ポケットの中の鍵
この話は書籍「アンティークドール」の続編です。
書籍を読んでからの方が面白いかもしれません。
上記に残された謎やその先の話が分かります。
第1章 伐折羅の誕生
1
ある化け物が生まれてしまった。それはある旅館を占領し、数々の人間をゾンビのように変えていた。
時は遡りその半年前のことである。無雲美月は周りを見回しながら、栗色のショートヘアを無意識に弄りつつ首を傾げて眼を見開いた。彼女は白い肌につぶらな瞳のあどけない面持ちの背の低い少女であった。彼女はその外見は、テレビを飾るアイドルに引けを取らないほどであった。
その彼女は、自分は何をしていたのか、すっかり忘却の彼方に追いやられている。立ち上がろうとしても、平衡感覚を失いすぐに近くの壁に手を付いた。
視界は下半分が真っ白になっている。ふらふらのまま、見慣れぬ廊下をゆっくり進んでいく。自分がどうしてあの毛長の絨毯の床で眠っていたのだろうか。一時的な記憶の混乱である。
埃ばかりの紅い絨毯の廊下の先には、ドアの開いた部屋が口を開けていた。徐々にクリアになっている美月の視界には、恐ろしい光景が広がっていた。閉まった鎧戸の隙間から漏れる光だけが視界を保つ薄暗い空間の中で、3人の人間のミイラが床に転がっている。格好から1人は年配の女性。1人は小さい男の子。最後に体格のいい男性。ただし、彼の頭部だけはどこにも見つけることはできなかった。
美月は息を呑んでそのまま尻餅を付いてしまう。すると、そのミイラ達が僅かに動いた。美月は恐怖のあまり泣き出し、必死に這って廊下の向こうに逃れようとした。しかし、ミイラはゆっくり起き上がり、3体とも微妙にバランスを取りながら美月を追い掛ける。
その空洞の瞳孔で彼女を狙い、さらに硬い音を立てながら手を伸ばした。美月は振り向き、その白亜の細い腕を見て畏怖の表情を浮かべた。
彼らがしなびた手を美月に伸ばした時、ミイラはまるで操り人形の糸が切れたかのように、ばたばたと倒れて動かなくなってしまった。
そのミイラの背後には、ある男性が右腕を前に伸ばして立っていた。恐らく、彼が手のひらから何か目に見えないものをミイラに放ったのだろう。
バンダナを巻いている頭からはみ出す白い髪、小さめの丸いサングラスを掛けている。体格がよく、背は180cmを超えている。その冷たい無表情には、感情を微塵も感じることはできない。
名前は陣竜胆といった。
「陣…さん?」
すると、彼は沈黙を保ったまま、三白眼の視線を美月を睨むように向けられた。そして、彼女に背を向けて、そのままミイラのいた部屋に戻っていった。彼女はショックから立ち直れないまま、その場に座り込んでいた。
美月は30分後、ゆっくり深呼吸をして立ち上がった。その震える細い足でさっきの部屋に入ると、竜胆が窓を開けて外を眺めていた。
「あのミイラは何?」
彼女の問いに答えずに、彼はポケットからガラスのクロスを取り出した。それは、光を反射して輝いた。
「全てはこのクロスから始まる」
先ほどは鎧戸が閉まっていたのでよく分からなかったが、この部屋を改めてみると、まるで何かを制作する作業場のようであった。おもちゃを作り出す場所のようで、木屑がばら撒かれている。デスクの上には、木彫りの人形が彫りかけのまま残されている。
竜胆はサングラスを人差し指で上げながら、タバコを咥えた。
「仮初の魂は、人形に乗り移る」
白い煙を空に舞い上げながら、そう彼は呟いた。
「じゃあ、ここは呪いの館?あの…」
そう、彼らはかつてある呪いを解くために、この屋敷に来ていたのだ。東北のある山奥の廃屋。すでに、この屋敷で惨劇を起こした主人の霊は成仏して呪いは解けたはずであるが。
「私はその人形の1体に連れてこられたのね。でも、何故?どうして、陣さんがここにいるの?」
そこに髪がぼさぼさの大きな瞳の少年が生気のない瞳で入ってきた。我神棗である。そして、美月の側に足を向けて屈んで美月の顔を覗き込んだ。そこで、やっと安心したように美月は彼の胸の中で思い切り号泣した。
美月が落ち着いた頃に、棗は外を望む竜胆に声を掛けた。
「この前の呪い事件のときに大鬼を召喚した者が、ここに戻ってきたんだろう?」
「お前は感知するのが遅すぎる。俺は3時間前にここに来ていた」
すると、棗はぼさぼさ頭を掻きながら竜胆を睨んだ。
「だったら、美月を護るなり、介抱するなりしろよ」
「自分のことは自分で面倒みろ。それができない者はここでは生きていけない。いつまでも、誰かの後ろでしか存在できない者は生きる資格はない」
「それは違う。弱い者を護るのが、能力のある者の使命だ」
タバコをデスクの天板に擦り消すと、吸殻を窓の外に投げ捨てて竜胆は鋭い視線を棗に刺した。
「で、あの趣味の悪い人形を召喚した奴はどうした?」
「ああ、あの廊下に倒れていた木彫りのミイラはよくできていたなぁ。あの中には小鬼が3匹憑いていたんだ。お前が能力でふっ飛ばしちまったけどな」
棗には、アストラルコードという不思議な能力があった。それは、どの文明にも属さない独自の文明から派生した先祖より受け継いだ、SNOW(運命を司る上界の者の1柱で、維持、慈愛、戒めの性質を持つ)のCODEを操る、血と日本人の性質を含んだ血の混合された力で、感覚や波動などのコントロールが主である。最大の魂の力を要すると、次元を歪めることさえできるが、命の危険があるので滅多にできるものではなかった。
ただし、そのSNOWのCODEを扱える一族、邪心を持たぬ善なる性質を持つ号雪の民を、西洋ではSNOWCODEと呼ばれるが、彼らが何故、その不思議な能力を理解し扱えるのかは分からない。一説によると、彼らは他の人間とは違い、上界の者が下界に堕とされた存在であるからとも言われているが、定かではない。虚無主義の棗はその能力をいざという時以外は使用することはなかった。
また、竜胆もある能力を持っている。性格に言うと能力と言えるものではないのだが。CODE。それは、運命を誘導する、ある意思が操る力、真理、摂理、物理法則。それは高次元で本来は人間には知覚することも、感知することも、理解することさえできないはずであった。
ところが、人間の中に上界の存在、運命を司る者の力、真理を知覚し、理解する者が現れたのだ。上界の者にしたら、運命の不確定要素である。それが、竜胆達である。CODEを知覚し理解することで、運命の操り糸を操作することができるようになったのだ。しかし、人間には限界があり、CODEを完全に扱うことはできなかった。
波動、高度な感覚。気の発動等である。CODEとアストラルコードは相反する力であり、お互いを打ち消す作用を持っていた。
ただし、人間がCODEを扱うには感情の高ぶりは邪魔になり、無感情、無感覚になるほど、空、虚なる心になるほど強く使える力で、何故か邪悪な心を持つ者には扱えなかった。
なお、運命を司る意思が、人間や動物の言動を誘導するために使う僅かな必然たる偶然を『サブリミナルコード』と呼ばれた。
どちらにしても、精神の集中を多く要することは違いなかった。
「そのクロスは何か分かったのか?」
棗が尋ねると、竜胆は呟いた。
「これは鬼避けのお守りだ。周りに結界を張る。しかも、『葵』の雰囲気を感じる」
『葵』とは、SNOWが蝋人形に乗り移ったときに名乗った名前である。彼女は、度々人間とともに他の運命を司る者(『運命を司る者』は上界に存在して、SNOWを含めて3柱いた。その3者とも考えが違い、互いに争うこともあった。最初に運命を流していた『メビウス』は、全ての人間は邪悪で自分達、法に属した完全な存在と違い、人間は混沌に属する不完全な存在であり、運命を司る者にとって運命の不確定要素というべき、特殊能力を持った者があらわれたので、全ての人間を殲滅させようとした。しかし、SNOWCODEの血を引く者に次元の彼方に追いやられてしまった。もう1柱の『道化師』も同様である。現在は邪悪な人間のみ殲滅すべきというSNOWだけが存在しているが、その動きを潜めて人間達を見守っている)と戦い打ち勝ってきた。しかし、今は人類の脅威となっている。邪悪な人間を殲滅しようとして、棗達によりそれを阻止されて、人間に猶予を与えたのだった。
「で、それを落とした葵、または鬼を召喚している奴は何故、美月の後頭部を殴り気絶させてここに連れてきたんだ?」
棗はくっついてくる愛らしい美月の頭を撫でながら呟いた。
美月は度重なる命を救われたことや、過ごしてきた短い日々で棗に好意を持っていたが、一方、彼は特別な感情を抱いてはいなかった。何故なら、彼は高校2年生。一方、美月は中学2年生であるからだ。しかも、美月の姉、沙耶華は小学生時代まで仲のいいクラスメイトだったのだ。
なお、沙耶華は葵にある制約(呪縛)を与えられてしまっている。もし、ある程度、人間の邪心が空間を満たすことになったら、CODEを暴走させて世界にカタストロフィを起こすというものであり、それを合図に葵も行動を起こし、ある過度な邪悪な心を持つ人間を全て殲滅するというものである。
「それは、これからの悲劇の鍵だったからだ」
竜胆はそれ以上、言葉を発することはなかった。棗はそれを聞いてピンと来た。
「ガラスのクロス。これは、法の象徴。召喚のための結界。そして、美月。異形な者を召喚するための生贄か」
美月は少々恐れの表情を見せたので、棗は口をつぐんだ。
「道教では、鬼や妖怪の類、狐などの動物の憑き、神である仙人にも、動物や妖怪が仙人になるケースもあるからな」
「しかし、それらを召喚して何を企んでいるんだ?」
「きっと、鬼を使ってあの呪いの再現を狙っているんだ?すぐにここに駆けつけたから、あの3体の出来損ないの雑魚しか召喚できなかったみたいだが」
美月を他所に、彼女に聞こえないように、2人は真剣に現実離れしたような話をしていた。
「まず、ここで召喚を阻止できたとして、奴を探さないと別の場所で召喚を始めるぞ」
竜胆の言葉に棗は笑顔で首を横に振った。
「大丈夫。時空転送は上界の者であっても難しいんだ。ある条件を整える必要もある。美月が鍵なら、僕が全力で護るし、召喚のための結界のガラスのクロスはここにある。大丈夫さ」
すると、竜胆はクロスを空中に放りながら囁く。それは陽の光を反射して鮮やかに七色に輝いた。
生贄には、混沌に属する人間の中で、純粋無垢で内外とも美しい美月が選ばれることは確実である。混沌に属する者の異形の者を操る傀儡師は、法に近い美月を生贄にして混沌なる異形の者を召喚しようとするのも、当然と言えば当然であると言える。
棗はデスクの下にあった男性のミイラの人形の頭部を足で出しながら呟いた。
「もし、混沌の上界の者が相手なら、お前は無力だぜ。奴はCODEをおそらくキャンセルする。CODEの本質は法則、真理、制約。つまり、全て法に関係するものだ。しかし、混沌に属する奴ならそれを打ち消すできるかもしれない」
「いずれにしても、もう、奴は動き出している。ここに3体の操り人形がいたんだ」
「じゃあ、行くか」
竜胆はそう言って棗の蹴り出した不気味な人形の頭部を踏み砕くと、2人を置いてそのまま出て行った。棗は美月に目をやると、彼女は怯えるように彼にしがみ付いている。それを無視するように美月を引き摺って棗も部屋を後にした。
美月を生贄にして、すでに何体かの人形を、否、人形に鬼、妖怪、その他の異形の魂を召喚したに違いない。それらを倒すために棗は竜胆とともに呪いの屋敷を後にした。
その呪いの屋敷で鬼、妖怪、妖魔の類が召喚されたのには理由がある。その屋敷には、かつて、屋敷の持ち主、北条清太郎により、運命を司る者の使者の召喚に使われたことがあるのだ。それにより、この屋敷には、禍々しい空間が発生したのだ。それが、混沌の者には都合がよかったのだ。
果たして、『敵』とは何者なのだろうか。目的は何なんだろうか。全ては歪んだ運命の輪のみぞ知るのであった。
2
大学生活も2年目になると、だいぶ生活に慣れと余裕が出てきていた。立浪英二は友人にドイツ語の講義の代返を頼んで、親友の槐修とゲームセンターで最新の格闘ゲームを楽しんでいた。
2人は小学生の頃から同じ学校で、正反対の性格にも拘らず、いつも一緒で仲が良かった。英二は茶髪をつんつん立てた威勢のいいタイプで、一方、修は大人しいどこにでもいるタイプの優しい真面目なタイプであった。ただ、双子の兄弟がいて冬至という名前で最近、売り出し中のバンドのギタリストであった。冬至は修とは似ても似つかない性格で、クールで無口で男らしい性質であった。
すると、2人にある人物が近付いてきた。若い女性であるが、大きなつばのある帽子をかぶっているので、顔を見ることはできなかった。
「貴方が、立浪英二君ね」
彼はまるで、狐に摘まれたように頷くと彼女は何かを耳打ちした。すると、彼の操るゲームのキャラクターの動きに異変が起き、修の連続コマンドにやられ敗北した。
不思議に想い、修太郎は顔を英二の方に向ける。彼はその女性に視線を向けたまま、眼を見開いてそのまま固まっていた。
「どうしたんだよ?あの人、知っているのか?」
しかし、彼は沈黙を保ったままであった。そのまま、彼はその女性を追うようにゲームセンターを後にした。それが、修が英二を見た最後の姿であった。
何ヶ月が経っただろうか。退屈な哲学の講義を受けていた修は、突如、友人の小堂唯華が講義中にも拘らず、セミロングの髪を乱して息を切らせて入ってきた。講義をしている助教授は、ホワイトボードに向かってカントについて書いているので、騒がしい彼女に気付いていない。
すぐに、今、流行りのお洒落な格好の唯華は、修の隣に座ると大きな耳打ちをした。
「大変なのよ。英二に何かあったみたい」
その表情は鬼気迫るものがあり、修は荷物をまとめて講義の途中で退室をした。
建物の外に出るや否や、真っ白な肌の頬を赤らめて、唯華は喚き散らすように支離滅裂に言葉を放ち続けた。賢明な修はその話を頭の中でパズルを組み立てるように整理した。
「聞いているの?修」
彼は顎に手をやって、まず、彼女の言葉のパズルを組み立てて、自分なりの推論を口にしてみた。唯華は携帯電話のメールを修に見せている。
「英二が、唯の携帯に変なメールをよこした。その後、姿を消した。」
