D is for Dagon
それは六月の、雨の降る日のことだった。
散里安奈は、海沿いの道を走るバスに乗っていた。
古めの車体。
床は木の板で、折返場で水拭きしたからなのか、客の濡れた靴のせいなのか、黒く湿ったまま乾かない。座席に貼られた臙脂色のベロアも清潔に保たれてはいるけれど、ところどころ擦り切れて下のクッションや地の木が見えている。
乗客は彼女のほかに、三人いるばかり。ふたりがけのシートにばらばらと別れて席をとり、誰も喋らない。
雨も霧のように細かい雨で、車内で聞こえるのは床下で単調に回りつづけるエンジンの音と、思いだしたようにかかるアナウンスだけ。その声もどこか遠慮しているようで、誰も乗り降りしない停留所を通過するたびに、料金箱の上の運賃の電光掲示だけが静かに変わる。
バスは海を左に見てひたすら走る。
道路脇には簡易な堤防が築いてあって、そのむこうは干潟になっている。岸に沿うように葦がぼうぼうと伸びたその先で、梅雨模様の下、空と同色のネズミ色の海に白い波頭が立っていた。
土曜日のお昼まえ。
これから漁港の町に行くというのに、こんな天気だったら家で本でも読んでたほうがよかったかなあ、と安奈は考える。でも、週末のお天気は先週も似たような感じだったし、来週も、再来週も、梅雨が明けるまで、たぶんずっとおなじようなものだ。
電話で別れを告げられたのは、一か月まえのことだった。
せっかく週末ヒマができるようになったんだから、自分の好きなように使ったらいいんだよね。
そう思いつつ、やっぱりまた連絡してくるんじゃないか、とか、私はこのままこれ以上の出会いもないままアラサーになってアラフォーになっていくんだろうか、とか、ぐだぐだ考えて引きこもっているうちに、五月晴れの季節は終わっていた。
だから、今日こそは気分転換。こんな天気だけど。
彼女はこのバス路線の起点、新生辺の町で歴史民俗資料館の学芸員として働いている。
地方史の専攻で修士までやって、それを生かした、しかもフルタイムの仕事に就くことができたのは、この時世で幸運だったというほかない。だけど社会人になってから住むようになった町で、職場を共にするのは役場の水道課から出向してきた定年まぢかの館長と、非常勤で受付をする、中学生の息子がいるお母さんだけ。同僚として働きやすくはあるけれど、男女の出会いどころか、同年代の友達を作りたいと思っても、どうしたらいいかわからない。
それでも先月までは、それでいいといえばそれでよかった。週末は彼のところに行く時間だったから。
彼女がお付き合いしていた相手は、大学時代の同好会の同期だった。学部の四年間が終わって、彼女は進学して彼は就職した。それでも、会いたいときにいつでも会える距離にはいた。新生辺に越してきたら、そうじゃなくなった。
すこし遠くなったとしても、愛が終わるわけじゃないよね。
そんなふうに信じていたのだけど、うまくいっていたのは実のところ最初のころだけだ。
新しい家、新しい職場。はじめのうちは全部が新鮮で、電話をすれば話が弾んだし、週末に会っても話題は尽きなかった。でも、一年もすると、なにもかもが繰り返しになる。毎日の通勤も、仕事も、ふたりで過ごす週末も。
なんか最近、おもしろいことないの? と振られて、がんばって話せば、おまえはいつも、歴史のことばっかりだなあ、と、これも定型の反応。会話がつづかなくなると、心も離れてしまった気がした。別れを切り出されたとき、別に驚きはしなかった。
……驚きはしなかった。
でも、そのあと一週間、ご飯が食べられなくなった。
その次の一週間は、やたらと買い食いばかりした。
いちどアパートの自室に帰ると、もうどこにも行きたくなくて、そしてひとりで部屋にいると、妙な希望的観測と暗い考えが交互に浮かんでは消えた。
