東京タワーのフランク・ザッパ
チマ・ブレンタは快晴だった。
早朝。生まれたての空気はひんやりと心地よく、深呼吸すると全身の細胞が再生するような気がした。
僕と沢村恭子は登山口の駐車場に車を停め、それぞれの装備を念入りに点検した。
「言っておくが、この山はそんなに簡単には登れないよ。もしもきついと感じたら、そのときは無理をせず、正直に言ってほしい。強がりは命取りだから」
そう忠告すると、恭子は目でうなずいた。
我々は山道を歩き始めた。
なだらかな斜面を、ほぼ水平のハイキングコースが続いている。石ころが多いが足場は悪くない。
四十分ほど歩いたころから、山は少しずつ本来のどう猛な素顔を見せ始めた。崖の中腹を削ったような細い道を、岩肌に抱きつくようにして歩く。登山者の練度と執念を試すかのように道は険しさを増していく。
それでも恭子は、息を切らすことなく黙々と岩の間を進んだ。彼女は見た目よりずっとタフだった。
コースに沿って張られたワイヤーに命綱をかけ替えながら、我々は一歩ずつ慎重に足場を選んだ。空気が薄まり、肺の動きが活発になる。霧が出てきた。恭子の蹴った小石が斜面を勢いよく転がり、霧の中に吸い込まれていった。
振り返ると、恭子が立ち止まっていた。小石が消えた白い闇の中を、無表情に見つめている――。
沢村恭子がその町にきたのは、別れた彼氏に謝るためだった。初めて会ったとき、少なくとも彼女は僕にそう言った。イタリア北部の小さな町を、そんな理由で訪ねてくる日本人は初めてだった。
僕はその町で、観光客相手の山岳ガイドをしていた。といっても本格的な登山というわけではなく、アマチュア向けの軽いハイキングだ。日本の代理店と提携していて、一年を通じて客に困ることはなかった。客の多くは新婚カップルで、彼らの話し相手を無難につとめ、「想い出づくり」に貢献するのが僕の仕事だった。
ある日、町で食堂を経営しているミケーレが「日本の女の子が道に迷っている」といって僕の事務所に連れてきた。
彼女は二十代半ばで、赤いフリースとブルージーンズをさっぱり着こなし、それほど大きくないバックパックを担いでいた。ニット帽から伸びた黒い髪が、ピアスをした小さな耳をふわりとおおっていた。
「詳しくは分からないが、恋人を探しているらしいんだ」とミケーレは僕に耳打ちし、肩をすくめて出て行った。僕は事務所のドアを閉め、彼女に椅子をすすめた。
ストーブを少し強めに設定しながら「東京から来たの?」と尋ねた。彼女はうなずいて、部屋の中を見回し、壁に貼られた観光PR用のポスターに目をとめた。
「チマ・ブレンタだよ」と僕は言った。
「チマ……ブレンタ」彼女はオウム返しにつぶやいた。
紺碧の空に白く輝く太陽。雲海を切り裂き、天に向けてそびえ立つ山々。
彼女はその写真を、まるで失った記憶の断片を探し当てたみたいに、じっと見つめている。
「人を探しているんだって?」
僕が聞くと、少し驚いた様子でこちらを見た。
「ああ、ごめん。さっき君を連れてきた男、ミケーレというんだけど、彼から聞いたんだ。探してるのは恋人?」
彼女は首を振って「元、恋人」と訂正した。「別れたんです」
「そう……。じゃあ、仲直りをするために追いかけてきたんだ?」
「ううん。仲直りはしない。ただ……」
「ただ?」
「謝りたいんです」
彼女はそう言ったきり、黙ってしまった。僕はしばらく続きを待ってみたが、やがてあきらめて、ポットの紅茶をカップに注ぎ、「熱いよ」と言いながら手渡した。
「ありがとう」
彼女は紅茶を一口飲むと、「その……チマ・ブレンタ?」と確認するように僕の目を見て、「この町からは遠いんですか?」と聞いた。
「そうだな、登山口までは車で三十分といったところかな」
「行ってみたいんだけど、案内してもらえます?」
「ビジネスとして?」
「もちろん」