そのメールというのは次のようなものであった。
『俺は呪いの屋敷の話を仕入れたんだ。そこで面白いものを見せてやる。その下準備で屋敷に行ってくる。帰ったら、修と3人で肝試しに行こうぜ』
「そう…。で、どうしよう」
「呪いが本当だろうと、偽物だろうと英二を探すしかないだろう」
「でも、『あの呪いの屋敷』に行ったのよ。呪いで英二が死んじゃうよ。どうしよう」
修は無言のまま、混乱して埒の明かない唯華の手を引いてキャンパスを後にした。
まず、修が考えた推理は次のようなものであった。
1.英二は『最悪な存在』の大きなつばの帽子の女性が、彼に暗示を掛けて屋敷の話をして、そこに向かわせた。
2.英二は何かの原因で、呪いを掛ける相手に選ばれた。
3.誰か、おそらくゲームセンターで会った女性だろう、彼に少し前に巷で噂だった、惨劇のあった呪いの屋敷に向かわせ呪いを掛けて命を奪おうとしている。
4.好奇心旺盛な英二は唯華に自慢のメールをしている。そして、呪いを恐れた楓の必死の忠告も聞く耳を持たないで、禍々しい屋敷に向かってしまった。
5.そのまま、英二は2日前から姿を消したままだ。
しかし、彼女と出会ってから、1ヶ月になってどうして唯華達をメールで誘ったのだろう。その下準備のために屋敷へ行ったのだろう。疑問が疑問を生んで修は混乱の渦に巻き込まれていった。
ここで、唯華のことを述べておこう。彼女は大学に入って初めて出会った。初めて出会ったのは、学食である。丁度、アートに興味のあった修が、壁に掛かっている超現実主義のマグリッドの『ピレネーの城』の模写を眺めながら、英二とカレーライスを食べていたときのことだった。その絵画の下にいたのが唯華であった。彼女は、修が自分の顔を見ていると思って不快な表情を見せた。彼女は確かに美しい顔立ちでよく男性から見られたり、声を掛けられたりしたのだ。だから、今回も男性のそのような嫌な視線だと誤解しても不思議じゃなかった。
「私の顔に何か付いてますか?」
それは批判と皮肉のつもりで唯華は声を上げたが、修は視線を下ろしてその彼女に気付き機転を利かせた返事をした。
「人は美しいものを見たいという欲求を持つのは、ごく自然のことでしょ」
すると、唯華は頬を染めた。英二はそんな2人のやりとりをにやにやしながら黙って眺めている。
「後ろの絵のことだよ。まさか、君のことだと思った?自意識過剰だなぁ」
その言葉に唯華は頬を真っ赤にして、沈黙したままミートソースを頬張った。
「ごめんごめん、少し冗談が過ぎたね」
そこで修は彼女と会話をして、英二が加わり彼独特のユーモアでその場を和ませた。そこから、彼ら3人が いつも一緒に過ごすことが日常になった。
3人はすぐに打ち解けて数ヵ月後、英二と唯華は付き合うようになり、修もそれを黙って見守った。それでも3人の関係は崩れなかった。しかし、修は3人でいることを度々、遠慮するようになっていた。
唯華は栗色の髪に凛々しい表情が印象的で、性格は男性的でさばさばしている。英二にはぴったりの相手である。しかし、少しでもイレギュラーなことが起こると、今回のように空回りして混乱してしまうところがあった。
唯華を連れて英二のアパートに着いた修は、郵便受けの蓋の裏に張り付いている鍵を取って中に入った。彼女はまだ英二の部屋の鍵を受け取っていないのだ。中は雑然としていて、独り暮らしの男性特有の臭いがした。
散らかった雑誌や衣服を避けながら前進し、修は奥のパソコンを立ち上げた。インターネットの履歴から何を直前まで英二が調べていたか、彼が見ていたサイトを次々と開放していった。アダルトサイトも中にあったが、その中に奇妙なサイトがモニターに広がり不気味なパイプオルガンの音楽が流れた。
「これって、噂の呪いのサイトじゃないの?」
玄関から飛び込んできた唯華が修の肩越しからモニターを覗き込んだ。修の鼻に芳しい香りが漂ってきたが、彼は心を無にしたままマウスを操った。
噂についての話が記述されているコンテンツにざっと眼を通した。
初期の呪いは、呪いの人形を持つ者は自分の携帯電話よりパソコンのメールに、清太郎の助けを求める奇妙なメールが入り、その後、人により誤差はあるが、数日で大鬼が現れてショック死させられてしまう、というものであった。
呪いのきっかけは次のようなことであった。ある東北の山奥の屋敷で北条清太郎という男性が住んでいた。彼は虐待されている子供を預かり沢山の子供を育てていた。しかし、自分の子供が生まれてから、全ての状況が変わった。奥さんは他の子供を預かることに反対し、ついには家を出てしまう。残された親子と子供達にやがて恐ろしい惨劇が待ち受けていた。清太郎は狂気に囚われて自分の息子を含め、ほとんどの子供達を惨殺した。屋敷中に血飛沫が飛び散り血の海が広がった。
しかし、その清太郎も自分の命の危険を感じた1人の少女によって、不意打ちで屋敷の地下にあるゴミ捨てのために掘られた巨大な穴に落とされて命を落とした。
そこで、ある条件が一致して呪いは生まれた。
1つは清太郎が先祖から受け継いだ人形に悪魔を召喚する魔術。
もう1つは、清太郎の無念の死による霊現象。彼は会社に行く前にゴミ捨ての際に殺されたので、携帯電話を持っていた。それで助けのメールを打っている途中で事切れたのだ。
そして、少女に宿った大鬼によるもの。
だが、清太郎はある者達によって成仏されて、人形に宿る悪魔は棗達によって浄化された。そして、大鬼は棗によって次元の彼方に追いやられた。以後、呪いは解消されたはずであった。
しかし、その後も屋敷に入る者は呪われて、異形の者に殺されるという噂が流れていたのだ。新たな呪いが受け継がれたのだ。
その噂の屋敷の地図をプリントアウトすると、修は屋敷に向かおうとした。しかし、その前に荷物を取りに帰りたいという唯華のために、彼女のアパートに向かうことにした。実は修は1つ見落としていることがあった。その英二のサイトを見た履歴が大分前のものであることを。
大学に戻った彼らは、修の艶消しホワイトで総エアロ装備のシルビアに乗り込んだ。そのエンジン音は唯華には耳障りに聞こえた。
「走り屋にでもなるつもり?」
「英二の趣味だよ。これはあいつからもらったんだから」
そのまま、ハンドルの上でCDの今流行りの曲に合わせて指を動かしながら、車を唯華のナビどおりに車を走らせた。
彼女の部屋は、ドアを開けるとアロマテラピーの甘い香りが鼻についた。そのまま、唯華はダイニングにアールグレイを入れて修を待たせて、荷物を手早く荷造りして着替えを済ませた。修の脳裏には、あのゲームセンターの女性のことが浮かんでいた。彼女が英二に変なことを吹き込まなければ。そもそも彼女は誰だったのか。英二の態度では、初めて会ったみたいだったが。少し囁いただけで、その女性は英二をどこかに連れて行った。
彼女は何を話したのか、目的は何か。呪いの屋敷との関係は。謎が謎を呼び修はカップの中身を飲み干すと頭を抱えた。
「そのアールグレイ、英二が好きだったのよ。らしくないでしょ、あの人が紅茶が趣味で、しかも、種類を知っているなんて」
用意を済ませた唯華がダイニングに入って来ながらそう懐かしそうに呟いた。すると、少し躊躇して軽く微笑んで修はカップから口を離した。
「僕が教えたんだよ。変な雑学だけはこれでもかってほど持っているんで、結構、あいつに色々教えてやったからなぁ。少しでも唯にいいとこ見せようと、無理してたんじゃないか。らしくないのは、唯への愛情の表れさ」
「そんなのおかしいよね。恋人なんだから、修みたいにいつも自然でいればいいのに」
「そんな器用なことできるのは、唯くらいじゃないか。好きな人にはいいとこを見せたいって自然に思うだろう」
唯華はケリーバッグを下げながら修の向かいに座って頬杖をして彼の顔を覗き込んだ。
「修も好きな人の前では、やっぱり、格好をつけるの?」
すると、修は憂い気な表情を見せて俯いた。
「僕は人を好きにならないようにしているから、そんなことはないさ。人と距離を取ろうとしても、人と英二や唯くらい近付こうとする人なんていなかったし、これからも現れないだろうな。だけど、心の奥ではどうなのか」
彼女は口を閉じて修を心配そうに眺めた。
「昔に何かあったの?こんな美人と普通に過ごせるんだから、女性恐怖症って訳じゃないだろうし、トラウマがある訳でもないでしょ」
「お前が言うと自意識過剰も洒落にならないんだよ」
本当に愛らしい唯華は、自分もそれを自覚しているらしくよくそういう言動が目立った。
そのまま。英二との想い出に浸っている唯華を他所に修はプリントアウトしていた地図をポケットから取り出して眺めた。ここからだと、5時間以上はかかるだろう。壁のキャラクター時計は2時20分を示している。しかし、英二の命が掛かっているのだ。猶予はないはずだ。
「行くか」
「ええ」
2人は不安の中、外に出ると修のシルビアに乗り込んで北に進路を向けた。ナビにインターネットで調べた呪いの屋敷のある大体の場所の住所を入力して、首都高に乗った。彼らは東北自動車道を北に向かい、だいぶしてから下道で山奥の方に入っていった。その間、英二と3人で過ごした想い出話が2人の間に自然に交わされた。
その後、しばらく2人は車の中で沈黙を保った。夕暮れが訪れ、山道を長い間、走ったところで唯華は真剣に前を向いて運転している修の横顔を眺めた。
「ねぇ、修は私と英二が付き合い出しても、何も反応を見せてくれなかったよね。修は私のことをどう思っているの?」
すると、何もないようにハンドルを緩やかに切りながら穏やかに囁いた。
「英二は唯を好きだ。唯も英二が好きだ。僕が唯をどう思おうと関係ないだろう」
唯華はそのまま口を噤んでしまった。
どのくらい走っただろうか。時計は19時を過ぎている。山道で大きなS字カーブに差し当たった。そこで 右手の崖下に広がる森の中に巨大な屋敷が見えてきた。修は唯華をつついて親指でそれを示した。その先は大きな弧を描いたカーブになっていて直線になった辺りによく見ないと気付かない看板、その側に何かの石碑と脇道があった。その道はガードレールの広い切れ目といった感じで、道路は舗装さえされていない。
車体を揺らし泥を跳ねて汚しながらやってきたのは、ある旅館の駐車場であった。そこに車を止めると、修は車を降りて車体に付いた汚れも気にしないで大きく欠伸をした。ふと、少し離れたところにもう2台の車が止まっていた。1台はミニバンで、もう1台は180(ワンエイティ)であった。裏手のライトバンは旅館の従業員のものであろう。
しかし、どうしてこんな辺境の地に旅館があるのか、この時期に客がいるのか不思議だった。後から出てきた唯華は修の顔を見た。
「泊まるか」
19時半を示す腕時計を見ながらそう修が呟いた。そして、横目で唯華が用意してきたケリーバッグを見て、彼女も泊まりを考えていたことを悟った。
暗いが、数本の駐車場、歩道の街頭、旅館から漏れた光で辺りの視界をかろうじて保つことができた。旅館の奥にテニス場がある。きっと、テニス部の合宿などで使用されるのだろう。そのテニス場の奥には、薄っすら巨大な屋敷の影を見止めることができた。
「あれが、呪いの館かな…」
「そうだな。チェックインしてから行くか?それとも明日、明るくなってからにするか?」
「すぐに行きましょう」
やはり、彼女とて英二のことが心配ですぐに探しに、助けに行きたいのだ。旅館のポーチに近付き、ゆっくり中に入る。ロビーは薄暗く宿主がフロントでにこやかに礼をして近付いてきた。
「ようこそ。月代見館へ」
修は嫌な予感を感じてならなかった。唯華も不安と畏怖、異様な雰囲気から修の腕にしがみ付きながら、宛がわれた1階の2部屋で1休みすることにした。
修は英二と違って煙草を吸わないので、部屋の座卓のお茶を啜って一服していると、唯華がノックして入ってきた。
「もう、行こう」
「こんな暗い中、しかも不気味な空気の漂っているところで怖くないのか?」
「怖いわよ。でも、英二の命が掛かっているんだもん。呪われる前に助け出さないと」
「だな。実は、俺も正直怖い。でも、英二のことを考えているとそうも言ってられないよな」
2人は旅館を出ると、テニスコートの脇に続く細い道を通り、奥の屋敷に向かった。懐中電灯の光だけでは心細かったが、それでも修は悠然と前に進んだ。余りに修が早足なので唯華は彼の服の裾を掴んだ。
真っ暗の中、懐中電灯のスポットライトが塀に囲まれた屋敷を映し出した。門は鎖で閉鎖されていて、黄色いテープの切れ端が付いているのに気付いた。そこには文字が書かれている。
『Keep Out』
警察の事件現場保護のために貼るテープである。最近のゴールデンウィークにアメリカで買ってきたサバイバルナイフでそれを切り取り、鎖を叩いた。いくら丈夫なナイフでもその鎖を砕くことはできなかった。
「この門を乗り越えられるか?」
試しに修は唯華に尋ねた。彼女は流石に戸惑ったが、ジーンズにシャツの姿に着替えていたので動きやすい服装で不可能ではなかった。頷くと、修は彼女を補助しながら、注意深く門を飛び越えると庭に飛び降りた。そこはかなり広く中央に天使の像の立った噴水があり、その周りを雑草が伸び放題になていた。10分かけて屋敷の前まで来ると、その洋風の屋敷は蔓で壁が埋もれていた。玄関の巨大な金属の扉は、予想通り鍵が掛けられていて木の板が打ち付けられていた。釘のサビ具合からかなり昔、何年も間このドアは封印されたままであるようだ。
「警察のテープがあったということは、最近、殺人事件があったのかも」
唯華の言葉に修は首を横に振った。
「事故だよ。ほら、最初の呪いを解いた人達の話がサイトに載っていただろう。そのときに仲間に呪いの犠牲者がいたんだ、きっと。警察は呪いを信じないで心臓麻痺の事故として処理したんだろうけど」
修はそのドアの隣にあるステンドグラスの窓に目をやった。そこだけ蔦が切れていて、窓を開けた形跡があったのだ。ゆっくり窓を開けると、そのフランス窓はぎこちない音を立てて開いた。
「ここから入ろう」
2人はエントランスに降りる。そこは巨大なホールで、毛長の絨毯や壁、当たるところに古い血の跡が散っていた。目の前に左右に階段が伸びて踊り場には、巨大な美しい女性の肖像画が掛かっている。階段の下、階段前の左右に廊下が伸びている。