これは、なんかダメなやつだ。週末、家にいるなら、地元でこれまで行けなかったところに行ってみよう。
そう考えたとき、まっさきに彼女の頭に浮かんだのが隣町の漁港、印寿真洲だった。
勤務先の歴史民俗資料館に、この町で出土したという黄金の宝冠(部分)が展示されている。
長いこと土中にあったものなのか、原形を留めておらず、年代は不明。素材も、近隣地域で産出する金ではない、ということしか判明していない。だけど、はじめて見たときから、その輝きと刻まれた文様が気になっていた。
そういうわけで彼女は、展示室で撮った写真を保存したタブレットを鞄に忍ばせて、バスに乗っている。
新生辺の郊外を出てから途切れていた家並みが、ふたたび車窓に目立つようになってきた。
出発してから四十五分ぐらい。そろそろ終点の印寿真洲の市街地に到着するのかもしれない。
安奈のその予想はあたっていたようで、ほどなくバスは海沿いをはずれ、住宅の間を縫う道に入った。
――次は印寿真洲港入口、印寿真洲港入口です。ご利用の方は降車ボタンでお知らせください。
アナウンスが流れたのとほぼ同時に、バスが信号で停車した。
安奈はなにげなく、窓の外に目をやった。
彼女が座っていたのは、運転席側、後ろのほうの席だった。
車一台ぶんの幅の対向車線をへだてて、レンガ壁の建物があった。
間口はバスの車体長の半分もないくらいだから、決して広くない。道路に面して広い窓があり、壁がへこんでやや奥まっているところにドアがある。飲食店だろうか、と安奈は思う。軒先に薄汚れた黄色のテントの庇が短く張りだしていて、店名が書いてあるようだったけれども、かすれて彼女のいるところからでは読みとることができない。
と、ドアが開いて、中から少女がひとり、あらわれた。
庇の下まできて、雨はあがっただろうか、とでもいうふうに空を見る。マッシュルームのような形の、みじかいボブの髪が揺れる。
道路脇から見上げた少女の視線と、バスの窓から見おろしている自分の視線が交わったような気がして、安奈はあわてて車内にむきなおった。
そのとき、ぶん、といちだんと大きくエンジンを響かせてバスが発車する。バスはすぐに右に曲がって、建物も少女も見えなくなってしまった。
*
目的にしていた訪問自体は、期待はずれに終わってしまった。
路線バスの終点、印寿真洲支所前から歩いて二十分。高台にある海神神社。昔からの漁港の守り神で、かつては海のそばにあったのだが、津波で倒壊し、現在の場所に移転、新築された。
明治二年の津波で、この町は、大きな被害を受けた。
記録には津波ばかりが取り上げられているが、地震もともなっていたのだろう。新生辺や、内陸側の隣町である茜からの道も寸断され、しばらくのあいだ、集落全体の安否がわからない状態になった。けれども、一週間ほどしてようやく茜の若衆が道を拓き、様子を見にきたときには、村人たちは浜に仮屋を建て、住居が仮設であるほかは何ごともなかったかのように暮らしていた、という。新政府が興ってほどないころの出来事だから正確な統計は残っていないものの、家や港、船に対する被害に比べて死傷者は極端にすくなかった、とも。
斜面に切られた石段を登りきった先にある社殿のまえには、そんなことを記した説明版が立っていた。
だけどそれは、安奈もすでに知っていることだった。
新生辺の歴史民俗資料館の図書コーナーに置いてある地域史の本に、その程度のことは書いてある。彼女が知りたかったのは、神社の祭神のことだ。
資料館で展示している宝冠の破片。表面に刻まれている、人と魚の両方の特徴を有した生物を意匠化した模様。
他に例のない彫刻は歴代の学芸員を悩ませたようで、「印寿真洲の鎮守の神と関係があるか?」と、安奈の何代かまえの職員が書きつけたメモが現在に至るまで唯一の手がかりになっている。