「分かった。ただ、その仕事を引き受けるための条件が、ひとつある」
「何?」
「自己紹介」と僕が言うと、彼女は初めて笑顔を見せた。
「――大丈夫?」
小石の転がり落ちた先を見つめる恭子に声をかけた。彼女は顔を上げ、うなずくと、また歩きだした。
やがて峠を越え、広く、緩やかな道に出た。ペースを落として恭子と並んで歩いた。
「ひとつ聞いてもいいかな」と僕は尋ねた。彼女は前を向いて黙々と歩いている。構わず聞いた。
「まさかとは思うけど――」恭子の足が止まった。「――よからぬことを考えてないよね?」
「よからぬこと?」
「つまり……」
小石が吸い込まれて行った崖の下へ目をやる。
彼女も僕の視線の先を追った。しばらく考えてから、ふっと笑って「考えてないよ」と答えた。
「なら、いいんだ」
二人はまた歩き始めた。
「その、恋人と別れたと聞いていたから、てっきり……」
「死に場所を探しにきたんじゃないかって?」
「まあね」
「大丈夫。飛び降りたりしませんから」恭子はおかしそうに笑った。
「そうだよな」と僕も笑った。「ところで、その彼とはどこで知り合ったの?」
悪意はなかった。ただ話の流れを絶ちたくなかっただけだ。でも、その問いかけは、彼女の顔から再び笑みを消し去ってしまった。
二人はしばらく黙ったまま歩き続けた。
ざっくざっくと土を踏む単調な音が、石灰岩の壁に反響した。
「いや、気が進まないならいいんだ」と僕は弁解した。「ちょっと聞いてみただけだから」
恭子は立ち止まって顔を上げ、空を見た。
いつの間にか霧は晴れていて、太陽がまぶしかった。彼女は目を細め、手で日差しをよけた。
*
沢村恭子の話では、彼女と元恋人は仕事で知り合ったということだった。彼女は音楽雑誌のライターをしていて、彼はその雑誌と契約しているカメラマンだった。
その日は売り出し中のロックバンドにインタビューする予定が入っていて、バンドの所属事務所は撮影場所として東京タワーの中にある蝋人形館を指定していた。
時間より早く着いた恭子は、ぶらぶらと館内を見て回った。
東京タワーなんて両親に連れてこられた小学生のとき以来だ。もちろんそのときは蝋人形館には入らなかった。入ればきっと泣きだしていただろう。小学生には刺激が強すぎる。
展示された蝋人形たちはピクリとも動かず、薄明かりの中で一点を見つめていた。「ブレード・ランナー」に出てくるレプリカントのように、こちらが気を緩めた瞬間、ジロリとにらんで襲いかかってきそうだった。
フランク・ザッパの前まできて彼女は足を止めた。待ち合わせていたカメラマンは、すでにそこにいた。大きな一眼レフのニコンを抱え、現代音楽の奇才と向き合っていた。
「こんにちは」と話しかけると、彼は振り返り、小さな声で「どうも」と言った。
それから二人は名刺を交換した。カメラマンは瀬畑龍之介という名前だった。見た目の年齢は自分と同じぐらいだが、おそらく少し上だろう、と彼女は思った。
取材が始まるまでの間、二人はお互いの仕事の話をした。
彼は風景写真が専門だった。音楽専門のカメラマンが風邪で休んでしまって、ピンチヒッターが自分に回ってきたんだ、と彼は説明した。
「普段は人を撮ることが少ないから、なるべく細かく注文してくれると助かるな」と龍之介は言った。
「大丈夫。人と言っても彼らパンクだし、ある意味ヒョウやオオカミを撮るのと同じですよ」
「ふうん、そういうものかな」
「そういうものです」
龍之介は目の前の蝋人形にカメラを向け、シャッターを切った。液晶画面で写り具合を確認する。
「フランク・ザッパって人間なんだな。怪獣かと思ってたよ」と彼は言った。
「かいじゅう?」
「『大怪獣ザッパ 東京タワーを襲う』みたいなさ」
恭子は龍之介を見た。本気で言っているのか、冗談なのか、判断がつかなかった。たぶん冗談なのだろう。
