事件1 かくれんぽ(ハイド・アンド・シーク)①
薄暗い路地。
月の輝く満月の晩。
懸命に地面を蹴って、追跡から逃れようとする男がいた。
「はっ、はっ、はっ」
長身でがっしりとした上半身を持つ、鍛 え上げられた身体。一目で霊獣種と分かる特徴的なねこ科の獣のような耳。
霊獣種はその身体 能力において鬼族と並ぶ種族であり、戦闘においては圧倒的な実力を示す。
軍部においても霊獣種が占める割合は無 視できぬものがあり(もちろん繁殖力の強いヒト種がもっとも大きな割合を占めるが)、軍人種族の別名を持つほどだ。
その霊獣種の、若く逞しい固体が今、追いすがる追跡者から必死に逃げていた。
見ればその身体は傷だらけ。
背中に負った大 きな爪痕からだらだらと血を流し、身体のいたるところに打撲や擦過傷が見て取れる。
であればこの霊獣種、敗北してそして逃げているのだ。
男は名をケントと言う。
彼自身は学生であるが、父は著名な軍人で、彼自身も将来は軍部に所属することを 希望していた。
地面を蹴るケントは、しかしもう気付き始めてもいたのだ。
自分の人生が今日ここで終わるかもしれないことに。
(だが、だがこのままでは)
ケントは考える。
走りながらも考える。
(アリサに、アリサに誰が伝えてくれる?誰がアリサを助けてやれる?俺がここで死んだら、誰が…)
こんな目に遭いながら、それでも誰か のことを思えるその精神は尊敬に値する。
だが尊敬される人物が、いつも幸福であるとは限らない。
どん。
と大きな音がした。
最低でも、相手はケントの後ろを走っていたはずだ。
そのはずなのに。
「馬鹿なっ」
いつの間に追い抜かれたのか。
追跡者は彼の前に現れ、にたりと三日月のような笑みを浮かべていた。
それはおよそ知性あるもののそれとは思えぬ、残虐な魔物のような笑みであった。
「アリサッ………!」
それが、彼が最後に発した言葉であり、それきり彼の口が開くことはもうなかった。
◆◇◆◇◆◇◆
貧民街。
天を突く塔が居並ぶ煌びやかな都の郊外に、寄生するように存在するその場所を、好ましく思うものは少ない。
舗装されない道は雨の日などぐずぐずとしているし、日照など考えずに乱立した粗末な建物は、街を昼間でも明るくしない。
あらゆるものが 売買され、犯罪に手を染めるものも多い。
成功者は都に、敗北者は貧民街に。
それが今の世の慣わしである。
しかしその貧民街の一角に、不思議な看板を出した建物が存在する。
二階建てのその古い木造住宅の玄関にかかる看板を見て、首 をかしげずに済むものもまた少ない。
『万事、解決することがあります』
やる気があるのかないのか。
自信があるのかないのか。
この建物はいつの頃からか探偵社と呼ばれ、ここに住まうものは探偵と呼ばれるようになった。
早朝の探偵社。
煙突から煙が噴出していて、なんとも言えぬ良い香りがしている。
「アル、珈琲?エサム茶?」
「珈琲で」
「わかった」
安楽椅子に座り珈琲を注文した男は、透き通るような美しい美貌をした褐色の優男である。
やや長い耳や、女性なら飛びつかずにはおられないような圧倒的な美貌が印象的である。
彼は精霊種、それも希少な黒色精霊種であり、名をアルフリート・ウルグルスと言った。
貧民街では先生と呼ば れ、顔役やマフィアからも一目置かれる存在である。
何を好き好んでか、高貴な一生を約束された黒色精霊種の 身でありながら進んで貧民街()に住まう変り種であり、この探偵社の責任者でもある。
ちなみに普段はとても温和な性格であるが、 幼児愛好家ではと言う疑惑に対しては人が変わったように怒るから、注意が必要だ。
アルフリートは今朝届いたばかりの朝刊を広げていた。
「何かあった?」
食卓に朝食の盛られた皿を置いているのは、何とも愛らしい顔立ちの少女である。
