事件3 鬼ごっこ(チェイス)①
「こんにちわぁ」
分厚い樫の扉をうんしょと開けると、からんからんと鐘がなる。
膨大な量の本が居並ぶ書店の奥から、小さな眼鏡をかけた地霊種の老人がのそりと出てきた。
「おや、ルカちゃん。今日はひとりかい?」
「まぁね。うちのひと、ずぼらだから」
そう言ってひらひらと手を振るルカに老人ははっはっはと豪快に笑った。
「ルカちゃんにかかっちゃあ、黒色精霊種の旦那もかたなしだのぅ。頼まれた本だね。用意するから、ちっと待っててな」
「はぁい」
「ほら、そこに座ってなぁ」
「はいはい」
そう言って、勧められた椅子にちょこんと座る赤い髪のヒト種の少女に、老人は好々爺の視線を向ける。
「でも大きくなったなぁ。一人でお使いに来られるようになるなんて」
「……いや、まぁね。私ももう16だし。それにしても西区に来るのは久しぶり」
「そうかい。今日はこのまま帰るのかい?」
いいながら老人がグラスにジュースを注いで呉れる。
「ありがと。ううん、久しぶりだから、どっかで一泊して帰るつもり」
「そりゃあ、旦那が寂しがるなぁ」
「あのひともそろそろ子離れしないとね」
豪快に笑う老人。
ルカもにっこりと笑いながら、グラスに口をつけた。
こんこんこん
ノックの音が、アルフリート・ウルグルスをまどろみから目覚めさせた。
眠たげに目を擦るアルフリート。
「ルカ。出てくれ」
そう言ってから黒色精霊種の探偵は「あ」と漏らした。
「そうか。使いを頼んだんだったな」
よくよく外の様子を窓から見れば、日は高く、最早昼といって差し支えない時間である。
「私はルカに起こされないと昼まで寝てるのか…」
やや自己嫌悪に陥りながら、アルフリートはくすぶる煙草の火を慌ててもみ消した。
「誰だね?」
がちゃりと扉を開けるアルフリート。
そこに立っている人物を目にして、彼は少々の驚きと共にその目を大きく開いた。
「どうしたんだね、リリー・ダラー。その、今日は私服なんだな」
「ご機嫌麗しゅう、誉れある黒色精霊種であられる方。いつぞやは大変にお世話になりました。今日は非番なのです」
そう言ってにっこりと微笑むのは、金髪を棚引かせる美しい精霊種の娘、リリー・ダラーである。
ルカが二重人格と称する彼女は、いまや完全にアルフリートに心酔する上品な娘の表情で笑う。
白い、ふぅわりとした紙の様な薄手のドレスを纏っていて、風が吹けばあられもない姿になりそうなほどの薄着である。
肩紐で支えられた胸元はしかしいかにも重たげに揺れていて、身長差があるアルフリートからは深い胸の谷間が覗いて見えてしまう。
んん、と咳払いをして、アルフリートはリリーを室内に招き入れた。
「休みの日にわざわざ来てくれたのかい?あいにくルカがいなくてね。満足にお茶を淹れる事も出来ないが」
「知っていま――、いえ、そうなんですか?残念ですわ。ご息女にもお会いしたかったのに」
「ん?まぁ娘のようなものではあるが…」
やけにその言葉を強調するリリーに小首を傾げるアルフリート。
もちろん、ルカの留守を狙ってやってきたらリリーは心中を少しも教えない天使のような微笑で言葉を続ける。
「あ、私がお茶をおいれしましょうか?台所をお借りしても?」
「悪いね」
言って恐縮するアルフリートに微笑みかけながら、リリーは小走りするように台所に向かい、小さくガッツポーズをした。
「ここまではいい。ここまでは。だが慢心するな。『知人のかわいい娘』から『気になる素敵な女性』まで段階を上げるのだ」
なにやらぶつぶつ呟くリリーを、アルフリートは不思議そうに見ていた。
「竜王会?鬼人族のかい?」
「そうです。昨日、その首領の座を巡って大規模なクーデターが起きたそうです。前首領と幹部陣は粛清されましたが、一部が逃亡中で、そこここで抗争が起きています。西区の警察も対応にてんやわんやですわ」
「そうか。ギルバートの奴がね…」
「お知り合い、ですか?」