彼はただ黙々と撮影機材の準備を続けていた。
取材が終わって二人は神谷町のイタリアン・カフェに行き、遅い昼食をとった。
龍之介は自分が今までしてきた仕事や、これからしたいと思うことを語った。
彼が写真家(カメラマンと言わず、そう言った)を目指したきっかけは、たまたま雑誌で見かけたイタリアの山の写真だった。登山家としても有名だった撮影者が「人生の最後に見た景色」だと、その記事は説明していた。
「人間は誰だっていつかは死ぬ。キリストだって、ジョン・レノンだって、尾崎豊だってそうだ。例外はない。当然、人が死ねばその記憶も死んでしまう。だけど写真家が見た風景は、写真という形になって残る。写真家の記憶はそれを見た人たちの記憶になって、永遠に生き続けるんだ」
夢中で話す龍之介を眺めながら、恭子はずっと考えていた。いつからだろう、いつから私はこんなふうに仕事のことを話さなくなったんだろう。
仕事の話をする龍之介は生き生きとしていて、恭子にはそれがうらやましかった。
彼女は、龍之介のことをもっと知りたいと思った。
食事をすませて店を出るころには、どちらが言い出すわけでもなく再会を約束していた。
そうして彼らはつきあい始めた。
春がきて、桜の咲く外堀通りを散歩した。夏には房総半島の海にドライブに出かけ、秋は神宮外苑のイチョウ並木を歩いた。ありふれたカップルと同じように彼らはデートを重ねた。
季節が一巡したころ、龍之介は恭子を長野の実家に招待した。
「叔父さんが事業をやっていて、そのおかげで僕らの一族は少し裕福な暮らしをしている。僕の家族もちょっと古風だけど、びっくりしないでね」
実家に向かう車の中で、彼はそう言った。
車は曲がりくねった林道を抜けた。やがて小高い丘の上に瀟洒な洋館が見えてきた。戦前に華族が別荘として建てたという邸宅に、瀬畑家は暮らしていた。
玄関前に車を停めると、召使いの代わりに毛並みのいいゴールデン・レトリバーが出迎えた。そのあごの下を慣れた手つきでなでてやり、龍之介は「遠慮なく入って」とドアを開けた。
彼の両親は外出中だった。
龍之介は恭子を自分の部屋に案内した。「昔の勉強部屋だよ。勉強はしなかったけどね」と彼は笑った。いちばん奥に勉強机、両側に本棚とベッドが置かれているだけの簡素な部屋だった。
恭子は、机の上に家族の写真を見つけた。龍之介の両親と、中学生ぐらいの学生服を着た龍之介、その隣にランドセルを背負った女の子が写っている。
「妹さん?」恭子は聞いた。
「ああ、うん」と龍之介は曖昧に答えた。「今はもういないんだ」
「親元を離れて、都会でひとり暮らし?」
「まあ、そんなところだね。さあ、そろそろ食材を買い込んだ親が帰ってくるころだ。腹へったなあ」
龍之介はそう言いながら、部屋を出て行った。
彼の両親はとても感じのいい人たちで、ごく自然に恭子を迎え入れてくれた。
夕食のテーブルで、彼らは恭子にいくつかのささやかな質問をした。彼女は当たり障りのない答えを返し、両親は感心した様子で何度もうなずいた。龍之介が冗談を言い、みんなが笑った。
やがて帰宅する時間になり、恭子は丁重に礼を言って、龍之介の車の助手席に乗り込んだ。
バックミラーの中で彼の両親はずっと手を振っていた。カーブを曲がって見えなくなった瞬間、恭子はほっと息をついた。
「きょうはきてくれて、ありがとう」と龍之介は言った。
瀬畑家の面接試験を恭子は無難にクリアした。
周囲の誰もが、いずれ彼らは結婚するものだと思っていた。
「だけど、そうはならなかったわ」と恭子は言った。「そのあとしばらくして、私たちは別れた」
さっきまでの青空と太陽は、重たそうな雨雲がすっかりおおい隠していた。
ぽつり、ぽつりと水滴を頬に感じ、我々は先を急いだ。山道はまた険しくなってきた。
押し黙ったまま歩いて十分ほどが経過したころ、岩と岩の間に山小屋が見えた。
