私
扉をくぐった私は女の子の絵が飾られた廊下を歩いていた。
「私、元の世界に戻ったら皆に謝ろう。救いの手を出してくれたあの子達、お互いに馬鹿にしていたあの子達、そして私を支えてくれているお父さん」
早く元の世界に帰らなくてはいけない。やらなくていけないことがたくさんある。
「不思議ね。つまらない世界ってあんなに言ってたのに、私はあの世界がとても恋しい」
つまらない学校。
つまらない家。
つまらない世界。
かつてはそう思っていた。しかし私の見方が変わるだけで、こんなにも愛しい世界になる。
「でも帰るためには進まなくちゃ行けないってもう一人の私が言ってたわね」
1つ前の部屋にいたもう一人の私の言ったことを思い出した。
「やっぱり回れ右をしただけじゃ帰れないのね。いいわ! ここまで来たらやってやろうじゃない!」
私は胸を張り、大きく腕を振りながら歩き、扉についた。
真っ黒な扉。ひとつ前の部屋とは対照的な、全てを呑み込みそうな黒。
まるで私の黒い心が現れたかのような扉だった。
「この部屋では私の弱く、暗い心が襲ってくる……」
私は真っ黒なドアノブに手をかけた。
心臓がドクンドクンと波打つ。ドアノブを握る手が微かに震える。
「あ、あはは……流石にちょっと怖いわね……」
自分自身の弱く、醜い心。
誰しもが目をつぶりたくなるような自分。それが私を襲う。
「怖い……でも……」
私の表情に少しずつ自信の色が現れた。
「私なら大丈夫!」
私は力強く扉を開けた。
扉から光が放たれ、私を包み込んだ。
*
私は少しずつ目を開けた。
目の前には大きな青空が広がっていた。
雲ひとつない、とてもきれいな青空。
「……?」
私は草むらで仰向けになっていた。
「あれ……? 私、たしか次の部屋に……?」
混乱した頭のまま私は身を起こし、あたりを見回した。
周りには子供や大人など、様々な人達が遊んでいた。
「人がいる……」
私はもう一度あたりを見回してみた。
ボール遊びをしている親子。
ベンチに座って休んでいる老人。
本を読んでいる男性。
元気にさえずる小鳥。
「もしかして元の世界に戻ってきた?」
混乱する私の目の前に、何も不思議なことはない、ごく当たり前の風景が広がっていた。
「ここ……見たことあるような気がする……」
昔、いや、最近にも見たことがあるような気がする場所。
「それよりも今までのは夢だったのかしら? もし夢だとしたらどこからが夢なの?」
私の頭はますます混乱した。
「私は家を飛び出て……そしてアパートに入って、襲われて、愛ちゃんに会って、お父さんとお母さんのことを知って、私を知って、そして次の部屋に入った……」
私は今まで起こったことを順に思い返した。
状況を整理すると共に混乱が少しずつ解け、冷静さを取り戻していった。
「そうよ! 愛ちゃん! あの時の事を夢じゃないって証明できるものがあるじゃない!」
そう言って私は前髪に手を持って行き、サラサラの髪とは違う、固いものを握った。
ピンクのヘアピンが太陽に照らされ、私の手の上で綺麗に光る。
「ヘアピンがちゃんとある……良かった……愛ちゃんとの出来事は夢じゃなかった……」
大切な友人とのつながりがあることに私は安堵し、ヘアピンを髪に戻した。
次に私はリュックの中身を漁った。そこには思った通り契約書とノートがあった。
「やっぱり夢じゃないって事ね。ということは、ここはやっぱり部屋の中なのね」
そう言いながら私は契約書を見つめた。2つの空欄が目に入る。
「あと2部屋……」
もう少しで元の世界に帰れる。こんな偽物の世界じゃない、元の世界へ。
「とりあえず、ここにいても何も始まらないわね。扉を探さないと」
ここにいても埒が明かない。私は契約書とノートをリュックにしまい、歩き出した。
………
……
…
私は周りを見渡しながら歩いた。
「どう見ても私の知ってる世界ね。今までみたいな非現実的な部屋ではない、普通の世界」
時折吹く風が私の黒い髪を揺らした。
「それに他の人もいる」
そう言って私は歩きながら、少し遠くにいる親子を見つめた。
男の子とその父親らしき人がボール遊びをしている。
子供が笑顔で明後日の方向にボールを投げ、それを父親が笑顔で取りに行く。
「とっても仲の良い親子ね。私とは大違い」
私の胸にチクリと小さな痛みが走った。
私は親子から視線を外し、再び前を向いた。