修は懐中電灯を踊り場の絵画に光を当てたまま、体を硬直させた。
「どうしたの?古い絵のようだけど。どうも、セザンヌ、マチス、モネ、ルノワール等の印象派の影響を受けているようだけど、描かれたのは昭和中期のようね」
「白い広いつばの帽子にワンピース。この女性だよ、英二にゲーセンで呪いの話をしたのは」
「まさか。昭和中期にこれが書かれたなら、もうかなりのよぼよぼのおばあちゃんよ」
「子供、孫かもしれない。とにかく、そっくりなんだ。誰なんだ?なんで、英二なんだよ」
唯華はふと、人の気配を感じて階段の上を向いた。そして、階段を駆け上がる。すると、2階の右手の廊下に1室のドアが少し開き、光が漏れていた。修も後を追って彼女の後に続いた。2人はその光の漏れる部屋の半開きのドアを開いた。そこで、2人は声を失い唖然とした。
部屋の中央に緋色の液体が大量に零れていた。その近くに小さな最新式の小さなデジタルビデオカメラが転がっている。英二のものだろう。下見の取材を撮影するつもりだったのだろう。修には、英二がそのカメラを自慢していたことを嫌というほど覚えている。
その血溜まりの前までとぼとぼと進み腰を抜かして座り込むと、唯華は号泣を始めた。
修は優しくそんな彼女を抱えて頭を撫でた。彼女は顔を修の胸に埋めて、やっとの思いで声を出した。
「こんなに血が出ているんだもん、英二はもう死んでいるよ」
「馬鹿、英二が一番大事に思っているお前が信じなくてどうするんだ。英二は生きている。諦めないで助けに行こう」
すると、真っ赤な瞳で化粧の落ちた顔で修を見つめながら、唯華は意味ありげに蚊の鳴くような声を絞り出した。
「…英二が本当に大事に思っているのは修なのかもしれないわね」
「そんなことないさ。唯、もっと自分に自信を持ちな。いつものナルシストぶりはどうした。これは血じゃないかもしれないじゃないか。とにかく、あのビデオを再生してみよう。英二の行方の手がかりが見つかるかもしれない」
ビデオを拾うと、緋色の液体から離れて、修達は2人寄り添ってビデオを再生した。元気な英二の表情が見えると、唯華は再び啜り泣き始めた。
3
棗と竜胆は子供の性質ではしゃぐ美月をあやしながら、屋敷の中にいる鬼を召喚しようとしている者を捜索した。しかし、鬼や異形の者の異様な気を感じることはできるが、彼らは鬼を召喚しようとしている者を感知することはできなかった。目や感覚で探すしかない。
彼、または彼女は今、クロスの結界を持っていない。生贄もない。強力な鬼を召喚することはできないはずだ。
「でも、気になるな。あの人形の呪いの後にも、ここに呪いの噂が絶えないんだ。何でも、この屋敷に入ると異形の者に殺されるってな」
棗がそう言ったのは、もう1つの隠された地下室である。今は半分土に埋もれて何もない。ここにも、鬼を召喚、使用せし者は存在していなかった。
「その話がほんとうなら、すでに1体は強力な大鬼が召喚されている可能性があるな。あの後に」
「まぁ、竜胆と俺がいれば大丈夫。どうせ、クロスと生贄のない状態の召喚だ。そう、あの時ほど強力なものは呼べはしないさ」
「じゃあ、そのクロスに『SNOW』の雰囲気が宿っているのは?」
竜胆の質問に、すっかり眠っている美月の頭を撫でながら修は土砂崩れで埋まっている土を見ながらそれに答えなかった。彼の脳裏には、次の疑問が巡り回っていた。
この向こうには、屋敷最悪の事態を起こした人間、北条清太郎が眠っている。警察は彼の遺体に気付かずそのままにしているのだろうから。彼は何を想い保護し大事に思っていた子供達を惨殺したのだろうか。
「鬼のせいだよ」
心を読んだかのように竜胆は棗にサングラスの奥の鋭い視線をやって言葉を吐いた。
「そうだな。鬼は人の心を狂わせる。そうじゃなくとも、人は心を狂わせるし、精神は不安定な存在だしな」
「心の闇を持つ者は多い」
「さっきの質問だけど、そのガラスのクロスはおそらく『SNOW』の結晶だよ。親父から最近訊いたことがあるんだけど、葵はかつて復活の際に自分の周りに副産物として結界を発生させたことがあるらしい」
棗はすぐに立ち上がり美月を背負いながら、地下室から出ようとした。すると、竜胆が腕を伸ばしてそれを制した。
「何か音がしなかったか?」
階段を上がり半開きの地下室のドアを開けて、エントランスから見て右手の廊下の奥の隠しドアから覗いた。エントランスに2人の人影が確認できた。感覚から普通の人間のようだが、この禍々しい空間に自ら入り込むということは深い訳があるようだ。
「まさか、美月以外にも生贄を奴は連れてきたのか」
竜胆の言葉は全てを語っていた。鬼の使役者は美月を奪還されたので、または奪還されることを予想してもう1人の生贄を用意していた。それを助けに2人の人間が現れた。そう考えることが自然であった。
「しかし、美月ほどの純粋無垢で綺麗な精神の人間を探し出せたのか?」
棗は背中で寝息を立てている美月をちらっと見ながら呟いた。竜胆は構わず姿を隠すことにしているようだった。とりあえず、彼らを泳がして事態の様子を窺うことにしたのだ。
そこで、ガラスのクロスが反応した。隠しドアを閉めてその反応を待った。黄緑色の光が満ちてやがてそれはいつの方向を差した。階段の下にある本物の地下室にある儀式の部屋の方である。そこは北条清太郎が先祖のアラン・スチュワートの完成させた黒魔術、人形に仮初の魂を召喚させるために作られた部屋であった。
「あそこに葵がいるのかもしれないな」
棗は再び一見壁にしか見えない隠しドアを開けてエントランスの見知らぬ2人が2階に向かったのを待ってから、廊下に出て竜胆の持つガラスのクロスの光の差す方向に向かってゆっくり歩き始めた。
エントランスに出ると階段を見上げる。2人はすでにどこかの部屋に向かって行ったらしい。誰もいないことを注意深く確認した。そのとき、踊り場の巨大な絵画を見上げる。美しい女性の肖像画。蝋人形に宿りし、運命を司る者『葵』である。
誰もいないことを確認して階段の下にあるドアを開けた。冷たい埃に満ちた空気の中を降りていくと、前に見た儀式の部屋に出る。竜胆は棗の前に進むとそこにいたある存在に対峙した。
葵である。彼女は大きな帽子のつばを右手で掴みながら振り向き、竜胆に向けて微笑んだ。
「まず、私の意図が聞きたい?そう、最悪の人間を殲滅させること」
「やっぱり、敵は人間で鬼を使って人間を残虐に殺すことにあるのか。呪いという形で」
棗がそう言うと竜胆は鋭い眼光を葵に向ける。
「では、何故このクロスをそいつに渡した?」
すると、彼女は首を横に振った。
「私は結界を作り出すお守りをこの屋敷に安置したの。この屋敷には、様々な畏怖を作り出し過ぎた。混沌を、忌まわしき現象を作った空間は、鬼や異形の者が呼び寄せる。すでにここにいる者達さえいる。だから、ここにそれから迷い込んだ人間を護るために、結界を張るお守りを安置したのだけど、それが奪われ逆に召喚の際の自分の身を護る道具に利用されたようね」
「利用されたようね、じゃないだろう。そこまで考えて結界を作れよ。で、敵は今どこにいる?」
「そのために、私はある人間をここに誘き出したの。勿論、その者の心は邪悪なものなので利用しても構わない。しかも、敵の召喚の生贄として利用されても、純粋無垢な者ではないので鬼を召喚できないしね。ある呪術で彼に敵には生贄に見えるように細工したから大丈夫。そして…」
すると、棗は竜胆に美月を預けると前に出て葵の鼻の先に近付き、普段は無気力で虚無的、厭世的な棗が人一倍正義感の強いところを発揮させた。
「邪悪?最悪?それは貴様の価値観だろう。そんなことで人を犠牲にしたのか?おとりにしたのか?」
彼の体から凄まじいオーラが放たれる。アストラルコードがこの部屋の空間に満ちる。流石に上界の者、葵も危機感を感じた。
「CODEは人の精神を操作することが、真骨頂だからな」
竜胆は2人が気付かないくらい小さく呟いた。
「とにかく、俺はそいつを助けに行く」
棗はすぐに儀式の部屋を飛び出して駆け出していった。それを見て葵は物憂いに俯き、そして少し自嘲的に微笑んだ。
「変わらないね、彼。貴方は行かないの?彼女なら預かっておくわよ」
「いいや、興味があるのは鬼の使役者だけだ」
そして、葵に背を向けて隅のソファに彼女を寝かせると、隣の空いた場所に腰を掛けた竜胆は足を組んでサングラスを人差し指で上げた。
「で、そのおとりを泳がせたままで、お前はここで遊んでいる訳でもあるまい。奴をすでに捕らえたのか?」
葵は中央の儀式用の台に腰掛けて無機質な天井を眺めた。
「彼は十分、あの人間を誘き寄せてくれたわ」
その言葉だけで、竜胆は全てを悟ってそれ以上追求しなかった。ただ、1言囁いた。
「俺はCODEが分かるので、お前の能力は意味がないぞ。棗もCODEをキャンセルできる血を受け継いでいるしな」
「警告しなくても、貴方達に危害を加えることはしないわよ。もう、行くわ。後の始末は任せてもいいわね」
そう言い残して彼女はワンピースをひらめかせて台から華麗に降りるとそのまま儀式の間から姿を消した。竜胆は腕を組んで次の行動を考えた。犠牲になった男性のことで棗は頭に血が上っている。大鬼に勝てるだろうか。葵は何故、鬼の使役者を無視してここにいたのだろうか。腕時計に視線を落とすと3時を示していた。
一方、棗はエントランスの中央で精神を統一させた。一体、どこにおとりとなった男性と敵がいるのだろうか。すると、巨大な力が溢れ始めた。その雰囲気が漂う方に走っていった。1階の玄関ドアを背にして右側の廊下に向かって進んでいくと、ある部屋のドアが吹き飛んで巨大な鬼が現れた。棗はその鬼の股の間をスライディングで滑り通ると、背後の部屋に飛び込んだ。
そこは血の海になっていた。そう、鬼の使役者は生贄を使わなかったために自らの命を召喚した鬼に狙われたのだ。子供のプレイルームの壁に変わり果てた男性がこびり付いている。しかも、結界なしで強力な大鬼を召喚したので、一溜まりもなかっただろう。それでも、彼は生きているようで、人の姿の原型を留めてはいないが、出血多量の中で破れた喉からヒューヒューと呼吸音を響かせていた。おとりの男性は部屋の中央でかろうじて生きているのだ。しかし、虫の息で右腕を骨折して吐血している。荒い息のまま、胸を上下させてそれでも力を振り絞って這って部屋から出ようともがいていた。
鬼の使役者を無視して、棗は駆け寄ってすぐにアストラルコードの力でヒーリングを行おうとしたが、彼はすぐに棗の襟首を掴み、棗の耳を口に近付けて耳打ちした。
「葵は企んでいる。…呪いはこれから始まる。阻止をしてくれ。人形が隠された部屋が…、彼のポケット…」
彼はそのまま大きく息を吸って血の塊を吐いて事切れた。拳を握り締めた棗は、廊下の大鬼に向かって歩き出した。鬼はエントランスまで来ていた。そこで、両者は対峙した。
彼はアストラルコードを、精神を集中させることで体中に高めた。オーラが異常に放たれる。
「人間ごときが、我に対抗するつもりなのか?」
「人の命を何だと思っている」
すると、大鬼は鼻で笑った。
「ゴミだよ、弱っちい虫けらだよ。まともに召喚さえできない不完全な存在なんだよ」
そして、鋭利な黄色い視線を棗に差した。
「…お前もな」
鬼の拳がその言葉と同時に放たれた。棗は刹那、体を傾けるだけであっさり避けた。
「そんな殺気立ってちゃ、空気が完全に読める」
「お前、能力が使えるのか?」
「今度はこっちからだ」
彼はアストラルコードを最大に高めると、魂の力を手に集めた。
「吹っ飛べ」
凄まじい衝撃波が放たれて、棗自身も2mは後ろに下がった。大鬼は巨大な体にも関わらず不意打ちのために直撃を食らって、エントランスの壁まで飛ばされて壁を突き抜けて隣の部屋に飛び込んでしまった。煙が立ち上がり回りの視界が塞がれる。
大鬼は上半身を置き上げ後頭部に手をやると、軽く首を振った。そこは豪華な子供部屋のようだ。
「なんて力だ。あれで人間か?」
煙が収まりかけると目の前に棗の姿がなかった。鬼は少なからず警戒心を高めて後ろを振り返った。途端にいつの間にか棗が背後に回っていた。彼は右手にアストラルコードでオーラで包んで硬化させた拳を放った。鬼の頬は歪に歪みエントランスに再び戻り中央まで飛ばされた。
「人間の魂は尊いものなんだ。それを…」
すると、大鬼は紅い光弾を口から放った。と同時に地下室のドアが開きエントランスに飛び出した竜胆はガラスのクロスを棗に投げた。それをジャンプして受け取り、光弾の前に構えた。それは見えない結界によって消滅した。
「竜胆、CODEだ」
「俺に命令するな」
竜胆は右腕を高く掲げて力を右手に溜めると思い切り振り下ろした。大鬼の体は衝撃とともに床にひれ伏した。
金縛り状態の異形の者に棗は両手を当てて、魂の力を最大限に高める。
「悪しき忌まわしい存在よ、浄化して光と消えよ」
すると、大鬼の体は徐々に光の粉が回りから立ち上り始める。
「止めろ!」
断末魔とともにそのまま巨大な体は光の粉となって小さくなり、やがて、その存在は消え失せてしまった。竜胆は腕を揉みながら大鬼のいた場所に屈む棗の側に歩み寄った。朝日が玄関ドアの隣のステンドグラスの窓から漏れて、色とりどりの光を彼に照らす。
「見ず知らずの者のために、よくそこまで感情を高められるな」
「感情のないお前には一生、分からないさ」
すると、竜胆は煙草を上着のポケットから取り出して、1本咥えて呟いた。
「一生…か。一生と言うほど、生き恥晒すつもりもないがな」
棗はすぐに立ち上がり、あの血まみれの召喚、禍々しい儀式が行われた部屋にとぼとぼと戻った。中央には犠牲者が息絶えている。その奥の壁に、変わり果てて瀕死の状態にも関わらず、かろうじて虫の息の鬼の召喚使役者は腫れ上がった表情を歪めた。それは笑みを意味しているらしい。
棗はその前に立って何とも言えない気持ちを押し殺して見下ろした。気付くと、戸口に竜胆が寄り掛かって腕を組んで俯いている。
「どうする?殺すか。そのままでも、そいつは長くないようだが」
複雑な表情でそれを見つめるが、そのまま背を向けて竜胆に言った。
