9 侵略者エリス(2)
佳純は世間の混乱を横目で見ながら、自分の研究を止めるつもりはない。彼女は使わなくなった極微細MRIを実験室から撤去し、代わりにAIロボットのエネルギーベースと、インストーラーを設置した。
「今度は一体、何を始めたの?」
辻綾音は、装置の入れ替えで開けっ放しになっている203実験室にやって来て、半分呆れた顔になる。一人になった佳純に危なっかしさをいつまでも感じる綾音は、毎日必ず一度、実験室に顔を出している。
「想像してたよりも大工事になっちゃった。うるさくて御免なさい。」
佳純は、自分の隣に来た綾音を振り返って頭を下げる。
「それは良いけど、これ、ロボットの設定に使う装置でしょ?神経生理学専門の佳純が、これで何をするつもり?」
「今はAIロボット技術が飛躍的に進歩してる。綾音、知ってる?感情表現も言動も、人間と寸分変わらない。個性だって多彩に設定できるんだから。もう、機械とは言えない。」
「そう。それで?それじゃ、神経生理学との繋がりが見えて来ないけど。それとも宗旨替えをするつもり?」
「そうじゃない。脳内データの生体間移植の研究は禁止されちゃったけど、AIロボット相手なら、文句はない筈よ。」
「あんた、ロボットで実証しようって言うの?でも、どんなに人間に近い挙動ができる様になったと言っても、相手は機械よ。頭部に大脳新皮質なんか存在しないでしょ?」
クスクスと佳純が笑う。
「何、馬鹿な事言ってるの。脳内データをAIロボットの設定データに変換するのに決まっているでしょ。」
「え~、それってどちらかと言ったら、ロボット制御分野の研究じゃない?」
「そうね。だから、猛勉強した。今じゃ、自動制御も専門家よ。」
綾音は呆れる。
「あんた、熱心に何を勉強しているのかと思ってたら、それだったのね。その研究、そんなにやりたいんだ。」
「綾音だって、忙しい時なんかに、1度は思った事がある筈よ。『あ~、自分がもう1人いたらなぁ』って。誰でも1度や2度、そう思う。それが実現できたら、凄いと思わない?自分の脳内のニューロン配置を読み出して、ロボット設定データに変換してインストールする。それだけで、自分を助けてくれるもう1人の自分ができ上がる。凄いでしょ?天才科学者の頭脳を変換して、何体ものロボットにインストールすれば、科学研究は飛躍的に進歩する様になる!」
嬉々として語る佳純の横で、綾音は冷めた目を佳純に向けている。
「そりゃ、凄いけど、本当にそのために研究を進めるの?あんたが本当に作りたいロボットってなんなの?」
「あら、純粋に研究よ。」佳純はにこやかに綾音を振り返る。「言ったでしょ?この研究が成功すれば、世の中が変わるくらいの大発明よ。」
「分かった、分かった。世界はもう変わっちゃってるわよ。私達もいつまで無事でいられるか分からないって言うのに、能天気な研究に打ち込んでいるつもり?」
政府は緊急閣議を開いて、拡大を続けるエリスへの対策検討を始めた。各国の動きに追従して、既に他国との交通は遮断している。まだ国内で発症例は出ていないが、エリスが空気の流れや、海流に乗って移動するのであれば、国内に到達するのは時間の問題と言う事になる。それまでに国民の安全確保を完了させなければならない。一体どれだけの時間があるのか、数日か?数か月か?その上、どんな対策なら有効なのか?未だエリスを防げたという事例は、世界のどこにも無い。空気は炎の中を通し、水は蒸留させれば、理論的にはエリスの侵入を防げるが、小さな実験室レベルの空間ならばいざ知らず、国土全体、国民全体を守る手段には到底なり得ない。穏健な日本人は、無暗に騒ぎ立てずに政府の動向を固唾を飲んで見守っている。
桝渕生体化学総合研究所にも既に影響が出ている。研究に必要な資材が入って来なくなり、街中から食料や消耗品が姿を消して、研究員達は自活できなくなった。研究所はこの事態に対応するため、コネを使って食料を調達、所員の家族を集めて、研究所の中での集団生活を始めている。最早、研究に注力している場合ではない。
「私は、これをやるの。」佳純はきっぱりと言い切る。「AIロボットの躯体と、電気さえ供給してもらえれば、研究を進められる。第一、研究をやめたところで、私達がこの災厄を止めるために何かできる?」
綾音は答えない。その反応に、佳純は満足気な顔を見せる。
「でしょ。だから、研究成果を楽しみに待ってて。」
足取りも軽く、設置されたばかりのロボット制御装置に歩み寄る佳純の背中を、綾音は溜息で見送った。