「でも昔の私もあんな風に遊んでたのよね……」
私はゆっくりと目を閉じ、映写機の部屋で見た映画を思い出した。
お父さんとお母さん、2人と手をつないで草むらを歩く私。
「あぁ……そっか……見たことあると思ったら、ここはあの時の草むらなのね」
私は最初に感じた既視感の正体を突き止めることができた。
過去に訪れ、2つ前の部屋で見た場所。
「そうよ。ここは隣町にある公園。昔、よくお父さんとお母さんと遊んだ公園」
「でもお母さんが病気になってから、もうここには来てない……」
母親が床に臥してから、私は笑わなくなり、出かけることもなくなった。
「また昔みたいになれるかな……いや、なれるように頑張ろう!」
あの親子のようになる! 私はそう心の中で思いながら振り返り、再び親子の方に視線を向けた。
「……あれ?」
しかしそこに親子の姿はなかった。
「……? 変ね……さっきまであそこで遊んでたはずなのに……」
私はあたりを見回した。
他の人は先ほどと同様に遊んでいる。しかしあの親子の姿は見当たらなかった。
「もしかして帰っちゃった? でもそんなに長い時間考えてたわけじゃないのに……」
嫌な予感が私の体に走り、何とも言い知れぬ不安感が押し寄せてきた。
「きっと帰っただけね……そうに違いないわ……」
私はじわりじわりと胸に押し寄せる不安を抑えながら、再び歩き出した。
後ろから聞こえてくる笑い声がなぜだかとても小さく聞こえた。
*
歩き始めてからしばらくたち、私は公園を出て、人や車が行き来する商店街に来ていた。
「公園以外にも行けるなんて意外だわ」
今までの部屋はある種一つのテーマのようなものがあった。
部屋が複数あっても、同じような雰囲気の場所であったように、今回も公園なら公園のままであると私は思っていた。
「どこに行けばいいのかしら……こんな膨大な広さの部屋を探すなんて……」
私は思わずポツリとそう呟いていた。
私はハッとなり、振り払うかのように頭を振った。
「弱気はダメよ! 今までもそう言って私は扉を見つけることが出来たじゃない。今回も見つけられるわよ!」
そう言いながら私は自分の頬を軽く叩いた。
「それにしてもここが部屋ってことを忘れちゃいそうね」
私は目の前に広がる光景を見つめた。
スーツを着た大人。
友達と歩く女学生。
手をつないで歩く親子。
様々な人が道を行き来しており、まるで川の様であった。
「……私、やっぱりまだ苦手ね、人が多い所は」
私は微笑みながらため息をついた。
「でもいつかは克服して見せるわ。そのためにもまずは経験ね」
そう言いながら私は人の川の中に入っていった。
………
……
…
人の流れに乗りながら、私は歩く。
人の流れは思ったよりも早く、私は普段よりも速いペースで歩いた。
「……」
私はあたりを見渡そうとした。
しかし私よりはるかに大きい人が壁のように私の周りにたたずみ、周りを見ることが出来なかった。
「……」
私の体に緊張が走り、額に一粒の汗が流れた。
私は口を紡ぎ、黙って人々の流れについて行く。
ガヤガヤ……
ザワザワ……
周りの人々は友達と話しながら、あるいは通話をしながら歩いていた。
「すみません! 通ります!」
突如、1人の走っている男が大声をあげながら私にぶつかってきた。
「痛っ……!」
体に衝撃が走り、思わず私はふらついてしまった。
ふらつき、流れを乱した私を意に介さず、周りの人々は歩き続ける。
スーツ姿の男にぶつかる。
制服を着た女学生にぶつかる。
まるで追い出されるかのように、私の体は流れの外へと押し出されていってしまった。
「はぁ……はぁ……」
人ごみから抜けた私はお店の外壁に手を付きながら休んでいた。
「今思ったら……私、ひとりでこんなところに来るのは初めてね……」
人々の歩きに合わせる、ただそれだけの事なのに私は肩で息をしていた。
「あはは……私って小っちゃいわね……周りの人が大きく見えて……怖いわ……」
そう言いながら私は顔をあげた。ガラス越しにお店の中が見える。
可愛らしい内装が施された店内。
そこにはたくさんのオモチャや人形が置かれていた。
「ここ……もしかして!」
私は急いでお店の中に入った。そして店内を歩き、クマの人形が置かれたコーナーで止まった。
「このお店! お母さんとお父さんからアンドリューをもらったお店だ!」