「上の2人が騒ぎに気付いてこっちに来る。美月のいる地下室に戻ろう」
「了解」
皮肉ともからかいとも取れる言い方で竜胆は廊下に出て行った。棗は一瞬、肉塊のような姿の嘲笑する『敵』を哀れみの瞳を向けて、そのまま竜胆についていった。
地下の魔術室に戻ると、目を覚ました美月がさも心細かったように棗に飛びついた。
「彼が、葵がおとりとして連れてきた犠牲者が、死ぬ前に言っていたんだ。葵は企んでいる。呪いはこれから始まるってな」
そして、美月とソファに座ると顎に手をやった。竜胆は相変わらず煙草を吸っているので、地下室に煙が籠もってくる。
「気になることも言い残していたんだ。阻止をしてくれ。人形が隠された部屋が…、彼のポケット…って」
「彼のポケットというのは、鬼の使役者のポケットのことだな。その中に大事な何かがあったんだ」
「迂闊だったな。今からじゃ、あの2人に見つかる。しばらく、ここに身を潜めよう」
「人形とは、あの呪いの人形のことだな。あの前の呪いを解決したときになくなったんだっけ」
美月が眠そうな目を擦りながら、甘えるように言った。
「警察が押収したものとばかり思っていたが、敵が持っていったんだな。目的は何だろう」
葵の本当の意図は?人形をどうしようというのか。その隠された人形の部屋というところにこれから始まる新たな呪いの準備が整いつつあるのだろう。
「今は彼らの動向を見守るしかないだろうな。あの惨状をどう感じるか、この現状をどう感じるか」
普通の人間があの惨劇の現場に耐えることができないことは、棗でも容易に察することはできた。しかし、彼らは自分達の存在を知られることで、この呪いとの関係、不思議な能力、その持っている知識を知られることになるし、厄介でややっこしいことになることは目に見えているからだ。
美月はしばしば考え込む棗を心配そうに見つめた。竜胆はまるで何事も気にしないように煙草の煙を天井に吐いた。白い煙は漆黒の天井に溶けて広がっていった。
4
血溜まりを避けるようにデジタルビデオを拾うと、修は泣いている唯華の隣に座りビデオのモニターを見て巻き戻しをした。そして、再生ボタンを押すとまず、暗闇の部屋が写った。そして、英二の声が聞こえてくる。
「再び、俺がここに来ることにしたのは、葵という生ける人形が何かを企んでいるからだ。あいつはこの屋敷にあると言われている秘密の部屋で、呪いの人形に魂を召喚しようとしているのだ。それも、恐ろしい仮初の魂。そいつは、召喚されると自分の仲間を求めて人間を襲っていくらしい。本人がそう言っていたのだから、間違いないだろう。奴は嘘をつくような女じゃない」
そして、モニターに映るシーンは赤い毛長の絨毯の廊下に移動する。階段を下りてエントランスが移る。
「おかしいな、ここに落としたんだけど」
エントランスの床をしきりに映し回り、諦めて再び階段を上がり始める。
「英二は何がしたいのだろう。何を言っているんだ?」
修がそう呟いてモニターに訝しげな視線を向ける。
葵は前回解呪された呪いの人形に、何か恐ろしい者を召喚しようとしている。その秘密の部屋を英二は探しているらしい。しかし、葵が英二に何故そのことを告げたのか。どうして、ここに来るように仕向けたのか。修には、葵も英二も意図を読むことは不可能であった。ただ、何か恐ろしいことが起ころうとしていることだけが肌で感じ取ることができた。
モニターは、おそらく現在、修と唯華のいる部屋のドアの前で止まり、開けて中を映し出す。そこには1人の男性が映された。と同時にビデオは地面に落とされてテープはそこで止まってしまった。
ここで何が起こったのだろうか、あの男性は誰だったのだろうか。
「とにかく、ここを出よう」
ビデオを地面に置くと、修は唯華の肩を抱き立ち上がり血みどろの部屋を出てドアで封印をした。
すると、1階で物凄い破壊音が響いた。2人とも心臓が止まりそうになるくらい驚愕して、足を止めて金縛りになるように硬直した。
「誰かが下にいる」
唯華がやっとの思いで声を絞り出した。2人は警戒しながら物音がしなくなったのを聞き耳立てて確認して、階段室の方に忍び足で向かい下を覗いた。底は誰もいなかった。階段を1段ずつ注意深く下りていくと、エントランスの壁が破壊されて隣の部屋が見えているのに目を奪われた。
「一体、ここで何があったんだ?」
修は唯華を庇うように彼女を背にしながら階段を下りて、破壊された空間を見回して左手の廊下にドアの開いた部屋があったので、そちらに向かって注意深く進んだ。そして、部屋の中を目の当たりにした修はすぐに後ろの唯華の目を隠して中に入らないようにした。
「見るな。唯はここで待っていて」
すぐに中に入ってドアを閉めると、血だらけの中で倒れた人間を眺めた。あの上の部屋で見たビデオで最後に写った人であるようだ。しかし、どう見てもすでに手遅れである。その奥の壁には、瀕死の情況の英二が存在していた。そこで、すぐに駆け付けて英二の体を抱きかかえた。修の服にも大量の血液が染み込んでいくが、それも気にしないで声を掛けた。
「おい、しっかりしろ。一体、ここで何があったんだ。呪いって何だ?」
すると、薄目を開けた英二は自嘲するように口を歪めた。
「葵に図られた。俺の計画も終わりさ」
そこで、ふと修の脳裏に恐ろしい考えが浮かんだ。
「まさか、お前が呪いの主だったのか?」
すると、英二は優しい瞳で頷いた。荒い息は血液を吐き出す。
「葵は俺に偽の餌食、いや、生贄を差し出したんだ。そこに転がっている奴さ。そのせいで大鬼を召喚したはいいが、この様さ」
「鬼を召喚?」
「そうさ。俺は呪禁道に長けていたんだ。呪術の一種さ。昔から修行していてな。それで鬼神を使役することができた」
「あの賀茂役君小角の修験道と同等の術か」
すると、英二は力なく笑った。すでにごぼごぼと喉を鳴らし声を絞り出すのに、苦労していた。
「お前らしいな役小角と言えよ。正式名称言われても、普通の奴にはわからねぇって。雑学ばっかだな、お前」
「どうして、鬼なんか召喚して呪いなんて、人を不幸にしようとしたんだよ」
「別に理由はないさ。俺は自分の力がどのくらいが知りたかったんだ。どこまで俺ができるか。誰がどうなろうと知ったこっちゃない。…もしかしたら、ここの屋敷の禍々しい空気が俺を狂わせたのかもな。チビのときにお前の家の隣に引っ越すまで、ここで過ごしていたんだぜ。両親の仲が悪くてそのとばっちりがいつも俺に来てな。親父に殺されかけたことも何度もあるんだぜ。もしかしたら、他の幸せでのほほんとした人間が羨ましかったのかもな」
彼は声を出すことも、生きていることさえも奇跡と言える情況だったが、すぐに一言、言い残して力尽きた。
「唯華を頼む。お前なら、あいつを任せられるし、幸せにできるだろう。…気付いていたんだぜ、お前が唯華のことを好きだってことくらい…」
愛しそうに修に伸ばした腕はそのままだらんと床に落としてそのまま動かなくなった。静寂の空間が修には寂寥と悲哀に感じられて、自然に涙が流れた。今までの英二との想い出が走馬灯のように修の記憶を再生させる。
そして、手を合わせて小さく何か呟くと修は強く握り真っ赤になった拳を開いて、涙を拭いながら英二の上着を直した。すると、ポケットから小さな鍵が転がり落ちた。
その鍵を自分のポケットにしまい、そのまま忌まわしい空間を後にした。すぐに廊下に出て唯華に見えないようにドアを閉めると、涙を拭ってその場に腰を抜かすように座り込んでしまった。それを見て全てを悟った唯華は号泣を始めた。
修は唯華の肩を抱えると背中を軽く叩いてなだめた。
気付くと、太陽は頂点近くまで上がってきていた。この屋敷にいると時間の流れがやけに早く感じる。
1時間は、心の傷を慰め合ったあと、2人は見つめ合い、そのまま支え合うようにエントランスに戻った。
唯華をエントランスの人を待たせる皮製のソファに座らせると、修は破壊された壁の残りを思い切り殴った。指の関節から血が滲んでくる。
「僕が変わりに死ねばよかったんだ。何で、いい奴ばかり死んでいくんだ。何故、僕なんかが生き残るんだ、生きているんだ…」
すると、顔を伏して泣いていた唯華が嘆く彼に向かってヒステリックに叫んだ。
「そんな切ないこと言わないで!」
修は手をポケットに入れて振り返った。ポケットに差し込まれた手に先ほど英二から形見にもらった鍵に触れた。
「全ては終わっていない」
修はその鍵をポケットの中で握り絞めると、この鍵がどこの部屋のものなのかを探るためにエントランスの中央に立ち、周りを見回した。もし、隠し部屋を作るには?
そこに葵が姿を現せた。その踊り場の肖像画と同じ姿の女性に、修と唯華は目を丸くして見つめた。2階から降りてきた葵は、修の目の前に立ち止まって手を差し出した。その手は白魚のようであったが、死人の、人形のようでもあった。すぐに、それが精巧に作られた蝋人形のそれであることに気付き、3歩後ずさった。
「その鍵を返して」
「これは何なんだ?お前は何者なんだ?」
すると、彼女は子供をあしらうように微笑んだ。
「まず、人形がどうして動くのかでしょ?そう、私はこの前、噂になった、呪いの人形と同じ黒魔術で召喚された者。ただし、彼女と違ってもっと神格が上だけどね。私は上界の者。法に属し運命を司る者の1柱。一方、この前召喚された人形に宿ったのは、私達、運命を司る者の使者。ソウルブレーカーと呼ばれる者達。人間に悪影響しか与えず、人の精神を破壊する者達。今回は彼女に貴方の親友が鬼を召喚したために、人を呪い殺す別の存在に変化してしまったけどね」
「どうして、あの肖像画がここに?」
「そうね。元々、この屋敷はアラン・スチュワート、つまり、元家主の北条清太郎の中世の先祖のイギリス人で、魔術師かつ人形師だった人の別荘を移築したものなの。そのときに持ってきた絵画だから、私の絵がここに掛かっていたの。彼はメビウスの石版から魔術を解読したときに、私の召喚も解読して2種類の魔術書に記述したの。その石版に私の姿が彫られていて、それを忠実に魔術書に記述したから、魔術書に忠実に作られた私はその姿と全く同じ姿になったという訳。その魔術書の私の器の絵をアランが描いて別荘に飾っていたというのが真相」
「でも、お前は日本人の姿をしているじゃないか」
「何も不思議なことはないわ。私達は召喚に日本人の精神的性質が必要だったのよ。それに、メビウスもアランも日本贔屓だったからね」
「メビウスというのは?」
「私と同じ運命を司る者。さぁ、もう質問タイムは終わり。その鍵を返して」
「鍵とクロスを英二は手に入れたという訳か。そして、クロスと自分の術で鬼を召喚して、鍵でお前の企みを知って阻止しようとしていたのか」
「それはどうでしょうね。鬼のせいで、何人の人間が死んでいるの?」
「北条清太郎の人形に施した黒魔術と融合して、呪いが完成したんだろう?それがなければ、鬼を使役して人に危害は加えなかったはず」
「結果論ね。そして、私がもう1度の鬼の召喚のときに罠を張ったから、生贄も彼も死んだということにする訳?」
「事実だろう」
「生贄を使うことには、一切触れないのね」
修はそのことに触れられると、口を噤んでしまった。すると、今度は唯華は口を挟んだ。
「多少の犠牲で、貴方が起こそうとしていた人間の虐殺を止めることは悪いことと言えるの?」
すると、葵は目を床に伏せた。
「善悪は私達独自の判断。自然界には存在しない。だから、価値観の違う私達が善悪について話しても無駄なことよ」
そして、葵は修に向けて差し伸べた手のひらを向けて、衝撃波を思い切り放った。鍵を落とした修はそのまま弾き飛ばされて、封印された玄関のドアに激突して一瞬息を詰まらせた。
その鍵を拾うと葵は華麗にターンをして階段を登り始めた。それを見定めて唯華は修の元に向かって起き上がらせた。
「彼女を止めなきゃ…」
「駄目よ、全身打撲しているのよ。動かないで」
唯華は修を引き摺って、皮のソファに寝かせた。
「全ての真偽は神のみぞ知るか。唯。俺達は英二を信じよう」
そう言って、彼は気を失ってしまった
唯華は拳を握り絞めると、眠る修を見て意を決したように頷き立ち上がって葵の後を追うことにした。
階段を駆け上がると廊下の左右を見回す。そして、ドアの丁度閉まった部屋に走っていった。震える右手を左手で押さえながら、畏怖を抑えてドアノブを握って回した。中はゲストルームであった。しかし、誰もいなく何の変哲もない。このどこに隠しドアが存在するのだろうか。鍵を使うということは、どこかに鍵穴があるはずである。
腕まくりをした唯華は、ベッドの下、壁の額縁の裏、クローゼットの中の隅々を探った。それでもそれらしいものを何1つ発見することはできなかった。それでも彼女は諦めることができなかった。大切な英二が命を賭けて阻止しようとしていた葵の『何か』を、彼の意思を受け継いで唯華自身が阻止しないといけないという義務感でいっぱいだったからだ。
ふと、唯華は鼻をくんくんと嗅がせた。微かにイギリスの香水の香りがする。きっと、葵の香りであろう。その発生場所を辿っていくと、ベッドの天蓋の上を上がるはめになった。その上の天井に目を凝らすと、小さな穴を発見することができた。
そう、天井裏への入り口が存在したのだ。唯華はヘアピンを曲げてその鍵穴に差し入れて色々動かしてみた。昔の屋敷をそのまま移築しているということは、この鍵も複雑な構造をしているとは考えにくい。もしかしたら、細い針で開いてしまうことも容易に推測できた。
20分後、その鍵穴はかちりと鈍い音を立てた。そのまま天井を押し上げると、上にある空間に唯華は顔を入れた。そこにあったのは素朴な屋根裏部屋で、物作りの作業場といった感じであった。その作業場にワンピースをひるがえした葵は、見るもおぞましい呪いの人形に召喚の術を掛けているようであった。彼女は何の準備もしなくても、特殊な力で魂の破壊者、仮初の魂を召喚することができるようだった。
「止めて!」
すぐに飛び込むと、それを妨げるように葵に駆け出して、唯華は彼女に体当たりした。不意を付かれた葵は人形を床に落としてそのまま地面に倒れた。唯華は勢い余ってそのまま机に激突した。息を詰まらせたが、その机の上の奥を目の当たりにして絶望に近い気分になった。