それならば現地で確認してみよう、と、安奈は海神社を今日の印寿真洲訪問の第一の目的地に定めたのだった。
でも、社殿やその脇の小屋は固く戸が閉ざされ、猫の額ほどの境内を見まわしても人ひとりいない。
社殿自体は、ごくありふれた木造の神社建築で、外周を隈なく観察してみたけれど、特に変わったところもなかった。
小屋の軒を借りてしばらく待ってみても、その後も参拝者はやってこない。
天気も天気だし、粘ってみてもしかたがないだろう。残念だけれど、あきらめるほかはないようだった。
神社のある小山を降りて、商店街の近くに戻ってきても雨はまだ止まない。
細かい細かい水の粒が、傘をさしているのに体にまとわりつくように降っている。首まわりがうっとうしかったので、安奈は髪をくくってポニーテールにした。
印寿真洲は、昔もいまも、ちいさな漁港の町だ。十年ほどまえ、隣り合う茜市と合併して、新しい「あかね市」の一部になった。図書館は公民館の中にあかね中央図書館の分室があるだけ。場所は調べてあるから行ってみてもいいけれど、あまり興味を満たす助けにはならなさそうに思えた。
商店街に着いて、歩道にせり出したアーケードの下で傘をたたむ。ここも人影がなく、シャッターを下ろしたままらしい店舗も多い。
陰鬱な町だなあ、と思いかけて、安奈はあわてて頭をふって打ち消す。
こんな梅雨どきの、不快な雨の降る休日の昼すぎ。出歩く人がいないのは当然のことかもしれない。暗く寂しい、という印象を持つのは、自分の気鬱を投影しているだけに過ぎないんじゃないだろうか。
そういえば昼食がまだだった。
どうしよう、と、安奈は考える。
せっかく漁港に来ているのだから、新鮮な地魚を食べるのもいいだろう。だけど、どこに行ったらそういうお店があるのかわからない。神社から下りてくるあいだに午後二時を過ぎてしまったから、ランチと夜の営業の合間を休む食事処は閉まってしまったかもしれない。
それに、漁船が日常的に操業しているのだから新鮮な魚介はあるのだろうが、この町の特産品は天ぷら、全国的にいうところの「さつま揚げ」なのだ。バスが通った道沿いに、煙――というよりおそらく湯気――をもうもうと立てる大きな工場があったのを思いだす。息を吸うと、心なしか、このあたりでも空気に練りもの特有の甘い香りが含まれているような気がした。
あ、バスといえば。安奈は、ぽん、と手を打つ。
あの、車窓から見かけた、少女が中から出てきた建物は喫茶店のようではなかっただろうか。
車内放送を覚えているから、港入口の停留所のてまえ。そしてそのバス停は、この商店街の通りに曲がって、すぐのところにあったはずだ。
ここからは遠くない。そこまで歩いてみようか、と安奈は思った。
商店街を抜ける道は、港にむかってゆるやかに下っている。この方向に歩いていると、前方に海が広がる。
もっとも今日は、ここまでの道すがら、バスの窓から眺めたときと同じように、梅雨空を映した一面の灰色。見えるかぎりでは漁船も出ていない。
アーケードが途切れ、道はふつうの道になる。
もういちど傘を開いて五分ほど行くと、狭くなってきた歩道にバス停の標識が立っていて、すぐ先には信号機のある交差点。バス路線をさかのぼるように左折すると、角から三軒めにその建物があった。
レンガの壁。出窓風の窓。その奥には目隠しのためなのか観葉植物が並べてあって、中を見わたすことはできなかったけれど、テーブルや椅子があるらしいことは確認できる。すこし引っ込んだところに焦げ茶色の木製のドアがあって、そこには『Kitchen Dagon 営業中』と書かれた札が下がっていた。
キッチン……ということは喫茶店というより洋食屋だろうか。
