかっていることがありましたから、その時間に起きていること自体には、なにもおかしいことはありません。ですが、そういうときの私たちは、ほとんど音をたてませんでした。していることといえば勉強か読書くらいですし、階下では下宿屋の主人一家が寝ていますから。

 一回かぎりだったら、すぐに忘れていたと思います。しかし同じことが、毎夜ではないにしても、何度か続いたのです。

 そして私以外の者も、Wの深夜の行動に気がつくようになりました。

 あるとき、用を足しに起きてきた下宿の主人に裏口のところで目撃されるに至って、私たちはWに事情を訊くことにしたのです。

 ところが、Wは何も憶えていない、と言うのです。ずっと微熱のようなものがあり、寝つきが悪かったことは確かだが、夜中に部屋の中を徘徊したり、出かけようとした記憶はない、と。

 誰からともなく、夢遊病ではないのか、という話になりました。睡眠中、本人も知らないうちに起き出して動きまわる、というあれです。もっとも、「病」と名前についてはいますが、脳の自然なはたらきで、誰にでも起こりうることだともいいますね。

 その日から、私と、もうひとりの下宿人のSとで、Wを見張ることにしました。

 と、いうのも、その家ではもうひとつ、奇妙なことが起きていたのです。

 夜、寝ている間に、腕や脚を噛まれる、というのです。

 ちくり、と痛みを感じて、朝になって見てみると、刺しあとのようなちいさな傷が、ふたつ並んでついている。最初にそれを報告したのは下宿屋の夫婦の高校生の娘さんでしたが、すぐに彼女だけではなく、下宿屋の主人も、それからSも被害にあいました。

 見張る、といっても、そもそもあまりプライバシーのない空間です。寝るときに、Sと交代で、Wの部屋につながる襖を開け、様子をうかがうだけのことでした。

 我々の目があるからなのか、それともWの不調が次の段階に達したのか、それ以降、彼が夜中に歩きまわることはありませんでした。

 そのかわり、それまでは夜ごとの微熱程度であったものが、だんだん高熱になってきたようなのでした。そして熱が高くなると悪い夢を見るのか、大声でうなされることが増えてきました。

「おい、W」

 あまりにひどい夜など、私が肩を揺すって起こすと、Wはぼんやりとした潤んだ眼で私を見上げてくるのでした。もともと細かった顔は頬がこけ、色白ながらも健康的な張りがあった肌も青ざめて、見る影もありませんでした。

 そのようなことがありながらも、昼間のWは授業に出席し続けていました。授業のないときは図書館にこもり、難解な方程式と格闘していました。しかし、やはり集中することは難しかったのでしょう。その年の終わりの試験の結果が芳しくなく、彼の病気は教授陣にも知れるところになりました。

 そうなってようやく、Wは病院にも何軒かかかりましたが、効果はありませんでした。

 学業のストレスからくるものかもしれない、ということで、Wは大学からも医師からも休学を勧められました。

 私たちも、そうするのがよい、と考えました。彼は授業だけでなく、例の方程式の研究にも、ときに異様なほどの熱心さで取り組んでいましたから。

 周囲に説得されて、Wは四月からの休学を決めました。しぶしぶ、といったかたちでしたが、その後の彼は目に見えて回復していきました。少なくとも、私たちにはそう思えました。朝寝と昼寝をきめこみ、私たちといっしょに夕食をとるようになりました。

 けれども、一ヶ月ほど後。いえ、そうです。ちょうど、四月の最後の日のことでした。欧州の古い伝統ではワルプルギスの夜と呼ばれる晩です。

 下宿屋の一同は、Wの叫ぶ声で叩き起こされました。それほどに大きく、悲壮感に満ちた声だったのです。

 彼の身に何かあったのか。慌てて全員が彼の部屋にかけつけました。

 Wは、布団の中で身体をひきつらせていました。背が不自然に反り、眼は大きく見開かれ、両手は虚空を掴もうとするかのように突き出されていました。Sと私が声をかけ、肩や腕に触れると、Wは一転して丸くなり、手で頭をかかえて、ぶるぶると小刻みに震えだしました。

