9 侵略者エリス(1)
隼人が亡くなって20年が過ぎた。佳純は結局、新しい恋人を作らず、結婚もしなかった。佳純が隼人との思い出と共に送る静かな人生を掻き乱す出来事は、火星から始まった。
各国が火星に探査船を送り込んでいた。火星は地球外生物の痕跡発見が、最も期待できる惑星だ。およそ40億年前まで、火星には水が存在した。地球よりも小さい火星は、早く地殻内部が冷めてしまい、地磁気を失った。結果、太陽からの荷電粒子が直接地表に降り注ぎ、火星から水を奪ってしまった。40億年前まで火星に水が存在したのなら、生物もきっと存在したに違いない。その痕跡がどこかに残っている事に賭けて、探査に多大な労力が投入されてきた。その甲斐あって、米国の無人探査機は、火星の地中から掘り出した砂の中に有機化合物を見付け出した。
色めき立つ科学者達は、無人宇宙船でサンプルの入ったカプセルを回収して地球に持ち帰り、詳しく調べる事にした。こうして、有機化合物を含んだ火星の砂は、カプセルに密封され、遥か地球に持ち帰られた。
世界中の報道機関は、このニュースを大々的に流した。
『地球外生命体が存在した痕跡か?』『米国プロジェクトチームが生命誕生の謎に迫る!』『火星人は本当にいた!?』無責任な見出しが躍る。
カプセルに厳重に封印されたサンプルは、大気圏で燃え尽きる事なく、封印を保った状態で無事回収された。地球に到着したカプセルの映像は、瞬く間に世界中に配信される。耐熱カプセルに設けられた透明な窓から見えるのは、赤い砂だ。地球の砂漠の砂とさして変わらない。
科学者達は慎重だった。万一、未知のウイルスでも混入していれば、大変な事になる。カプセルを開けてしまう前に、生命体の反応が無いか入念に検査が行われる。結果、サンプルの中からは、砂を構成する無機物たる鉱物と、ごく微量の有機化合物だけが検出される。この有機化合物こそ、求めていた生命の痕跡に違いない。有機化合物は、光や化学的な刺激を与えても変化が見られず、科学者達は取り出しても安全と判断した。
その有機化合物の分子量は、生物由来のたんぱく質に比べれば小さい。単純な構造だ。とは言え、一般的な化学物質の中では高分子の部類にはいる。有機化合物の分子構造をより詳しく調べるには、砂から分離しなければならない。分子構造が解析できれば、それが生物由来の物かどうか推測できるだろうし、地球上には存在しない物質ならば、新たな科学の可能性が広がるだろう。カプセルの蓋が開けられ、中から火星の砂が取り出された。
科学者達は間違っていなかった。いや、地球の常識では間違っていなかった。もっとストレートに表現するならば、地球の常識に縛られていた。カプセルから取り出された砂に混じった微小な有機化合物は、空気の僅かな動きに乗って、肉眼で捉えられない程小さな粒が舞い上がり、大気中へと拡散する。空気中で水蒸気と出会った時、その物質は、本来持っている凶暴な能力を取り戻した。
最初に人類が気付いた異変は、この有機化合物の解析に携わっていた科学者達の身に起きた。初めに、数人の科学者の皮膚が粉を吹いた様になった。肌が乾燥した様にカサカサになったと思っていたら、その日のうちに、皮膚がぽろぽろと粉に変わって剥がれ落ちていく。皮膚が無くなった後は、その下の真皮が、筋肉が、内臓が、骨が、淡い黄色味を帯びた白色の細かい粉と化していく。発症してから72時間以内に、骨さえ残さず1人の人間が消えてしまう。その人が居た場所には、大量の白い粉が残された。
直ぐに被害は拡大した。何が起きているのか理解できない人間達は無防備だった。次の犠牲者は、科学者の家族だった。更に同僚が、感染者が立ち寄った店の店員が、次々と同じ現象に見舞われる。
研究施設のある町全体がパニックになった。目の前で、自分の家族が、知り合いが、白い粉に変わり消えていく。自分が助かるために、ある者は町から逃げ出し、ある者は人との接触を断って自宅に引き籠った。
情報端末さえ持っていれば、誰でも世界に向けて情報を発信できる時代、情報統制は意味を成さない。同じ町の中で、犠牲者の数が2桁から3桁になろうと言う事態になって、米政府は重い腰を上げた。隣接する町を含めて、該当地域は封鎖された。更に州境には検問が設けられ、通行許可証を持つ者以外の通行が禁止された。勿論、空港は閉鎖され、町から逃げ出そうとする人間は、行き場を失った。
