ろまん燈篭IF〜次女の優しすぎる男友達〜
彼は、心の広い男である。世間には、心の広い男を自称する者が少なくないが、彼の場合には、少し事情が違っていた。人に腹を立てるのが、どうにも下手なのである。
友人に金を貸して返してもらえなくても、道で肩をぶつけられても、彼は「まあ、そういう日もあるだろう」と笑っていた。人間というものは、誰しも失敗をするものであるし、失敗をした人間に、わざわざ追い打ちをかける必要もない。そういう考え方を、彼は生まれつき持っていたのである。もっとも、彼の財布はそのために幾度も軽くなったが、彼は財布の軽さよりも、友人の困った顔を見るほうを嫌った。
彼には、ひとり、好きな女がいた。ルミという二十一歳の娘で、顔立ちがよく、たいへん自分を愛していた。彼女は彼の物静かなところを退屈だと言い、親切をお人好しと笑い、時には服装まで批評した。彼が新しい上着を着ていけば、色が悪いと言い、古い上着を着ていけば、もう少し身なりに気を遣ったらどうかと言った。彼はそのたびに、なるほど、そうかもしれないと答えた。彼女の周囲には、彼女を褒める男はいても、彼女の嫌味を笑って受け流せる男は、あまりいなかったのである。
彼は、ルミに自分の恋心を打ち明けたことがない。打ち明けたところで、彼女が喜ぶかどうかもわからなかったし、彼女を困らせてまで自分の気持ちを知ってもらいたいとは思わなかった。好きな人間には幸せでいてほしい。彼の考えは、いつもそのあたりで止まってしまうのである。
さて、二人は以前、ルミの兄妹たちがラプンツェルのリレー小説を書いたという話から、ずいぶん長い時間を費やして議論をしたことがあった。ルミは、自分の書いた部分について少なからず自信を持っており、彼に読ませたうえで感想を聞きたがった。彼は彼女の意見を聞き、ラプンツェルという娘について考え、最後には、自分ならば王子をもう少し優しい男にするだろうと言った。
「優しいだけの男なんて、つまらないわ」
ルミはそう言った。
「そうかな。優しい男にも、いろいろあると思うけれど」
「あなたみたいな男のことでしょう。何をされても怒らないし、何を言われても笑っている。そんな人が王子だったら、ラプンツェルだって退屈するわよ」
「それなら、退屈しないように書いてみるよ」
彼はそう約束したのである。
その約束の日が、今日であった。
彼は駅前の小さな喫茶店で、ルミを待っていた。約束の時間は午後二時であったが、時計の針はすでに三時を指していた。珈琲はとっくに冷めていた。彼は二杯目を注文しようかと考えたが、彼女が来てから一緒に注文すればよいと思い直し、窓の外を眺めていた。
やがて、入口の扉が開き、ルミが入ってきた。
「ごめんなさい。少し遅れたわ」
「うん。一時間くらい」
「まあ。嫌味?」
「いや、時間の説明だよ」
ルミは呆れたように眉を寄せた。
「あなたって、本当に人を責めることができないのね。男として少し頼りないんじゃない?」
「そうだね。今度、練習しておくよ」
彼女は、とうとう笑ってしまった。彼は、その笑顔を見ることができただけで、一時間を無駄にしたとは思わなかった。
「それで、例の話は書いてきたの?」
「うん。少し長くなってしまったけれど」
「長いだけで面白くなかったら困るわよ」
「それは困ったな。では、面白くなかったら、次はもっと頑張ることにするよ」
「あなたは本当に、調子が狂う人ね」
彼は鞄から折り畳んだ原稿を取り出した。珈琲を新しく注文し、向かいの席に座る彼女の顔を見てから、静かに語りはじめた。
ラプンツェルが魔法使いの老婆の手によって塔から救い出されてから、幾年かが過ぎました。彼女は王子と結婚し、王宮で暮らしておりましたが、ひとつだけ困ったことがございました。
王子が、あまりにも優しいのであります。
朝、ラプンツェルが寝坊をすれば、王子は「よく眠れたのなら、それでよい」と申しました。食事を残せば、「お腹がすいていなかったのだね」と笑いました。王子が大切にしていた花瓶を割ってしまったときも、「怪我がなくてよかった」と、まず彼女の手を心配したのであります。
ラプンツェルは、初めのうち、それをたいへん喜びました。世の中には、少しの失敗で怒鳴る者もいれば、些細なことをいつまでも責め続ける者もおります。そういう者たちに比べれば、王子はまことに立派な夫でありました。
しかし、日が経つにつれ、彼女はどうにも物足りなくなりました。
「あなたは、私が何をしても怒らないのね」
ある日、ラプンツェルは王子に尋ねました。
「君を怒らなければならない理由が、僕にはよくわからないのだ」