「あそこで雨宿りをしよう」と僕は言った。
小屋の中に入り、荷物を下ろすのとほぼ同時にカミナリの音が響いて、雨が降り出した。
「あとは下るだけなんだけどな。まあ、しょうがない。山の天気には勝てないさ」と言いながら、暖炉に火を入れて、その近くに腰を下ろした。
薪は十分ある。遭難者のために若干の食糧も備蓄してあるようだ。最悪の場合を想定しても二、三日はここにとどまることができそうだ。内心ほっとしつつ、小さめの薪を取って暖炉に焼べた。
「私たちが別れたのは……」
声が聞こえて、恭子を探した。
彼女は小屋のすみに膝を抱いて座っていた。遠くの景色を眺めるように、重ねた両腕の上で暖炉の火を見つめていた。
*
龍之介の実家を訪ねてから一週間ほどたったある日、恭子は龍之介と映画を観に出かけた。
映画が終わって、コーヒーショップで話しているときに彼の携帯電話がメールを受信した。内容に目を通した龍之介の表情がわずかに曇ったので、メールの送り主は察しがついた。
その子は、龍之介の以前の仕事仲間だった。カメラマンとして独立する前、彼は知り合いのつてで、名の知れた写真家の助手をしていた。写真家には見習いのアルバイトが数人いて、龍之介のあとに入ってきたのが彼女だった。
恭子も彼女と何度か会ったことがあった。正確なことは忘れてしまったけれど、桜田とか桜庭とか、そんな名前だった。龍之介より三つ下で、彼のことを「先輩」と呼んでいた。
龍之介が独立してからも、ときどき電話やメールで仕事の相談をしているのは知っていたけれど、恭子は気にとめなかった。いや、本当のことを言えば、気にとめないふりをしていたのかもしれない。龍之介がその子を意識しているようには思えなかったし、彼の仕事の関係に気をもんでいる自分が、理由もなく嫌だった。
あの日、携帯メールを受信した龍之介を見て、自分の心がなぜあんなに揺さぶられたのか、恭子には分からなかった。心の中の堤防に、小さなヒビが入ったような気がした。
「その子、龍ちゃんのことが好きなんだよ。きっと」
気づいたとき、恭子はそんな台詞を口にしていた。
「え?」携帯の画面から顔を上げ、龍之介が言った。「変なこと言うなよ」
声の調子と裏腹に、その顔は笑っていなかった。
恭子は正直に話した。
あの子の龍之介を見る目、あの子の私を見る視線、その仕草のすべてが、なぜか私を不安にさせることを。どうしようもなく、落ち着かない気分にさせることを。
「嫉妬してるのか」と龍之介は聞いた。
「違うわよ」と言い返したかったけど、恭子は言葉をのみこんだ。そうだ、確かに私は嫉妬している。龍之介の言葉が胸に突き刺さった。
「ごめん。言い過ぎた」と龍之介が詫びた。
恭子は空になったマグカップを見つめながら、小さく首を振った。
気まずい空気を残したまま、二人は店を出た。
あとで龍之介が語ったところによれば、その時点で彼も、メールの子(桜庭美咲という名前だった)が自分を慕っていることに、うすうす気づいていた。
美咲は「先輩として」以上の反応を龍之介に期待していたけれど、彼はその気持ちに応えることはできないと思った。だから、メールに返信するのを控えるようになっていた。昔の仲間に冷たくするのは気が引けたけど、これ以上、期待を持たせるのは、かえって残酷なことのように思えた。
相談のメールは、次第に減っていった。
美咲が仕事のことで悩んで塞ぎ込んでいる、と人づてに聞いたのは、返信を控えるようになって半年後のことだった。コーヒーショップの一件から一カ月が過ぎていた。
詳しい事情は分からなかったが、龍之介が辞めたあと、美咲は職場で孤立していたようだった。
龍之介は責任を感じた。
〔最近、元気ないらしいけど、大丈夫? 今の環境だけが世界じゃない。元気出せ〕
