血濡れの証明
その報は、夜の詰所に届いた。
「緊急出動! ブラウエン商会からの通報だ! ハルトマン商会に襲われ、屋敷の者が連れ去られたらしい!」
当直の一人、トールは眠気を吹き飛ばし、慌てて鎧をかき集めながら顔をしかめた。
襲撃。拉致。それも、よりによって深夜に。
ブラウエン商会——シルヴェントでも一、二を争う大商会だ。最近は「娘が狙われている」と、度々詰所へ陳情が来ていた。
屋敷の前に到着したのは、それから数十分後のことだった。
ブラウエン商会に雇われた傭兵だろう、十人ほどが武器を手に屋敷の前に集まっていた。
「急いでください! 商会の者が、この屋敷に連れ去られたんです!」
傭兵とは違う商会の使いが駆け寄り、半ば泣きそうな声で訴える。
トールは上官と目配せし、剣の柄に手をかけながら屋敷の門に歩を進めた。
門扉は固く閉じられていたが、なんとかこじ開けることができた。
「構えろ。何があるか分からんぞ」
上官の低い声に、衛兵たちの緊張が一気に高まった。
そのとき、屋敷から数人の男たちが逃げるように飛び出してきた。
「た、助けてくれ! ば、化け物だ……!」
半狂乱の男たちを押さえ込み、衛兵たちはなんとか状況を聞き出す。
女が暴れて皆殺しにした、という狂乱じみた証言から、どうやら一室に連れ去られた商会の者がいるらしい。
指示を受けたトールたちは、その部屋へ踏み込んだ。
——息を呑む、などという言葉では足りなかった。
そこは、文字通り血の海だった。
真っ二つになった者、腕が失われた者、顎が砕け、仰向けに倒れている者。喉が切り裂かれた者。
中央には、首のない死体。
窓辺には、背中に剣を突き立てられ、崩れ落ちた太った男。——ゲルハルトだ。
この街に悪名を馳せる、ハルトマン商会の主。
背後で、若い衛兵がしゃがみこみ、嘔吐する音が響く。
——そして。
その光景の中心に、ひとりの少女が立っていた。
月明かりに照らされたその姿は、あまりにも静かで、まるで月から降り立った女神の化身のようだった。
血に濡れた金髪が月光を反射し、赤く染まった服が夜の闇に浮かび上がる。
こちらを見て、少しだけ笑ったように見えた。
「こんばんは。思ったより早かったね」
「何者だ! 投降しろ!」
上官の声に、トールはハッと我に返った。
「名を名乗れ!」
「アルテア。ブラウエン商会に雇われて、娘さんの身代わりとして連れ去られたんだ」
声には、怯えも言い訳もなかった。
それが却って、場にいる誰の言葉よりも、信頼を呼んだ。
「とにかく、拘束して事情を聞け」
アルテアと名乗った少女は抵抗せず、手を差し出した。
その後、屋敷内を捜索するにつれ、戦慄は確信へと変わった。
地下室には、嬲り殺された複数の女性の遺体。奴隷として売り飛ばされようとしていた者たち。
倉庫からは違法薬物。書斎からは、人攫いや脅迫の記録帳。
そして、ライバル商会に対する妨害計画の書類が山のように見つかった。
すべてが、ハルトマン商会の悪行を裏付けていた。
ブラウエン商会の者からも、屋敷から逃げ出そうとしていた男たちからも裏が取れた。
確かに、この少女がこの屋敷に連れ去られた者であることを。
上官がトールに命じる。
「拘束を解け。ハルトマン商会の悪事は明白だ。こちらが礼を言いたいくらいだ」
トールが縄を外すと、アルテアは「ありがとう」とだけ言い、すっと立ち上がった。
その背を見送りながら、トールは思った。
血に濡れ、殺意と死を背負いながらも——彼女は美しかった。