 急いで医者を呼びにやって注射をしてもらい、ようやくWは落ち着いたのですが、その夜のできごとをきっかけに、Wは国元に帰らされることになりました。

 ……Wがいなくなってさらに一ヶ月ほどして、私はSとふたり、Wがいた部屋の天井板を外そうとしていました。Wが退去したのが学期の途中だったこともあって、あとの下宿人はまだ入っていませんでした。

 天井裏を覗こうとしたのは、部屋の住人がいなくなってからもなお、そこから足音が聞こえる、と皆が言うからでした。といっても、人間が歩くような音ではなく、小刻みで軽やかな音でしたから、おおかたネズミでもいるのだろう、と私は考えていました。

 ただ、ネズミだとしてもなんだとしても、正体をつきとめて退治する必要がありました。というのも、家の中の者が寝ている間に腕や脚に噛みあとをつけられる事件はまだ続いていたからです。

 Sは背の低い男でしたので、私が踏み台を使って板に手をかけ、横にずらしました。

 すると、天井裏の暗がりから、ホコリとともに、何かがどさどさどさ、と私たちの足もとに落ちてきました。

 うわっ、と声を上げて、Sが飛び退きました。

 よく見るとそれは、骨でした。ばらばらになってはいるものの、人間のものらしい頭蓋骨や肋骨、腰の骨と明らかにわかるものが混ざっていました。

 私が骨をよく観察しようとかがみこんだとき、Sはちょうど、骨が落ちてきた空間を見上げたようでした。

 そのSが、ひっ、と喉を鳴らしたまま、黙り込んでしまいました。

「どうした?」

 私が尋ねても、上をむいて立ち尽くしたまま。顔面から血の気が引いて、蒼白になっていました。

 おい、と肩を叩いても、あ、あ、と中途半端な音を発するだけで、要領を得ません。

 結局、Sがふたたび話すことができるようになったのは、近くの立ち飲みに連れていって、安焼酎を猪口に一杯、何でも割らずに飲ませたあとのことでした。気付けのブランデーなんてしゃれたものは、私たちの下宿屋にはありませんでしたから。

 そして、言葉をとりもどした彼が語ったことも、信じていいのか私には判断できないことでした。

 なにしろ、彼はこう言ったのです。

 私が外した天井板の透き間から、何かが見下ろしていたんだ、と。

 その何かは、体こそネズミほどの大きさだったけれど、髭もじゃの男の顔をしていた。そしてその口には、二本の鋭い牙が生えていた、というのです。

 ……後に警察の調べによって、骨は人間の、それも幼い子どものものであることがわかりました。捜査員が天井裏に入ってみると、落ちてきたものの他にもごろごろと、転がっていたそうです。

 主人夫婦は、古い民家で空襲でも焼け残ったその家を、戦争が終わってから購入して下宿屋にしたということで、屋根裏の人骨については全く、心当たりがない、ということでした。ただ、近所の住民に屋根を通り抜けて建物に出入りする老婆のような影を見たものがあって、幽霊ではないか、と一時期、噂がとりざたされたこともあったそうです。

 骨の発見が原因になったのか、それともSの、奇妙な生物の目撃証言を信じたのか。あるいはまた別の理由があったのか。それは私のあずかり知らぬところですが、まもなく主人一家はその家を売り払い、よそに移っていきました。私とSも、それぞれ別の下宿に引き払うことになりました。

 それ以来、Sには会っていません。私は大学院に進学して、博士課程まで在学していたので、そのあともしばらく大学にいましたが、一度、故郷に帰ったWが復学した、という話も、ついぞ聞きませんでした。


 先生が話し終えると、Kitchen Dagonは不穏な静寂に満たされた。

 キャッシュレジスターのところにいたお姉ちゃんは、何も言わずにキッチンに入っていってしまった。怖かったからに違いない、とろびんは思った。

「……ひとつ言えるのは」

 沈黙を破ったのは先生だった。

「現実には、怪異の正体が何であるかなど、知り得ない場合が多い、ということですね。それに、怪異との英雄的ヒロイックな対決で事件が解決するようなことも、ごくまれです」