励ますつもりで、そんなメールを送った。数分後、美咲は龍之介に電話してきた。「今すぐ会いたい」と言ったその声は、泣いているように聞こえた。
電車に乗って、美咲の住む町に向かった。車窓を流れる民家の屋根の地平線に、真っ赤な夕日が沈もうとしていた。
ふと恭子のことが気になった。彼女は自分が美咲と会うことをどう思うだろうか。駅に着いたら恭子に電話して、誤解されないよう、できる限り丁寧に、いきさつを話そう。正直に話せばきっと分かってくれる。そう思った。
「大丈夫。相談に乗って、励ましてやるだけだから。心配はいらない」と龍之介は言った。
「うん……」電話口で、恭子は小さくうなずいた。
「あいつ、今の職場で悩んでるんだよ。まわりには相談できる奴がいないし、おれが話を聞いてやらないと、どうなるか分からない。なんかすごく……」
「ほっときなよ」
龍之介が話し終えるのを待たずに、恭子は言った。暗く、冷たい声だった。恭子はそれが自分の声なのかどうか、確信が持てなかった。
「え……」戸惑っている龍之介の声が聞こえた。
「ほっときなよ。あの子、そうやって龍ちゃんの気を引きたいんだよ。どうしてそれが分からないの?」
踏切の警告音が鳴って、龍之介の視界を急行電車がさえぎった。
二人は黙ったまま、電車の通過する音を聞いていた。
「分かった」
と言って電話は切れた。表情のない声だった。龍之介のそんな声を聞いたのは、そのときが初めてだった。
電話が切れたあとも、恭子はしばらく動けなかった。感情を奪われた蝋人形みたいに、ずっと宙を見ていた。
行かないで――。
ようやく込み上げてきた感情は言葉にならず、代わりに涙が頬をつたって落ちた。
*
日が暮れてから雨はいっそう強くなっていた。
山小屋のドアが風に叩かれ、カタカタと不規則な音を立てている。
「これが、私の知っているすべてです」
沢村恭子はそう言って、膝を抱えた両腕に顔を沈めた。
「その後、何度か電話をしたけど、彼は『しばらく会わないほうがいいんじゃないか』って……」
「彼に謝りたいと言ってたのは、そのときのことなんだね」と僕は聞いた。
彼女はうなずいた。
「彼がどう思っているのか僕には分からないけど、会ってちゃんと話せば、またやり直せるんじゃないかな」
僕がそう言うと、恭子はゆっくり首を振った。
「大きな災害があったんです」と彼女は言った。「私が彼と最後に話した電話から半月ぐらいあとでした。彼は仕事でその場所に行っていました。あっという間の出来事だったそうです」
暖炉の中で、薪がくだけ落ちる音がした。
彼女は続けた。
「龍之介のご両親から連絡をもらって、彼のお葬式に行きました。お焼香の順番を待っていると、親戚の方が小さな声で話しているのが聞こえました。彼らは龍之介のご両親を気づかっていました。その会話から、龍之介の妹さんは十年ほど前に亡くなっていたことを知りました。自ら命を断ったんだそうです。当時、龍之介も彼のご両親も、彼女の悩みに気づいてあげられなかったことをずいぶん悔やんでいたそうです」
そこまで言うと、恭子は深く息を吸い込んで、天井を見上げた。
「――その話を聞きながら、私はあの日、龍之介に電話で言った言葉を思い返しました。心から後悔しました。自分のことが恐ろしく醜い存在に感じました。彼は妹さんのことを思い出して、あの子のことを真剣に心配していたに違いありません。なのに私は彼を責めてしまった……。ごめんなさいって、心の中で何度も叫びました。だけど、もう私の声が彼に届くことはありません」
恭子は顔を上に向けたまま両手で頬をふき、それから僕を見て言った。
「ずるいと思いませんか」
「ずるい?」
「だって私たち、出会った日からずっとお互いに好きでいたんですよ。それなのにたった一度、本当に一度、気持ちがすれ違っただけで、永遠に喧嘩別れしたままになるなんて。私は彼に自分の過ちを詫びることも、赦しを請うこともできないんですよ」