巷には流言飛語が溢れた。発生した町に、火星から持ち帰ったサンプルの解析を行う研究施設がある事と、今回の奇病は、誰の頭の中でも簡単に結びつく。火星からのサンプルが研究所に持ち込まれた後暫くして奇病が発生したのは、如何にも怪しい。2つの出来事を結び付けたデマは、どんどん大きくなる。『火星人は以前から、火星にある物を地球に持って行ってはいけないというメッセージを、地球に向けて発信していた。米国はそれを無視して、砂のサンプルを持ち帰ったために、火星人が奪還しに襲来している。奇病は、火星人による攻撃を受けた人間達の姿だ。』
まことしやかにデマが拡散すると、UFOを見たという人が何人も現れ、中にはタコに似た足の人物に道を訊かれたとか、夜中に寝ていると周囲が青白く光り、その中から見た事も無い生物が現れて、『火星から持ち込まれた物が何処にあるか知っているか』と尋ねられ、知らないと答えたら消えて行ったと言いふらす者まで現れた。米国人の30%は、政府が火星人の存在を隠していると信じていると言うアンケート結果までニュースになる始末だ。
政府は、急遽各部門の専門家が集めて、事態の究明を進める事にする。専門家達の議論は、群衆のデマより少しは科学的だ。
「完全防護服を着たCDC(米国疾病予防管理センター)職員が現地で粉の採取に成功しました。」会議の司会進行を任された科学者が、現状を説明する。「解析の結果、組成は火星から砂と一緒に持ち込まれた有機化合物と同じだと判明しています。」
「それは、どう解釈すべきなのでしょうね。」司会者の言葉を受けて、太った男が声を上げる。「何かウイルスの様な存在が、火星からのサンプルの中に紛れていて、それが拡散したと言う事でしょうか。」
「確かに」隣に座って居た、ナルシストを感じさせる若い男が発言する。「該当の物質は、その未知の生命体の代謝の結果、生成された物質という可能性があります。」
「ちょっと、待って下さい。」議論にブレーキを掛けたのは、火星から持ち込まれた砂と有機化合物の解析を担当していたプロジェクトの責任者だ。「カプセルを開ける前に、充分に検査を行なっています。生物の代謝反応は確認できなかった。それに、あれ以外にカプセルの中から有機物は検出されていません。」
「カプセルは?」見事な白髭を蓄えた老人が、衰えた声帯から発せられる震える声を抑えながら話す。「運搬に使用されたカプセルに付着していた可能性は無いですか?」
「いえいえ」プロジェクト責任者は、はっきり首を横に振る。「有り得ない。カプセルの表面は、地球突入の際に高温に晒されています。生命体が存在し続ける事は不可能でしょう。」
「じゃあ、やっぱり中に存在したのでしょう。」ナルシストは、爽やかな笑顔を湛えている。「ほんの僅か、分析に引っかからないくらい数が少なかった生命体が、解析期間中に数を増やし、一定の数を超えた所から、爆発的に増えだしたのではないでしょうか。」
「でも、おかしいですね。」ナルシストとテーブルを挟んで反対側に座る、地味な中年が声を出す。「人から変化した白い粉には、そんな生命体らしき存在は残っていなかったんですよね。人間を1人消滅させるくらいですから、相当な数に増殖している筈じゃないでしょうか。それが見付からないのは、おかしいですよね。」
「検出されたのは、該当の物質だけで」司会者が口を挟む。「それ以外に何か検出されたという報告は有りません。」
ナルシストは口を閉ざす。
「実は…」恐る恐る、端に座っていた小太りの、人の良さそうな中年男が声を上げる。「今回問題になっている物質について、私の研究室で調べたんですが…」
列席している科学者の視線が、一斉に中年男に集まる。その圧力を感じて、男はたじろぐ。
「いえ、ちゃんと申請して物質を分けてもらっていますし、外部に漏れない様、バイオセーフティレベル4の設備で適切に扱っていますよ。」
そこまで言って周囲の反応を確認するが、誰も彼にイチャモンを付けないため、少し安心して話を続ける。
「この有機化合物は、他の有機化合物と接触して、更にそこに水が介在すると、接触している有機化合物を加水分解して自分と同じ物質を作り出しちゃうみたいなんです。」
「まさか、そんな…」