そういって私は右手に握っているアンドリューを見つめた。
「アンドリュー! ここ! 私たちが出会った場所よ!」
私は興奮しながらアンドリューを抱きしめた。
「私たちの記念の場所よ! あはは! まるで運命ね! こんな形でまたここに来れるとは思わなかったわ!」
どんどん気持ちが高まり、私はアンドリューと手をつなぎながらその場でクルクルと踊り始めた。
グルグルと回る私の視界に一人の店員が映り、私はハッとなり踊りを止めた。
店員は無言で私に近づいてくる。
「ごめんなさい……迷惑をかけちゃいました……」
店内で迷惑な行為をしてしまったと思った私は、近づいてくる店員に対し謝った。
「……」
しかし店員は私に何を言うこともなく、そのまま通り過ぎていった。
「あれ?」
私は店員の予想外の行動に戸惑った。
謝罪しているのに一言も声をかけない。それどころかこちらを見もしなかった。
「あの……」
私は店員に声をかけた。しかし店員はこちらを見ない。
「あの、すみません。怒っていますよね。私、ちゃんと謝りたいです」
そういいながら私は店員の袖をつかんだ。
しかし店員はこちらを見ない。
「……?」
私は戸惑った。袖を掴んでいるのに全く反応しないのはおかしい。怒っているのなら払うくらいのことはやるはずだと私は思った。
「何か……おかしいわ……」
私は店員の袖から手を離し、店内にいる他の人に向かった。
「あの! すみません!」
私はわざと大きな声で店内にいる女性に話しかけた。
しかし女性はこちらを見ない。
「もしかして……」
私は他のお客の方に向かい、もう一度声をかけた。
「すみません!!」
しかしお客はこちらを見ない。
「見えてない……それに聞こえてないし、存在に気づいてもらえてない……」
大きな声を出しても、袖を掴んでも反応がない。
まるで私を無視しているかのようだった。
「そう言えば無視されることはなかったわね……こんなにも心にくるものだとは思わなかったわ……」
初めて経験する存在の否定に私の胸は締め付けられた。
「……扉を探しましょう」
さっきまでの浮かれた気分は消え去り、私の心は暗い気分で満たされていた。
気まずい雰囲気に包まれた私は、その場から逃げるようにお店の出口に向かった。
「……あれ?」
お店の外の通りを見て、私は一つの違和感を覚えた。
あんなにたくさんいた通行人の数が減っている。
「なにこれ……」
私は親子がいなくなった時と同じ嫌な予感がした。
「絶対に変……何が起きているの……」
不安な気持ちを抱きながら、私はお店から出た。
並んでいるお店。
走っている車。
歩いている人。
青を点灯している信号。
そびえ立つ電信柱。
そびえ立つ大きなクマの人形。
遠くに存在する、現実にはありえないものがそこにはあった。
たった一つの非現実的な存在により、普通の世界観が崩壊を始めた。
建物を遙かに超える大きさのクマの人形が、通行人を掴んでは口に運び、丸飲みにしていた。
「え・・・?」
衝撃的な存在と衝撃的な行動に対峙した瞬間、私の思考は止まった。
固まったまま眺めているだけの私とは対照的に、大きなクマの人形は絶え間なく、歩いている人を掴んでは口に放り込んでいた。
「なに……これ……人が……食べられ……」
全身がガクガクと震える。
私の頭の中で思考が物凄い勢いで空回りする。
全身が一気に冷え、私は熱いものが胃から徐々に上がってくる感覚に襲われた。
「ウッ!!」
私はたまらず床に吐いてしまった。
こんな驚異的で異常な物体が存在する中、人々はクマを見ることなく、友達と話しながら、あるいは通話をしながら歩いていた。
「なんで……普通にしてるの……?」
強すぎる刺激。私は膝から崩れ落ち、俯いた。
歩いている人々から笑い声が聞こえてくる。多くの人がクマの人形に食べられているのにも関わらず。
「他の人には……アレが見えてないの……?」
その時、突如として物が崩れる音がした。
私は驚き、音がしたクマの人形の方を見た。
クマの人形が周りの建物を壊している。
「他の人から見た私と同じで……アレが見えてない……」
ガラガラと大きな音を立てながら建物が崩れ始めた。
「私と……同じ……」
『あなたの負の感情があなたを襲う』
私は前の部屋の言葉を思い出した。
「そんな……これが……私の心……」
建物は完全に崩れ落ち、私は立ち上がってその場から逃げ出そうとした。
