ただいま
アルテアがレオヴァンの屋敷に戻ると、使用人が慌てた様子で風呂場に案内した。
血と汗にまみれた町娘風の服を脱ぎ捨て、湯に身を沈める。アルテアは目を閉じ、小さく息をついた。
「……生き返る」
湯気の向こうで金髪が水面に揺れ、青い瞳が静かに閉じられる。
風呂から上がると、預けていた旅装と剣がきちんと用意されていた。アルテアは手慣れた動作で服を着て剣を帯びると、いつもの自分が戻ったような気がした。
応接室に通されると、レオヴァンが待っていた。
彼はアルテアの姿を見るなり、ぎこちなく立ち上がり、引き攣った笑顔を浮かべる。
「アルテア様……。娘と商会を救っていただき、本当に感謝しております。どう礼を言えばよいか……」
声はわずかに震え、目はちらりと彼女の剣に向いた。
アルテアは肩をすくめて、軽く笑った。
「うん、無事終わってよかったよ。それより、服を汚しちゃってごめんね?」
レオヴァンは慌てて首を振る。血まみれのアルテアを見た時の記憶が蘇ったのだろう。顔色が少し青ざめていた。
そして、テーブルの上に金貨がたっぷり詰まった袋をそっと置く。袋の重い音が、部屋に響いた。
(——さっさと出て行けって言うことかな?)
アルテアは口には出さなかった。
レオヴァンは、苦笑いを浮かべていた。
屋敷を出ようとしたとき、門の前で聞き覚えのある声が響いた。
「アルテア様。宿までお送りいたします」
振り返ると、最初に馬車で迎えに来た老紳士が立っていた。
深緑のマントが朝の薄光に揺れ、顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。
アルテアは静かに頷き、再び馬車に乗り込んだ。
馬車がゆっくりと動き出す。御者台に座った老紳士が、控えめな声で語りかけてきた。
「……主人は血を見た途端、すっかり腰が引けてしまいまして。あの方はどうにも、血生臭いのが苦手で。
……でも、私からは心から礼を。お嬢様と商会を救っていただき、本当にありがとうございました」
その声には、深い感謝がにじんでいた。
アルテアは老紳士に向かって、肩の力を抜いて笑った。
「いいよ、気にしてない。仕事だったし、エリシアも可愛かったからね。おじさんの丁寧な対応も嬉しかったし」
アルテアはふと、エリシアの笑顔を思い出すように目を細め、馬車の窓から移り変わる街並みを眺めた。
「……最後、エリシアに挨拶できなかったのはちょっと残念だったな。よろしく伝えておいて」
老紳士は小さく笑い、手綱を操った。
やがて馬車が「朽ち梁亭」の前に止まった頃、空はようやく白み始めていた。
朝焼けがシルヴェントの屋根を薄紅に染め、静かな街に少しずつ新しい一日が満ちていく。
馬車を降りたアルテアの目に、小さな影が映った。宿の前に立っていたのは、ミロだった。
「ミロ! 家に帰ってって言ったのに……!」
アルテアが驚いて声をかけると、ミロは目を擦りながら駆け寄ってきた。
「……ちゃんと帰ったよ。でも、なんか胸騒ぎがして……アルテアが、心配で……。眠れなくて、戻ってきたんだ……」
震える声。潤む瞳。
次の瞬間、ミロはアルテアにしがみつき、堪えきれずに泣き出した。
「お、おかえりぃ……!」
戸惑うように、アルテアの手がわずかに宙をさまよった。けれど、すぐにミロの頭をそっと撫でた。
そしてアルテアは優しく笑った。彼女がこの街で初めて見せた、心からの笑顔だった。
「……ただいま」
朝陽が二人の背を温かく照らす。
金髪と、ミロのくしゃくしゃの髪がそよ風に揺れた。
宿の窓からは暖かな灯りが漏れ、遠くから聞こえる街のざわめきが、新しい一日の始まりを告げていた。