似たような呪いの人形、おそらく悪魔の魂が召喚されているだろう、恐ろしい存在が100体は優に並んで彼女を睨みつけていた。
すぐに気配に気付き振り向くと、真剣な眼差しの葵が手を唯華に向けて仁王立ちをしていた。
絶体絶命の状態の中で彼女は修に心の中で助けを求めた。しかし、その思いがエントランスのソファで気を失っている修に届くことはなかった。葵は手にCODEのエネルギーを溜めて呟いた。
「お願いだから、私の邪魔をしないで」
彼女に向かって強力な圧縮空気が放たれてしまった。唯華は目を瞑って激しい鼓動を全身に感じるしかなかった。
5
葵の放った波動はすぐに消えてしまった。葵は振り向くと棗が立っている。
「彼らを泳がせておいてよかったよ。おかげでここを見つけることができたし、全ての真相を知ることができた。おまけに葵、お前の計画も知ることができたしな」
そう、棗はアストラルコードで葵のCODEの力をキャンセルしてしまったのだ。双方の力は相反して、互いの力を打ち消しあう性質を持っている。
そう言い放つと、その背後より竜胆が凄まじいスピードで100体の人形にライターで火を付けた。
「何をするの?彼らは邪悪なものを殲滅させるために私が召喚したのに…」
そのまま、火は机に燃え移り屋敷の各建材へと炎が広がり始める。竜胆はすぐに窓から脱出する。
「自分だけかよ、あいつらしい」
そう呟くと、絶望にひれ伏し膝を突いて呆然としている葵を他所に、棗は唖然としている唯華を抱えて天井裏の入り口から飛び降りた。天蓋を突き破りベッドに着地すると、部屋から飛び出し廊下から階段へ、階段からエントランスに向かった。そこで、ソファの修を横目に少し考えて、棗は両肩に唯華、修を担いでステンドグラスの窓から飛び出して屋敷からできるだけ離れた。
そこには竜胆が腕を組んで火の手が上がり、広がって徐々に全体を包んでいく屋敷を眺めていた。棗も2人を生え放題の雑草だらけの芝生に放って竜胆の隣で眺めた。
燃え尽きた頃に竜胆は横目で棗に尋ねる。
「あの小娘を忘れてきたんじゃないか?」
そう、地下の儀式の部屋で寝ていた美月のことである。棗はぽんと手を叩く。
「そうだった、すっかり忘れていたよ。でも、地下室だから、大丈夫じゃないか?」
「お前なぁ…」
呆れる竜胆をそのままに棗は墨だらけになった瓦礫の中から、地下室の入り口を見つける。すると、そこから煤だらけの美月が鳴きながら棗に抱き付いた。
「怖かったんだよぉ。何で助けに来てくれなかったの?」
「悪い、忘れてた」
「馬鹿」
美月は棗の頭を拳で叩いた。それを痛がっている棗を遠目で見ながら、竜胆は心の中で呟いた。
「あいつ、地下室にアストラルコードで炎から護る結界を作ったな」
アストラルコードは空間、時空に変化を起こす効力も持っているからだ。
そのまま、4名は少し離れた旅館に戻ることにした。
唯華と修はそのまま自分達の部屋で休ませると、棗達も屋敷に行く前にチェックインしていた部屋に集まった。
「葵はどうなったかな?」
美月の質問に竜胆はそっぽを向いて答えなかった。棗は心に引っ掛かったものを吐き出すように、その質問を無視して独り言を言う。
「葵が邪悪な者を倒すために100体の魂の破壊者を召喚していたんだ。それが気になる。本当に邪悪な心の人間を殲滅させるためなのか?だって、もし奴がそうするのだったら、沙耶華を使うだろう」
「そうよね、お姉ちゃんにそのために呪いを掛けたんだし。すると、邪悪な者って、もしかしたら、邪悪な人間じゃなくて鬼の召喚した化け物のことじゃない?だって、1匹だけしか召喚したって保障はない訳でしょ?」
「だったら、厄介だな」
沈黙を保っていた竜胆がやっと声を発した。
「ここは陸の孤島。回りは森で逃げ場はない。もし、俺達を襲うなら、車を破壊するだろう。俺達は逃げ場を失ったことになる」
「勿論、僕は逃げる気はないけどな」
棗がそう言うが、竜胆は張り合うことはしないでそのまま、また沈黙を保ってしまった。
すると、玄関で賑わう声が聞こえた。そこで、美月が思い出したように手を叩いて口を開いた。
「そうだ、ここに来たときに聞いたんだけど、今日からどこかの大学のテニス部が合宿に来るらしいよ」
土日を含めた三連休を利用して大会に向けて、某大学のテニス部が合宿に来たのだ。この辺境の地であれば、他校からの偵察にも合わないし、集中できるからだ。遠くで屋敷が燃えたことも知らないで、男性達は次々に旅館に入ってくるのが窓から見える。
「ここは宿泊代も安いし、施設代もただだからな」
棗は窓台に頬杖をついてそう呟いた。
「あれ全部護る自信はないぜ」
最後に棗はそう言うと、床に寝っ転がった。
これから起こる今までの中で最悪の情況が始まる予兆を感じながらも、棗、竜胆は先ほどで1段落した情況から心身を休めていた。
屋敷のあった瓦礫からは、すでに煙すら収まっている。その中で葵が兵隊を集めていた秘密の屋根裏部屋の鍵が零れ落ちた。それを拾う者がいた。それは屋敷の霊(特に北条清太郎の霊)とアラン・スチュワートの黒魔術と英二が召喚した鬼達が織り成した新たな異形の者である。1度は人形と鬼による呪いという形として存在したが、英二の死によりもう1体、今までにない存在が誕生してしまったのだ。元は英二が召喚した小鬼であったが、屋敷に宿る禍々しい空気と霊達、北条清太郎が黒魔術を使い失敗した、召喚された悪魔の魂達の融合により恐るべき化け物となってしまったのだ。
その存在をまだ誰も知らない。葵は気付いて100体の使者を人形に召喚していたが、それも皆は屋敷と運命をともにしてしまった。
鍵を拾った存在はそれに特殊な力を加えると、それは巨大になり伸びて剣のように変化した。葵の能力も若干残っている鍵の剣。振ると鎌いたちが放たれて、直径2mはある樹木をあっさり切り倒してしまった。それを見て微笑むと、鋭い牙をむき出しにしてにやけた。
屋敷の跡からは旅館の光が見える。
「あそこに餌食が集まっている…」
屋敷が崩れたことでガラスのクロスは見失った。結界はない。すでに彼は自由であった。鍵の剣を元の大きさに戻すとぼろぼろのコートのポケットに放り込み、足を旅館に向けて軽やかに歩いていった。
全てはここから始まったのである。
第2章 鬼神の名を持つ異形の悪魔
1
速水龍斗はいつものように体育館に向かっていた。彼はスポーツ推薦でこの
中堅高校に入学するほどの卓球の腕前であった。現在は3年で2年までは県大会で優勝をしている。
彼は天才と称されていたが、実は1人で特訓をしていたのだった。それは、長期休暇にある神奈川県の廃校で練習することである。そこの視聴覚室には、彼の父親が若い頃に使用していたワンスターの卓球の玉を隠してあった。古い卓球台が1台あって、そこで壁打ちしたり、サーブの練習、3球目の練習をしていた。
体育館の2階に上がると、部員の皆が10台縦に並ぶその手前で何かを話し合っていた。
「どうしたんだ?」
目をまるくして龍斗がその中に入ると、部長で龍斗の同じクラスの桐生が眼鏡を人差し指で押し上げながら訴えるように口を開いた。
「窓の外を見てみろよ」
体育館の窓を覗くと、そこには6コートが並ぶテニスコートがあった。そこに女性陣が騒いでいる。
「そう言えば、男子テニス部の姿がないな。同じクラスのテニス部副部長の井倉も休んでいたし、どうしたんだ?」
「それが、昨日までの3連休に男子テニス部は強化合宿に行ったらしいんだけど、誰1人帰ってきていないんだってよ」
同じく3年の殻崎が腕組みしながら吐き捨てるように言う。龍斗は首を傾げて脳裏に色々思案を巡らす。
「さぁ、俺達がここで何かを考えても始まらないだろう。練習始めようぜ。まずはストレッチから」
桐生の声も龍斗の声は耳に届かなかった。
「その合宿の場所ってどこなんだ?」
すると、卓球部顧問の馬場が駆けてきた。
「お前ら、俺はこれから月代村に行ってくるから、自主練しておいてくれ」
そこで、龍斗はすぐに馬場に飛びついた。
「月代村ってあの?あの山奥で旅館の奥に廃屋のあるところですか?」
それを見て、馬場は唖然として口をぽかんと開けて龍斗を見た。
「お前、あいつらの秘密練習の場所をよく知っていたな」
「いえ、その屋敷に行ったことがあったから」
そこは龍斗の小さな頃に住んでいた場所であった。禍々しい記憶が蘇ってくる。彼が一時期、母親から虐待を受けていた頃、北条清太郎という人物に引き取られて保護されていたことがあった。その間に龍斗の母親は私立病院の精神科でカウンセリングを受けて、虐待をしたいという感情を癒えるまで北条邸で暮らしていた。否、暮らしていたはずだった。
北条清太郎は狂気に取り付かれて、保護していた虐待児に惨殺を始めたときの生き残りの1人である。そのときの記憶はショックより、PTSDとして心に傷を残している。『心的外傷性ストレス障害』といって、心に深い傷を残すと、それを思い出させる情況に陥ると、発作などを起こすことである。
「ああ、あの誰も足を踏み入れないところだよな。最近、人が何人か死んだ」
それを聞いて全員の動きが止まり騒然となる。龍斗は愕然として立ち尽くした。そんな恐ろしい場所には行くことを精神は拒否していたが、それでも行かなければいけない衝動が龍斗の体中を駆け巡った。
幸い明日から試験休みである。部活が終わったら、すぐにあのかつて神の降りた場所に向かうことにした。練習の間も上の空で、練習に身が入らなかった。と、言っても、普段から真面目に練習をしている訳ではなかったが。
部活が終わるとすぐに自転車で駅に向かった。彼は中学から独り暮らしをしているので、行動を縛られることはなかった。電車を乗り継いで最終バスを行けるぎりぎりまで行き、そこから山道を極たまに通る車をヒッチハイクして乗り継ぎなんとか月代村に入ることができた。そこまでの所要時間は6時間である。0時を過ぎていただろうか。月がやけに大きく赤く見えた。
徒歩で山道を歩いて行くと、しばらくして1台のバイクが通り掛かり、疲れ切ってとぼとぼと歩く龍斗の隣に止まった。彼はフルヘルメットのまま、750ccのバイクのエンジンを切った。
「お前、あの森の中の旅館に行くつもりか?」
龍斗が頷くと、彼は腕をまるで龍斗を排除するように振った。
「帰れ。お前の行くような場所じゃない。誰が行っても手に負える情況じゃない」
「それでも、俺は行かなきゃいけない気がするんだ。連れて行ってくれ」
「あそこで今、何が起こっているか知っているのか?」
龍斗は畏怖を隠しながら首を横に振った。バイクの男性はしばらく考えたが、すぐに親指を自分の後ろに向けた。
「ありがとう」
すぐに後ろに座ると、その男性はバイクを急発進させた。旅館が見えるところまで来ると、130km出していたバイクのスピードを落とし始めた。そして、ガードレールの切れ目、舗装されていない旅館への細い道の入り口に差し掛かるとバイクを止めてヘルメットを取った。すると、ヘルメットで潰れていた髪がつんつんに立ち上がり、革ジャンから櫛を出すと髪を梳かした。
「どうしたんですか?」
龍斗はバイクから降りて細道を進もうとしたが、彼はそれを無言のまま腕で制した。彼は細波和馬と名乗り、前方に結界が張られていることを告げた。
実は、彼もSNOWCODEの血を受け継ぐ者で、かつ、竜胆の父、ジンの弟子でもあった。だから、アストラルコードもCODEも使用することができた。
「この中には、邪悪な者によって汚染されている。それで、誰かがそれ以上、悲劇が広がらないように結界を張ったんだ」
「一体、何を言っているんですか?」
「分からないなら、黙ってろ。所詮、説明したところで意味がないんだからな」
鋭い視線で龍斗に釘を刺すと、和馬はアストラルコートで波動を放った。すると、見えない壁に空間の歪みを発生させた。その中を2人は通り抜けて、徒歩で長い道を歩いていった。その間、和馬は神経を集中させてかなり周りを警戒している。
そのとき、邪気が瞬時に間近に迫り、隣の樹木の枝の上に止まった。和馬はそちらに視線を向けずにじっと前を向きながら声を放つ。
「お前がこの惨劇の原因だな」
「少しはできる人間がまた1人入ってきたか」
その異形の者は枝の上で下品に笑った。
「お前は何者だ?」
「俺は大鬼の召喚、魂の破壊者の召喚、屋敷の霊気から生まれた存在。伐折羅とでも名乗っておこう」
そう言って、異形の者は去っていった。今は、彼らと合間見える時じゃないということなのだろうか。
龍斗はその光景にただ呆然としていたが、すぐにその『伐折羅』という名前のことを脳裏に浮かべた。
伐折羅。
十二神将。元々は十二夜叉大将ともいい、それぞれ七千、総計8万4千の眷属夜叉を率いて薬師如来を信仰するものを守る武神である。
夜叉。仏教を守護する役割を担う八部衆(竜神八部衆ともいう)の中の1つ。夜叉はインド神話のヤクシャが仏教に取り込まれたことで生まれた神である。神というより、鬼神といった方が相応しいだろう。
ヤクシャとは、森、ジャングル、野原といった自然に住む精霊のような不思議な存在である。ヤクシャの中には人間を引き裂く恐ろしい存在もあるが、一般的には神や人間に敵対するものでなく、自らの領域にひっそりと暮らしている。
または、別の説ではヤクシャは人間に害をなす悪鬼の類であったともいう。
仏教では夜叉をもとにする尊格が数多く存在し、金剛夜叉明王のように夜叉の名を冠しているものの他に、訶利帝母、増長天、毘沙門天なども夜叉の一族である。
八部衆の夜叉はその総称であり、特定の夜叉のことではない。これは他の八部衆にも言えることであるが。
話は十二神将に戻ることにする。経典は『薬師瑠璃光如来本願功徳経』に薬師如来の名号を唱える者を守護すると約束されている。武器を持った甲冑姿。持ち物、十二支、お姿は必ずしも一定していない。と頭上に十二支の動物を乗せる。薬師三尊を囲んで八方方位と十二支に配される。功徳は薬師如来を信仰するものを守る、病気平癒・身体健全・除病延寿・災難除去・現世利益であり、お祭りする場所は仏壇・床の間・厨子である。
伐折羅。薬師如来を守護する十二夜叉大将の一人。別名ヴァジラ、和耆羅、跋折羅ともいう。丑の顔を持つ場合があり、北北東に配される、武器に宝剣を持つ、白を表わすなどとされるが、諸説ある。本地は勢至菩薩。