「いえ、どうもそうらしいんです。何でそんな事が起こるのか、まだ詳しいメカニズムまでははっきりしていないのですが、この物質の分子構造の方が低エネルギーなので、接触している有機物の分解が始まると、解放されるエネルギーを使って、加速度的に分解が進んで行きます。」
「それじゃ、君は」白髪髭の老人が問い質す。「今回の奇病の犯人は、この物質そのものだと言うのかね?」
「まあ…、その可能性もあるかと…。」
会議場がざわつく。
「そんな馬鹿な話はないでしょう。」司会者の話を受けて最初に声を上げた太った男が、軽蔑の視線を小太り男に浴びせる。「この粉は単なる物質ですよ。それが、勝手に仲間を増やすって言うんですか?」
「そうです。」ナルシストも同調する。「きっと、その化学反応を利用している生命体が居る筈です。その生命体が、化学反応のトリガーを引いているんですよ。」
「でも、そんな生命体は、カプセルの中に…」
プロジェクト責任者の声は、参加者の喧騒にかき消される。
「まさか、核酸すら持たない単なる化合物ですよ。」「マクロファージ以下のレベルで何ができると。」「我々が議論しているのは、未知の生命体の話でしょう。」
大勢の意見をまとめる様に、白髭老人が歳に似合わぬ大声を上げる。
「そう、今ご説明頂いた加水分解のメカニズムは、未知の生命体が代謝に必要なエネルギーを取り出すために利用しているのでしょう。奇病の感染を防ぐには、その未知の病原体の特定を急がなければならない。」
結局、専門家が集まって行なわれた会議の結論は、会議を行なわなくても当然進められる対策―防疫の専門家を現地に派遣し、感染が疑われる人間の隔離を進め、発症者から病原体を検出する事―に全力を傾けると言うものだった。
防疫が実施され始めると、指数関数的に増えていた発症者の数の伸びは鈍化した様に見えた。だが、その頃になって、新たな事実が判明する。同様の奇病が人間だけでなく、封鎖された町の中にいる犬や猫、果ては、鼠やゴキブリにまで広がっているのだ。いや、そればかりではない。庭に植えられた草木も、住宅やベンチの木材も、プラスチックの容器も、タイヤも…生物に限らず、有機化合物であれば、全てが、白い粉に変わっていく。最初に奇病が発生した町は、コンクリートと金属でできた建物だけが残る、荒野の廃墟と化した。
この頃、厳重に隔離された実験環境内で、火星から持ち込まれた有機化合物だけで生物が粉になってしまう実験結果が公開され、リボ核酸や生体物質に拘っていた科学者達は、奇病の元凶が火星から持ち込まれた有機化合物そのものであると漸く認めるに至った。
この悪魔の様な有機化合物は、『エリス』と名付けられた。火星=マルスはローマの闘いの神。マルスは元々、ギリシャの神でアルスと言う。アルスには双子の女神が居て、エリスと言う。エリスは、災いや不幸をもたらす女神。火星から持ち込まれた白い悪魔を、人はエリスと呼んだ。
事態を収束させるには、エリスを感染地域から取り除かなければならない。だが、ウイルスの様な病原体の存在がある筈と言う観念に拘っている間に時間を使い過ぎた。僅かな空気の動きがあれば、それに乗って空中を舞う、微細な粒子になったエリスを完全に取り除くのは、最早手遅れの状態になっている。隔離地区が死の荒野に変わり果てた後、周囲への拡大は、すぐには起きなかった。表面上終息したかに見えたその期間に、微細な粉末になって隔離地域外に拡散したエリスは、人に、動物に、あらゆる有機物に取り付き、少しずつ蝕んでいた。
遂に隔離地域外で発症者が出る。見る間に発症者の数が増え始めると、手が付けられなくなった。被害者は加速度的に増えていく。枯野を火が這う様に感染地域が広がっていく。ここへきて、事態を静観していた各国が慌ただしく動き出す。もう対岸の火事ではいられない。自国への飛び火はなんとしても回避したい。国連の緊急対策会議が開かれた。各国は米国の対応のまずさを非難はしても、有効な手立ては打ち出せない。国連での議論は空転するばかりだ。国連など端から当てにしていなかった各国は、国家間の交通を緊急遮断すると言う強硬手段に出る。物流が止まり、すぐさま世界中で物不足が発生する。それは、アフリカを中心とする貧困国内で、奇病対策などそっちのけの武力衝突を発生させた。食料の海外依存度が高い日本でも、食料不足が即座に顕在化する。保存の利く食品は店頭から姿を消し、目が飛び出る程高額の闇取引がネット上でなされる様になる。人々は政府の無策を呪った。