真紅の髪は後ろで一 括りにされて長く垂らされているが、大きな瞳や明るい表情から、童子の様に快活で爽快な印象を受ける。
もっともそれは、彼女の身体の起 伏が年の割にとぼしいことと無縁ではないかもしれない。
ちなみに、彼女に幼女体型などとということも禁句である。
こ の世には、指摘しない方がよいことも存在するのだ。
「うん。まだ解決しないみたいだな。例の通り魔の事件」
「あぁ」
食卓の準備を終え、アルフリートに珈琲を注いでやりながら、彼の養い子たるヒト種の少女、ルカは返事を返した。
「最初に霊獣種の男が殺されたやつね」
「そう。昨日もあったらしい。これで、ひー、ふー、みー…。四人目か」
「物騒ね」
口に朝食を運びながら、ルカはアルフリートの新聞をのぞき見る。
「今度は地霊種
!見境なしね」
ルカが言いながら目を丸くすると、逆にアルフリートは眉間に皺を寄せながらその目をすうっと細めた。
「…ひょっとしたら、月狂病かもしれない」
「月狂病…?」
アルフリートは頷きながら、自身も朝食を口にする。
「さすがにまさか市街に闇の一族がいるとも考えにくいだろう?だが被害者は皆、まるで獣に襲われたかのような酷い死に様だと言う。爪とか牙 の痕とかな。断定はとてもできないが、始めに襲われたのが霊獣種の男性だったと言うのが気になる。
月狂病というの は非常に珍しい、先天的な霊獣種だけの病だ。
先祖返りのような凶悪な獣の姿になり、破壊衝動のまま他者を襲うようになると言う。症 例が少ないから、まだはっきりしたことは分からないが」
「へぇ。でも、そんなお化けみたいのがうろうろしてれば、すぐに見つかりそうな ものだけど」
ルカが不思議そうに首を傾げると、その愛らしい様に苦笑しながらアルフリートが言葉を続けた。
「霊獣種はもともと超人的に運動能力の高い種族だが、月狂病はそれに輪をかけて凄いらしいよ。見つけたとしても捕まえられないかもしれない」
言いながらアルフリートは茹でたジャガイモの皮をむく。
「アルなら捕まえられる?」
「ど うかな」
「私なら?」
「どうだろう?」
むぅ、と言ってむすっとするルカをからかうように笑うアルフリート。
「無理に関わりあうことはない。負けそうな喧嘩は買わないことだ」
カランカランカラン…。
その時、探偵社の呼び鈴が鳴る。
「はぁい。誰だろ?心当たりある?」
ルカはエプロンを外しながら食卓から立ち上が る。
「さぁ?頼んでた本でも届いたかな」
アルフリートの反応を確かめると、ルカは玄関の扉をガチャリと開けた。
「うん?」
最初に目に飛び込んできたのはふさふさの獣のような耳。
そして次に見えたのは美人と言って差し支えない少女の顔だった。その瞳が不安げに揺れていることも、男の庇護欲をそそるかもしれいない。
そして何よりルカの視界を圧迫したのは、年頃の女性らしい豊満な姿態だった。
特によく膨らんで布地を押し上げる胸。それは道行く男性の目を引か ずには置かないだろうと思えた。ルカは心の中で小さく舌打ちをする。
「わ、わたし何か気に障ることしましたでしょうか?」
険しい表情でルカの不機嫌を察したのか。少女がおびえたようにそう言うと、後方からアルフリートがフォローの言葉をかける。
「気にしな いでいい。ただのやっかみだ」
「アル…。殴るよ」
静かに怒りを溜めるルカに、しかし少女は自信なさげに言葉を続ける。
「あの。黒色精霊種の探偵さんはこちらでよろしかったですか?」
「そうだよ。本人はあそこで珈 琲飲んでるけど」
「おはよう」
そう言って霊獣種と思わしき少女に、部屋の奥から手を振るアルフリート。
その姿を目にして、ほうっと安堵のため息を吐きながら、少女ははっきりとこう言ったのだった。
「私、アリサって言います。連続通り魔事件のことで、ご相談にあがったんですけど…」
思いつめたような少女の言葉。
ルカは怒りも忘れて、思わずアルフリート と顔を見合わせた。