なににせよ、知らない町で知らないお店にひとりで入るのは勇気のいることだったけれど、安奈は意を決して扉を押した。内側に下げられていたらしい木の鈴が、からころ、と鳴った。
間口が細いのは外から見てわかっていたが、中に入ると奥行きもあまりない、ちいさな店だった。
入口すぐのところにキャッシュレジスターを置いた台があり、その奥に観葉植物をへだてて四人がけの席がひとつ。あとは反対側の壁際に四人がけ、出窓の脇に二人がけのテーブルがひとつづつと、客席と調理場との仕切りらしいところがカウンターになっていて椅子が三つ。そのカウンターにこちらに背を向けて座っていたお店の人が振りかえって立ち上がり、「おひとり様ですか? お好きなところにどうぞ」と言った。先客はひとりもないようだ。
安奈はすこし迷って、それから窓際の席についた。
空いているようなので広いテーブルを使ってもいいのだろうけれど、あとから三人連れ四人連れがつづけて来たりしたら困るかもしれないし、と思った。
すぐに、おなじ店員が水のコップとメニューを持ってきた。
その顔を見て安奈は気づく。あのとき、バスから見た女の子だ。
接客をするからか黄色のエプロンをつけ、前髪を分けてピンで留めているけれど、キノコの傘のように丸くまとまったボブの髪に覚えがある。背は安奈よりもわずかに低いぐらいだが、顔立ちが幼く、思春期特有の、すらりと細長い手足をしている。中学生ぐらいだろうか。アルバイトができる年齢ではなさそうだから、家業の手伝いをしている、というあたりかもしれない。
彼女のほうも、バスの中の私を見ただろうか、と安奈は考えたが、少女は特別な反応をすることもなく、
「決まったら教えてください」
と、チェーン店のマニュアルには決してなさそうな言葉を残して離れていく。安奈は厚紙に印刷された、ふたつ折りのメニューを開いた。
メインの料理は、ハンバーガー、魚フライ、エビフライ、シーフードフライ、ポークソテー、フライドチキン、グリルチキン、ミートローフ。ハンバーガー以外はパンかライス、サラダとスープがつくセットにできる。ほかにスパゲッティが二種類、ナポリタンとキノコ。チキンライスが塩味とケチャップ味のふたつ。飲み物にコーヒー、紅茶、アイスコーヒー、アイスティ、コーラ、レモネード、オレンジジュース、小瓶のビール。デザートにアイスクリーム・サンデー。
なんのひねりもない、町の洋食屋といった雰囲気だった。シーフードフライも漁港の町で食べたらなにか違うんだろうか、などと考えつつも、安奈は決めかねた。だって、どれにも決定打がない。
「えっと、すみません」
声をかけると少女は、またカウンターのところから立ってやってきた。
「なににしましょうか」
「あの、おすすめってなにかありますか」
「おすすめ、ですか……」
少女は右手に握ったペンの軸を顎にあてて、うーん、と考え込む。眉毛が「へ」の字に寄る。
訊ねないほうがよかったかな、と安奈は不安になる。もともと彼女は、店員に話しかけるのも、話しかけられるのも苦手なほうだ。今日に限って、そんなことを聞いてしまったのは、印寿真洲に着いて以来、あまりに誰とも喋っていなかったからなのかもしれない。
「あっ、そうだ」
悩んでいた少女は、ふ、と顔を上げ、厨房のほうに声をかけた。
「お姉ちゃーん、セットまだできる?」
「いいよー」
すぐに返事があって、少女は、ランチセット、まだできますよ、こっち、と、壁にかかった黒板を安奈に示した。
『ランチ/ディナーセット』と白墨で書かれたその下に、『Aセット』『Bセット』『Dセット』と並んでいる。なぜかCはない。『A』と『B』は八八〇円。『D』はちょっと高くて九五〇円。
「この中だったらDがお勧めです」
安奈は目を細めて説明を読む。パンとチャウダーとサラダと飲み物つき。メインはフィッシュケークとクラブケーク。