「私が悪いことをしたら?」
「そのときは、一緒にどうしたらよいか考えよう」
ラプンツェルは黙りました。王子は、自分を愛しているのかもしれません。しかし、愛しているのなら、時には嫉妬し、腹を立て、自分を引き止めてくれてもよいではありませんか。何をしても許されるということは、何をしても気にかけられていないのと、どこが違うのでしょう。
彼女は、王子の愛情を確かめたくなりました。そこで、ある晩、わざと王子に言ったのであります。
「私は、あなたのことが嫌いになりました。明日にでも、この城を出てゆきます」
王子は、すぐには答えませんでした。ラプンツェルは、その沈黙に少し期待しました。きっと王子は怒るに違いない。自分を引き止め、そんなことを言ってはいけないと叱るに違いない。そう思っていたのであります。
ところが、王子は、しばらく考えた後で、こう申しました。
「そうか。君がここにいることを苦しく感じるなら、止めるべきではないのだろうね。ただ、ひとつお願いがある。行き先だけは知らせておくれ。君が無事でいるとわかれば、僕も安心できるから」
ラプンツェルは、とうとう泣いてしまいました。
彼女は初めて知ったのであります。王子が自分を引き止めないのは、愛していないからではありません。彼は、ラプンツェルを自分の所有物だとは考えていなかったのです。愛しているからこそ、彼女の望みを彼女自身の望みとして認めていたのであります。
けれども、ラプンツェルは、まだ満足できませんでした。彼女は王子に愛されているという確信が欲しかったのであります。それも、ただ静かに信じていられるような確信ではなく、誰の目にも明らかな、疑いようのない確信が。
「あなたは、私がいなくなっても悲しくないの?」
「悲しいよ」
「それなら、どうして引き止めないの?」
「君が行きたいと言うのに、僕の悲しみだけを理由に、君を閉じ込めておくことはできないからだよ」
王子は、そう答えました。
ラプンツェルは、王子の優しさを理解できない自分が、急に恥ずかしくなりました。けれど、恥ずかしいと思うことと、寂しいと思うことは別であります。彼女は、王子の胸に顔を埋めました。
「お願い。今夜だけは、私を引き止めて」
王子は、少し驚きました。それから、彼女を抱きしめて申しました。
「行かないでほしい。僕は、君と一緒にいたいのだから」
その晩、王子は初めて、自分の願いを口にしました。
ラプンツェルは、それを聞いて、ようやく安心したのであります。王子にも望みがあり、寂しさがあり、失いたくないものがある。彼は何も感じないから怒らないのではありません。怒ることよりも、相手を理解しようとすることを選んでいたのであります。
それからというもの、ラプンツェルは、王子の優しさを試すことをやめました。王子もまた、彼女が本当に困っているときには、ただ笑って許すのではなく、自分の考えを伝えるようになりました。二人は時々、意見を違えました。時には言い争うこともありましたが、そのたびに相手の言葉を聞き、仲直りをいたしました。
こうしてラプンツェルは、誰かに愛されるということは、何もかも許されることではなく、お互いの願いを伝え合えることなのだと知ったのでした。
彼が話し終えると、ルミはしばらく黙っていました。珈琲茶碗を両手で包み、何かを考えるように、窓の外へ目を向けております。
「……ずいぶん都合のいい王子様ね」
やがて彼女は言いました。
「何をしても怒らないなんて、現実にはいないわ」
「そうかな。怒らない人がいてもいいと思うけれど」
「あなたみたいな人のこと?」
「さあ。僕は、怒るのが下手なだけだから」
「それを心が広いと言うんじゃないの?」
「そう言ってもらえるなら、ありがたいね」
ルミは、また呆れたような顔をしました。しかし、その口元には、ほんの少し笑みが浮かんでおりました。
「でも、最後は少しだけ、よかったわ」
彼は嬉しそうに笑いました。たったそれだけの言葉を聞くために、彼は一時間待っていたのかもしれません。
もちろん、彼はそれを口にしませんでした。ルミが自分のことをどう思っているのか、彼にはわかりません。彼女にとって自分は、ただ嫌味を言っても怒らない、少し変わった男友達にすぎないのかもしれません。
それでも、彼はよいと思っていました。好きな人に、自分の気持ちをすべて理解してもらうことばかりが、恋の目的ではないのであります。相手が笑ってくれるなら、それでよい。相手が幸せであるなら、それでよい。そう考える彼の心が、果たして本当に広いのか、それとも、ただ臆病なだけなのか。
彼自身にも、まだよくわからないのでありました。