建物を崩したクマの人形は大きな拳を再びあげ、別の建物に振り下ろした。
大きな音と共にあたりに衝撃が走る。私は思わず転んでしまった。
幾度となく走る衝撃に、私は立っていられなくなり、這うようにしてその場から逃げた。
*
物が崩れる音が聞こえてこなくなった頃、私は多くのビルが建っている駅回りに来ていた。
私は駅の中にある大きなデパートに入り、トイレで嘔吐していた。
「はぁ……はぁ……」
胃が空っぽになり、吐き出すものが無くなった私は便座に座り、しばらく休憩をとることにした。
「こんなの……頭がおかしくなりそう……」
私の頭の中で、先ほどの衝撃的な光景が何度も繰り返し映し出される。
崩れ落ちる建物。
人を食べるクマの人形。
そして何事もないようにしている人々。
「あんなおぞましい物が……私の心……」
あの異形の物体こそが私の黒い心の現れ。
その現実が何よりも私の心に大きな衝撃を与えた。
「こんなところにいられない……早く扉を見つけないと……」
私はだるい体に鞭を打ち、立ちあがった。
洗面所で汚れた口をゆすぎ、顔を上げる。
目の前の鏡に酷い顔が映しだされた。
私はすぐに鏡から視線を外し、トイレから出ていった。
体力がまだ回復していないためか、私はふらついた足取りで歩いた。
デパートの中は人で溢れており、ふらついている私は買い物に来ているお客にぶつかりながら出口を目指した。
「ハァ……ハァ……」
呼吸が乱れる。
さっきの光景が未だに頭の中で再生され、その都度体が冷える感覚に襲われる。
瞼を閉じればクマの人形の顔が鮮明に映し出され、冷や汗が溢れ出てくる。
私の体と心を責める存在を我慢し、ようやく出口についた。
「え……?」
私は思わず声を漏らした。
瞼の裏に現れ、私を苦しめるクマの人形が出口にたたずんでいた。
建物を超えるほどの大きさのクマの人形がデパートの中にいるわけがない、私はそう思っていた。
しかし現実問題としてクマの人形が私の目の前にいる。
「な……んで……中にいるのよ……?」
今にも暴走しそうな脳内の思考を必死に抑え、クマの人形を見つめた。
さっきより小さい。商店街にいる時は建物の屋根をはるかに超える大きさであったが、目の前にいるクマの人形はアパートの天井に頭がつく程度の大きさであった。
「ハーッ……! ハーッ……!」
緊張のせいで私の呼吸は大きく、深いものになっていた。
酸素を脳に送り込み、脳を活性化させ、私はなんとか落ち着きを取り戻そうとした。
「落ち着きなさい……大丈夫……大丈夫……」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
「あ、あなた大きさを自由に変えられるのかしら!?」
私は興奮を必死に抑え、出来る限り冷静にクマの人形に問いかけた。
しかしクマの人形はまるで本物の人形の様にピクリとも動かない。
「あなたは私の暗い心何でしょ!? もしかして私とお話したいのかしら!?」
私は再度クマの人形に問いかけた。
やはりクマの人形は答えない。しかしクマの人形は別の行動を起こした。
ゆっくりと、まるで壊れかけの人形の様に左右に揺れながら私に近づいてきた。
その様子を見ていた私に嫌な予感がよぎる。
(逃げなきゃ!!)
今までの経験から危険を察知した私はクマの人形に背を向け、走った。
人混みを掻き分けながら私は走り、エレベーターに向かった。
(もしエレベーターに乗れたら相当離せるわ! とりあえず距離を置いて冷静に考えなきゃ!)
時折人にぶつかりながらも、私はエレベーターについた。
エレベーターは3階から降りているところであった。
(さっきの様子を見ると、動きはすごくゆっくりのようね。これなら間に合う!)
私は後ろを振り返った。様々な人が歩いており、クマの人形の姿はまだ見えない。
私はエレベーターのランプを見た。2階のランプが点灯した。
後ろを見る。クマの人形は見えない。
ランプを見る。まだ2を点灯している。
後ろを見る。ランプを見る。後ろを見る…………
(もう! 早く……! 早くして……!)
人は冷静になろうと思っても容易にはなれない。なかなか来てくれないエレベーターに私は苛立ちを覚えていた。
少ししてから1階のランプが点灯した。
私は後ろを振り返った。しかしクマの人形の姿はない。
(良かった! 間に合った!)
