第一話
首都近郊のベッドタウン。日中は嘘のように寂れたこの街の、外れの裏のそのまた外れ。近隣住民からも忘れ去られたような一際寂しいその場所に、僕の住むアパートはあった。壁はひび割れツタが這い、階段は抜けかけ手すりは腐り、屋根にはさびが浮いていた。その外観から僕ら住人は赤さび荘と呼んでいる。敷金礼金ナシ、保証人不要が唯一の謳い文句である赤さび荘であるが、その強烈な外観と謳い文句に恥じない六人が暮らしている。老いも若いも、男も女もバラバラな奴らだが、どいつもこいつも皆一様にビンボーであり、自分勝手であり、そしてなによりとんでもないアホ揃いである。
地獄のサウナと化した四畳半の、なんとか陽の当たらない場所に僕は倒れ伏していた。力なく首を振る扇風機。埃とヤニ、脂汚れでコーティングされた古強者も、終ぞ意味を成さない。それどころか、じとじとと湿り気を帯びた悪魔の吐息が、首をこちらに向ける度に僕を炙っていく。ああ、これでは腐ってしまう。カビてしまう。酸っぱいつけものになってしまう。美少年ならまだしも、ハタチすぎの汗臭い男の酢漬けに需要はあるのだろうか。熱気と年代物の香りのせいで頭まで腐りきってしまう前にどうにかしなくてはならない。
とにかく、一旦起き上がって、顔でも洗おう。そう思い伸びきった全身に力を入れようとしたその時だった。
開け放たれた窓から、もはや熱風に近い真夏の息吹……そよ風が吹き込み、くたびれたカーテンをほんの少しだけ揺らす。申し訳程度にカーテンレールへと括りつけられた風鈴は、その重みのせいか、はたまた壊れているのか、沈黙を守ったままだ。ぼわぼわと領土を侵犯してきた熱風帝国は、今まさに最終防衛線である、ふるつわ扇風機くんを易々と突破し、僕の身体に深刻なダメージを与えようとしていたのだ。じわじわ。……与えたのだった。
僕共和国の完敗だ。今日はもう、このまま腐敗していこう。
……いや待て、物事は考えようである。ネガティブに考えるからいけないのであって、外で考えなしに光り輝く太陽の様にテカテカピカピカジリジリとポジティブに考えるのだ。そう、考えなしに考えるのだ。
どんとしんく、ふぃーる。
なせばなる、なさねばならぬ、ほととぎす。
にんにくからめやさいましましちょもらんま。
そうするとどうだろう。ほら、段々と天の声が聞こえてくるじゃないか。鈴を転がすような、どこか優しく、筋の通った綺麗な声で囁くのだ。
「お兄ちゃん、一年は三六五日あるんだよ。いいじゃない、こんな日が三六五日位あっても。だって人間だもの」
いや全くその通りである。ああ、天の声よ、天にましますまだ見ぬ妹よ、出来ることならこの腕で、この胸で、貴女をぎゅっと抱きしめて愛を囁いて差し上げたい。
「だっ、だめだよお兄ちゃん! わ、私たち兄妹なんだよ! そ、そんなのえっちだよ!」
「ぐへへ、いいじゃねえか妹さんよぉ、なに、先っちょだけ。先っちょだけだからさ!」
「いやぁ! お兄ちゃんだめぇ!」
「良いではないか! 良いではないか!」
「あぁ~れぇ~」
四畳半の片隅で、一人裏声で芝居を打つアホが居た。ダメなのはお兄ちゃん(仮)ではなく、脳みそだった。そんなオーバーヒートした腐りかけの脳みそは、自らの意思とは別にすらすらと悪代官ごっこを続けていく。
「げへへ、さぁ諦めろ! 大人しくワシのナオンにならんかい!」
ああ、なんと哀れな町娘。背中にあたる硬い壁の感触がもはや逃げ場は無いことを教えてくれる。いや、生粋の悪である代官が牛耳るこの街に生まれてしまったが運の尽き。街一番の美しい花は、今ここに散ろうとしていたのだ! 南無三!
