プロローグ・b
天上────そこで踏み締める地は雲であり、住人が仕えし相手は万物の主である“神”。
神に仕える者達は皆、白を纏う。丸みのある石が肩口に付属しているだけの簡素な衣服だけでなく、背中から生えている、鳥類のものに類似した翼も純白を示している。肩甲骨のように滑らかな曲線を描くそれが一振りすれば、羽が一握りだけ抜け落ちる。全員に共通する金髪は、純白によく映えた。
彼らはまとめて“天使”と称される。神によって最初に創り出された存在である彼らは、普段は穏やかな微笑を携えて日々を過ごしているのだが、今、彼らにそのような余裕は無い。
天上を初めて震わせた大きな事件によって、戦慄と緊張で空気を張り詰めているのだ。
事件とは、簡単に述べるならば“反乱”である。それは天使が神に対して向ける行為を指す。神に従順する事を当たり前とする天使にとって、有り得ないと否定したくなるものであった。
それだけでも衝撃だというのに、彼らを更に震撼させる事実が襲う。
反逆行為に加担しているのは天使達の全体の内、約三分の一。その人数を纏め上げ、神への反乱を企てて実行に移した人物は、サタナエル。
神の実子であり、神に最も近き存在である天使だ。
反乱が起きた今、天上では初めて“敵”という概念が登場する事となる。戦いに備えた武具があったのは幸いであったが、その武具が何故作られていたのかは誰も分かっていない。この時の為に既に作られていたのだろうかと、戦いが繰り広げられる中で何人の天使がそれを考えただろうか。
簡素な宝飾が施された剣と、分厚く作られた盾。それらの武具を持って相対する天使達。敵同士となった天使達がそれぞれの武器と防具を打ち付けあった。
雄叫びの上がる天上には、普段目にする穏和な様子は無い。あるのは、どちらが敵なのか味方なのかも分からない姿がひしめくだけの光景だ。
天上に初めて訪れたのは“敵”という概念だけではない。
“戦場”。
その有様と概念も、戦いというものが始まったその時から生じたのである。
神に弓引く者達が“反乱”という戦いを起こすなら、神に仕える天使達は“抵抗”という戦いを始める。それに終止符が打たれるのはいかなる時か。
合戦が繰り広げられる雲の原から離れた所に、建物があった。白い石の円柱達に支えられ、同様の石で作られた屋根は質素ながらもきめ細かな細工が施されており、全体的に荘厳な雰囲気が漂っている。
神殿と呼ばれるその場所は、その名の通りのものだ。つまり、神の御殿。神が住まう居にして天使達に崇められし社。その場所には、神殿の主として、天上における最高位の者として、世界や全てを生み出した存在として、神が鎮座している。
最深部────神と一人の天使しか居ないその場所にて、両者は相対していた。
しかし、勝負は既についていたようで、天使の方が片膝をつき、中型の鈍く光る銀色の剣を大理石の床に立てていた。ともすれば剣先が滑って倒れるかもしれぬその状態を、肩で息をしながら、握り締めた柄に力を込めて維持している。
剣のすぐ側で俯いている顔。その口元には笑みが浮かべられているが、吐き出される息は荒い。美しく、肩まで長い金髪も乱れ、白い肌に汗が流れて光る。発汗量と短く何度も上下する肩から、体全てに疲弊の色が濃いのが分かる。
だがそれでも、前髪から覗く紅い瞳には、"諦め"という感情は一切宿っていなかった。