チンッという到着を知らせる音が鳴り、エレベーターの扉が開かれようとしていた。
しかしその時、エレベーターからガン!ガン!と固いものを叩く、すさまじい音が聞こえてきた。
「今の音は!?」
私はまだ開かれていないエレベーターの扉を見つめながら、一歩後ずさった。
エレベーターの扉がゆっくり開かれる。
中に人の姿はなく、代わりにエレベーターの天井に頭が届く程度の大きさのクマの人形が立っていた。
中の壁はあちこちが窪み、ガラスが割れ、さらには階を指定するパネルがあると思われる場所から煙が立ち上っていた。
「……嘘」
当たってほしくない予想が見事的中した。
私は壊れて使い物にならないエレベーターに背を向け、再び走り出した。
………
……
…
「どうやって先回りしたのよ!? もしかして瞬間移動!?」
私はそう叫びながら走った。
クマの人形がゆっくり歩いているのを私は確かに見た。
しかしクマの人形は私より先にエレベーターに乗っていた。
その事実がクマの人形が普通に歩いて追いかけてきていないことを証明した。
「瞬間移動できるなんて……!反則じゃない……!」
私は息を切らしながら、そう叫んだ。
まだ体調が本調子でない私は少し走っただけで体力の限界を迎えてしまった。
「はぁ……はぁ……」
もう走ることが出来ず、私はフラフラと壁に向かって歩き、寄りかかった。
「絶望的な・・・状況ね・・・」
私は息を切らしながら俯き、呟いた。
もう走る体力はなく、扉の位置もわからず、クマの人形は瞬間移動をする。
私はかつてない窮地に立たされていた。
しかし私の表情は絶望に染まってはいなかった。
(不思議に……思うことがあるわ……)
私は一つの疑問を持っていた。
瞬間移動が出来るならば、なぜそれを使って直接捕まえないのか。
わざわざエレベーターに乗る必要はない。それどころかエレベーターを壊す必要性だってない。
(エレベーターを壊したのは……何か別の理由がある……?)
私は思考を走らせた。
何か解決の糸が掴めそうな、そんな予感が私の気持ちを後押しした。
(クマの人形が現れたのは商店街? いや……多分公園にもいたわ。親子が消えたのもクマの人形がやったとしか思えない)
(つまり公園、商店街、アパート、エレベーターに現れた)
(あの時、私は何をしたか……親子を見て、人混みを歩いて、アンドリューのお店に入って、クマの人形に会って、トイレで吐いて、またクマの人形に会って、エレベーターを待った)
(良い家族……思い出の場所……衝撃の光景……嫌悪感……苛立ち……)
(あのクマの人形は……私の暗い心……)
私は今まで起きたことを思い返した。
そしてピースを埋めるように次々と出来事の関連付けをした。
「そっか……そういうことなのね」
私は疑問の答えを得ることが出来た。
(この部屋の住居人は私の暗く、黒い心。つまり私の負の感情に反応して現れている。)
最初の親子に私は嫉妬を覚えていた。自分には無い、理想的な親子像に、私は嫉妬していた。
次に消えた商店街の人達に対して、私は恐怖を覚えていた。だからクマの人形は商店街の人達を襲った。
デパートでは、私を責める、頭と瞼の裏の光景に嫌悪感を。だからクマの人形は私を襲ってきた。
エレベーターでは、なかなか来ないエレベーターに苛立ちを。だからエレベーターを壊した。
「私が負の感情を向けると、クマの人形が現れ、そして原因を取り除くように壊す……」
息を整えた私は振り返り、再び出口に向かって歩いた。
「私の考えが合っていれば、もうクマの人形はいないはず……」
遅すぎず、かといって速すぎず、私はいつも通りに普通の速度で歩いた。
「大丈夫。自分を信じなさい」
私は自分に言い聞かせた。
人混みを掻き分けて歩く。相変わらず人に何度もぶつかったが、先ほどとは違い、不快感を持たなかった。
(私もしっかり周りを見て歩かないと)
ぶつかったのは決して相手がこちらを見えていないからだけではない。
今考えると私も周りをよく見ていなかった。
「まるであの子達と私みたいね」
私を苛めてくる子供達。今まで私は一方的に相手が悪いと思っていた。
しかし事実は違い、私にも悪い所があった。
物事は決して一方的ではない。
自分以外の意思が働き、物事が出来上がっていく。
