黒幕
深夜。屋敷は静まり返り、レオヴァンとエリシアは使用人とともに地下室へと避難した。アルテアはエリシアの部屋に残り、窓辺に立って外を見下ろす。
夜空に浮かぶ月は、ほとんど満ちきっていたが僅かに欠けていた。白い光が庭を淡く染め、揺れる木々の影が静かに不穏を囁いていた。
「さて、そろそろかな?」
その瞬間、窓の外でガサッと音がした。アルテアが目を凝らすと、黒い影が屋敷の壁をよじ登ってくる。次の瞬間、窓が勢いよく開かれ、数人の暴漢が部屋に飛び込んできた。
「おらっ! 娘を攫うぞ!」
リーダーらしき男が吠え、手下たちがアルテアを取り囲む。彼女は驚いたふりをした。
「きゃっ……だ、誰? ……やめて……こないでっ!
た、たすけて……っ」
震える声。必死さを装いながらも、その声色にはどこか演技めいた響きがあった。
だが、男たちはその違和感に気づくことなく、満足げにニヤリと笑った。男たちはロープで彼女の手を縛り始めた。
「黙れ! おとなしくしてりゃ痛い目にあわねぇよ」
アルテアは抵抗せず、されるがままに連れ去られた。
◇
アルテアの立てた作戦はこうだった。
エリシアに扮したアルテアが敵のアジトに連れ去られた後、レオヴァンの手の者が街の衛兵とともに敵のアジトに突入する。中はアルテアが制圧する。「一網打尽の策だよ」とアルテアは軽く言った。
「それはあまりに危険すぎる!」というレオヴァンの意見にアルテアはこう返した。
「——黒幕ごと潰しちゃった方が手っ取り早いでしょ?」
◇
暴漢たちはアルテアを馬車に放り込み、シルヴェントの街を抜けてどこかの屋敷へと向かった。その後を、レオヴァンに雇われた者たちがそっと付けた。
到着した建物はギルデン街の裏通りにひっそりと建っており、周囲はすでに人影もなく、深夜の静けさが辺りを包んでいた。屋敷の中は薄暗く、酒と汗の臭いが漂い、壁には剥がれかけた装飾が寂しげに残っていた。
アルテアが奥の部屋に押し込まれると、そこは薄暗く、埃っぽい空気が漂っていた。粗末な椅子と机だけが置かれた空間に、彼女は両手を縛られたまま座らされた。
壁際には窓があり、そこから冷たい月の光が静かに差し込んでいる。
淡く照らされた室内に、かすかな埃が漂い、時折月明かりを受けてきらりと光った。
どれほどの時間が経っただろうか——やがて、外から足音が近づき、重い扉が軋みながら開かれる。
入ってきたのは、禿げ上がった頭に脂ぎった顔、厚い唇を下品に歪めた男だった。
レオヴァンからエリシアを狙っている商会の情報を得ていたアルテアは、目の前の男がハルトマン商会の長、ゲルハルトだとすぐに察した。
男はアルテアの姿を見るなり、目を細めていやらしく見惚れた
「ほう……、あの男の娘がこんなに美しいとはな!」
男が彼女に近づきながら首を傾げる。アルテアは縛られたまま、平然と彼を見上げた。
「貴方が今回の黒幕? ゲルハルトさん」
アルテアが静かに名を呼ぶと、男の顔が一瞬引き締まった。
「……ふむ? わしの名前を知っているとはな」
ゲルハルトは眉をぴくりと動かし、すぐに哄笑を上げる。
「それに黒幕とは人聞きが悪いな! だが、まあそうだ。あの男は目に入れても痛くないくらいお前を可愛がってる。お前のためならいくらでも言うことを聞くだろうよ」
一瞬の間を置いて、彼はわざとらしく肩をすくめ、余裕を装うように言葉を続けた。
「まあ、お前を返すつもりはないがな……。いつも通り嬲り尽くしてから、 殺すとしよう」
彼の下劣な笑みが広がり、脂ぎった手がアルテアの頬に伸びる。だがその瞬間、彼女は小さくため息をついた。
「うーん、レオヴァンさん、多分言うこと聞いてくれないと思うよ? 私は身代わりだからねぇ」
「な……!」
ゲルハルトが目を剥いた瞬間、アルテアの手首を縛っていたロープがはらりと落ちた。彼女は軽く手を振って立ち上がり、ゲルハルトを見据える。
「もう縛られるのも飽きたから、そろそろいいかな?」
アルテアは小さなナイフの刃を見せニヤリと笑った。
「縛り方をちゃんと教えといた方がいいよ。使わなくても抜けちゃったよ」
ゲルハルトが後ずさり、慌てて叫んだ。
「お、お前……何者だ!?」
アルテアは首を振って一歩近づく。
「ただの旅人だよ。ところでさ、どれくらい貴方のその野蛮な行為で苦しめられた人がいるのかな?」
彼女の声は穏やかだが、青い瞳は冷たい。ゲルハルトが唾を飲み込み、声を荒げた。
「邪魔する奴が悪いのだ! お前も力尽くで無理矢理……!」
「ふーん。そっか。じゃあ……」
アルテアの目が一瞬、鋭く光った。
「殺されても文句は言えないよね」