フィッシュケークとクラブケーク。見慣れない文字列だったけれど、何回か読み直してみてもそう書いてある。
「フィッシュケーク……って、なんですか?」
「あ、フィッシュケークは、白身魚をほぐしたものと、マッシュポテトを混ぜて焼いたものです。えーと、コロッケとちょっと似てるけど、コロッケじゃないです。タルタルソースで食べます」
意外とすらすらと少女店員から説明が出てきたので、安奈はちょっと驚いた。
「じゃあ、クラブケークは?」
「クラブは蟹の身です。こっちはポテトじゃなくて小麦粉ベースのツナギにしてあって、外にパン粉がついてて揚げてあります。タルタルソースじゃなくて、サウザン・アイランドソースがつきます。おいしいですよ」
おいしいですよ、と言うときに少女がいかにもよだれを垂らしそうな顔になったので、安奈は笑いをこらえるのに苦労する。
「へえ。はじめて聞いたメニューなんだけど、名物なんですか? このあたりでだけよく食べるとか?」
「うーんと、この町の名物、というわけじゃないですね」
なんだ、と安奈はふくらんだ期待をすこしくじかれたかっこうになった。だけど少女は、つづけてこう言った。
「ニューイングランドの伝統料理なんです。フィッシュケークは、特に」
「ニューイングランド?」
「はい。アメリカの。このお店はグランマが――あ、えっと、おばあちゃんが――はじめたお店で、おばあちゃんのお母さんがニューイングランドの出身なんです。だから」
そうなんだ。そして、だとすると、この少女にも、その地の人間の血が受け継がれているということになる。
言われてみれば、店内の照明では黒髪と区別がつかない程度ではあるけれど、髪の毛や眉にかすかに赤茶色い輝きがあり、すこし彫りが深めの眼窩の奥の双眸も、深い青色をたたえているように安奈には思えた。
「で、ご注文はどうしましょうか」
聞かれて安奈は、自分がなにも言わずに少女の顔をじっと見つめていたことに気づく。ほんの数秒のことではあったけれど。
「あ、ごめんね。じゃあ、そのDセットでお願いします」
「お飲み物は?」
「ホットコーヒーにできますか? 食後にお願いします」
はい、大丈夫です。わかりました。答えて少女はカウンターの方向に戻りながら、オーダーはいりまーす、ダゴンひとつ、と奥に告げる。
なるほど、と安奈は心の中で納得する。
『D』はダゴンの『D』なのか。店名に由来しているのだ。だから『A』と『B』はあっても『C』がないのだろう。
いわゆる看板メニューなのかもしれない。安奈はちょっと、この食事が楽しみになった。
厨房からは、すぐに油のはぜる音が聞こえだした。
安奈はグラスの水を飲んでひと息つき、椅子の背に引っかけていた鞄からタブレットを出す。写真のアプリを開いて、勤務先で撮ってきた宝冠の画像を見る。
全体像を写したもの。文様のクローズアップ。
結局、これについて、より深く知ることはできなさそうだ、と安奈は思う。これまで代々の学芸員に謎だったものを、私が思いつきで、一日訪問しただけで解明できるはずもないか。
「あれっ、それって」
突然、背後で声をあげられたので、安奈は椅子から転げ落ちそうになった。
「ごめんなさい! あの、これ……」
振りむくと立っているのは店員の少女だ。きまりが悪そうにテーブルに寄って、ナイフとフォークとスポーンのセットをナプキンに巻いたものを置く。
「勝手に覗いてごめんなさい。それ、海坂徳育大学の博物館で見せてもらった腕輪に似ていて」
「腕輪? 海坂徳育大学?」
「はい。いちど、阿弥陀寺先生が、私とハルちゃん――あ、ハルちゃんは友達です――を見学に連れていってくれて、見せてもらったことがあって。阿弥陀寺先生は、昔、海坂大の教授だったんですけど、今はここの公民館の図書室で、ボランティアで歴史ガイドとかをしてるんです」
