4 プレゼント(3)
朝7時5分前に目を醒ます。会社に行くつもりは無いが、体に染みついた習慣はどうにもならない。会社に行かない分、気持ちに余裕があるかと言えば、そうでもない。今日は昨晩行った高層ビルに行く。気持ちは逸っている。昨日寝る前に、食事仲間のグループチャットに明日も参加できないと書き込んだ。会社は無断欠勤だが、居るのは川崎だけだ。自分に上司が居るかどうかすら、実は知らないまま平気で過ごしていた事を驚いたばかりだ。そんな会社、黙って休んでも問題ないだろうと決めつけた。これで気兼ねなく探索できる。
地下鉄の駅に向かい、いつもとは逆方向の電車に乗る。終着駅で外に出れば、昨日は暗闇で良く見えなかった壁が、黒々とした巨体を朝日の中に晒している。隼人の居る場所は、巨大な壁の影の中に入っている。壁の頂上を見上げる。平らな壁の頂上は、隙間なく透明なシールドと繋がっている様だ。左右に伸びた壁の上に目を向ければ、斜めから見る様になって、シールドの厚みで向こう側が見通せず、透明でも存在が良く分かる。今は朝日が壁の向こう側から昇っているから、壁のこちら側は影になって黒く見えているが、どうやら壁の表面はコンクリートのままで、塗装も表面処理もされていない様だ。のっぺりとしたその表面に登れる場所は見当たらない。
きっとこの壁沿いに進めば、どこかに出入り口があるに違いない。出入り口だと分かる様にできているとは限らない。何の変哲もないビルの中とか、あるいは、あの研究所の様に、地下の通路の小さなドアが出入り口になっているかも知れない。それを見付け出すためにも、この壁の内側の事をもっと知らなければいけない。
絶対、ここから抜け出してやる。
隼人は壁に背を向ける。高層ビルの頭が青空の中に突き出して、朝日を浴びて輝いている。彼はその方向へ足を踏み出した。
高層ビルのエレベーターに乗って、最上階で降りる。昨日の夜と違って、フロア一杯に朝日が射し込んでいる。眩しさに顔をしかめながら窓際まで行き、外の景色を眺める。隼人の目の高さより下に、巨大な壁が横たわる。左右に続く壁は緩やかな弧を描いている。恐らく、隼人の居るこの街を丸く包み込んでいるに違いない。視線を壁の向こうに向ける。想像した通り、壁の向こうには街が広がっている。壁のこちら側と同じ様なビルが立ち並ぶ街並み。
なんだ、直ぐ近くに俺の知っている街があるじゃないか。異世界だとか、変な妄想しちまったけど、判ってしまえばこんなもんか。世間から壁で仕切られたエリアの中に居るって事なんだ。
すっかり気分が楽になる。窓に貼り付いて、壁の様子やその向こうに広がる街並みを観察する。あの街から続く先にきっと隼人が知っている街が存在し、そこに佳純も居るに違いない。佳純が動画の中で言っていた、『この世界』って言うのは、つまり、この巨大な壁に仕切られたこちら側を指すのだろう。後は何とかしてこの壁の外に出る手段を見付ければ良い。
…何だか変だ。
壁の外の街を眺めている内に違和感を持つ。何が変なんだろうと、更に目を凝らして違和感の原因を探る。そうしている内に、1つ2つとその理由が掴めてくる。
隼人の記憶の中にある街は、車で溢れ返っていた。閑静な住宅街ですら、昼日中に街中を歩く人の姿は途切れても、車の往来が途切れる事は無い。ビルの最上階に上って窓から景色を眺め始めて、もう10分以上になる。なのに1台の車も通らない。勿論、人の姿も見えない。遠くても、芥子粒くらいには見えるものじゃないだろうか。道に沿って色々な形の建物が並んでいるのは見える。あれだけ建物があれば、こんなに車が通らないなんて事があるだろうか。
まるで、今俺の住んでいる、壁の内側の街と変わらない。
それだけじゃない。木が1本も見えない。隼人の記憶にある街は、歩道が整備された大きな通りに、決まって街路樹が植えられていた。それ以外にも庭のある家や公園には、背の高い木が生えている。時には木が大きくなり過ぎて交通の邪魔になったり、朽ちて道路に倒れて道を塞ぎ、ニュースになったりしたものだ。都会の街を遠くから見れば、そういう背の高い木がビルの間から頭を覗かせているのを、必ずと言って良い程見付けられるものだった。それが1本も見えない。寧ろ、清掃ロボットが手入れをし、定期的に水をやっている壁のこちら側は木が元気に育っている。
隼人はゆっくりと窓から離れる。
気にするな。何でも悪い方に考えていたら、キリがない。
目に付いた柱にもたれて、清掃ロボットに磨き上げられた床の上に座り込む。隼人の頭の中では、昨夜見た窓の外の景色が思い出される。
昨晩、壁の向こうは漆黒の闇で何も見えなかった。そう言えば、俺が知っている、人間の暮らす街にそんな所は無い。街灯も、家の明かりも、信号機も、車のヘッドライトもあって、これだけ建物が密集している街ならば、例え深夜になったって、漆黒の闇に包まれてしまう事などなかった。人の姿がない壁のこちら側の街は、夜になっても街灯の明かりが点いていた。
振り払おうとしても、嫌な予感が湧き上がって来る。
隼人は勢いよく立ちあがると、両手で力いっぱい自分の尻を叩く。
今考えたってしょうがない。俺はこの壁に囲まれたエリアから抜け出して、佳純に会って、元の生活を取り戻すんだ!
隼人はエレベーターに乗り、その場を後にした。
どうやったら、壁を抜けて元の世界に戻れるか。それを探すと言っても、思いつく手立てがない。頭に浮かぶのはムサシ達食事仲間の事。川崎も居るが、何だか信用できない。ムサシ達には悪い事をしてしまった。勝手に疑って、キツイ態度をとったり、食事会をすっぽかしたり、自分勝手な行動で迷惑をかけてしまっているのに、今度は都合よく頼ろうって言うのだ。俺は酷い奴だ。急に古い記憶が戻って気が動転してしまって余裕がなかったなんて言ったところで、単なる言い訳だ。ちゃんと事情を話して謝ろう。その上で、何か知っている事があれば教えてもらおう。
昼過ぎに自宅に戻り、携帯情報端末の電源を入れて、グループチャットにメッセージを打ち込む。
〈勝手な事ばかり言ってすまない〉〈今夜、いつもの様に夕飯を食べないか?〉〈実は相談に乗って欲しい事があるんだ〉
このところ、勝手にすっぽかしてばかりいて、虫が良い事を言っているのは承知している。非難されるならば、素直に認めるつもりで返信を待つ。
〈いいとも〉〈なんだ、寂しくなったのか?〉〈場所はいつもの定食屋で良いな〉
すぐに3人から返信が入って来る。何だかホッとする。愚痴も言わずに付き合ってくれる。疑ってしまって申し訳ない、このエリアの中にも彼等が居るじゃないか。それだけで、救われているのかも知れない。