「貧民街に住んでると色んな知り合いが出来る。人生が面白いよ」
「は、はぁ」
そう言って紅茶を口にするリリーは苦い顔をした。
それを見てアルフリートも苦笑する。
「まぁ、君の立場からすると、容認できるものではないだろうがね」
普段は胸のボタンがしまらない制服を着ているリリー・ダラーは、れっきとした中央の警察官なのである。
鬼人族という種族は、先の大戦ではその勇猛さで一目も二目も置かれる存在であった。
屈強な肉体と生まれながらの飽くなき闘争心、そして何より刀剣の匠としての才能から、戦事となれば鬼人族の存在は欠くべからざるものであったのだ。
だが戦が終わり、共和国の時代になると、鬼人族達はその力を持て余した。
精霊種達が行政や警察機構に、霊獣種達が規律正しい軍隊にその存在意義を見出す中、根っからの武人である鬼人族達はそのどちらの選択肢も取れなかった。
必然的に、多くの鬼人族は、栄えある有力種族でありながら中央を追われ、光ある場所を追われ、闇の中にこそ潜むようになる。
現在において鬼人族とは、裏社会を牛耳る武威集団となっていた。
すなわち、マフィアとかヤクザとか呼ばれる暴力団となっていたのである。
「だが、それが悪いことばかりではないだろう?表向きと裏向きという二面性はどんな場所にも存在する」
「必要悪と仰るのですか」
「うん」
にべもなく言い切るアルフリートに、リリーは表情を一層渋くする。
「…そういうものでしょうか」
「まぁ、今に分かるときも来るよ。美しく飾ったものが存在するためには、それに数倍するそうでないものが必要だ。だが、本当の美しさとは案外混沌の中にあるものだよ」
リリーは難しい顔で考え込む。
まぁ今無理に分かることもない、そう言ってアルフリートはくすりと笑った。
「お父上は、君にはそう教えなかったかね?」
「いえ、父もそう言いそうな気がします」
そうか、と言うとアルフリートは紅茶を口に含んだ。
ところで、とリリーが言葉を続ける。
「アルフリート様にはご結婚のご予定はないのですか」
ぶーっと思わず紅茶を噴出すアルフリート。
「大丈夫ですか!」
「だ、大丈夫、だが、今何て?」
ナプキンで慌ててアルフリートの紅茶に濡れた服や口元を拭うリリー。
その身体が、妙に艶かしく彼に密着する。
「ですから―――ご結婚するご予定はないのですか?」
その目が、下からアルフリートを見つめてうるうると輝いている。
ドレスの胸元からは果実のような白い乳房が今にも零れ出しそうで、思わず生唾を呑まされる。
「な、ないな。ほら、今はルカを育てているし。いや、まぁ育てられてるような気もしないではないが、一応養父だし」
たはは、と乾いた笑いを浮かべるアルフリートに、リリーは見せ付けるように谷間を押し上げながら、妖艶に笑う。
「私、アルフリート様なら、お子様がいらっしゃろうと、一向に構いませんわ」
「……な、何が?」
「あら、いけない方。女の口から言わせるおつもり?」
いつの間にか、リリーの手がアルフリートのふとももに寄せられている。
びくっと身を震わせるアルフリートにしなだれかかるリリー。
「リリー…?」
やわらかすぎる感触がアルフリートの胸板に押しつぶされてひしゃげる。
濡れた瞳と、ふっくらした唇が震える。
「私、ずっと前から貴方様のことが―――」
こんこんこん
扉が叩かれる。
「だ、誰だろう。うむ。誰だろう!」
どたばたと慌てて扉に向かうアルフリート。
がちゃりと勢いよく扉を開けると、ヒト種の初老の男が慌てた様子でまくし立てる。
「先生!町でヤクザものが暴れてるんでさ! な、なんとかしてくだせぇ」
男の声に、アルフリートは殊更大げさに「なにぃ!」と叫んだ。
「そうか!それはよくないな!うむ、よくない。すぐ行こう。すぐ。今お客様が見えてるんだが、ことは緊急を要するから、仕方ないよな!」
「へ、へぇ。いつになくやる気ですね、先生?」