安奈は、はっ、として、それから軽く落ち込んだ。
海坂徳育大学は、茜にある私立の大学だ。民俗学の分野で有名な研究者が教鞭をとっていたこともある。博物館の存在も聞いたことがあった。そうか、そこに問い合わせればよかったんだ。なんで思いつかなかったのだろう。
「にて……似てるって、こんな模様もあった?」
写真を数枚スワイプで送って、宝冠の表面に寄って写した一枚を画面で見せる。独特な、魚頭人の文様。
「はい」
と少女はうなずく。それから、触ったら、じんわりあったかいような気がして、不思議だったのでそれも覚えています、とも言った。
そういえば、触れたことはなかったな、と安奈は思った。
写真を撮るために陳列ケースを開けたりはしたけど、宝冠の欠片そのものに触ったことはない。材質は金、と資料館の記録にあったのでそれ以上調べていなかったけれど、それもそうとは限らないのかもしれない。
「でも、ぼくが見せてもらったのは、ちゃんと完全な腕輪のかたちをしてました。ヒビみたいなのはなかったかなあ」
それは、とても貴重な資料なのではないだろうか、と安奈は考える。見てみたい。さらにいえば、それについて研究をしたことがある人がいるなら、話を聞きたい。
「お姉さんは、なんでそんな写真を見てるの?」
「あ、これは、新生辺の資料館にあるものなんだけど……」
「へえ、新生辺」
「この町の海神神社に何か手がかりがないかと思って来たんだけど、神社には誰もいなくって」
「そうですね。あそこはお正月の初詣のときしかお店出ないですもん」
やはり神社は、ふだんは無人であるらしい。
それならば、海坂徳育大学の博物館のほうが望みがあるかもしれない。新生辺町立歴史民俗資料館学芸員として、公式に問い合わせをしたら対応してくれるだろうか。あるいは……。安奈が思いをめぐらせていると、
「あ、でも、もう三時になっちゃうか」
唐突に少女がつぶやいた。
「阿弥陀寺先生なら、土曜日は三時ぐらいまで図書室でボランティアしてることもあるんですけど」
えっ、と、安奈があわてて腕時計を見ると、時刻は三時五分まえ。ここからでは三時までに公民館に着くことはできないだろう。それに、料理も注文してしまったし。
「その阿弥陀寺先生という方は、毎週、図書室にいるのかな?」
「うん。学校のあとで行ってもいることもあるし、週に二、三回は来てると思います。土曜日も、ほとんど毎週いるみたいです」
だったら来週また来ればいいか。おなじくらいの時間のバスでも、神社に寄らずに直接、公民館の図書室にむかえば、遅くなりすぎることもない。
ちょうどそのとき、ころから、とドアの木の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませー」
少女は反射的に声をかけ、それから、あ、先生、とつづけた。
「いまちょうど、先生のこと話してたんだよ」
「ああ、だからさっきからクシャミが止まらないんですね」
低い、穏やかな声で、入ってきたばかりの客が答える。
もしかして、と安奈は思ったけれど、彼女は出入り口を背にして座っている。いきなり振りかえって、じろじろ見るのはおかしいだろう。
「今日は、いまボランティアの帰り?」
「そう。こんな天気じゃ人も来ないから、早く出てきてしまいました」
「あのね、このお姉さんが……」
急に話題が自分のことになり、安奈は緊張で背筋がピン、と伸びるのを感じた。こんなふうに初対面の人とたくさん話をすることなんてめったにないのに、今日は変な日だ。
「……えーと、先生が、まえに海坂大の博物館で見せてくれた、金の腕輪があったでしょ? あれにそっくりなのの写真を、このお姉さんが持ってて。新生辺にあるんだって」