別の説では、伐折羅大将・金剛大将とも呼ばれ、勢至菩薩を本地とする丑の刻(午前2時頃)の守護神で、七億の夜叉をひきつれ、仏法を守護するという夜叉王である。その姿は一般的に、頭上に狗頭(犬の頭)を頂き、忿怒の相を表している。左手は腰を押え、右手に剣を持っている。
また、別の説では、伐折羅は、ほかに跋折羅・跛折羅・伐闍羅の表記や、縛日羅・和耆羅の呼び方もある。
「バサラ」は梵語の『vajra』(ヴァジュラ)で、意味は異なるが金剛や金剛杵とも訳される。金剛はダイアモンドのことで、右手に持つ剣が金剛杵という仏具である。その姿があまりにも際立って異様だったので、鎌倉末期ころから奇をてらい華美をつくす振る舞いや派手な姿をする伊達者も『ばさら(婆娑羅・婆沙羅・婆佐羅・時勢粧)』と呼ばれるようになった。
足利尊氏に従い初期の室町幕府に重きをなした佐々木高氏は『太平記』で『ばさら大名』として描かれている。
十二神将像の
十二支配列
子 宮毘羅大将、太刀を持つ十二神将。 一般には金比羅様、金比羅大権現で周知。
丑 伐折羅大将、宝剣を持つ十二神将。
寅 迷企羅大将、独鈷を持つ十二神将。
卯 安底羅大将、太刀を持つ十二神将。
辰 額爾羅大将 、矢を持つ十二神将。
巳 珊底羅大将、法螺貝を持つ十二神将。
午 因達羅大将、鉾を持つ十二神将。
未 波夷羅大将、弓矢を持つ十二神将。
申 摩虎羅大将、斧を持つ十二神将。
酉 真達羅大将、斧を持つ十二神将。
戌 招杜羅大将、太刀を持つ十二神将。
亥 毘羯羅大将、三鈷を持つ十二神将。
何故、あの大鬼は自分をそう名乗ったのか。意味はあるのだろうか。
ここが日本神話の、天照大御神と須佐之男命の兄弟で3柱で三貴子と呼ばれる、月読命が舞い降りた地として村人が崇めた場所であるからだろうか。その石碑がガードレールの隙間の近くに設けられている。
どうしても、理解ができなかった。
2
2人はゆっくり前に進むと、突如、和馬は立ち止まり龍斗に向かって言った。
「止まれ。ゆっくり3歩後ずさって屈め」
その通りにして、次に起こる何かを待った。すると、突如地面が小爆発して地面が燃え始めた。和馬は冷静に視線だけを木陰に隠れる者に向けて、腕を伸ばした。空気に緊張感が伝わり始めて波動が放たれた。樹木の幹は抉り取られて、人影が過ぎ去るのが見えた。
「ち、逃したか」
目を丸くしている龍斗は尻餅をついたまま、和馬に向かって質問を投げた。
「どういうこと?」
「俺にも分からないが、どうやらさっきの化け物は人間を妙な『異質』に変えちまうようだな。で、あんな力を使っちまうのさ。たまたま、SNOWのCODEが若干混じっていたから、俺にも感知することができたけどな。おっと、SNOWやCODEについては聞くな。聞いたところでお前には理解できないし、話が馬鹿長くなる」
2人は2時間かけて森の小路を抜けた。すると、そこは開けた空間で旅館が奥にそびえていた。手前の駐車場には数台の車が止まっている。奥には旅館主のものらしいライトバンがある。
「あれは先生達が乗り合いで来た教頭のクラウンだ」
龍斗が一番手前に雑に枠からはみ出して止めてある車を見て、無意識についそう口走った。そして、その隣のマイクロバスを見てさらに続ける。
「あれはうちの学校のテニス部のバスだ」
「すると、餌食になろうとしている人間は絞られてくるな」
和馬は瞬時に頭の中を整理し始める。
テニス部員は20名。宿には1家族が暮らしているとして3人。クラウンで来た龍斗の学校の先生達は、教頭、テニス部顧問、生活指導の3人。
一番奥のミニバン。その隣の見たことのある180(ワンエイティ)。総エアロ装備のシルビア。建物の向かい側よりには、奥から、かなり古い白のセダン。気味の悪い廃車寸前の車。そして、4年前のカローラ。
ミニバンからはCODEを感じる。それも懐かしい感覚のものだ。そう、和馬のCODEの師匠、ジンのものである。しかし、ジンがここにいるはずはない。すると、噂で聞いた1人息子なのか。
180は彼と同じSNOWCODEの血を引き、数回、一緒に運命を司る者が召喚する悪魔と戦ったことのある我神棗のものである。ジンの息子と一緒の可能性は大きい。この化け物による忌まわしい情況の中、能力のある2人がいるのだから。
シルビア。これは一般観光客だろうか。それにしては、こんなところに来るのはおかしい。それはカローラにも言える。
廃車のようなボロ車。これからは妖気を感じる。人間ではない何かが乗ってきたように感じた。
古いセダン。これからは強くある感覚を感じる。そう、SNOW、つまり、葵から放たれるCODE。ここに葵も来ているのだろうか。
このメンバーからここで何が起こっているのかを想像するのは、かなり困難を極めた。
「行くぞ。だが、俺から離れるな。得体の知れない者の宿り主や死にたくなければな」
彼らはゆっくりエントランスに近付く。すると、玄関ドアから1人の中年男性がにこやかに現れた。龍斗は近付いて挨拶しようとしたが、和馬はその肩を掴んで止めた。驚いて和馬を見ると、彼は真剣な表情で首を横に振った。
「あの宿主はすでに汚染されているぜ」
「汚染?さっきの化け物、伐折羅が人間をその汚染で化け物に変えていると?」
「何が起こっているのか分からない。だが、今は退散だ」
和馬は波動を宿主に放って軽く倒すと、テニスコートの方に駆けていった。雲1つない星や月、旅館から漏れる光という頼りない視界の中であの屋敷跡に向かった。そこには、墨になった屋敷の残骸しか残っていない。
「ここで何があったんだ。この淀んだ空気に、CODEも残っている。それに…」
そこで、和馬は瓦礫の中に飛び込んであるものを拾い上げた。それは葵のガラスのクロスであった。鈍く、しかし暖かく光り続けている。
「これは葵の結界。これがここを封じていた結界の発生源だったのか」
「それが邪魔なんだよ」
気付くと彼らの背後に伐折羅が瓦礫の山に屈んでいた。
「お前は人間に何をしているんだ?」
「さぁな。自分で考えな。ただし、ここでおいらに殺されなければ、の話だが」
そう言って、彼は飛び降りるとゆっくり和馬に向かって歩き始めたが、瓦礫が動いて墨になった柱をどけて溶け掛かった蝋人形が現れると、まるでそれを恐れるようにテニスコートの方に向かって足軽に飛び去っていった。
「お前はSNOW」
葵は立ち上がると瓦礫の中からやっと脱出することができた。彼女は火事の熱でゾンビのような姿をしているが、その神格から現れるオーラは放たれていた。
「あいつは何なんだ?ここで何が起こった?あいつは人間に何をしているんだ?」
その矢継ぎ早に放たれる問いに1つずつ丁寧に葵は和馬に話を始めた。彼の力がこの危機的状態には有効であると判断したからだ。
まず、呪いの話、館で起こったことを全て話をした。それだけで、朝日の兆しがすでに空に反映し始めていた。
「で、伐折羅は人間に何をしている?」
「自分のコピーと言える悪魔の人格を植え付けているの。あの化け物の爪は鋭く伸びて武器になる。私の作った屋敷の隠し部屋の鍵を剣と化している時もあるみたいだけど」
「その爪で体を刻まれた者は、悪魔の魂が植え付けられて化け物になるという訳か」
「ただし、私の上界の者としての浄化能力やアストラルコードなら悪魔の魂に取り付かれた者を浄化して元に戻すことができるわ。でも、今の状態ではそでも難しいかもね」
「汚染者が増えすぎて、化け物に宿られると力が増えて、妖力を得て邪悪な人格になるから、だろう?」
和馬の言葉に葵は深く頷いた。
「それにしても、さっき伐折羅がクロスの結界の力に気付いてここに来たのに、お前を見て逃げただろう。何故だ?」
すると、葵は歪んだ顔を優しく微笑ませた。
「私が浄化能力を持っているからよ。あの化け物でさえ浄化できて、恐れるほど」
「じゃあ、力を貸してくれ」
「もう、1日くらいしかこの体は持たないわ。それでもいいならね」
そして、葵は伐折羅を探して旅館の方に歩いていった。ガラスのクロスをポケットに入れる和馬を見ながら、龍斗はやっと口を開いた。
「とにかく、よく分からないけど、ここは化け物のせいで危険な所になっているんだろう?君には化け物によって変わり果てた人間を戻せる。皆を助けに行こう」
すると、冷たい視線を和馬は龍斗を一瞥した。
「お前、怖くないのか?」
「そりゃ、怖いさ。皆や君のように不思議な力も持っていないし。それでも、助けたいって気持ちの方が強いんだ」
「上等。じゃあ、行くぞ」
彼らは回りの木々、テニスコートを注意しながら駐車場に戻る。車の陰から4人の男性が現れる。いずれもゾンビのような歩き方で涎を垂らしている。
「あれはテニス部の…」
龍斗がそう呟くと同時に和馬の動きは素早かった。さっと4方の包囲から脱してアストラルコードの浄化の波動を放った。しかし、攻撃に対する彼らの動きはゾンビのそれではなかった。あっさり避けると2人は龍斗に飛び掛り、2人は和馬の背後に飛び移った。焦る和馬は体全身から魂の力を放つ。すると、彼らは後すさった。ポケットのクロスの結界の力も関係しただろう。
クロスを龍斗に投げる。それを持ち前の運動神経で高く跳び上がりそれを受け取った。そして、クロスを2人のゾンビに差し出す。彼らは近付くことを止めて足を止めた。
和馬は波動を放つ。しかし、再び2人にあっさりとかわされた。
「至近距離だってのに…。やつらの動きを止める何か方法はないのか?」
和馬の独り言を聞いて、龍斗はクロスを差し出しながら彼に寄った。
「攻撃はダメだよ。怪我もさせないで。彼らは試合が近々あるんだ」
万事休すの中、ガラスのクロスだけが彼らにバリアを張っていた。そこに頭上から大きな光が放たれた。それは和馬、龍斗の回りの4人のゾンビ化したテニス部員に降り注ぎ、彼らも気付かなかったためそれの直撃を受けた。
彼らは気絶するように倒れて、その体から黒い影のようなものが天に上がっていった。伐折羅に宿らされた悪魔の魂が浄化されたのだ。旅館を見上げた和馬の視界には、ある2階の部屋から両手をこちらに向けた男性の姿があった。そう、彼は我神棗であった。
「棗、力が強まったようだな」
「あれから、修羅場を幾度か潜ったからな」
棗は良く見ると背中に美月を背負っている。その後ろから竜胆が姿を見せて、CODEの力で3人は2階の窓から地面に降り立った。
和馬は棗との久しぶりの再会にお互い手を打った。
「で、情況は?」
「先生達は助けて、匿っている2人のテニス部員とリネン室の地下室に閉じ篭っている。頑丈な鍵だから大丈夫。残りのテニス部員20人中7人はこっちで浄化したから、あと9人だな。和馬が来てくれて本当に助かったよ」
背中の美月の寝息を邪魔に思いながら、和馬は人間に戻った4人を1人で担ぎ彼らは1群となって旅館に入った。すでに、そこは荒れ果てていた。その中で、右の廊下から待ちかねていたように2人のゾンビが現れる。
「お客さんのお出迎えだぜ」
棗は皮肉を言って背中の美月を重そうに背負い直す。
「ここは俺に任せて、お前らは地下室に荷物を置いてこい」
4人を竜胆に渡した和馬がそう言うと、竜胆と棗は頷いてロビーを通りフロントの奥の地下室に向かった。
地下室の前でノックを3回、2回、5回と分けてすると、カチリと鍵の音が鳴ってドアを開けた。そこには龍斗の学校の先生方がいた。中にちゃっかり水と食料がストックされているのを見て、龍斗は少し安心した。
「あれ?ここにいた男女はどこですか?」
棗が先生方に訊くと、中の全員は一斉に首を横に振った。寝ていて気付いたら、2人ともいなかったらしい。正義感の強い、無謀とも思える勇気を抱く龍斗は、ガラスのクロスを握り絞めながら部屋を飛び出した。
「ちっ、しょうがねぇなぁ」
頭を掻いて溜息をついて眠そうな瞳を落とすと、そのままゆっくり歩いて彼を追った。それに続き竜胆も部屋の外に出て行った。
3
龍斗はエントランスに戻ると、和馬は1人の痩躯のテニス部員にやっと波動を当てて倒したところであった。その間にも、もう1人が襲ってくるが巧みに避けつつ、その倒れた者に浄化の光を放った。
元に戻った少年にターゲットを変えたゾンビは、その爪で再び倒れた彼をゾンビにしようとしていた。和馬は波動を放つが、それはすぐに空中で体を翻し避けた。
そのとき、背後から特攻してきた龍斗は体当たりでゾンビを壁にぶち当てた。刹那、力を使い果たしている和馬も何とか浄化のアストラルコードの力でもう1人も元の人間に戻すことができた。
戦いが終わった後に、ゆっくり棗と竜胆が姿を現せた。
「和馬、お前にしては戦いに時間が掛かり過ぎている。どうしたんだ?」
そう、昔の和馬は棗に劣らぬ力を持っていた。竜胆の父、ジンに修行を受け、棗よりもだいぶ先に覚醒さえしていた。その彼が、棗より格段に力を弱めていた。
「もしかしたら、伐折羅が関係しているんじゃないか?」
柱にもたれて竜胆が俯きながらそうバリトンの声を零した。
「あれは、魂の破壊者、死霊、大鬼の融合種なんだ。いわば、上界の大鬼と言える。その能力は絶大だろう」
「だが、棗の力は…」
和馬がそう言い掛けたが、棗は特に何も言わなかった。何故、彼が急に能力を強力にできたのか。
「俺もいつか…」
「さぁな」
和馬と棗の会話の最中に竜胆は右上を見上げた。
「2人は2階だな」
それは竜胆の感知能力なのだろうか。4人は頷いて階段に向かってすぐに駆け上がった。
一方、修と唯華はその頃、旅館のエントランスにいた変わり果てた同じ学校の生徒に気付かれぬように2階に上がっていった。そして、左の廊下を歩き気配のない客室に慎重にノブに手を当てて、聞き耳を立てながらゆっくり修はドアを開いた。中は真っ暗で窓からの月光で視界を確保できるが、誰もいないことは確認できた。
2人はそこに入ると鍵を閉めて真っ暗の中、8畳間の中央で2人で座って俯きあった。
「これも、英二の鬼の召喚のせいだよな。あの伐折羅とかいう奴も鬼の一種なんだよな」
その言葉に何も唯華は答えられなかった。元彼氏なのだから、当然のようであった。それに気付き、すぐに彼も口を閉ざした。
「修、もしかしたら私、貴方の方を好きだったのかもしれない。ただ、積極的な英二を好きになったつもりでいたのかも」