そこまでして、その天使は何を得たいというのか。反乱を起こしたからには相当の理由があるのだろう。
動けないままの天使。その姿へと歩み寄る一人の姿。
硬い床の上で、靴音が高く響く。そして、今だに動けぬ天使の前で音が止まる。
顔を上げた天使。両の紅い瞳に映ったのは、数種類の宝石が装飾された銀の杖を持つ人物。男とも女ともつかぬ中性的な顔立ちで、頬を緩ませれば柔和を感じさせるだろう。
しかし、相手が持つその瞳はどの天使とも異なる。鮮やかなほどの紅と、輝かんばかりの金。いわゆるオッドアイだ。
左右に違う色の瞳を持つ者────神は、少し悲しげな表情を浮かべて、それから軽く頭を振ってみせる。背中まで長い、癖が一切無い金髪が揺れたけれど、その仕草がどこか演技めいて見えたのは、緩慢な動きであったからか。
何かを諦めていない天使は、その様子を見ても表情を変えはしなかった。まだ吐き続ける荒い息を制御する為に呼吸を整える。吸って、吐く。繰り返される深呼吸を神が遮る様子は無い。ただ見つめ続けるだけだ。
「サタナエル」
神が天使の名を呼ぶ。声に感情は無く、それは、眉尻を下げた僅かに悲しみを帯びた表情と矛盾していた。天使にして神の実子・サタナエルは、何かを待ち受けるように目尻を下げ、口元を僅かに綻ばせてみせる。何を期待しているのか、それを知るのは天使のみ。
違う表情を浮かべて対峙する二人。言葉を紡ぐ前に、カツン、と神の右手に収められている銀の杖が床を軽く叩いた。
「貴方は私に反逆の刃を向けた。いくら私の子といえども、このような所業を行なっては天上に住まう資格を無くします」
「ああ、覚悟の上ぞ」
「……何故、このような事を行ったのですか、サタナエル」
答えを求める。天使が得たいものは何であったのか、それを確認したかったのだ。ここまで弱りながらも紅の瞳が持つ力強さは衰えぬ。何の意志が彼の者をそこまで維持させるのだろうかと。
目尻は下げられたまま口の両端が、三日月のように細められて吊り上る。歪みを表すそれは己の中の強き意志は挫かれる事無きと誇示する為のもの。
「そなたの地位を、奪う為に」
呼んだ相手への二人称には敬意も何も無い。
神の目が閉じ、一、二秒の経過の後、再び開く。感情も思いも籠もっていないオッドアイと無表情で相手を見つめる。相手からすれば、それはある意味で恐怖にも近い思いを抱かせるだろう。しかし、紅い瞳の天使に臆する様子は見られない。天使と同じように片膝をついて目線を同じ高さにまで持ってきた神は同時に顔を少しだけ近付ける。あと少し近づけば唇を触れ合わせれそうなほどの近距離で、二人はただ見つめあう。
「…………貴方に、罰を。天使の資格を剥奪し、天上から追放します。貴方に与した天使達にも、です」
慈しむように、否、哀れむような表情を浮かべた神の左手がサタナエルの左頬に触れ、上へと撫で上げてゆく。艶やかな赤い唇の近くに触れていたその手は、右目の近くにまで上がって、止まる。
荘厳たる響きを持つ声が、再び神殿内に響く。
「しかし、貴方は今回の主犯。よって、貴方にはもう一つの罰を」
「なっ……!!」
余裕の笑みが消え、驚きに変わる。これは天使の中では予想に反した事らしく、紅い目が極限まで見開かれた。
刹那、サタナエルに言葉を続けさせまいとでもするように、神の手が右目に触れ、嫌な音と共に血がほとばしる!