「ふむ」
ど、どうしよう、と、安奈はひとりでわたわたする。
タブレットで画像を見せたらいいだろうか。でも、なにか質問をするにも心の準備ができていない。
「お嬢さん」
頭のうしろで言われて、安奈は、ひゃあ、と飛び上がる。
席に着いたまま見上げると、初老、というよりはもうすこし年を重ねた感じの、背の高い男性が立っていた。年老いてはいるが、肩幅も広く、がっしりとした体つき。デニムのパンツにツイードのジャケットを羽織って、手に山高帽を持っている。短く刈った髪と、やや長めの口髭には白髪が混じり、しっかりとした鼻にのせた細ぶちの丸眼鏡の奥では、深く刻まれた皺にかくれて目が柔らかく光る。
「もし差しつかえなければ、その写真を見せていただけませんかな」
「は、はいっ」
安奈は、少女に見せたあとテーブルに置きっぱなしだったタブレットの画面をアンロックして、男性に手渡した。
彼は片手でそれを受け取り、ほう、ほう、としばらく画面上のあちらこちらに目を走らせていたが、それから、
「これは、他の写真もあるのですかな」
と、安奈に聞く。
「あ、はい。前後に何枚か、あります」
そのあと、一瞬の沈黙があった。
「……それは、どうやって見たらいいのでしょうか」
「えっと、スワイプして……」
「スワイプ」
「あっ、すみません。こうやって」
安奈は立ち上がって男性の隣にまわり、スクリーンを指でなぞった。
背が高い、というのは第一印象のひとつだったけれど、こうして横に並ぶと、より大きく感じられた。安奈は平均的な身長なのだが、それよりも三十センチほど上背があるのではないだろうか。だが不思議と威圧感はなく、むしろ包みこむような雰囲気がある。
「これは、腕輪ではないのですね」
安奈がめくる写真を何枚か見たあとで男性が言った。
「はい。宝冠の破片だと言われています。印寿真洲で発掘されたと記録されているんですが」
「それが、新生辺に?」
「当館の収蔵物なんです。私、新生辺の町立歴史民俗資料館に勤めています」
「ほう。博物館員さんでしたか」
自己紹介がまだでしたね。と男性が切り出す。
「阿弥陀寺と申します。仕事を引退して、今はこちらの町で公民館のお手伝いなどしております」
「私は散里といいます。あの、今日は名刺を持っていなくて……」
安奈が謝ると、阿弥陀寺先生は、ははは、と笑い、仕事の話をするわけでもないのだから、別にいいでしょう、と答えた。
「いや、それともこれは、あなたにとっては仕事になりますかな」
「あ、それは、どっちだろう……」
「オーダーアップ! サラダとチャウダー、先にお運びして」
そのとき奥から声がかかり、安奈と先生の会話をかたわらで聞いていた少女は、いそいで厨房のほうに入っていった。すぐに出てきた彼女は、お盆にちいさなスープカップとサラダボウル、それにロールパンの皿をのせている。
「お食事がまだでしたか。お邪魔しましたね」
「いいえ、私のほうこそ、急にすみません」
パンとチャウダーとサラダを安奈のテーブルに置いた少女は、カウンターに戻って水のグラスとメニューを用意している。
「先生は、どこ座る?」
阿弥陀寺先生は、肩にまだ残っていた雨粒を払いながら、安奈のほかに客のいない店内をぐるりといちど、見まわした。それからおもむろに、安奈の正面の椅子に手をかけた。
「お邪魔ついでに、こちらに座ってもよろしいですか」
安奈は口に運んだばかりだったミルク味のスープを、あわてて呑みこんだ。
「ふぁい」
と変な返事になり、口をおさえて赤面する。
「テーブルが狭くなりますが、構いませんか」
「はい。大丈夫です」
すぐに少女が水とメニューを持ってきて、しばらくして、別の、背の高い女性店員がメインディッシュのプレートを安奈のところに運んできた。
