8 隼人と佳純(1)
オノゴロが築かれる20数年前、野付崎隼人と小笠原佳純は、同じ桝渕生体化学総合研究所の研究員として、日々研究にいそしんでいた。2人が共同研究者と言う立場を越えて恋人同士になって半年、研究を続けていた人間の脳神経配列の可視化は、1つの大きな区切りを迎えようとしていた。
203実験室の中央に大型の極微細MRIが設置され、検査台の上に隼人が横たわっている。背が高いとは言えない。かと言って、目立って低い訳でもない。カロリーの摂り過ぎに注意しないと将来太っていきそうだが、20代の今は、特に気を付けていなくても体形を保てている。髪を短く切り揃えて、それとなく爽やかな雰囲気を醸し出そうとしているが、それが本当に効果を発揮しているかは相当怪しい。自分を良く見せようと努力を怠らない、ちょっとだけ良い感じの、どこにでも居そうな若者。佳純が彼に惹かれたのは、隼人の外見だけではないのだろう。
MRIを操作するのは、小笠原佳純。小柄で痩せている上に化粧っ気が無いから、20代後半にもかかわらず容姿は高校生の様だ。決して美人でも、誰にでも好かれそうな可愛いタイプでもない。だが1度でも彼女が話すのを耳にすれば、はきはきとした話しっぷりに、彼女の頭の良さが滲み出ているのを感じるだろう。
「…これで、よし。」佳純はMRIの運転を停止しながら、隼人に声を掛ける。「長い時間お疲れ様。気分はどう?」
隼人は検査台の上でゆっくり上体を起こす。
「終わったか。別に何ともない。」
「これでデータを整理すれば、隼人の頭の中が丸見えになる筈よ。」
「それは興味深い。かくれ脳梗塞でもあったら、それが分かるかな。流石にこの齢ではまだ無いだろうけど。」
「どうかしら。臨床は専門じゃないから、そんな欠陥があっても、隼人の個性の1つだと思っちゃうかも。」
ニューロンとシナプスの構成が1人1人違い、個人を特徴付けている。これを実証する1番確実な方法は、同じ構成の人間を2人出現させる事だ。だがそれには、人の脳内のニューロンやシナプスを自由に操作できなければならない。その操作技術を研究しようとする隼人の申請は、研究所の所長によって却下された。
理論的には、もっと穏当な検証方法もある。同じ様な性格や、同じ知識を持った人間の脳内データを複数比較して、共通のニューロン配置やシナプスの繋がりによるパターンを見つけ出して、今度は、それと同じパターンを持つ別の人間にも同じ事が当てはまるか確認する…。脳内には1千億を超えるニューロンが存在し、それがシナプスによって複雑に繋がっている。同じ知識であっても、人に依って格納されている場所が異なる可能性もある。理論的には可能な比較検証ではあるが、脳内データの採取を何千人分も集め、コンピューターを駆使したとしても答えに辿り着けるか分からないレベルのデータ処理が必要だ。現状では比較検証は不可能だと言える。
それでも将来どちらの方法にしても進められる道筋を残すために、隼人と佳純は、自分達の脳内データを採取して残す事で、第1歩目の実績を作り、世の中に知らしめようと決め、行動を始めている。
隼人は検査台を降り、佳純がモニター画面を見ながら操作する操作盤に近付く。
「結局トータルで何時間、俺は頭の中を覗かれたのかな。」
「ん~、計算してみないと分からないけど、スキャンに3ヶ月以上かかっているから、優に600時間は越えている筈よ。」
隼人は鼻で笑う。
「もっと時間を短縮しないと、脳内データ可視化の普及は難しいな。」
「あら、普及させるなんて考えてたの?」
「俺達の成果を世の中の人に広く知ってもらいたいだろ?」
「ま、そうだけど、理論の検証は人体実験になっちゃってできないんだから、無理じゃない。」
「佳純は理性的だな。検証実験どころか、ずっと前段階のニューロンを操作する研究すら却下されたから、これでお終いって、それで割り切れるのか。」
「何言っているの。却下されたから、こうやって自分達の頭の中をデータで残して鬱憤を晴らそうって、隼人が言い出したんじゃない。それじゃ、どうするの?闇で実験する?私は犯罪者になる方が嫌だわ。」