 それでも、吸血鬼を退治する方法を知りたいですか? 先生は、ろびんの目を見て尋ねる。

 ふだん通りにしているだけだったのかもしれないけれど、怪異譚を語り終えたばかりの先生は異様な雰囲気をまとっているように、ろびんには感じられた。

「う、うん……」

 ろびんは、ごくり、と唾を飲み込んだ。


  *


 にんにく、十字架、賛美歌、銀の武器。とどめを刺すための白木の杭と槌。阿弥陀寺先生が教えてくれた吸血鬼退治の道具は、そんなところだった。

 整えた装備を詰めたリュックサックを背に、ろびんは石造りの燈籠の裏に身を潜めていた。服は動きやすい長袖のTシャツに、デニムのオーバーオール。靴はハイカットのコンバースだ。

 ただ、装備といっても、賛美歌はグランマの本棚から勝手に借りた、なんか英語の唱歌集だったし、武器はお店の引き出しにあった、いまは使っていない銀のフォーク。それでも、何もないよりはましだよね、と、ろびんは思う。

 にんにくと十字架は代用品ではなかったけれど、前者は厨房からお姉ちゃんの目を盗んで拝借したもの、後者は数日前に商店街のファンシーショップで買った、おもちゃのようなアクセサリーで、芽春に渡したものとおそろいだった。白木の杭は、怖くてとても使える気がしなかったので、そもそも用意していない。だって、生きた人間じゃないのかもしれないけど、心臓に突き立てるんだよ? その様子を想像して、ろびんは身震いする。

 追跡の対象――カザミヤさんは、まだこちら側にあらわれない。

 週が明けてからの数日間。ろびんは学校から帰るとすぐにリュックサックを背負ってエラ萬の前に行き、斜向はすむかいの漁協の市場の入り口の影から民宿の前の道を見張った。そしてカザミヤさんが出てくると、その後をこっそりと尾行した。

 そうしているうちに、わかったことがある。

 カザミヤさんが外出するのは、かならず午後遅くになってからだ。ほぼ毎日、印寿真洲の町の中を、行くあてのなさそうな散歩をするのが日課らしかったが、表にあらわれるのは四時ぐらいのことが多かった。五時近くになってからの日もある。彼女が屋外にいるのは、秋になって沈むのが早くなってきた太陽が、町の裏手の山に沈むまえ、一、二時間のことなのだ。 

 これは、ろびんにとっては不都合だった。Kitchen Dagonの手伝いをしないときでも、ろびんは夕食のできる六時ごろには家に帰らないといけない。カザミヤさんがゆっくりしか出てこない、というのは、監視するにしても行動を起こすにしても、使える時間はあまりない、ということを意味していた。

 それに、何日か後をつけてわかったのだが、目的がないようであって、カザミヤさんの立ち寄る先は、意外に人の集まる場所が多かった。港の防波堤だったり、商店街だったり。さすがにそういう場所で、彼女と対峙するわけにはいかなかった。

 ろびんは少し焦っていた。早く決着をつけなきゃ。それだけを考えていた。

 芽春の体の具合はよくも悪くもなっていないようだったけれど、もし彼女が吸血鬼に魅入られているのだとしたら、その原因を退散させるまで治る見込みはないのだ。それに、そのことに気づいているのは、ぼくひとりだ。

 すると、今日。

 いつもと変わらない黒のタートルネックにゆるいスラックスという服装で、四時半ごろにエラ萬から姿をあらわしたカザミヤさんは、商店街への道からすぐにそれて、裏道に入っていく。そして、町はずれの高台にある海神社の境内に続く石段を、ひとり登っていったのだった。

 神社の横手には、ろびんがひとりになりたいときの秘密の場所にしているベンチがある。

 そんなぐらいだから、お祭りの日でもないときの人出はまったくない。社務所にもふだんは誰もいない。

 これは、と思って、ろびんはしばらく間を置いてから、自らも神社の石段を登った。もしカザミヤさんがすぐに引き返してきたりして途中で鉢合わせたら隠れようがないけれど、もともと対決するつもりなのだからそれは問題ない。

 階段の一番上からろびんが頭を出すと、狭い境内の奥、社殿の右端の角を曲がっていくカザミヤさんの背中が見えた。

 社殿の横と裏は木の植わった斜面になっており、よそに抜ける道はない。つまり、脇に回ったとしても、建物にそって歩き、途中でUターンして戻ってくるか、ぐるりと一周してふたたび表に出てくるしかないのだ。