「ああぁぁあぁあぁぁぁ……!!」
何か言葉を発しようとして開かれた唇からは思いが転じて予定が変わり、悲鳴となって上がる。
両手を重ねるようにして右目を押さえ、サタナエルは大理石の床を転がった。支えとして立っていた剣は床にその身を倒し、甲高い音を数度響かせてゆく。
その音をサタナエルが耳障りと思う余裕も無い。それほどの痛みが襲っているのだ。しかしながら、目は人体の急所である。このまま放っておけばサタナエルという天使の死は免れない。
無論、それを知らぬ神ではない。そうなるように創りだしたのは神なのだから。
立ち上がり、すぐに杖を一度横に振る。シャラン、と鈴のような音が大気に響いた。
サタナエルの手を染める血の量が急速に減っていく。やがて、滴り落ちる事もなくなり、止まった。
神は治療をした訳ではない。ただ止血を行なっただけだ。故に痛みはまだ残る。サタナエルの口から呻き声が低く零れた。神の左手には、先程抜いたモノがある。滴り落ちていた血も消え、形あった物の姿が透明となりて輝きだす。
「貴方の右目にあった“創造力”を取り上げました。これが、貴方へのもう一つの罰です」
神は床に這いつくばる天使を再び見下ろす。サタナエルの視線の位置が先程よりも低い。神が顔の角度をさらに下げたのはそのせいだと分かるが、何故だろう、見下ろすというよりも見下しているように見えた。哀れみ以外には何も見えない表情だからなのか。
誰かが見れば、もしかしたら、その表情を仮面のようだと思ったかもしれない。たった一つの表情が、まるで張り付くようにそこに浮かんでいたからだ。
「……か……み……っ!!」
残った左目が憎しみに満ちて神を睨む。本来天使が持つ事無き“憎悪”。それが今、紅い瞳に浮かんでいる。
神の表情は変わらない。憎悪すら受け止めると、哀れみの表情が言っていた。その真意は、どこにあるのか。実子であるサタナエルにも計りかねているのだろう、歯がみするだけで何も言わない。
神は杖を持ち上げると、今度は強めに床を叩いた。先程と変わらぬ硬い音が響くが、変化はあった。
大理石の床が揺れ、雲の上だというのに地響きが鳴る。
しかし今感じる疑問は地響きよりも自分の力を奪われた事に対してだけ。
「……まさか……」
憎悪に満ちた目が一瞬戸惑ったように見開き、何かに気付いたような声が零れる。しかし、神はそれ以上言葉を紡ぐ事を許しはしなかった。
「堕ちなさい。他の反逆した天使達と共に」
その言葉を受けた直後、サタナエルの足下に穴が開き、体が空中に放り出された。
「覚えておけ!!」
高い、悲鳴にも似た声がサタナエルの口から叫びとなって零れた。
「いつか、いつか妾はその力を取り戻す!! その時まで待っておれ、神よ!!」
叫んだ言葉は、誓い。
決して諦めぬというもの。
屈した訳ではない。戦いに負けても、力ある目を片方取られようと、サタナエルは神に屈した覚えは無いのだ。
また神に戦を仕掛ける事を宣言する。無謀だと天使達は言うだろう。しかし、どこが無謀か。既に一度反乱を起こせたのだ。羽を折られた訳ではないから、再び戦いを起こすのは可能ではないか。
宣言を聞いても、神に焦りは見られない。冷静に言葉を返す。
「ええ、出来るものならばね。…………我が娘、サタナエルよ」
その声に含まれていたのは、憐れみでも嘲笑でもなく、歴然とした力の差を知らせるもの。
それを聞いても神の実子である天使──彼女の顔に変化は無い。
憎しみに満ちた表情のまま、彼女の身体は他の天使達と共に地を越えた闇の中へと落ちていこうとしていた。
天上から見下ろす神の顔は、もはや遠ざかり、どんな表情を浮かべていたのかは分からない。
見えぬまま、彼女は落ちてゆく。持っている翼を羽ばたかせる事もせずに。
神への反逆。その罪によりてサタナエルと共犯の天使達は住み処である天より追放された。
反逆した全ての天使達に下された罰は、堕天。主犯であるサタナエルだけが堕天の他にももう一つ罰を受けた。それは、“創造力”なる力が込められた右目の剥奪。
表面上、それは理不尽ではない。罪に対して罰が与えられるのは必要である。だからだろうか。
────堕ちている。
堕天の中でそう自覚した時、少しだけ、少しだけであるが、彼女の口元に微笑みが浮かんだ。