「今度の学会発表で世界の研究者を驚かせられれば、研究を続けられる可能性があるんじゃないか。」
佳純は冷めた笑いを浮かべる。
「どうかしら、案外他人は冷たいもの。『へ~、そうですか』で終わりじゃない?」
「そんな事ないさ。研究が進んで、脳内のニューロンとシナプスの配置が個人の性格や思考パターン、記憶と関係すると実証できれば、記憶を失った人の失われた記憶を取り戻す事も、精神疾患を抱えた人を根本的に治療する事も、膨大な知識を徹夜勉強せずに覚える事もできる。みんな天才になれるんだ。人類に対する恩恵は凄まじいよ。…俺達が達成した脳内神経細胞配列の可視化は、その取っ掛かりに過ぎないけどね。」
「隼人がそう言うなら、学会発表の成果に期待しましょ。」
「ああ、期待していてくれ。この国は外国からの圧力に弱いからね。こんな素晴らしい研究を停滞させるつもりなのかって外から言われたら、慌ててゴーサインが出るさ。」
「そう簡単にはいかないでしょ。」
実験室入り口の暗証番号入力用テンキーを押す時に出る電子音が聞こえる。すぐにドアが開いて、ズカズカと背の高い白衣の女性が入って来る。タイトスカートから覗く足には、実験には明らかに不向きな踵の高い靴を履き、他人の実験室の中を大股で歩く姿は、遠慮とは程遠い存在だ。理系女子然とした整った顔だが、顔の大きさを気にしているのか、黒髪で輪郭を隠す様にしている。辻綾音。野付崎隼人と同期で研究所に採用された、細胞生理学の研究員だ。同じ地下2階フロアに実験室を持っていて、2年後輩の小笠原佳純をとてもかわいがっている。隼人にとっては煙たい存在だ。
「ね、野付崎の解剖、終わっちゃった?」
綾音は操作盤の前に座る佳純の脇に来ると、操作盤に手を付いて佳純の手元を覗き込む。
「お前、いつの間に暗証番号登録したんだ。」
隼人は、不快そうに横から綾音に声を掛ける。
実験室は研究員証と、それに対応した暗証番号が登録されていないと、ドアが開けられない。通常は、その実験室を使う研究員だけが、暗証番号を登録している。
「あら、ピンピンしてるじゃない。」
嫌な顔をしている隼人を見て、綾音はわざとらしく驚いて見せる。
「MRIだから、中身を覗いて見るだけ。」
佳純が作業をしながら、嬉しそうに言う。
「少しは中身を取り出しちゃった方がすっきりするんじゃない?」綾音は佳純に話し掛ける。「面倒臭い性格が無くなるかも。」
「大きなお世話だ。」
隼人は横から口を挟む。佳純は無責任に笑う。
「隼人は今のままで良いの。」佳純の声は明るい。「愛すべきコンプレックス。」
「せめて、こいつにロボトミー手術を行なうチャンスを私にくれない?」綾音は隼人を無視して佳純に話す。「絶対成功させるから。」
「研究の邪魔だ。辻、お前、自分の研究はどうした。」
無視されても、隼人は懲りずに話し掛ける。
「うるさいわね。ちょっと息抜きに来ただけじゃない。」眉間に皴を寄せて、隼人に食って掛かった後、佳純に猫撫で声を出す。「ね~。」
綾音は佳純と噂のスイーツショップの話を始めて、楽しそうに盛り上がっている。隼人は勝手に喋らせておく事にする。
再び電子音が響いた後、実験室のドアが開く。今度は小太り丸顔の男が勢い良く入って来る。隼人の2期後輩、小笠原佳純と同期入所の箱崎崇だ。固太りの体で髪を短く刈り上げているから、若い板前の様に見える。所長達から将来を嘱望される有能な細胞研究の研究員と聞くが、喋らせたら有能な研究員のイメージとはまるで重ならない。
「いやいやいやいや。」
男は騒々しく喚き立てながら、佳純と辻綾音を見付けて一直線に近付いて行く。
また1人、邪魔な奴が加わった。
「お前まで、何で自由に実験室に入れるんだ?おい、お前の実験室は3階だろ、地下にまで降りて来る用事なんて無いだろ。」
「何、話してるの?」
隼人の言葉は完全無視して、箱崎は女性2人の輪に入る。
『いやいや』の続きはどうなった。何か大変な事があったんじゃないのか?