「英二の邪心を知ったし、今のこういう情況だからそう思い込んでしまうんだ。今は何も考えるな。必ず、僕がお前を護る」
その言葉に瞳に涙を溜めて唯華は修の胸に飛び込んだ。彼は彼女の頭を撫ぜて、優しく言った。
「ここでじっとしていよう。朝になったら窓から外に出て逃げ出そう。後は彼らが何とかしてくれる。そして、全て忘れるんだ」
彼女は頷いてすすり泣いている。すると、しばらくして修は気配を感じて彼女の肩を持って立ち上がった。そして、彼女を背にしてドアの方に構えた。
「どうしたの?」
「来る」
「鍵をしているから…」
「地下室のと違って普通の鍵。人間の力を大幅に超えた奴らなら破ることができる。ここなら大丈夫と思ったのに、どうして、ここにいることが分かったんだ?」
静寂の中で2人の鼓動だけが空間に響いている。ドアは鍵をへし折りゆっくりとドアが開かれた。そこには、ここの旅館の宿主と奥さん、そして小学生の男の子であった。3人とも歪に足を部屋に踏み入れて、醜く微笑んだ。
「これ以上、近付くな!彼女に指一本触れてみろ。許さないぞ」
そして、修は彼の服を固く掴み小刻みに震えている彼女に振り返った。
「命に変えて、僕が君を護る」
彼女は怯えたまま、頷いてみせた。3人の親子のゾンビは、息の合ったタイミングで一斉に2人に飛び掛った。
「ふざけるな!」
修は咄嗟に両手を前に出して、全身の精神力を高めた。すると、修の両手のひらから波動が放たれて、3体はそのまま部屋の外に飛ばされて廊下の壁に激突した。そう、彼もSNOWCODEの血を引いていたのだ。彼の兄、冬至はすでに気付き覚醒していたのだが、弟には話をしていなかったのだ。
覚醒したばかりだった修に3体のゾンビは、その能力に気付かずに直撃をくらったのだ。最初は唖然としていたが、すぐに窓の方に唯華の手を引いて開け放った。
夜風が吹き込む。バルコニーから下を見ると、駐車場が見える。3体は起き上がると、すぐに修達に今度は慎重に近付き始めた。
「下の車がクッションになるかな?」
と、唯華。
「でも、この高さじゃ…」
振り返り、修は手を出して再び無意識に波動を放った。今度は3体はかわして3方向に散った。そして、一斉に飛び掛った。と同時に修は窓を閉めて、大声で叫んだ。
「屈め」
3体は勢いよくガラスにぶち当たりガラスを粉々にしながら、バルコニーの手摺りを飛び越えて駐車場に落下してしまった。そこで、棗達4人が入ってきて竜胆は能力を放った。落下途中の親子は空中、地面から1mのところで見えないクッションによって助かった。次に、棗は浄化の光を放ち3人は元の人間に戻りながら、ゆっくり地面に降りてそのまま気を失って倒れた。
「お前もアストラルコードを使えるのか。確か、苗字は槐って言ったな。そうか、冬至の親戚か」
「兄貴を知っているのか?」
「そうか、あいつが兄貴なんだ。お前が使ったのはアストラルコードという力」
「さて、後7人がどこにいるか、だな」
竜胆がそう呟くと和馬が外を指差した。この旅館の回りの森、それも結界に限り闇に紛れて潜んでいるだろう。そこには、伐折羅とそれを追う葵も存在しているだろう。朝日が昇り始め、外の視界は次第に鮮明になっていく。それでも、森の中は薄暗かった。
「その前に、この旅館に結界を張ってくる。先にお前達だけでいけ」
そう言うと、竜胆はガラスのクロスを受け取り、龍斗を引っ張って行った。落ち着きを取り戻して我に帰った修は、優しく唯華を抱きかかえて立ち上がった。
「君達はこの屋敷で隠れているんだ。もう、逃げ出そうとかするなよ。返って死ぬことになるんだから」
そう言って、棗は無言で2人を睨む和馬と一緒に割れたガラスの窓を開けて1階に飛び降りた。2人ともアストラルコードで圧縮空気を放ち無事に着地すると、親子を旅館の玄関の方に担いで放り込んで、早速、森の方に駆けて行った。
修は呆然としている唯華を見詰めて正気を取り戻させようと肩を揺らした。彼女はすぐに修の腕を掴み、怯えのために固まってしまった。そんな唯華に修は真剣な眼差しで言い聞かせるように伝える。
「僕にはどうやら、彼らと同じ力を持っているらしい。少しでも戦力になると思うんだ。だから、君は地下室で他の人と隠れていてくれ。僕は残りの連中を何とかする」
「嫌、修と離れたくない」
「彼らの中で浄化できるのは、どうやら、棗って人と和馬って人だけなんだ。残りは7人。ちょっと、荷が重いはず」
「でも、不可能じゃないでしょ。修が行くことないよ」
「これは英二が起こしたことの処理でもあるんだ」
その言葉に唯華は何も言えなかった。修にとっては親友かつ幼馴染、唯華にとっては恋人だった人なので、彼女は何も言えなくなってしまった。
沈黙を保ちながら2人は部屋を出て階段室に行くと、エントランスの中央には台が置かれて、竜胆がそれに能力を使っていた。旅館に強力な結界を張っているらしい。龍斗の姿はすでに見当たらない。彼らは竜胆に視線を向けながら階段を降りてそのまま、接することも言葉を交わすこともなく地下室に戻った。
唯華を残して修は再び出て行こうとして、彼女に振り返って言った。
「必ず、戻ってくるから」
「死なないでね」
修は頷いて真剣な顔のまま、その固い無機質のドアを出て行った。冷たい通路から階段を上りフロントの奥に出てくると顔を見せた。
エントランスには、まだ竜胆が結界を張り続けている。それを横目に宿主の親子の気絶している玄関を出ると、能力のない普通の人間の龍斗が駐車場で1人のゾンビ化したテニス部員と格闘をしている。長く伸びた爪に掛かれば自分も敵と化すので、彼は手の動きだけに注意を払って避けている。卓球部のエースだけあり、その運動能力は伊達じゃなかった。棗、和馬に少ない人数を相手させるために、あえて自分が囮になって時間稼ぎしているのだ。
感動した修はすぐに加勢した。ゾンビはすっかり龍斗の拳や蹴りに注意を向けているその隙に、覚醒したばかりで分からない浄化の光を放とうとした。両手を2人に向ける。普通の人間の龍斗には、光が当たっても大丈夫であろうと推測したのだ。
「出ろ」
その叫びとともに修の魂の力は輝きを放った。手から光が弱々しく放たれた。ゾンビはかわそうとした龍斗の拳に顔面を打たれてそのまま2m吹っ飛んだ。龍斗は息を整えながら汗を袖で拭い修の方を見た。
「お前、力があるのか?行くぞ」
2人は駐車場から木々の中に入っていく。すでに陽は半分くらい上りつつあった。しばらく、歩いていくと凄まじい衝撃音が聞こえた。すぐに駆けつけた2人の目には和馬が大木に激突して口から血を流している姿が入ってきた。
その向かいには、激闘を現す荒れたむき出しの地面と折れた数本の木々が見える。そして、2人のゾンビが格闘の構えをしていた。
和馬の方に駆け寄ろうとした龍斗のところに棗が衝撃波直撃して、飛ばされてきた。和馬に激突してそのまま地面に伏せてしまった。その方向からは3人のゾンビが現れる。4人は5体のゾンビに囲まれてしまったのだ。
「まだ、1体いるっていうのに…」
新手の強力な敵達はじりじりと近付き4人を1箇所に集めて言った。そこに彼らの背をつけている背後の木の枝に何かが飛び移った。そう、全ての元凶、伐折羅であった。彼は鍵を巨大にした剣を肩に担いでいる。
「葵はどうした?」
見上げた棗の言葉に化け物は口元を綻ばせた。
「仮初の体を破壊してやったさ。元々、ほとんど壊れていたがな。浄化の能力も当たらなきゃゴミも同然」
そして、剣を振り下ろしながら飛び降りた。そこで、棗は圧縮空気の壁を張った。和馬も結界を張る。剣はそれらのバリアに阻まれたが、彼の後ろから最後のゾンビが不意打ちで伸びた爪を振るいながら落下してきた。バリアもそこで破壊された。みんなを庇うように龍斗はゾンビの前に出て、その毒爪に掛かってしまった。龍斗は血を流しながら、肩を押さえて違う魂が自分の中に入ってくるのが感じられた。
「おい、大丈夫か?」
和馬の声を無視して龍斗は最後の意識で叫んだ。
「俺が正気を保っている内に逃げろ」
そう言って、龍斗を襲った6人目のゾンビを蹴って遠くに弾くと、伐折羅に変わりつつある意識や体を実感しながら爪を伸ばしてそれを振り下ろした。今や、彼の身体能力はゾンビ化した者達と同じく数倍に上がっていた。
「ほう、凄まじい精神力の人間だな」
悪魔の精神を必死に抑えながら、大鬼を追い詰める。しかし、彼は鍵剣で彼を一掃した。鋼のような爪は弾かれて1m滑ったが、何とか踏み留まった。
「今の内だ」
和馬の声で修と棗は残りのゾンビを浄化することにした。修は龍斗が弾いて倒した者の方に刹那駆け出し、浄化の光を放つ。そこで敵は1体減ることになった。和馬はその間、1番動きの遅い背の低い者の背後に素早く回り込み波動を放つ。それでも、人知を超えた力を発揮したゾンビは回し蹴りで和馬の腹部を捉えた。しかし、それを我慢して足を捉えて、逃げられないようにしてから足を掴んでいる手から浄化の光を放つ。その小さな元テニス部員は元の姿に戻ることになった。
棗は一方2人を相手にしていた。右手で波動を打ちながら1体の爪の攻撃を避けながら、左手でもう1体の攻撃を捌いていた。ゾンビは拳を放つがそれを相手の力を利用してうまく誘導して、柔道の体落としの要領で足と腰を使って倒す。そのまま、爪で攻撃してくるゾンビを両手から別々に波動を放ち誘導していった。そのゾンビは倒れたゾンビに足を取られて倒れる。そこで、2体1辺に浄化の光を放った。2人は元の人間に戻るが、怪我だらけでぼろぼろであった。
3人は1度集まり冷静になって辺りを見回した。そこには、残りの2体のゾンビ、そして、戦っていた伐折羅と龍斗の姿がなくなっていた。
「どこへ行った?」
警戒しながら、辺りを見回し和馬は助けたテニス部員を集めた。
「少なくとも、旅館は竜胆が結界を張っているから大丈夫。森の中にいるはずだ」
棗の言葉に2人は頷いた。
陽は既に天辺に来ている。飲まず食わずのままだったことに気付き、3人は1時休むために助けた生徒を担いで旅館に戻ることにした。
4
旅館の中では、エントランスに竜胆が座り込んでいた。すでに結界に使った力が尽きているようだ。
「後は、任せる」
そう言うと、エントランスの柱の方に歩いていき、そこにもたれてそのまま眠ってしまった。時間は午後1時を過ぎている。棗達はフロントに向かい地下室のドアに合図のノックをする。しかし、返事はなかった。水も食料も地下室の中である。リネン室なので、生活するのに不自由はないはず。地下室のすぐ上は事務所でトイレやミニキッチンも存在している。
この場所から全員が移動するとは、考えにくかった。竜胆の様子からゾンビ達はここに侵入していないはずなので、何かが中で起こったとしか言いようがなかった。
和馬は感知能力を使って、手をドアについて中の様子を探った。
「まずい、電気が切られたんだ」
棗はすぐに地下室への階段の電気をつける。しかし、照明に明かりが灯ることはなかった。和馬は波動を放ちドアを破ると、中では酸欠で気を失っている人達で床は満たされていた。
「換気給気機関が止まったからだ」
すぐに、全員を運んでエントランスに移した。彼らは酸欠状態から回復して、咳をしながら目を覚ました。修は唯華が目を覚まさないのに気付き、すぐに駆け寄って揺り動かす。しかし、微動だにしない。彼は躊躇いながら人工呼吸をした。3分後に咳を吐きながら、彼女は生還した。修は安心して地面に腰を下ろしてしまった。
「外の電気配線を切断されたんだ」
その棗の言葉に全員は不安を覚えた。そして、棗はポケットに手を差し入れて考え事をしようとしたが、その手にあるものが触れた。どこで手に入れたのか、それはシルバーの単純な作りの鍵であった。その意味、どうしてそこにあるか検討もつかなかった。
それを取り出して眺めていると、竜胆はそれを見ると、目の色を変えてサングラスを下げて話し掛けた。
「それは、オーバーコードの鍵じゃないか。おそらく、道化師のものだ」
オーバーコード。CODEの力の結晶と言えるもので、3柱の運命を司る者達の能力の結晶の1つである。それは、葵のものは聖杯、メビウスは剣、道化師は棍棒と変化する。それぞれ持つ者の精神力で力は加わり、剣は全てのものを切り裂き、棍棒は全てのものを打ち砕き、聖杯は全てのものから護ってくれる。棗のポケットに何故その道化師の鍵が忍ばせてあったのか。
「それは、次元の歪みをお前が何度も起こしているからだ。そして、次元の歪みに消えた道化師の鍵が偶然、お前の元に届いたとしてもありえん話ではない。これは運命的な奇跡なのかもな」
竜胆の言葉に棗は鍵を握り絞める。すると、それは長く伸びて棍棒のような姿に変化した。
「お前は俺達の中でも救世主なんだ。その力の上昇の仕方、その力から確かだ。そのお前なら、その棍棒を使って今回の強敵も片付けることができるさ」
和馬も棗にそう告げた。彼は頷くと、そのまま電気の切れた旅館を任せて外に再び飛び出していった。
時間は午後2時を過ぎている。サンドイッチを1個だけ腹に詰め込んだだけで、疲れは頂点に達している。遠い道路から引かれている電気の外部配線は外壁のところで切られている。旅館付近に敵はいるはずだが、気配もなく視界に微塵も入ることがなかった。
周囲を警戒しながら捜索し、精神を統一してアストラルコードの感知能力を全開にした。そこで、背後からの空気の刃、かまいたちに気付き、鍵の棍棒で受けて弾いた。
背後には1人のゾンビがいた。強力な特殊能力を持っているらしい。すぐに魂の力を高めて凄まじい速さでゾンビの背後に回るが、彼もその動きについていき、今度は波動を放つ。しかし、鍵の棍棒で何とか力ずくで跳ね返して彼に直撃させた。そのまま、バランスを崩した彼に浄化の光を放つ。
「後、1匹」
すぐに鍵の棍棒を投げた。そこには、最後のゾンビが木の裏に隠れていた。木を倒してその裏のゾンビに当たった棍棒は、鍵に戻りゾンビは気絶してしまった。そこで浄化を施して鍵をポケットにしまう。
「龍斗はどうしただろう」
完全にゾンビになり、伐折羅とともに襲ってくるかもしれない。それでも、1人でやるしかなかった。修は覚醒したばかりで戦力にはならない。和馬も力が弱くなっているし、旅館に結界を張らないといけない。竜胆は今まで結界を張っていた関係で力尽きている。
