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12(白い呼気)

 思わず掴まれていない片腕を上げて顔をかばった。ガツンと骨に染み入る音がした。そろそろと目を開けて、べっこりへこんだ壁に拳が埋まっているのを見た。「こっち見なさい」

 恐る恐る視線を向けた叔母は本気で怒っていた。一拍の後、頬を強く張られた。

「姉さんは関係ない。あたしが決めた」

 知っていた。叔母はわたしのこと思ってのことだってことくらい。分かっていた。叔母はいつだってわたしのことを考えてくれているのを。

 掴んだ手首を放された。真っ赤になって、張られた頬より胸の奥がひどく痛んだ。

「美香子。確かにあたしは姉さんからお金を預かってる。それには一切手を付けてない。あんたが将来進学したい時やどうしようもない突発的なときのためにあんた名義の口座に貯め込んでる」

 叔母は小さく情けないため息を吐いた。「それと大した額じゃないけど、あたしになんかあったとき、相続人はあんただ。ねぇ、ミカ。叩いたのは悪かったと思う。でも叩いた事実をあたしは謝らない」

 わたしはいたたまれなくなって叔母に背を向け、そのまま家を飛び出した。

 分かっている。叔母がわたしをどう思っているかを。


   *


 ひとつ。わたしは両親の都合で帰る家を失った。

 ひとつ。わたしは自分の勝手で帰る家を失った。

 暗い夜だった。空気は硬く冷たく尖っていた。着の身着のまま飛び出し、すでに季節が冬になっているのだと思い知った。身体が震えて、両肩を抱いた。

 叔母と真っ向からぶつかったのは初めてだった。その修復の仕方をわたしは知らない。背を向け家を飛び出した事実に胸が支えた。叔母とわたしは家族でなく、叔母とわたしは親子でなく、叔母とわたしは、互いに遠慮していたのではないかと思い当たり愕然とした。

 夜空を仰ぎ見る。白い息が細く長く流れていく。頼りない街灯の青白い光の下、人気の無い道をひとりで歩いていると、煌々と照らされた電話ボックスが目に入った。一年以上もこの土地にいて、初めて知った。こんなにはっきりした物なのに、今の今まで知らずにいたのが不思議だった。ふいに江戸川の顔が思い浮かんだ。江戸川の声が聞きたいと思った。けれどもわたしは空手だった。番号交換の時に江戸川のいった言葉の正しさを痛感した。どうして番号を憶えておかなかったのだろう。バカ。自身を罵って白いため息。電話ボックスの光が照らすアスファルトのでこぼこを見ながら横を通りすぎた。

 ケータイだけでなくお財布もない、バカ。番号を憶えていてもかけられない、バカ。

 惨めな気持ちで胸がどうしようもなく一杯になって、余計に江戸川の声が訊きたくなった。江戸川の顔を見かった。江戸川に話を訊いて貰いたかった。路面に落とした視界の中に光る黒いエナメル靴のつま先が割り入った。

 地面から引きはがすようにゆるゆると顔を上げた。金色の金具のついたアンクルストラップ。黒いタイツ。黒いロングスカート。深紅色のコートを着た江戸川がいた。

 しばらくわたしたちは見つめ合った。白い呼気が互いの口元からゆるゆると生まれて消えた。

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