事件1 かくれんぽ(ハイド・アンド・シーク)②
それは一週間ほど前のことであったと言う。
黄昏時。
若い二人の霊獣種はその手をしっかりと繋ぎながら名残惜しげに路地裏を歩いていた。
フリルをふんだ んにあしらった桃色のドレスを身にまとうアリサは、まるで妖精のような可憐な霊獣種であり、その獣の耳を頂いた清楚な表情と、豊満で女性的な 姿態のギャップに、男ならば皆くらくらとしてしまうだろう。
彼女をエスコートするケントはがっしりとした体格の美丈夫であり、ふたりは 本当に絵に描いたような似合いのカップルであるとサロンでも噂されていた。
アリサとケントはお互いの両親が認め合う恋人同士であったの だと言う。
アリサの家は資産家であり、軍人家系であるケントの家とは婚姻が成立すれば双方に色々と利点がある。
だが 若い二人にとってはそんなことは考えの埒外のことであり、ただお互いを認め愛していた。
ケントは未だ学生の身であるが、内定している軍 への加入手続きなどで忙しく、アリサもまたケントが落ち着けば執り行われるであろう二人の結婚式の準備に追われていて、こうして二人の時間を作ることがな かなか出来ずにいた。
いずれ結婚すれば好きなだけ一緒にいられる。
そう思いながらも、今このときの寂しさに翻弄され る若さを誰にも責めることは出来ない。時折立ち止まり互いを見詰め合うその瞳が濡れている。
しかし、その日の記憶は気恥ずかしさと共に いずれ思い返されるだろう淡い思い出とはならなかった。
決して忘れることのかなわない、血と喪失の思い出となったのである。
「覚えていない…?」
ルカにすすめられた珈琲に手をつける事もなく、アリサは一気に捲くし立てるように事の顛末を話した。
その日、二人は人通りのない路地裏で確かに何者かに襲われた。
だがアリサはその時頭を打ちでもしたのか記憶がなく、翌日になってケント とは違う場所で発見されたのだ。
もちろん、そのときにはケントは無残な亡骸となって果てていた。
一緒に歩いていたは ずの二人の間には、かなりの距離が開いていたのである。
アルフリートが聞き返すと、アリサは申し訳なさそうに頷いた。
「警察は、気絶した私と犯人を引き離すために、ケントがかなりの距離を走って逃げたのではないかと言ってました。最期まで、私の為に…」
そこで、可憐な霊獣種の娘はついに両の手で顔を覆って泣き崩れてしまった。ルカはそれを、痛々しいものを見る目で見ていることしかできない。
彼女の養い親たる黒色精霊種は、煙管の煙草を燻らせながら、何事かを考えているようだった。
「霊獣種は戦闘種族だ。ケント君は病弱だった?」
アルフリートの言葉に、アリサはがばっと顔をあげる。
「まさか!軍への内定も決まってました。お父上に似た頑丈な霊獣種でした…」
「すると、やはり…」
「月狂病ってやつ?」
「そうかもしれない」
ルカが口を挟むとアルフリートは頷いて言った。
「それはあの、忌まわしい先祖返りの…?」
流石に霊獣種のアリサはそれを知っているらしい。
獣人を恐ろしい魔獣に変える と言う悪魔のような病を思ってか、アリサがぶるりとその身を震わせた。
「霊獣種。それも軍人を有望された青年を一顧だにし ない戦闘力。これは、警察の手には余るかもなぁ」
「私もそう思います。でも、それじゃあケントが可愛そう。私、早く犯人を見つけてケン トの魂に安らかになって欲しいんです」
アリサの真摯な言葉を聞いて、思案気に煙を吐き出すアルフリート。
そんな己 を、期待のまなざしで見ている養い子の姿を見て、アルフリートは嘆息交じりの苦笑を浮かべた。
「危なくなったら逃げる。了解できる か?」
「うん」
即答するルカに余計不安になるアルフリートであったが、彼女の意思は固そうだ。
「ふぅ。あなたは運がいいよ、アリサ嬢。私にはやる気になったこの子を止める術がないっていう意味でだがね」
「それでは…!」
「依頼は受けよう。ルカ。早速アリサ嬢と現場に行ってきなさい。何かわかるかもしれない。そしてその為にはできるだけ早い方がいい」
「はーい」
感謝の言葉を述べるアリサに「いいよ」と手を振ってから手早く外出の準備を整えると、ルカはアリサの手を引くようにして家を 出て行ったのだった。
「忙しない事だ」
言いながらアルフリートは妙にひっかかるものを感じて眉根に皺を寄せる。
「月狂病…。少し調べてみるか」
そう言って、アルフリートは巨大な本棚のどこにその本をしまったかを考えて、うんざりしながら腰を上げた。
◆◇◆◇◆◇◆
「ここが殺害現場ね」
「そう、らしいです」
太陽が正午の高さに上る頃、二人は目的の場所に辿り着いていた。
新聞には詳しい場所は書かれて いなかったが、都の大通りから二つほど路地に入ったこの場所で、ケントは獣のような何かに襲われた。
霊獣種の青年を苦もな く殺すほどの何か。
現場には他の血痕は残されておらず、その何者かが無傷でケントを圧倒したと警察は見ている。
ルカは不意にしゃがみこむと、地面に耳を当てて何かを探るように目を瞑った。
「ルカさん…?」
「しっ。黙ってて…。良かった。まだ大地の記憶が残ってる」
アリサは慌ててその口をつぐんだ。
「この、霊力が異様に乱れた奴がそうね」
ルカはそう言うと地面から耳を離し、腰のポーチから何かの小瓶を取り出した。