「男にゃ、関係ない話。」
綾音が冷たい視線を向ける。箱崎は平然とそれを受けとめる。
「え~、そんな話、こんな所でしないでしょ。え?なになに?」
「箱崎君、ケーキに興味ある?」
佳純は、無邪気に椅子の上から話し掛ける。誰にでも平等な優しい子だ。
「あるある。」箱崎が操作盤に身を乗り出し、佳純を見る。「俺の、この体維持するのに、何が必要か分かるでしょ。」
「あんた、脂肪細胞は研究対象外でしょ。」
綾音は冷たく言い放つ。
「小笠原は何が好き?」
箱崎は、綾音も無視して佳純に話し掛ける。
「え?甘い物?大体なんでも。」
佳純は箱崎の勢いに圧されて、上体が逃げている。
「和風、洋風、どっちも大丈夫?」
「あ、まあ…」
佳純は困っている。
「ちょっと、野付崎君!」
綾音が不機嫌そうに声を上げる。話し相手を箱崎に取られてご機嫌斜めだ。
「なんだ。」
負けない不機嫌さで返事をする。
「あんた、1人でフランス行くってホント?」
「あ、そうだけど。」
「何で、佳純連れて行かないのよ。」
綾音が不満を言う話じゃない。
「学会に招待されているのは1人だ。1人しか枠が無いんだから、しょうがないだろ。」
「学会には、あんた1人が出ても、フランスへは2人で行けるでしょ。あんたが学会で偉そうにしている間、佳純はパリ観光していられるんだから。」
「研究所から出る旅費は1人分だ。」
「彼女の分くらい出す甲斐性は持って無いの?」
「無い。」
「冷たい奴。」
綾音は腕を組み、自分の事でもないのに怒っている。
「…それは良いけど、出掛ける準備はできたの?」
佳純も話に加わる。
「準備って、何をすれば良い?一応着替えとか、歯ブラシとかは持ったけど、遊びに行く訳じゃないからね、何も思いつかない。」
「あら、遊んで来るんじゃないの?」
佳純が素直に驚いて声を上げる。
「なに!あんた」佳純の軽率な発言に綾音が敏感に反応する。「佳純を置いて、1人、パリで遊んで来るつもり!?」
「酷いな。」箱崎まで綾音の尻馬に乗る。「最初からそのつもりで、自分1人で行く事にしたんだな。」
「違う、違う。学会が終わったら、さっさと帰って来るさ。」
「気を遣わなくても良いのに。清々と羽を伸ばして来たら。」
笑って言う佳純の言葉を鵜呑みにしたら、後でどんな状況に追い込まれるか分かったもんじゃない。
「それよりも、佳純の脳内データを取る方を優先するよ。学会で中断してしまうけど、今の佳純の脳内もデータに留めておきたい。」
「あら、どうして?隼人のデータがこれで取れたから、実績としては充分じゃない?」
「そうじゃない。俺は、今の佳純の感情を残しておきたいんだ。」
「え?何それ。」
響かないな。こんな言い方じゃ伝わらない。
「さあさあ」隼人は、邪魔な2人を追い出しにかかる。「ここは休憩室じゃないんだ。まだ実験を行なうんだから、出て行ってくれ!」
「なによ、来たばっかりじゃない。」
綾音はストレートに抗議する。
「あ、何か聞かれちゃまずい事を言うつもりだ。」
箱崎はそんな所ばかり鋭い。
「実験の邪魔だって言ってるだろ。楽しいお喋りがしたいなら、休憩時間に食堂でやってくれ。」
「つまらない奴。」
『冷たい』の次は『つまらない』か。
「小笠原、野付崎が留守の間にいっぱい話そうな。」
ドアに向かいながら、箱崎が振り返って笑顔を見せる。
気持ち悪い奴め。
「さ、行った、行った!」
2人を追い出して、実験室のドアを閉める。
あの2人には、引っ掻き回されてばかりだ。そのうち、なんとかしなきゃ。
隼人は操作盤の前に座る佳純の元に戻る。
「だからさ…、佳純の事が好きな俺の気持ちは、今このデータの中にある。」隼人は、MRIの画像データが収められたタワー型パソコンを指差す。「もし将来、頭の中を形にして見れる技術ができれば、どんなに好きか見てもらえる筈さ。次は、俺の事を好きでいてくれる佳純を残しておきたい。協力してくれよ。」
佳純が両目を大きく見開いて、隼人を見つめる。
「それ、口説き文句のつもり?」
隼人が照れ笑いを浮かべる。
「違う、違う。でも、本気だ。俺の事、好きでいてくれているなら、その佳純を取っておきたい。」
佳純がモニター画面に向き直る。
「馬鹿ね。ずっと、自分を好きでいさせる自信がないの?」
「うん、自信はない。」
隼人の声は真剣だ。
「大丈夫、私の気持ちは変わらないから。」
佳純の声からも、ふざけた調子が消える。
「ありがとう。…でも、変わっていくんだ。佳純を疑っているんじゃない。佳純も、俺もお互いずっと相手を好きでいるって思ってる。だけど、きっと、同じ好きでも中身は変わっていく。それはどうしようもない事だから、今の佳純を残しておきたい。」
「馬鹿!ほんと馬鹿ね。」佳純は大声で誤魔化した後で、小声になる。「ね、それじゃ、この隼人のデータの中に、本当に私を好きな隼人が入っているのかな。」
「ああ、勿論。」
隼人は静かに答える。
「そ。」
そう言ったきり、佳純は黙って作業を続けた。