鍵を握りながら、森の中を彷徨っていると大鬼の姿を見つけることができた。彼は森の中一体に張られた結界の境に向かっている。結界を破ろうとしているらしいが、葵のガラスのクロスの力は強大であった。棗に気付き振り向いた伐折羅は鍵剣を構えて棗に向かった。棗も鍵を棍棒にする。
「それは道化師の鍵か。どっちの精神力が強いか、試してみるか」
2人の鍵の武器のつば競り合いが続いた。そして、徐々に高まり素早くなっていく棗に伐折羅は焦りを見せ始める。
「お前はただのSNOWCODEの血を引く者じゃないな。…そうか、救世主か。再び、現われたのか」
大鬼は何故か過去の事情もCODEについてもかなり詳しかった。その知識はどこからくるのだろうか。彼の特殊能力なのだろうか。
棍棒に魂の力を最大限に込めて、一気に振り抜いた。伐折羅は剣を弾かれて鍵に戻って結界の向こうに飛んでいった。そして、次の1撃で腹を押さえて地に伏せてしまった。
「忌むべき邪悪な存在よ。浄化の炎で無に変えれ」
棍棒に浄化の光を込めて伐折羅に強烈な1撃を放った。伐折羅は断末魔を叫びながら緑の炎、上界の炎に包まれてそのまま存在が消え失せていった。その存在の消去を見届けた棗は、独り言を呟いた。
「後1人」
結界の向こうの葵の鍵を拾うと森の中を再び捜索し始めた。そこで、駐車場に辿り着いた時、そこに待ち構えていたかのようにゾンビ化した龍斗が腕を組んで立っていた。
棗は冷や汗を流しながら、2つの鍵をポケットにしまう。正直、伐折羅との戦いで全ての力を使い果たしていたのだ。
龍斗は青白い顔で微笑を浮かべている。そこで棗は何か疑問を浮かべた。今までのゾンビ達と様子が違った。ゾンビというよりは、普通の人間の姿に近いし、涎も垂らしていない。
「龍斗、どういうことなんだ?」
「もう1つの仮初の魂に勝って、封じ込めたんだ」
「凄い精神力だな。今から浄化する。そこにじっとしていろ」
まだ、信用していない棗は、最後の残る力で浄化の光を放とうとしたが、龍斗は刹那忌々しい微笑みに表情を変えて迫ってきた。
すぐに危機を感じて後ろに飛び退くが、そこに先ほど助けた2人が再びゾンビになっていて彼の両腕を掴んだ。龍斗が2人をゾンビに戻したのだろう。龍斗の拳は棗の腹部にめり込んだ。鈍い音がして、彼の口から緋色の液体が漏れた。
「すぐには楽にはしないぞ」
「お前ら、仮初の魂の目的はなんだ?伐折羅のいない今、存在は無意味なんだぞ」
棗は息を詰まらせながらやっと声にならないような声を発した。龍斗はそれを聞いて微笑んだ。
「あれは道具だ。俺達を呼び出すための。真の主は俺だ。伐折羅の語源は知っているだろう。仏教、ヒンズー教で馴染みのサンスクリット語でヴァジュラ。仏具の金剛杵のことだ。俺達の力を高めて放つ道具だったんだよ」
そこで、棗は両腕の2体の腹部に軽く跳んで蹴りを入れて脱出すると、3人から距離を取った。
「俺達は上界の者の使いだ。しかし、運命を司る者の使者、魂の破壊者とは違う。灰色の存在、紫焔。そして、この2人のように人間に宿るのがその使者。ソウルドレイナー」
「上界の者と直接対決か…」
「経験あるだろう」
「今は部が悪い」
棗はそこで場所を移動させようとしたが、龍斗があっという間に行く手を塞いだ。
「悪いが、我が計画にお前は邪魔だ。最大の不確定要素であり、カオスに属しながらローの力を使用し纏う者よ。最も上界の者に近い人間よ。不条理で不完全な人間の中で、完全で強力、不安定な要素を持つものよ」
棗は力が回復する時間稼ぎのために、話を伸ばしそうと焦っていた。
「何故、龍斗に召喚したんだ。他にも沢山、伐折羅に襲われた者がいたのに」
「理由はない。ただ、気に入ったからだ」
「そうじゃないだろう。伐折羅にやられた者の爪を受けながら、その力を利用してまで、長い間正気を保っていた。それが何を意味しているのか」
すると、紫焔が宿る龍斗の表情は、真剣に変化する。
「この男には、ある種のDeoxyribonucleic Acid (デオキシリボ核酸)の要素が含まれているのだ。SNOWCODEの能力であるSCと呼ばれる普通の人間にはない遺伝情報が異常に多く含まれている。これは、お前達、SNOWCODEの血を引く者の比ではない。突然変異で、極まれにしか生まれない。それにCODEの力も使える。並大抵の伐折羅の使者、仮初の魂では叶わないんだよ。そこで、この男が一番の邪魔になると思い私が宿ることにしたのだ」
「じゃまなら、殺すのが普通じゃないか?」
「この男を殺されたかったのか?」
「そう言う訳じゃないけどよ。でも、腑に落ちない事が大過ぎんだよ。きなくせぇ。まぁ、どうでもいいけどな。お前はここから消えるのだから」
少しは力が回復し始めたので、要は余裕を持ち始めていた。彼もそれなりに力を持っている。果たして、龍斗の力、紫焔の力の融合能力に叶うか疑問であったが、魂の力を再び最大限に高め始めた。その時、彼の体に何かが召喚された。SNOW、葵の魂である。
要の頭の中で葵の声がする。
「紫焔はこの次元を崩壊させることを目的としているの。私達、ローや私達と相反する存在、カオスとも属さない敵対的な存在。私が力を貸すから、必ず紫焔を倒して」
龍斗と紫焔。要と葵。この融合した2者は対峙をしばらくしていた。上界の者を宿った特別なSNOWCODEの勇士の戦いが始まった。
龍斗は衝撃波を放ち、と同時に10mの高さに飛び上がり真空刃を数枚放った。要は葵の得意で無意識に発する性質の結界を張ってそれを跳ね返した。龍斗の体に数筋の血の線が飛び散った。次に、背後に回った龍斗は炎の大きな弾を放った。結界では防ぎきれないので、要は木の枝に飛び移りそれを避けて地面に何かを放った。すると、緑の炎が半径10mに広がった。
「上界の炎か。邪なものは浄化できるが、私には効かない」
彼は刀印を構えてそこから光の剣を発した。要も負けじと鍵を2つ取り出して、剣と棍棒に変化させた。2刀流の要は指より放つ光の剣1本のつば競り合いが始まる。2人ともどちらも引けを取らなかった。しかし、明らかに要の方が魂の力の容量が少なくなっていた。
徐々に押されて剣と棍棒を弾かれて木に突き刺さった。光の剣を振り上げた龍斗は微笑みながら近付き、木を背にした要にそれを振り下ろした。
要は最大限に防御の力を放ち、目を瞑って天命を待った。
刹那、物凄い爆発音がして龍斗は弾かれて旅館の外壁まで吹き飛んで激突した。恐る恐る要は瞳を開けると、そこには不思議な楯を持つ修が彼を庇うように立っていた。
「それは葵の聖杯の鍵」
修は頷いてこう言った。
「呪いの屋敷の蝋人形の部屋だった瓦礫の中にあったんだ。そこに何かを感じたので」
そのまま、修は鍵の楯で要と自分をカバーしながら、立ち上がる龍斗に近付く。そこで、葵の声が要の頭の中に響いた。
「チャンスよ。上界の運命を司る者の鍵が3つ揃ったのは、運命かもしれない。その3つを1つの鍵に組み合わせて」
要は修から奪い取るように葵の鍵を受け取ると、3つの鍵を知恵の輪、パズルのように色々組み合わせてみた。奇妙な金、銀、銅の鍵はすぐに1つの大きな鍵に合わさった。と同時に巨大な大砲になって要の右腕に取り付いた。それは肩まで伸びていて、肩の方から刃が伸びている。大砲を龍斗に向けると、先の砲口の回りに8つのバーが開き黄色い透明のバリアを張った。そのバリアは凄まじい勢いで放たれて龍斗の体にぶつかり旅館の外壁に貼り付けてしまった。
そして、大砲の先端に青い光が徐々に充填されていく。気付いた龍斗は慌てて逃げようとするが、バリアから逃げることができないでもがいている。
要はそのまま容赦なく大砲を放った。凄まじい青い光のエネルギー波が放たれた。その威力は絶大で、当の要でさえ10mは後ろに引き摺られた。爆発を起こして旅館の外壁に大穴を開ける。客間は滅茶苦茶になっている。しかし、それだけで建物の被害が済んだのは、エントランス中央のガラスのクロスの結界のおかげだろう。
爆煙が治まると龍斗は倒れていた。その体から女性の姿の存在が抜け出た。そこで、それにもう1度、鍵の大砲を放った。バリアは彼女、紫焔はそのバリアを通り抜ける。そこで大砲が効かないことを悟った要は、修に龍斗を担がせて避難させた。
そして、紫焔の前に立ち塞がって要は最大限に魂の力を高めた。すると、回りの空間が変化を始めて暗闇で何もない空間に転送された。灰色の存在は流石に困った表情を見せた。
「これがアストラルコード最大の技。次元閉鎖。独自の次元に転移させて、次元の彼方に追放する最強の技」
紫焔はまるで畏怖を感じていない。異形の者や運命を司る上界の者でさえ、恐怖の表情を浮かべ、消えていったというのに。要はかなり不安になってしまった。次に暗黒空間の中で次元の歪みを起こして隙間を開けた。すると、吸引作用が起きて紫焔はその中に、つまり、次元の果てに吸い込まれ始めたのだ。だが、紫焔は思念の鎖を放って要に飛び掛ってきた。要はすぐにそれを避けたが、その鎖が網のように広がった。異次元の空間の『次元封鎖』に『次元の亀裂』という魂の力を極限に使用しているこの場合に、回避の力は残っていなかった。
かつて、この状態で心の折れなく、攻撃を仕掛けてくる者はかつていなかった。紫焔は鎖を要の体に絡めて、その異次元の隙間に一緒に路連れにしようとした。
「早く、次元の隙間を閉じろ。でないと、お前も訳の分からない別の次元に飛ばされるぞ。運が悪ければ、ずっと、次元の狭間の空間を永遠に彷徨うことになるぞ」
すると、怯むことなく要はいつもの寝ぼけた表情に戻った。今度は流石の紫焔も畏怖の表情を浮かべた。
「そんなことがどうした?俺だって、いつでもその覚悟はできているんだ。それに1回開けた次元の穴を何も吸い込ませずに閉める力なんて残っちゃいない」
鎖を素早く引き寄せて、半分異次元に吸い込まれてしまった紫焔は面白そうに微笑んだ。
「面白い人間もいるものだな。自己犠牲か。気に入った。運がよかったら、また会おう。今度は敵ではなく、語らおうではないか」
そのまま、鎖を解いた紫焔は微笑みながら自ら吸い込まれていった。要は次元の隙間から遠ざかり紫焔が吸い込まれて消えるのを最後まで眺めていた。
次元はいつの間にか元の旅館の隣の空間に戻り、要はそのまま全ての力、魂の力を使い果たして倒れてしまった。和馬と修、そして、竜胆がすぐに駆けつけると、倒れている要をしばらく眺めた。
「また、こいつに助けられたのか」
と、和馬。
「これで全てが終わったな」
と、竜胆。
修は親友の過ちが終わったことに涙していた。全てが、これで悲劇がひとまず終わったのだ。ぼろぼろになった旅館を眺める旅館の主人家族。
気が付いた龍斗を背負った校長達はテニス部員達をバスに乗せて自分達も帰るところだった。唯華は修に駆け寄り抱き絞めて号泣した。
最後に駆け付けた美月は信じられないといった感じで、倒れた要に飛び付いた。魂の力を使い果たした要は、息がやけに浅かった。
「彼は最後の1滴まで魂の力を使ったんだ。もう、ヒーリングの力も効かないだろうな」
和馬は非情にそう言い放つ。美月は鳴きながら要の名前を呼び続ける。
「どうすることもできないのか?」
修が唯華を離してそう呟いた。すると、要の体はゆっくりと光り出して、浮き始め始めた。そして、女性の、そう、葵の言葉で要は目を閉じたまま言葉を発し始める。
「彼は大丈夫。紫焔が最後に霞の貴珠を与えたし、私も浄化の力で助けるから。ただ、それでも魂の力を回復させて、精神力、体の傷を癒すだけ。後は彼の生きようとする気力と自己回復に賭けるしかないわね」
そういい残して、葵の魂は要の体から抜けて去っていった。要は地面に落ちると体の傷は癒えていた。
全てはメビウスの帯の運命はゆっくり回転を遅めたのだった。
病院で昏睡状態になって1ヶ月が過ぎていた。要は覚醒して天井を眺めた。頭の中はまだぼうっとしている。記憶を辿り取り戻すのに時間が掛かった。そこでふと気配を感じて、手を伸ばして白亜のカーテンを開ける。そこには、1人の少女が立っていた。
「紫焔?」
その少女は首を横に振った。歳は12、3歳だろうか。
「初めまして。私は志田祢音。CODEは今や変化を遂げたの。貴方や龍斗のように、SC因子を含まれたDNAを持つ、つまり、救世主と呼ばれたSNOWCODEが突然変異で生まれたことで、全てのCODEの法則、摂理が変化してしまったの。葵のCODEは完全にその新しいSNOWCODEには影響を与えることはなく、貴方達は偉大な力を得てしまった。これから、未来にそんな人間が増えてくるでしょう。葵が上界に戻って、鍵は3つとも世界のどこかに消えてしまったので、もう、CODEをどうすることもできない」
「君もその新しい突然変異だね」
「ええ。そして、私達のことをこれからは、全ての人間はCODEと呼び、特殊で偉大な力を持つ私達に畏怖を抱くでしょう」
そういい残して、彼女は消えてしまった。まるで、彼女はこれから永遠の眠りにつきにいくかのように見えた。
次に美月がやってきて、覚醒した要を見て荷物を落とした。そのまま抱きついて号泣した。1ヶ月しかたっていないのに、美月が1回り成長したかのように見えた。その芳しい香りに要は、本当に日常に帰ってきたんだと実感した。
そう、全ては新しい流れを見せながら、要を1時の日常に戻したのだ。
要は自分の多少細くなった足を眺めて、美月を退けると立ち上がって窓の外を見た。不思議そうに美月も窓の方に視線を向ける。
すると、そこには黒尽くめの男性達が祢音を掴んで黒塗りでシートを貼ったベンツに乗せるところだった。彼女は車に乗せられるその一瞬、要と視線を合わせた。
運命はがらっと変わっていくのを要は感じて、その畏怖に近い感情に心が締め付けられるような気がして心臓の辺りを掴んだ。
「大丈夫?無理しないで寝てなきゃ」
美月は彼を寝かせてうれしそうに彼の回復を眺めた。
完
生ける人形シリーズの大きな区切りとも言える作品です。
「アンティークドール」の完結編でもあるので、グーグルブックスで読んだ後の方がより楽しめると思います。
登場人物の相関図やどういう人物か、設定や過去にこの場に何があったか等が良く分かります。