 境内にある燈籠に隠れて待つことに、ろびんは決めた。追いかけたところで、途中で歩く速度を変えられたり、社殿の反対側にいるときに進む方向を変えられたりしたら見失ってしまう恐れがある。そう考えたのだった。

 とても、長い時間が経過したような気がした。

 自分の心臓の鼓動が、うるさいぐらいだった。

 もしかして、尾行に気がつかれたかもしれない、と、ろびんは不安になった。それに、もし本物の吸血鬼だったら、犬か蝙蝠に変化して、神社の裏山なんか、やすやすと越えてしまうんじゃないだろうか。

 けれども、それらはどうやら杞憂のようだった。

 入っていったのとは反対側の、社殿の左手の角から、カザミヤさんが顔を出したのだ。

 ろびんは燈籠の影から転がり出た。

 カザミヤさんの進路に仁王立ちになり、右手に持ったロザリオを突きつけた。

 そして……。

 ……そして、何をしたらいいのか、全く考えていなかったことに気づく。

 立ち止まったカザミヤさんは、小首をかしげてろびんのほうを見ていた。

 目が合った。

 カザミヤさんは唇の角をつり上げて、ちょっと笑ったようだった。

「きゅ、吸血鬼、覚悟!」

 ろびんはなんとか、それだけ言った。 

「ああ、そういうこと?」

 カザミヤさんはそう応じて、数歩、前に出てきた。

「と、止まりなさい! これが何だか、わからない?」

「十字架、に見えるわね」

「じゃ、じゃあ、なんで……」

「そんなものは効かないの。私には」

 言いながらカザミヤさんは、つかつかと間合いを詰めてくる。

 その口が、かっ、と大きく開かれる。

 ろびんは目をつぶった。

 喉もとに、鋭い二本の牙が……。

 ……鋭い二本の牙が、刺さることはなかった。

 首をのけぞらせて、顔をそむけたままの姿勢で、ろびんは薄目を開ける。

 すぐそこに、カザミヤさんの唇があった。ピンクがかった口紅が、てらてらと光っていた。

 彼女の吐く息から、ほんのりと、甘いような苦いような、タバコの香りがする。

「た、食べないで……」

 思わずろびんは、情けない声を出していた。

 こらえきれなくなったかのように、カザミヤさんが、ぶふっ、と吹き出した。

「食べない、食べない。そういう趣味はない」

 それからさ、吸血鬼でもないから、その十字架もしまっちゃっていいよ。


  *


「あー、おかしい」

 カザミヤさんはタバコを片手に、ひとしきり、げらげら笑ったあと、それでも足りなかったのか、ひー、と悲鳴のような声をあげて腹をよじった。

 隣に座らされたろびんは、憮然とそれを眺めるしかない。

 ふたりは海神社の石段の、一番下の段に並んで腰かけていた。

 目の前には住宅の低い屋根が連なって、海まで続いている。その上にうす紫色の薄暮が落ちて、高いところに浮かんだ雲にはオレンジ色の夕照が映っている。

「本当に、私が吸血鬼だって思ってた?」

「……はい」

 ちいさな声でろびんは答える。

「どうして?」

「それは……」

 ろびんは説明した。芽春の不調のこと。胸についた傷あとのこと。深夜に徘徊していたかもしれないこと。芽春の部屋に泊まった夜に遭遇した怪異。『カーミラ』を読んだこと。阿弥陀寺先生に吸血鬼退治の道具を教わったこと。カザミヤさんが、夕方近くになってからしか外出しないこと。