「げへへ、なぁに心配するな。痛いのは一瞬だ。天井の染みでも数えて待つのだな!」
勝ち誇ったように唾を飛ばす悪代官。ずるずると倒れ伏す町娘ににじり寄ると、丸々と膨らんだ手を、可憐な胸元へと伸ばそうとする。ああ、なんということだろう。ここにまた一つ新たな悪が成されてしまう。正義などこの街には存在しないのだろうか。
だが彼女はまだ諦めていなかった。幼き日、将来を誓い合ったモノノフが、必ずや救い出してくれることを信じて疑わなかったのだ。ああ、なんと儚く、美しい物語だろうか。しかし現実は非常である。特に何のオチも用意されていない妄想トリップワールドにおいて、そのようなご都合主義的展開は存在しないのだ。
「恨むなら恨め。この暑さをな」
そう吐き捨てた代官はついに町娘の着物を肌蹴させ、唾液でてろてろと妖しく輝く彼女の形の良い唇にむしゃぶりつこうと、蛸のようにすぼめ、もったいぶるようにゆっくりとそれに近づけていく。哀れ、生娘の柔らかな古き日の想い出は、今まさに野獣のようなこの男によって汚されようとしていた。
ぶちゅっ。ああ! 何ということだろうか。ついにお互いの唇が触れ合い、奥の方から現れたエイリアンのようなグロテスクな物体が、固く閉ざされた赤壁をこじ開けようと動きまわり、その度に少しずつ固く結ばれた唇がゆっくりと開いていく。
悪代官は悦楽に浸っていた。彼はこの娘に何の感慨も持たなかったが、穢れを知らぬ白百合の華をこの手で散らすことが出来るということに甚く興奮を覚えていた。生娘特有の柔らかい唇。生娘特有の匂い、甘い舌触りを更に堪能しようと、町娘の頬を鷲掴みにした。ざらりとした感触。暑さにやられたのか、はたまた顔を洗っていないのか、顔脂を触った時特有の生温かいぬめりとした手触り。一週間はヒゲを剃っていないのであろう。頬から顎にかけて無精髭の大森林が出来上がっていた。
おかしい、これは美少女の顔ではない。
これは、これではまるで男の顔ではないか!
どうやらいつの間にか寝てしまっていたようだ。なにか、ひどく恐ろしい夢を見たような気がする。確かそう、美少女とキスをしていたはずが、むさ苦しいオッサンにすり替わっていたような、しかし夢にしてはどうも現実味が強かったような。唇に感じる重みと体温は空想であるとは言いがたく、そして何より……ん? 唇に感じる……?
恐る恐る目蓋を開ける。
どうか夢であってほしい。この真夏の暑さが私に見せた、胡蝶の夢であって欲しいと。
そう一心に願いつつ、僕の両目は暗闇から解き放たれる。
現実は非情である。文字通り眼前にはテカテカ脂汗が光る髭面が広がっていた。
おう、ジーザス。
「それで、このくそ暑いなか何の用なんですか? さっさと言わないと強姦魔に襲われたって通報しますよ。と言うか通報しますね」
引っ張り出してきたうがい液をティッシュに染み込ませ、狂ったように唇を拭きながら、恥ずかしげもなく扇風機の前を陣取った闖入者に言葉をぶつけた。物理的なサムシングが伴っていれば間違いなく鈍器のようなものレベルである。
「んふっ。貴方ったら強引なんだからっ。でもそういうところも、す・て・きっ」
そう品をつくって気色の悪いモーションをかけてくるのは同じアパートの住民である寺野。年齢、体重ともに僕よりも一回りほど上のフリーター。本人曰く夢と愛を追いかける流離いの博打打ちらしいが、至極どうでもいい。ああ、奴の唇を見ていたら怒りと吐き気がこみ上げてきた。さっさとお引き取り願おう。
「じゃ、警察呼びますね」
シャバからお引き取り願うべく、畳に転がっていたスマフォに手を伸ばす。
「いやあの、警察だけはだめだよね、警察はね。でもほらさ、そっちだって結構ノリノリだったじゃん? 俺の顔を掴んできたり、ベロチューしようとしてきたりさ? ね? だからほら、ここは喧嘩両成敗ってことでさ、穏便になんとかね?」
「うるさい黙れ死んでくださいお願いします死ね」
「あっ、ひどい。かの有名な何とかとか言う偉いお坊さんも言ってるぞ。寺生まれは将来大成するから優しくしなさいって」