恭子はもう涙を隠そうとはしなかった。
「もう一度、彼に会いたい。会って謝りたい……」
僕はどう答えていいのか分からなかった。返事をする代わりに、彼女の肩に手を置いて励ますように軽く叩いた。
その瞬間、恭子は僕の胸に崩れ落ちた。
肩を揺らして泣きながら、「ごめんなさい」と彼女は言った。それは僕に対してというよりは、死んでしまった恋人に向けられた言葉だった。
*
結局、雨は夜明けまで降り続いた。
翌朝、僕は寝袋から起き出て、伸びをすると、ペットボトルの水でタオルを濡らし、顔を洗った。
恭子はすでに起きていて、暖炉のそばで何かを見ていた。僕が起きたことに気づいて、おはようと言った。
「おはよう。何を見てるの?」
「龍之介の遺品。彼が撮った写真をご両親が『形見に』って分けてくれたんです」
「見せてもらってもいい?」
「どうぞ」
僕は恭子の隣に座って、写真の束を受け取った。
東北の田園、さびれた漁港、香港やニューヨークの夜景、アマゾンの密林……。そこには龍之介が仕事で行った先々の風景が、生き生きと記録されていた。土地の人達に撮ってもらったのか、彼自身の姿もあった。正義感の強そうな、澄んだ目をした青年だった。
東京の写真もあった。外掘通りの満開の桜、神宮外苑のイチョウ並木。はにかんで笑う恭子も写っていた。
「これは?」
暗闇に浮かんだドラキュラ伯爵のような顔を見つけて、僕が尋ねた。
恭子はくすっと笑って、「東京タワーのフランク・ザッパ」と答えた。
最後の一枚は写真ではなく、雑誌の切り抜きだった。イタリアの山を撮った風景写真。龍之介が写真家を志すきっかけとなった作品だった。
「彼、ここに行こうとしていたみたいなんです。旅券にこの切り抜きが挟んであって、イタリアの査証も申請してありました」
何かが気になり、僕は切り抜きを見つめた。
「よし、龍之介の代わりに私が行ってこの目で見てきてやるぞって、仏前で約束したまではいいけれど、この山が一体どこにあるのか、私には見当もつかなくて……」
「恭子ちゃん」と僕は言った。
「はい」
「出発の準備は、もうできてる?」
「ええ」
「じゃあ、今からすぐ出よう」
そう言うと立ち上がり、荷物を抱えて小屋のドアを開けた。恭子も後からついてきた。
外はまだ暗かったが、わずかに紫がかった朝の光が雨あがりの岩肌を照らしていた。
きのう歩いたコースから外れ、足場の悪い急な坂を上る。
「滑りやすいから、気をつけて」
振り返って恭子に声をかけた。彼女も遅れをとるまいと、ペースを上げてついてきていた。
砂利道を急ぎ足で二十分ぐらい進むと、急に視界が広がった。
そこは小さな高台になっていた。
「やっぱり」
僕の直感は確信に変わった。
少し遅れて恭子が高台にたどり着いた。
「あ……」
霧の中に島のように浮かぶチマ・ブレンタの山群。高台から遙かに望む雄大なパノラマは、龍之介が大事にとってあった切り抜き写真の構図と完全に一致していた。
恭子は言葉を失って立ち尽くした。
待ちわびていたように霧が晴れて太陽が顔を出し、周囲の山々を金色に浮かび上がらせた。
「人は誰でもいつかは死ぬ。だけど写真家の記憶は永遠に生き続ける」
龍之介が言っていた言葉を、恭子は確認するようにささやいた。
「あったよ、龍ちゃん。あなたが探してた景色、やっと見つけた」
日差しをまっすぐに受けた彼女の顔はきらきらと光って、嵐のあとに咲いたアサガオのように凛としていた。
我々は高台に腰を下ろし、光が広がっていく様子をしばらく眺めた。
新しい一日が始まろうとしていた。
「――そろそろ行こうか」
太陽が昇りきって、空が明るくなったころ、僕は声をかけた。
沢村恭子は、記憶に焼きつけるようにもう一度、景色を見渡した。
それから僕を見てうなずくと、荷物を担ぎあげ、しっかりとした足取りで歩き始めた。