タンクトップにぎりぎりの裾のパ ンツ以外には、ルカはそのポーチしか身につけていない。
都では、年頃の娘の格好とはとても思えない。
もっとも、スラ ムではそんな格好が当たり前だ。
普段からしっかりとドレスを着こなしているアリサがこんな格好をすれば、彼女の父親などは卒倒するであ ろうが。
「よいしょっと」
小瓶の中身はどうやら何かの灰のようだ。
ルカはそれをさらさらと地面に 落としながら、何かの紋章のようなものを描いていく。
それは呪言であった。
「【シーカーの灰】よ。我が求めるものを手繰り給え」
すると不思議なことが起きた。
地面に落とされていた灰がふわりと風もないのに浮き上がり、はっ きりとある方向を目指して動き出したのである。
「ルカさん。これって…」
「【シーカーの灰】。きちんとした術式をや れば目的のものを辿ってくれる」
「ル、ルカさん。こんな高等な術、霊術院でだって教えてないと思いますけど・・・。一体どこで?」
目を丸くするアリサにきょとんとした表情のルカ。
「どこでって、アルが教えてくれたんだ。たしか、十歳くらいの時かな」
「じゅッ……」
「いいから、さっさと後を追おう。こいつがどこから来たか。まずはそれが掴まないと」
「は、はい」
アリサは首をぶんぶんと左右に振って驚愕を振り払ってから、ゆっくりと浮き上がる灰のあとを追って歩き出した。
「そんな…」
小一時間後。
灰は目的を終えてルカの小瓶に収まったが、その場所はアリサがケントと共に歩いていた路地 で、最後に記憶に残っていた場所であると言う。
警察は二人がここで襲われ、そしてケントがアリサを引き離すために逃げたと考えている。
アリサが別の場所で発見された理由については、意識が朦朧としていたアリサがケントを探して彷徨ったのだろうと考えていた。
「ここで、 気配が消えている?」
ルカは納得いかないというように険しい顔をしながらもう一度地面に耳を当てる。
「…だめだ。ここから先の記憶がない」
ルカは思わず小さく舌打ちをした。
実は【シーカーの灰】で犯人をたどるまではそう難しくないと思っていたのだ。
それがまさかのっけから躓くことになるとは。
「アリサさん。悪いけど今日は先に帰っててくれる? 明日またうちに来て見て。私、他の殺害現場も全部試してみる」
「わ、わかりました」
言うが早いかルカは風のような速 度で走り出してとたんに見えなくなってしまう。
「ほ、本当にあれでヒト種なのかしら」
アリサは呆れたようにそう言った。
「ふむ…」
本棚の前で分厚い本を広げながら、アルフリートは月狂病について調べていた。
何しろその症例が恐ろしく少ない希少な病である。
地下室を半ば占拠する形で存在するアルフリートの蔵書の中にもその記述は多くはない。
その少ない記述に行き当たる頃には、すっかり夕暮れ時となっていた。
「真面目に読んだことはなかったからな。まさか、自分が関わることになるとは思わなかったし」
そういいながらもぺらぺらとページを手繰 る、アルフリートは、とあるページの記述でぴたりと手を止めた。
「これは…?そうか!しまった。私達はとんでもない思い違いをしていた ようだ」
なにごとかに気付いたアルフリートは、そのまま本を取り落としてしまう。
開かれたままの本のページにはこう 記されていた。
『…月狂病とは月の病である。月と共に霊獣の姿は闇の一族
(モンストロ)のように変貌し血肉 求める。だが、彼にその覚えはない』
「まるでかくれんぼ(ハイド・アンド・シーク)ね」
丸い一日を掛けて何の成果も上げられず、ルカは地面にへたりこんだ。
他の3つの殺害現場にも同じように「シーカーの灰」を使ったもの の、この3現場から立ち昇った灰はいずれもある屋敷の裏路地まで漂ってきて、そこで消えてしまうのである。
すでに夕刻も終わろうとする 黄昏時。
ルカは成果の上がらない結果に嘆息しながらも、夕食の支度をしよう一旦家に帰ろうとしてそして。
不意にその ことに思い至った。
「どうして、奴の気配はいつも、消えたり、現れたりするんだろう」
それは、まるでかくれんぼのように。
現れたり消えてしまったり。
消えている間、犯人は一体どこにいるのか。
「……まさか。月狂病っていうのは……」
「ルカさん」
突然掛けられた声に、ルカはびくりと震える。
「アリサ…さん。どうしてここに?こんな時間に?」
そこにいたのはアリサだった。
昼間別れたばかりの彼女そのままで ある。
アリサはにっこりと、それこそ男なら誰でも絆されそうな笑みを浮かべてから、なんでもないことのように言った。
「この裏。うちの屋敷ですから」
「…へぇ」
言いながら、ルカは夜空を見上げた。
月が。
見下ろすように天に掛かっている。
「ルカさん。私、記憶が戻ったんです。全部分かりました。犯人も、全部。ご苦労をかけてすみませんで した」
「…それは良かった。じゃあさ、もう、帰っていいかな」
からかうような、何かを諦めたようなルカの口調に、アリサはにたりと、ぞっとするような笑みを浮かべながら首を横に振る。
「…いいえ。お礼にルカさんには教えて差し上げようと思って」
ざわざわざわと、アリサを中心に黒い気配が広がる。
温和な気配はもう微塵も存在しない。
「危なくなったら逃げるっ て、約束したんだけどなぁ」
ルカはそう言いながら、無意識のうちに腰のポーチに手を掛けていた。