「ふむ。なるほど」

 聞き終えるとカザミヤさんは足を組んで、タバコの煙を吐き出した。さきほどまでの笑いは消えて、真面目そうな顔になっている。

「理にはかなってるね。私が『魔女狩り』されそうになったのは気にくわないけどさ」

「ご、ごめんなさい」

「ま、他所者だしね。それにそういうことだったら、実際、私のせいな部分もある、んだよね」

「どういうことですか?」

「それは……」

 と、口にしかけたところでカザミヤさんは言いよどみ、逆に、君は芽春ちゃんの親友? と、ろびんに訊いてきた。

「…………」

 ろびんは、しばらく逡巡してから、だまってうなずいた。

「まあ、親友じゃなければ、ここまでしてまで守ろうとはしないか」

 それだったら、とカザミヤさんは続ける。

 これ、芽春ちゃんには言わないでね、と前置きをして。

「私が小説家だ、というのは知ってるでしょ? 前に一度会ったとき、芽春ちゃんがそう紹介したはず」

「はい。それは憶えてます」

「伯母さんの家……エラ萬に私が泊まっているのは、取材のためだったり自主的なカンヅメだったり、まあいろいろあるんだけど、泊まっているうちに、私が書いてる小説を読んでください、って言ってきたんだ。芽春ちゃんが」

「え」

 芽春が小説を書いている、というのは、ろびんには初耳だった。

「いままで誰にも添削してもらったことがない、っていうから、私もお礼のつもりではじめたわけ。芽春ちゃんに町を案内してもらったりもしたし。夜中に、こっそり連れ出しちゃったこともあったしね」

 あ、ちなみに、君が芽春ちゃんに無視された夜、っていうのは、たぶん私が連れ出したときだね。家族に黙ってだったから、バレるのがイヤだったんだと思う。カザミヤさんは、ゆっくりタバコを吸って、長く煙を吐き出す。

「まあそんなわけで、原稿を読むことになったんだけど、私はもともと、ここに泊まるのはひと月半の予定にしてた。だから、芽春ちゃんには、『締切』ができちゃったんだよね。私がいる間に直しもしないといけない、続きも書かないといけない、って」

 私がヘンな時間に起きて、朝まで書いたりしてるもんだから、それも悪い見本になっちゃったね。はは、と自虐の笑い声をもらして、カザミヤさんは半分ぐらいに減ったタバコを携帯灰皿に押しつけて消した。

「しかも、芽春ちゃんは、家族にもそのことを秘密にしたがってた。私のところに原稿を見せに来るときは、夜中に自分の部屋の窓から壁を伝って下まで降りて、庭から私の部屋まで来てたんだ。意外におてんばなところがあるな、と思ったりもしたんだけど、夜に草むらを通ってくるわけでしょ。胸の虫さされ、っていうのは、実際にそのときに刺されたりしたんじゃないのかな」

 ぽろり。

 ろびんの目から涙がこぼれて、オーバーオールの膝を濡らした。

「えっ、ごめん。何か、悪いこと言った?」

 カザミヤさんがうろたえる。ろびんはあわてて涙を拭いて、首を横に振った。

「ううん。でも、ハルちゃん、ぼくになんにも教えてくれなかった。小説、書いてるなんて……」

「あー、それは」

 タバコをもう一本、とんとん、と箱から出して、カザミヤさんはそれに火をつける。

「知られたくないもんなんだよ。家族とか親友とか、近くの人には、特にさ」

「でも、小説ってことは、本になったりするでしょ? そしたら、みんなが読むでしょ? それなのに、ぼくには教えてくれないんだ」

「うーん。それは、ちょっと違うかな。『すべての小説は私小説である』じゃないけど、小説っていうのは、どんなものを書いていても、自分の頭の中、悩みとか欲望とか、そういうものがにじみ出ちゃうんだよ。だから、一番、身近な人に見せるのが、一番、恥ずかしい。どういう動機で書いたのか、自分にどんな性癖や欲求があるのか、全部、読み取られちゃうような気がするから」

 文学賞を獲ったり本になったり、そうやって一度、世間に認めてもらえたら、それでやっと、自分を頭の中を、親しい人にさらけだしても許される、って思えるようになる、っていうのかなあ。そのへんは、人にもよるだろうしよくわかんないけど、と、カザミヤさんは上をむいて細く煙を吐いて、吸いはじめたばかりのタバコをもみ消した。