白いコック服を着ているから、彼女が「お姉ちゃん」と呼ばれていた調理担当なのだろう、と安奈は考える。少女と姉妹だと言われればそうかもしれないと思うが、顔はそれほど似ているわけではない。少女よりは年上だが、安奈よりは年下で、安奈には大学の新入生ぐらいに見えた。だから二十歳そこそこだろう。
「遠慮なさらずに、どうぞ。熱いうちがおいしいですから」
安奈がちらりと視線をむけたのに気がついたのだろう。阿弥陀寺先生は、メニューを手に取りながらそう言った。
ふたりがついているのは、二人がけの、店内でいちばんちいさなテーブルなので、むかい合った席同士の距離が近い。
この距離感で誰かと食事をするのは、どれくらいぶりだろう、と、ふと安奈は思う。元彼とも、別れるまえしばらくは、こんなふうに座ることもなかった気がする。
安奈は置かれたプレートに目をむける。厚手の、ややクリーム色がかかった白の、丸い皿に、球形にちかい揚げ物がひとつと、小判形に整形された焼き物がひとつ。前者は横にオレンジがかった色のソースがつけてあるのでこちらがクラブケーク、後者にタルタルソースが添えてあるのでそちらがフィッシュケークだろう。それに、つけあわせのニンジンがふた切れとインゲンが三本。
まず、安奈はフィッシュケークにナイフを入れる。切り分けて口に入れると、注文まえの少女の説明のとおり、コロッケにも似ていて、外はパン粉を軽くふりかけてカリッと焼いてあり、中はほろっと崩れるが、芋の種類がちがうのか、水分量の差なのか、よくあるコロッケほど柔らかくはない。そして、混ぜ込んである魚のほぐし身が、ほどよい塩味と、食感の変化を与えている。噛んでいると魚の味がわりと強くなってくるので、タルタルソースがちょうどいい。ソースか芋の部分かにハーブがかすかに効かせてあって、それも異国風を感じさせた。
次はクラブケーク、とフォークを刺したところで、それまで静かにメニューを読んでいた阿弥陀寺先生が口を開いた。
「あくまでも私の想像ですが、あの腕輪と宝冠は、印寿真洲に独特のものでなく、印寿真洲を含んだ、より大きな文化圏の存在を示唆しているのではないかと思います。現に、海坂大学の博物館に所蔵している腕輪は、印寿真洲の産でなく、海上貿易でもたらされたものと考えられているのですよ」
突然の話題の揺り戻しに、安奈が、あっ、えっ、と、とまどっていると、先生は苦笑いのような微笑をうかべた。
「いえ、失礼しました。私の悪い癖で。なぜか間も悪くて、人の食事を妨げてしまうのだそうです。死んだ妻にも、何度も注意されたものでした」
「奥様を亡くされて……」
「私が定年になって、これから老後、というときでした。……ああ、この話も、腕輪の話も、今は気にしないでください。お時間があれば、食後のコーヒーのときにでもお話しできますかな」
あらためて、安奈はクラブケークの四分の一ほどを口に運ぶ。こちらは、どちらかといえば芋が主体のフィッシュケークとはちがってツナギはすくなく、細かくほぐした蟹の身の歯ごたえを直接感じる。蟹は白身魚よりも味と香りの主張が強いので、トマトケチャップを足したサウザン・アイランドの酸味がそれを引き立てている。安奈は目を閉じてその組み合わせを味わった。
「先生は、注文きまった?」
少女が、思いだしたようにテーブルに戻ってきて訊ねる。
「私もDセットを頼んでもいいですか。ランチの時間は過ぎていますが」
「大丈夫! 今日はランチが閑古鳥だったから、いつでも作るって、お姉ちゃんが」
「ではそれで、お願いします」
雨はまだ止まない。出窓の外にある樋が、ちろちろと音をたてつづけている。
カウンターのほうへ一歩踏み出して、少女は厨房に呼びかける。
「オーダーはいりまーす。ダゴンもうひとつ!」