「私はいつもやる気だよ」
「はぁ。あと先生」
「なんだね?」
さっさと行くぞとばかりに男をせかせるアルフリートに、男は若干怯えた表情で告げた。
「なんであそこの精霊種のご婦人は俺を睨みつけてらっしゃるんですかね?」
背中にきっつい視線を感じながら、アルフリートには振り向く勇気が出なかった。
「やっぱり、銀鱈亭のご飯はおいしいわ」
ぽんぽんとおなかを叩きながらルカは西区郊外のレストランの扉から出てきた。
「また来てね、ルカちゃん。格好いい黒色精霊種の旦那も一緒にさ」
「は~い。ご馳走様~」
店の女将に答えながらルカは上機嫌で石畳を歩く。
このまま宿に帰ってもいいが、もう少しぶらぶらしていくのもいい。
既に月もない時間ではあるし、この辺りは治安もすこぶる悪いけれど、そんなことを気にするルカではなかった。
ルカは大きく伸びをしながら、路地をあてもなくふらふらと歩く。
「静かないい夜ね~」
だが、その時、突如騒音が彼女の静かな夜を引き裂いた。
「何?」
複数の男が叫ぶ声と、慌しい足音、そして何よりこれは―――
「剣戟の音?」
高い金属音がルカの耳にかすかに届く。
今ルカがいる場所からはそこそこ距離があるようだ。
およそ厄介ごとには違いない。
ここで引き返せば、よもや巻き込まれることもあるまいが…。
「面白そうね」
そこはそれ。
探偵の性というものか。
それとも唯の物好きというべきか。
ルカは自ら騒音の元へと駆け出した。
「そっちだ!」
「逃がすなよ!」
男が路地を駆けていた。
彼に追いすがるは黒いスーツ姿の十数人の男達。
皆その手に抜き身の刀を持ち、白刃を煌かせながら男を追う。
「はぁはぁはぁ。いい加減しつこいでござる」
やけに古風な喋り方をする男は、あいている方の手でわき腹を押さえ、もう片方の手には血まみれの長刀を引っさげている。
彼の剣はこれまでに、すでに何人もの追手の血を吸ったらしかった。
なるほど彼は屈強な外見をしている。
彼もまた、追手と同じスーツ姿であるが、よく張り出した肩と分厚い胸板、そして何より長身がその存在を際立てさせる。
壮年と言っていい年齢であるようだが、刈り込まれた短髪のその外見は、女性がいる夜の店などでは人気になるだろう伊達男と言っていい。
そして特徴的なのはなんと言っても額から突き出た二本の角。
天を目指すように突き出した人差し指くらいの長さのその角は、彼が鬼人族であることを意味する。
よく見れば、彼を追う者たちも皆鬼人族である。
「しまったッ!」
痛むわき腹を押さえながら尚も走っていると、男は路地の袋小路へと行き着いてしまった。
高い壁に囲まれた男はついに追手に追いつかれてしまう。
「くっ。不覚でござる」
「観念しろっ!丸一日も鬼ごっこさせやがって!」
「貴様らの様な下郎の剣にかかる謂れはない!」
「うるさい!時代が変わったんだ!手前ェはここで、死ぬんだよっ!」
男のうちのひとりが剣を振りかぶって切りかかってくる。
追われる男が白刃を持ってそれを受けようとしたその時、突如風の様な何かが二人の間に割り込んできて、切りかかってきた男の顔面に小さな足がめり込んだ。
「ぐば…」
「アニキッ!」
男はそのまま後ろに仰け反って倒れる。
他の鬼人族たちが慌ててその男に駆け寄る。
「ふぅん。鬼人族かぁ。マフィアってとこかな?仲間割れ?抗争?どっちにしても、多勢に無勢ってやつじゃない?」
現れたのは少女である。
その外見に似つかわしくない強力な一撃で大の大人をのした彼女は、どうやら高い塀の上から飛び降りてきたらしかった。
「お、お主は一体…?」
困惑して尋ねてくる追われる男に、少女――ルカはにっこりと笑って言った。
「暇だから、おじさんの加勢してあげる」
「は?」
そう言うと、ルカは返事も待たずに男達に向かって拳を構えた。
「そういうことだから。じゃ、始めようか」
月のない夜。
長い鬼ごっこの始まりであった。