「あーはいはい、わかりましたわかりました。警察はもうどうでもいいですから、暑いんでさっさと自室へお戻り下さいさようなら」
何かぶーぶーと文句を垂れる髭面デブを無視し、開け放たれたドアを指で差す。どうやら鍵をかけ忘れていたらしい。今度南京錠とチェーンを買ってこよう。
しかし奴は一向にドアに向かわず、それどころか着ていた白いタンクトップを「いやぁ、ほんとに暑いねぇ」などとほざきながら脱ぎだした。これはあれか、新手のストレステストか何かなのだろうか。おい髭面デブ、さっさと帰れ。
「いやさ、ちょっと頼みごとがあるんだよね」
「聞いてない。聞いていないぞそんなこと」
「そうそう、今週末のお馬さん、ちょっと荒れそうなんだよね」
「聞いてない。聞いていないぞそんなこと」
「そうだよね、やっぱり男は大穴狙いだよね」
「だから聞いてないって言ってんだろうがおい。なに? 暑さにやられたの?」
「うんうん、わかるわかる。よし、じゃあこれから必勝祈願の神社巡り、行こうか」
「は?」
会話成立しない選手権があったら優勝間違いなしだろう。一体全体、何故通報から神社参拝に話が繋がっていったのか。これがわからない。
「競馬が荒れるとか聞いてないし、そもそも僕は本命党だし、誰も神社参拝に付き合うだなんて一言も言ってない。さっさとお引き取り下さい」
「ほうほう。そんな強気なことを言っても良いのかなぁ?」
髭面はそう言うと、薄汚れたカーキ色の短パンのポケットに手を突っ込み、わざとらしくもぞもぞと何かを探すようなフリをする。ニヤニヤと口を半開きにし、並びの悪いヤニで汚れた歯を見せると、下手くそなドラムロールを奏でだす。髭面デブの口内で舌が弾ける度に唾が飛び出し、畳を汚染していく。やめろ、僕共和国でのBC兵器使用は固く禁じられている。
果たして正当防衛のための迎撃パンチが飛ぶ前に、満足したのか疲れたのか、息を荒げながら舌を外気に晒しだした。こいつは犬の仲間なのだろうか。だとしたら警察ではなく保健所を呼ばなくてはならないが、あいにく保健所の番号など把握しているわけもない。
ひとしきり息を整えると何が面白いのか、たるみきった頬肉をだらしなく引き上げる。「ぐへぐへげべべ」などと真っ当な人間ならば一生出さないような声で笑うと、ポケットからさながら煙草の箱のようなものを取り出した。いつの間にか角度を変えたお天道さまから光を浴びて、鈍色に輝くそれは紛うことなき電子機器。端的に言えばボイスレコーダーだった。これはまずい。とてもまずい。
「お前、嘘だよな? なぁ、嘘だろ? 嘘だって言ってくれよ!」
「お前もわかってるだろう? 現実は非常なんだよ」
そう髭面デブは吐き捨てると、側面についた死刑宣告ボタンを押した。
『「だっ、だめだよお兄ちゃん! わ、私たち兄妹なんだよ! そ、そんなのえっちだよ!」
「ぐへへ、いいじゃねえか妹さんよぉ、なに、先っちょだけ。先っちょだけだからさ!」
「いやぁ! お兄ちゃんだめぇ!」
「良いではないか! 良いではないか!」
「あぁ~れぇ~」』
安物なのだろう。音割れのするスピーカーからは聞きたくなかった一人芝居が流れだした。耳に入り、脳みそに情報が伝達される。現実では一瞬で行われるそれも、僕の中ではいやに長く感じる。
髭面デブのニヤケ顔。してやったりという表情からは、「さぁ、言うことを聞け」という思惑が隠れもせず、むしろ化粧をし一張羅を着てやってきた。
嗚呼、あゝ、アア。ヤツハナニヲタノシソウニシテイルノダロウ。イマカラシヌトイウノニ。
弛緩しきっていた筋肉に、一瞬で伝達が下る。奴を潰せ。奴を生かしておくなと。
「貴様ァ! 貴様を殺して俺も死ぬッ!」
「まッ、待て! 話せば分かる! 話せば分かる!」
「問答無用ッ!」
地獄のサウナと化した四畳半。開け放たれた窓からは、アホな男たちの叫び声だけが遠く響き、昼下がりの静粛をこれでもかと掻き乱していた。
誤字脱字等ありましたら、ご指摘下さい。
プロットは出来ていますが、不定期更新です。
また、短編集も御覧頂ければ幸いです。