携帯小説・なろう的文化が殺す、意味段落と形式段落
相変わらず底辺をさまよう僕がですね、一丁前に言葉を並べようだなんてことがおこがましいのは分かってるんですよ。けど、ふと思ったことを貯めておくのって辛いの。「小説家になろう」なんて名前のサイトに来てくれてるみんななら分かってくれますよね?
↑こんな感じで文頭スペース空けるのを「一文字下げる」って言って、そしてそうして出来た、いくつかの文の繋がりのグループのことを「段落」っていう訳だけど、小学か中学で習ったように、これただの段落じゃなくて「形式段落」ってやつなんだよね。
それでこういう形式段落がいくつか集まって、一つの意味と言うか話の流れと言うか意見で纏まった、さらに大きな塊のことを「意味段落」っていう訳です。
国語の教科書呼んでさ、一文字下がってるところに1,2,3……って番号振ったじゃない。あれが形式段落、それでその後「どこで話を区切れますか」って先生に聞かれて、「ええと、1~4の段落がひとまとまりで……」って分けたあれが意味段落。やったこと無い学校もあるのかな、でも知識としては義務教育の内容だからみんな知ってるはず。
そしてこれは国語、つまり日本語の表現様式とは切っては切り離せないものだと、僕は結構長らく思っていた。けどそうじゃないんですよね。これはね、恐らく「縦書きの表現様式」だったんです。
戦前戦後がどうのとか日本語の歴史うんぬん語る気はないけど、端的に青空文庫に行きゃあ分かる。昔の文豪の書いた文章が横書きになったときの読みにくいこと読みにくいこと。それに引き換え、改行もなく意味段落的な分類もない、一文区切りで改行されてるなろう小説の読みやすいこと読みやすいこと。
この一文だとかの短文で改行しちゃう書き方って、発端はケータイ小説くらいだと思うんですよ。これは偏見だけれど、その時文章を書く主体だったのはあまり勉強出来ない人で、段落とかもよく分かってないタイプだったと思うんです……違うな、そうじゃなくてどちらかというとメール感覚で小説を書くって方が近いかもしれないな。メールなら俺だって段落なんて気にしないもの。
いずれにせよ、ケータイ小説の頃はどちらかと言うと、無意識のうちに段落文化が無視されていた、というのが実情だったと思う。けれどネットの普及が進み、ネット上での小説文化も発達していくうちに、段々とそれが変わっていった。
どう変わったかって、きっと「読みやすくするためにわざと」意味段落と形式段落、いわば古典的段落の概念を排除して、細かくテンポよく切った文章で小説が構成されるようになった。
もちろん文章が短くなるためには他にも色々な理由があると思います。しかし結果古典的段落は今、なろうにおいては排斥される傾向にありますよね。基本段落なし、あっても形式段落で、意味段落という概念はほぼ消滅し、場面転換のための―――や◇◇◇で代用されているように見受けられると。
無論、意味段落はいわばストーリーの区切りです。ですから実際上はストーリーのひとまとまりを意味段落として、読者側からとらえてあげることは可能です。しかし形式段落あっての意味段落である以上、形式段落が無い文章の作者は少なくとも意味段落の存在を意識していないということは明らかです。
別に僕はそれが悪いと言ってるわけじゃありません。縦書きじゃ厳然として古典的段落は存続してますし、ネット小説文化と共存は可能な訳ですし。それに、僕自身横書きで意味段落形式段落を気にしていませんし。結局見やすく読みやすいのが正義ですから。
しかし、もしこのままネット文化が肥大して、意味段落と形式段落が淘汰されていってしまうのだとしたら、それは少し寂しいことだと思うんです。思い入れどうこうとはちょっと違って、「昔学校で俺たちゃ当たり前のように習ってたのに、今の子は使ってないのか……」という、ジェネレーションギャップにも似た寂しさですが。
或いは学校教育の側に焦点を当てることも可能ですね。国語の授業って、要するに横書きの日本語というものを事実上存在しないものとして扱ってるわけです。これってあまりにも現実から乖離しているわけですよね。
そして恐ろしいことに、ここまで書いて僕はとんでもないことに気付きました。なんと横書きの日本語には、正式な書法が存在しないのです。少なくとも僕は今まで学校で習ったことがありません。
これ、相当問題だと思うんですよ。文化庁は「敷居が高い」「姑息」「役不足」の意味聞く日本語慣用句クイズアンケートみたいなことする前にこっちに目を向けた方が良いんじゃないですかね。文化庁が具体的に何してるか知らないけれど。