「考え方が変わるだけで、物事は変わる。嫌いな世界が好きになったり、自分でも気づけない自分に気づけたり……」
私は大切なことに気が付いた気がした。
人混みを掻き分け、私は出口についた。
そこにクマの人形の姿はなかった。
*
デパートから出た私は、切符を買い、駅のホームで電車を待っていた。
目的地は隣町。私の家、学校、そしてあのアパートがある町。
「きっと……扉はあそこね」
私がそう呟いたと同時にアナウンスが流れ、電車が到着した。
電車の中は人が少なく、席がぽつぽつと空いている程度だった。
私は空いている席に座り、窓から外を眺めた。
ビルやマンションなど様々な建物が過ぎ去っていく。
遠くでは人や自転車、車などが忙しなく動いている。
(あのクマの人形に会わないようにするには負の感情を抱かないようにすること……)
(でも、そんなことは無理。ただ生きているだけで、いろんな嫌なことが起こるわ)
私は向かいに座っている仲の良さそうな親子を見つめた。
(あんなに仲の良さそうな親子だって喧嘩をしたりする。ずっと仲が良いなんてことは無理)
私は再び窓から外を眺めた。
(今過ぎ去っていく建物にもいろんな人がいて、いろんな嫌なことが起こって、いろんな負の感情を抱く)
(負の感情を抱かないなんてことは無理なの)
(じゃあクマの人形が現れて、私は死んじゃうの?)
考え事をしているうちに、電車は目的の駅に到着した。
………
……
…
あたりは夕焼け色に染まり、赤く輝いている。。
私は前を見つめながら、扉があると思われる場所に向かって歩いた。
(いいえ、クマの人形が現れてじゃない)
(ここではクマの人形が襲ってくるけど、元の世界も同じ。負の感情を相手に向けたことによって、相手が私を襲ってくるかもしれない)
(……私が苛められるように)
そう考えながら私は通り過ぎる私の学校を見つめた。
日は徐々に沈み、私の考えは続いていく。
(じゃあ負の感情を抱いたらダメなの?)
日は完全に落ち、私はアパートに着いた。
………
……
…
無駄に明るい人工的な照明が灯る廊下を私は歩く。一番奥の目的の場所に向かって。
(負の感情を抱かなかったら、自分は嫌な思いをしない。それに相手も嫌な思いをしない)
私はゆっくり廊下を歩く。
(負の感情を抱くことに良い事なんてない。どう考えたって負の感情を抱かない方が良いに決まってるわ)
「でも……」
そう呟き、私は歩を止めた。
扉の前にクマの人形がたたずんでいた。
「やっぱり。現れるよね」
私はクマの人形を見つめた。
「だって怖いもの。あんなにいろんなことをお父さんに言っちゃったし、もしかしたら、心の奥底では私のことを嫌に思ってるかもしれない」
「それに、私を虐めてるあの子達だって、虐めをやめてくれないかもしれない」
「助けようとしてくれたあの子達だって、私を許さないかもしれない」
私は俯き、震える手を見つめた。
「怖いわ……どうしようもなく不安に思うの……こんな気持ちを持たない方が良いのかもしれない……」
「でも……」
私は顔をあげ、真っ直ぐクマの人形を見つめた。
「でも、これで良いの。不安になっても良いのよ」
真っ直ぐクマの人形を見つめ続ける。
「この世界にいる人達を見て私は思った。あなたに襲われてるのに、誰も悲しまないし、恐れない。それがすごく気持ち悪かった」
襲われながらも無表情でいる人々を思い出す。
「だから恐れて良いの。失敗をして、落ち込んでも良いの」
「だって、それだって素敵な思い出じゃない」
私は微笑んだ。
「失敗してわんわん泣いて、嫌われて悲しくなって。でもそれってとっても美しい事なの」
私はクマの人形に手を差し伸べた。
クマの人形はゆっくり手を伸ばし、私の手を握った。
「あなたはいた方が良いのよ。だってその方が良いもの」
クマの人形から小さな光が溢れ、少しずつ薄くなっていく。
「素敵な悲しい思いをして。素敵な嬉しい思いをする」
「それが人生なのよ」
私は笑顔を浮かべた。
クマの人形の姿は見えなくなった。
伸ばしていた手をおろし、私はドアノブに手をかけた。
クマの人形は見えなくなった。でも確かに存在している。
それがたまらなく嬉しく、愛おしい。
私は満面の笑みを浮かべながら、ガチャリと言う音と共に、扉を開けた。