「ま、だから、いまは内緒にさせておいてあげてくれる?」

 いつか、芽春ちゃんが、そうしたい、って思ったときには、かならず君に、真っ先に知らせてくれるはずだから。

「……はい」

 さて、そろそろ帰ろっか。カザミヤさんは、ろびんをうながして立ち上がる。

 印寿真洲を覆う宵闇が、いつのまにか濃くなっていた。

 街灯の白く熱のない光がつきはじめた道を、ろびんとカザミヤさんはふたりで歩く。

 「『この世界に生きているうちは、女の子たちは幼虫のようなもの。夏が来てやっと、美しい蝶になる』だっけ?」

 ふと、カザミヤさんが言った。

「『けれど、そうなるまでの間は、青虫や毛虫のまま。そうでしょう。どっちにも、ばらばらの好きや嫌いや必要とするものがあって、どっちも、ちがった構造つくりでできている……』」


  *


「ろびん、商店街のハロウィンは行かないの?」

 お姉ちゃんにそう訊かれたとき、ろびんはお客さんの使っていない、キャッシュレジスター裏のテーブルに新聞紙を広げて、自分の頭の二倍くらいありそうな橙色のパンプキンを彫刻刀で彫っていた。

 五年ほど前まで、Kitchen Dagonはハロウィンの飾りつけをする、町の中で唯一の店だった。十月になるとグランマが、どこからか大きなパンプキンをいくつも手配してきて、みんなでジャック・オ・ランタンを作って店先に並べるのが定番で、三十一日の当日にはグランマがブラウニーを焼いて、お客さんや、近所の子どもたちに配っていた。

 ハロウィンが商店街のイベントになったいまも、それは変わっていない。店内は、ろびんが学校から帰ってきてからずっと、焦げたチョコレートの甘い香りにつつまれていた。イベントが定着してきたここ数年は、商店街への行き帰りに、仮装してトリック・オア・トリート、と寄っていく人が増えたので、作る量を増やしている。今日はグランマは朝からキッチンに入っていたらしく、大変大変、と言いながらもうれしそうだった。

「行くの? 行かないの?」

「わかんない」

 ろびんは答える。

「せっかくかわいいコスチュームなんだから、行ってくればいいのに」

 今日のろびんは、細い紫色っぽい縦ストライプの入った長めの丈の黒のワイシャツに、黒のタイツにあわせた黒のホットパンツ。その腰のところから、黒いしっぽが垂れている。キノコのような形のボブカットの頭につけたカチューシャには猫の耳。ワイシャツの襟もとに結んだリボンには、ちいさな銀の鈴までついている。鼻の頭を黒く塗って、ほっぺたにはグランマの眉毛を引くペンでヒゲも描いた。

「ハルちゃんも行くんじゃないの?」

 という続けてのお姉ちゃんの質問に、ろびんは再び、わかんない、と返事する。

「どうしたの。また芸術性の違いから解散したの?」

 カウンターの裏から出てきたお姉ちゃんは、腰に両手をあててろびんの脇に立つ。お姉ちゃんはいつもどおりの服……とろびんは思ったけれど、考えてみると毎日着ている白のコック服ではなくて、ブラウスとスカートにエプロンだし、そのエプロンが、ディアンドルのような胸もとの大きく開いたデザインのものだった。今年は厨房はグランマにまかせて、ブラウニー配りに専念するつもりなのかもしれなかった。

「してないよ。ただ、誘わなかっただけ。ひとりの時間が必要なのかな、って」

「ふーん。それはそれで、思いつめたカノジョが別れを切り出す第一声みたいだね」

「なっ、だっ……」

「『ハルちゃんには、ひとりの時間が必要だと思うの。わたしがいると、邪魔なんじゃないかな、って』」

「そんなこと言ってないよ!」

「はーいはい、わかってる、わかってる」

 片手をひらひらさせて、お姉ちゃんは離れていく。

 お姉ちゃんには冗談にされてしまったけれど、芽春には、ぼくが邪魔しない時間が必要なのかもしれない、と、ろびんが考えたのは本当のことだった。

 たしかに、カザミヤさんと、あの会話をした夕方の次の日から、ろびんは芽春との距離を、若干、測りかねていた。

 もちろん、何も知らないふりをしていればいいのだろう。だけど、秘密を持ったり持たれたりすることに、ろびんは慣れていない。

 でも、だからといって仲が悪くなったわけじゃない、と、ろびんは思う。登下校は毎日いっしょにしているし、歩きながら学校であったことや漫画雑誌の最新刊のことをしゃべるのも、これまでと変わらない。

