大商人からの依頼
馬車はシルヴェントの貧民街を抜け、街の中心へと向かった。車輪が石畳を軽快に叩く音が響き、やがてギルデン街の一角に差し掛かる。そこには、この街で最も大きな商会を構える屋敷がそびえていた。石造りの壁に囲まれ、門には精巧な鉄細工が施され、商人ギルドの繁栄を象徴するような威厳ある佇まいだ。
馬車が門をくぐり、屋敷の中庭で停まると、老紳士がアルテアを案内した。屋内に入ると、磨き上げられた木の床に豪奢な絨毯が敷かれ、壁には交易で得た富を示す絵画や装飾品が並んでいた。アルテアは興味深そうに周囲を見回していると、奥の応接室へと通された。
そこには、恰幅のいい中年の男が待っていた。商会を束ねる主人だ。短く刈り込まれた濃い茶色の髪を、無造作に手ぐしで整えたような頭。深い藍色のローブを纏い、指には金の指輪が光っている。彼はアルテアを見るなり、にこやかな笑みを浮かべて立ち上がった。
「ようこそおいでくださいました、アルテア様。私、この商会を預かるレオヴァン・ブラウエンと申します。噂はかねがねお伺いしております。どうぞお座りください」
アルテアはフードを外し、金髪を軽く揺らして椅子に腰を下ろした。
「噂、ねえ。何か面白い話でも聞いてるの?」
彼女の青い瞳がレオヴァンを鋭く捉えると、彼は軽く咳払いをして話を続けた。
「実は、あなたがガーウェンをあっさり倒したという話が街に広まりましてね。いやはや、見事なものだと感心しましたよ」
アルテアは小さく笑い、肩をすくめた。
「ガーウェン? あの強盗団のボスのことだっけ。さすが商人さん、情報網がすごいね。でも、私を呼んだのは感心するためじゃないよね?」
レオヴァンは表情を改め、少し声を潜めた。
「その通りです。実は、困った事態でして。……ある商会が我が娘を攫おうと企んでいるのです。銀葉樹の木材は、高級家具材として高値で取引されておりますが、この独占交易路を握るため、娘を人質に取ろうとしているのでしょう」
レオヴァンは下を向きため息をついた。
「あの子は亡き妻の忘れ形見でして……。もし人質にされたら、私は相手の言いなりになるしかありません。どうか、あなたに娘を守っていただきたいのです」
アルテアは顎に手を当て、一瞬考え込んだ後、静かに口を開いた。
「ああ……。それなら今夜襲われると思うよ。この屋敷」
部屋にいたレオヴァンや周囲の使用人たちが一斉に息を呑んだ。
「な、何!? 今夜!?」
レオヴァンが目を丸くして身を乗り出すと、アルテアは平然と続けた。
「うん。馬車でここに来る途中、見張ってる連中を見たよ。見張りにしては殺気立ってたし、数も多い。マントの下に武器も隠し持ってた。いろいろ準備してる雰囲気だったから、今夜がそのタイミングじゃないかな」
使用人たちがざわつき、レオヴァンが額に汗を浮かべて立ち上がった。
「そ、そんな……! どうしてそんなことが分かるのです!?」
「旅人の勘かなぁ。……昔、気づかなくてひどい目にあったことがあるから。今は、空気で分かるんだ」
アルテアは椅子の背にもたれ、軽く足を組んだ。
「あとさ、私に娘さんの身代わりをさせたいんでしょ? 年恰好と髪色が似てるのかな?」
レオヴァンがギョッとした顔でアルテアを見つめた。使用人たちも互いに顔を見合わせ、驚愕を隠せない様子だ。レオヴァンは慌てて手を振った。
「い、いや、その……確かに娘は金髪で、あなたと背丈も近いのですが……」
交渉では百戦錬磨のはずのレオヴァンは狼狽を隠せていなかった。
アルテアはニヤリと笑い、立ち上がって剣の柄に軽く手を置いた。
「まあ、身代わりでも護衛でもどっちでもいいよ。私を雇うならお金はしっかり出してね。お腹空いてるからさ」
彼女の軽い口調に、レオヴァンは一瞬呆気にとられた後、苦笑いを浮かべて頷いた。
「分かりました。報酬は弾みましょう。今夜、ぜひお力をお貸しください」