 ただ、放課後や週末に、ろびんから遊びに誘うことがなくなっただけ。これだって、ろびんが意識してやめたのだ。

 カザミヤさんの予定がろびんに言ったとおりのままなら、彼女がエラ萬に滞在するのは今週までだ。それまでは芽春は、原稿に集中して取り組める環境が必要だろう。

 芽春のほうもカザミヤさんに夜更かしはしないように諭されたのか、このところは顔の血色もよくなってきた。けれど、夜に無理をすることができないなら、学校から帰ったあとや土日の昼間の時間は、より貴重なはずだ。

 そう、ろびんは思うのだ。

 と。

 からころ、と店のドアについている木鈴の音がした。

 ろびんがパンプキンから顔を上げると、戸口に芽春が立っている。

「ろびん、今年はお祭りは行かない?」

 芽春は、扉を押さえたままで訊いてきた。

「い、行ってもいいんだけど……ハルちゃんこそ忙しくないの?」

「え、ううん。大丈夫」

 ろびんが誘ってくれないから、いっしょに行けないのかと思ってた。芽春は言う。

「そういうつもりじゃなかったんだけど……ごめん」

 彫刻刀をテーブルに置いて、ろびんは立ち上がる。

 そして、いまはふたりとも厨房の中にいるらしいグランマとお姉ちゃんに声をかけた。

「ねえ、やっぱり商店街、行ってくるね」

「結局、行くんじゃん。そのやりかけのパンプキンはどうするの?」

 奥からお姉ちゃんが、あきれた、というような、半分笑ったような声で返事してきた。

「帰ってきたら続きやる!」

「はいはい。人多いから、気をつけてね」

 扉を閉めて、ろびんと芽春は店の前に出た。

 ころから、と背後で鈴が鳴る。

 年を経るごとに盛況になった商店街のハロウィンは、今年は出張所前のスペースで、仮装のコンテストをやったりもするらしい。

 それに人が集まってきているのか、商店街につながるおもての道からは賑やかなさざめきが聞こえた。

 芽春は黒のロングスカートのワンピースを着て、上に黒の、丈の長いコートを袖に手を通さずに羽織っている。頭にはとんがり帽子、手には短いワンド。訊かなくてもわかる、魔女の仮装だった。

「ハルちゃん、よく似合ってる」

「ありがと。ろびんのそれは、チャイロさん?」

「そう! よくわかったね」

 芽春は、ろびんの頭の上からしっぽの先まで、目をはしらせる。

「わかるよ。……だけどそういえばチャイロさんって、なんでチャイロなの? 黒猫だよね?」

「あ、それはね」

 ろびんは答える。

「グランマがつくるブラウニーの色にそっくりでしょ。だから、最初はブラウニーって名前のはずだったんだけど、ブラウニー、ブラウン、チャイロ、って、お姉ちゃんとかが呼びだして」

 いろいろなレシピがあるらしいのだが、グランマが焼くブラウニーは、クッキーをぶ厚くしたような食感で、ココアパウダーとチョコレートチップがたっぷり入って、茶色というより黒に近く、ほろほろと甘くて香ばしい。

「そっか、ブラウニーだったんだ」

「うん」

「じゃあ、今日の私は、ケザイア・メイスン」

 芽春が宣言した。

「誰?」

「有名な魔女だよ。ブラウンっていう名前の使い魔がいるの」

 そう言うと芽春は、ろびんの髪留めについている猫耳の片方を掴み、わしわし撫でた。

「やめてよ、くすぐったい」

「本物の耳じゃ、ないじゃん」

「そうだけどさ……」

 ふざけながら歩くうちに、アーケードの屋根が見えてきた。

 ろびんと芽春は、その下に呑み込まれる人の列の、うしろについた。

 そして、印寿真洲に、万聖節前夜ハロウマスとばりが落ちる。

「この世界に生きているうちは……」の引用は Carmilla by Joseph Sheridan Le Fanu http://www.gutenberg.org/ebooks/10007 より。翻訳は筆者によるものです。

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